気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

転生の話(7)意識プログラムの改変時期

2019-08-25 06:15:10 | 語り部の章
気づかなければならないことは、

思いが・・形を現すということであり、

想念が・・示現形態の”プログラム”のようなものであるということだ。

これは良いとか悪いとかの感情論でもなく、

いわば”意識の法則”だととらえるべきである。

また意識の法則は、我々がその一部を知っている物理科学的法則を含み、

それを超えた高次のレベルの法則であるということだ。



転生とは、人の生まれ変わり・・と言われるが、

何度も繰り返せば、意識の無限の本姓によって、

おのずとその繰り返しに飽きてくる・・ことは自明である。


飽きるとは、何も感情的に嫌気がさす・・という意味ではなく、

飽和してあふれ出だし、新たなるものへと拡大する・・必然的なプロセスのことである。

それを進化と言っていいだろう。

ダーウインの進化論は、動植物の形態進化・・カタチの進化を意味しており、

背後にある原因としての意識自体を述べていないように見えるが、

そのわけは、

意識は形に連続して・・成っている・・ため、

意識それ自体を別物として抽出することが出来ないということだ。


意識は・・わたし・・であり、知覚する主体側・・こちら、なので、

あちらとしての対象物として、抽出できないということだ。

根源的な・・・在る・・・が”気付き”であり

それが・・集合した意識となって、その意識が想念を生じさせる。

想念の内容、プログラムによって、その意識(体)・・を中心とした世界が展開する。

波動的に云えば、

根源の超微細な波動が、気付きのエッセンス波動であり、

気付きの集合系がさらに・・わたし”意識”という集合波動形となり、

その意識(波動)上の様々な波が・・想念という波動を生じさせる・・。


今の科学的理解で言えば、

想念系は、我々の知る物質の究極微粒子系とリンクしており、

想念が物質を加工する原動力という、表層の原因結果プロセスだけにとどまらず、

意識によって、気付いて・・知覚している世界そのものが、

すなわち・・意識の投影している世界そのものであることが理解されるのだ。


意識しているからこそ世界がある。

世界があるからこそ、偶然に意識が生まれたのではない。



自分が個別の存在形であると信じる・・意識するその度合いによって、

生まれ・・変わる・・その変化する先のおのれの姿を形作る。

形を現していたエネルギーは保存され、必ずや転移先にその情報が再現される。

転生とは、

意識上の”プログラム内容”ともいえる想念の情報に従って、

主体としての、あらたな自己認識形態を選定する働きとも言えようか。

信念となっている想念の形がシナリオとなり、

あらたな人生劇場を創り上げるとも言えよう。

自分は単なる肉体であるという自己認識であれば、

その想念の投射する先の姿は、

また再び、自己が単なる肉体であるという境涯に転じるだろう。

I AM THAT I AM.
(わたしは・・”それ”・・。)

あなたは、望んでこの人生に入ってきたと聞いた事があるだろうか。

多分、・・「えっ?、そんなわけないじゃん・・冗談やめてよ」

と言いたいのが、この世界の常であろうと思われるが、

意図を集中しない限り、何事も引き寄せない・・と言う表現もあるように、

あなたやわたしは・・望んで今の人生に・・在る・・と言えよう。

偶然や確率のせいにしてはならない。

望んで・・「ぜひ、お願いします」(笑)ばかりではなく、

常にそれを信じ込んでいる、その・・通りに・・ということだ。


例えばこの世界の常識では、人間とは何か・・の共通認識として、

自分が類人猿から進化した肉体形態であるとされているだろうから、

それを、そのまま事実認識として受け入れるだけなのであれば、

その気づいている・・意識している・・その固定した信念を、

再び示現することになるということだ。

意識とは、I AM THAT・・

自らが其れになる・・創造原理をも意味している。



転生の仕組みをパソコンで言うならば、

古いパソコンが壊れたけれど、引き続き仕事をしたいばあい、

新しいパソコンを用意して、古いデータをダウンロードすれば、

機種は新しい別物でも、同じ働きが出来る様なものだ。

また、古い機種での履歴ファイルといえる自分の転生の記録・記憶、

つまり古い機種での体験ファイルも、それを開こうとしなければ、

今ここでそれを思い出すことは出来ないようなもの。

そして、その過去ファイルがある事を知るという事は、

自己の転生という、時空を超えた仕組みに気付くということでもある。



昔から云われているが、

肝心なのは”中身”であるということだ。

通常は人格、人柄などと呼ばれるが、人における中身とは、

当然ながら「信念」つまり主たる想念のことである。

想念が思考や行為になり、

あるいは人生になり、環境を形作り観察する宇宙をも投影する。



あなたは、今・・沸き起こる内面の想念に気付いているだろうか?

