気づかなければならないことは、
思いが・・形を現すということであり、
想念が・・示現形態の”プログラム”のようなものであるということだ。
これは良いとか悪いとかの感情論でもなく、
いわば”意識の法則”だととらえるべきである。
また意識の法則は、我々がその一部を知っている物理科学的法則を含み、
それを超えた高次のレベルの法則であるということだ。
転生とは、人の生まれ変わり・・と言われるが、
何度も繰り返せば、意識の無限の本姓によって、
おのずとその繰り返しに飽きてくる・・ことは自明である。
飽きるとは、何も感情的に嫌気がさす・・という意味ではなく、
飽和してあふれ出だし、新たなるものへと拡大する・・必然的なプロセスのことである。
それを進化と言っていいだろう。
ダーウインの進化論は、動植物の形態進化・・カタチの進化を意味しており、
背後にある原因としての意識自体を述べていないように見えるが、
そのわけは、
意識は形に連続して・・成っている・・ため、
意識それ自体を別物として抽出することが出来ないということだ。
意識は・・わたし・・であり、知覚する主体側・・こちら、なので、
あちらとしての対象物として、抽出できないということだ。
根源的な・・・在る・・・が”気付き”であり
それが・・集合した意識となって、その意識が想念を生じさせる。
想念の内容、プログラムによって、その意識(体)・・を中心とした世界が展開する。
波動的に云えば、
根源の超微細な波動が、気付きのエッセンス波動であり、
気付きの集合系がさらに・・わたし”意識”という集合波動形となり、
その意識(波動)上の様々な波が・・想念という波動を生じさせる・・。
今の科学的理解で言えば、
想念系は、我々の知る物質の究極微粒子系とリンクしており、
想念が物質を加工する原動力という、表層の原因結果プロセスだけにとどまらず、
意識によって、気付いて・・知覚している世界そのものが、
すなわち・・意識の投影している世界そのものであることが理解されるのだ。
意識しているからこそ世界がある。
世界があるからこそ、偶然に意識が生まれたのではない。
自分が個別の存在形であると信じる・・意識するその度合いによって、
生まれ・・変わる・・その変化する先のおのれの姿を形作る。
形を現していたエネルギーは保存され、必ずや転移先にその情報が再現される。
転生とは、
意識上の”プログラム内容”ともいえる想念の情報に従って、
主体としての、あらたな自己認識形態を選定する働きとも言えようか。
信念となっている想念の形がシナリオとなり、
あらたな人生劇場を創り上げるとも言えよう。
自分は単なる肉体であるという自己認識であれば、
その想念の投射する先の姿は、
また再び、自己が単なる肉体であるという境涯に転じるだろう。
I AM THAT I AM.
(わたしは・・”それ”・・。)
あなたは、望んでこの人生に入ってきたと聞いた事があるだろうか。
多分、・・「えっ?、そんなわけないじゃん・・冗談やめてよ」
と言いたいのが、この世界の常であろうと思われるが、
意図を集中しない限り、何事も引き寄せない・・と言う表現もあるように、
あなたやわたしは・・望んで今の人生に・・在る・・と言えよう。
偶然や確率のせいにしてはならない。
望んで・・「ぜひ、お願いします」(笑)ばかりではなく、
常にそれを信じ込んでいる、その・・通りに・・ということだ。
例えばこの世界の常識では、人間とは何か・・の共通認識として、
自分が類人猿から進化した肉体形態であるとされているだろうから、
それを、そのまま事実認識として受け入れるだけなのであれば、
その気づいている・・意識している・・その固定した信念を、
再び示現することになるということだ。
意識とは、I AM THAT・・
自らが其れになる・・創造原理をも意味している。
転生の仕組みをパソコンで言うならば、
古いパソコンが壊れたけれど、引き続き仕事をしたいばあい、
新しいパソコンを用意して、古いデータをダウンロードすれば、
機種は新しい別物でも、同じ働きが出来る様なものだ。
また、古い機種での履歴ファイルといえる自分の転生の記録・記憶、
つまり古い機種での体験ファイルも、それを開こうとしなければ、
今ここでそれを思い出すことは出来ないようなもの。
そして、その過去ファイルがある事を知るという事は、
自己の転生という、時空を超えた仕組みに気付くということでもある。
昔から云われているが、
肝心なのは”中身”であるということだ。
通常は人格、人柄などと呼ばれるが、人における中身とは、
当然ながら「信念」つまり主たる想念のことである。
想念が思考や行為になり、
あるいは人生になり、環境を形作り観察する宇宙をも投影する。
あなたは、今・・沸き起こる内面の想念に気付いているだろうか?
あるいは、内外の想念に翻弄されて、
マインドがあちらこちら動き回っているだろうか?
あきらかに動揺が大きく振れて、混迷の度を増しながら、
いつ何時どうなるかもしれなくなった飽和した地球において、
もし、それに気づいている人ならば、
何を置いても優先すべき、具体的な自助努力のことを云うならば、
願わくば、少なくとも古く飽和した想念を浄化し、手放し、
今思い浮かぶ限り最善の想念を身近な友としながら、
本来それ・・であるところの、
無限たる高次へのわたしへと帰還する浮力を確保すべき時であると言えよう。
少なくとも、我々の知覚するあらゆる事象は、
自らとその投影せる世界が明らかに過渡期にあることを示しているはずだ。
思いが・・形を現すということであり、
想念が・・示現形態の”プログラム”のようなものであるということだ。
これは良いとか悪いとかの感情論でもなく、
いわば”意識の法則”だととらえるべきである。
また意識の法則は、我々がその一部を知っている物理科学的法則を含み、
それを超えた高次のレベルの法則であるということだ。
転生とは、人の生まれ変わり・・と言われるが、
何度も繰り返せば、意識の無限の本姓によって、
おのずとその繰り返しに飽きてくる・・ことは自明である。
飽きるとは、何も感情的に嫌気がさす・・という意味ではなく、
飽和してあふれ出だし、新たなるものへと拡大する・・必然的なプロセスのことである。
それを進化と言っていいだろう。
ダーウインの進化論は、動植物の形態進化・・カタチの進化を意味しており、
背後にある原因としての意識自体を述べていないように見えるが、
そのわけは、
意識は形に連続して・・成っている・・ため、
意識それ自体を別物として抽出することが出来ないということだ。
意識は・・わたし・・であり、知覚する主体側・・こちら、なので、
あちらとしての対象物として、抽出できないということだ。
根源的な・・・在る・・・が”気付き”であり
それが・・集合した意識となって、その意識が想念を生じさせる。
想念の内容、プログラムによって、その意識(体)・・を中心とした世界が展開する。
波動的に云えば、
根源の超微細な波動が、気付きのエッセンス波動であり、
気付きの集合系がさらに・・わたし”意識”という集合波動形となり、
その意識(波動)上の様々な波が・・想念という波動を生じさせる・・。
今の科学的理解で言えば、
想念系は、我々の知る物質の究極微粒子系とリンクしており、
想念が物質を加工する原動力という、表層の原因結果プロセスだけにとどまらず、
意識によって、気付いて・・知覚している世界そのものが、
すなわち・・意識の投影している世界そのものであることが理解されるのだ。
意識しているからこそ世界がある。
世界があるからこそ、偶然に意識が生まれたのではない。
自分が個別の存在形であると信じる・・意識するその度合いによって、
生まれ・・変わる・・その変化する先のおのれの姿を形作る。
形を現していたエネルギーは保存され、必ずや転移先にその情報が再現される。
転生とは、
意識上の”プログラム内容”ともいえる想念の情報に従って、
主体としての、あらたな自己認識形態を選定する働きとも言えようか。
信念となっている想念の形がシナリオとなり、
あらたな人生劇場を創り上げるとも言えよう。
自分は単なる肉体であるという自己認識であれば、
その想念の投射する先の姿は、
また再び、自己が単なる肉体であるという境涯に転じるだろう。
I AM THAT I AM.
(わたしは・・”それ”・・。)
あなたは、望んでこの人生に入ってきたと聞いた事があるだろうか。
多分、・・「えっ?、そんなわけないじゃん・・冗談やめてよ」
と言いたいのが、この世界の常であろうと思われるが、
意図を集中しない限り、何事も引き寄せない・・と言う表現もあるように、
あなたやわたしは・・望んで今の人生に・・在る・・と言えよう。
偶然や確率のせいにしてはならない。
望んで・・「ぜひ、お願いします」(笑)ばかりではなく、
常にそれを信じ込んでいる、その・・通りに・・ということだ。
例えばこの世界の常識では、人間とは何か・・の共通認識として、
自分が類人猿から進化した肉体形態であるとされているだろうから、
それを、そのまま事実認識として受け入れるだけなのであれば、
その気づいている・・意識している・・その固定した信念を、
再び示現することになるということだ。
意識とは、I AM THAT・・
自らが其れになる・・創造原理をも意味している。
転生の仕組みをパソコンで言うならば、
古いパソコンが壊れたけれど、引き続き仕事をしたいばあい、
新しいパソコンを用意して、古いデータをダウンロードすれば、
機種は新しい別物でも、同じ働きが出来る様なものだ。
また、古い機種での履歴ファイルといえる自分の転生の記録・記憶、
つまり古い機種での体験ファイルも、それを開こうとしなければ、
今ここでそれを思い出すことは出来ないようなもの。
そして、その過去ファイルがある事を知るという事は、
自己の転生という、時空を超えた仕組みに気付くということでもある。
昔から云われているが、
肝心なのは”中身”であるということだ。
通常は人格、人柄などと呼ばれるが、人における中身とは、
当然ながら「信念」つまり主たる想念のことである。
想念が思考や行為になり、
あるいは人生になり、環境を形作り観察する宇宙をも投影する。
あなたは、今・・沸き起こる内面の想念に気付いているだろうか?
あるいは、内外の想念に翻弄されて、
マインドがあちらこちら動き回っているだろうか?
あきらかに動揺が大きく振れて、混迷の度を増しながら、
いつ何時どうなるかもしれなくなった飽和した地球において、
もし、それに気づいている人ならば、
何を置いても優先すべき、具体的な自助努力のことを云うならば、
願わくば、少なくとも古く飽和した想念を浄化し、手放し、
今思い浮かぶ限り最善の想念を身近な友としながら、
本来それ・・であるところの、
無限たる高次へのわたしへと帰還する浮力を確保すべき時であると言えよう。
少なくとも、我々の知覚するあらゆる事象は、
自らとその投影せる世界が明らかに過渡期にあることを示しているはずだ。