あるいは、内外の想念に翻弄されて、

マインドがあちらこちら動き回っているだろうか?

あきらかに動揺が大きく振れて、混迷の度を増しながら、

いつ何時どうなるかもしれなくなった飽和した地球において、


もし、それに気づいている人ならば、

何を置いても優先すべき、具体的な自助努力のことを云うならば、

願わくば、少なくとも古く飽和した想念を浄化し、手放し、

今思い浮かぶ限り最善の想念を身近な友としながら、

本来それ・・であるところの、

無限たる高次へのわたしへと帰還する浮力を確保すべき時であると言えよう。

少なくとも、我々の知覚するあらゆる事象は、

自らとその投影せる世界が明らかに過渡期にあることを示しているはずだ。






転生の話(6)意識の転移

2019-08-15 07:44:03 | 語り部の章
転生とは、いわゆる生まれ変わりのことだ。

「生まれ変わる」というのは、

一般的な概念でいえば”死んで”また”生まれる”ということだ。

つまり消滅と再生である・・この”再生”・・のことを生まれ変わりと言っているだろう。

再び生まれる・・である。


不可思議なことに、人にとって実に重要と思われるこういう事柄に対して、

人生において、ほとんど考慮、熟慮、調査をしていない場合が多い。

あなたはどうだろうか?


社会で立派に頑張って生きている人たちは、

現在の生活・人生が大事だから、生まれるとか死ぬとか、生まれ変わりとか、

そんなこと考えちゃダメ等と言うかもしれない。

あるいは、そういうものは宗教でやるものだと・・、そういう風に考えている。

また宗教さえも霊的知識を売り物にする会社組織のようになっている感がある。


しかしながらそれは、

自分の航路に関して、今どこで、これからどこに行くのか知らなくていいという

船の船長のような言いぐさである。


人生で、毎日でやることがたくさんあって忙しく、

生活のための、刹那の瞬間の対応だけで・・それで精いっぱいだ・・ということを言っており、

いつの間にか、集団でそういう状況に追い込まれてきたとも言えようか。


それは・・・今この瞬間、瞬間を大事に生きる・・という事ではなく、

プログラムされた社会制度、通念の中だけで取りあえず生きる・・という事を意味するのだ。


外側世界の一般常識、敷き詰められた社会プログラム、

刹那で生きてゆくための行為、いわゆる食う、出す、寝る、目ざめる、考え、行為するという、

テンポラリーな、その時だけの・・現実生活の中だけで人生を送るという事だ。

そして、そういう刹那的な集団の中において、

より良き生活のための資材を稼ぐのがみんなの共通した目的となり、

そのために一喜一憂しつつ人生を消費している。

そう、賞味期限付きの肉体人生を、社会通念プログラムの中で「消費」しているようなものだ。


気付けば、あーらもう歳だよなー、おらいったい何をやってきたのか?

その「おら、いったい人生で何を・・やってきたのか?」・・という気付きは、

人生で最も大切なことを忘れて、何をやってきたのだろうか・・という意味を含み、

肉体人生に余裕がなくなり、その先への不安を感じ始める時期に至った多くの人が、

意識的、無意識的に気付く、機会の喪失感のようなものであろうか。


本来は”もっと大切なものがあるはず・・”の・・人生が、

この世的、大勢のわけ知り顔の人の流れ、刹那的集合観念に流されて、

もの金銭、その物量的威力や安楽さを追求し続け、

行きついた先が、荒れ果てた無人島だった・・とような失望感でもあろうか。


しかしながら、そんなことはじつは、全くどうでもいいのである。

みんなはどうなの?、あの人たちはどうなんだろう?は全く意味がない。

生れるのも死ぬのも、再生するのも、

社会でみんな一緒ではなく、それぞれのわたしなのである。


わたしが・・わたしである所以は・・わたしという”意識”にあり、

”意識”があるがゆえに、その先の知覚世界が存在するということを知るならば、

世界がどうだとか、世界の他の人がどうだとかは本質的な事ではなく、

それは、真のわたしという・・意識・・光源の・・投影せる世界像であることを悟るならば、

行きつく先は・・いつもわたし・・意識以外にはないことに気付くだろう。



人生は・・わたしという意識の目覚めから始まったのではなかったか?

毎日は・・わたしという意識の、毎朝の目ざめから始まることに気付いただろうか?

肉体や環境は・・意識の目覚めとともに・展開していることに気付いているだろうか?



人の生まれ変わりは、

意識・・その光源の投影する世界映画の変更・のようなものだと理解できるだろう。


普遍意識は、個別意識を鋳型化し、その知覚対象として・・肉体、環境、社会、世界を投影する。


映画に例えるならば、

同じ映画を繰り返し見たいとは誰も思うまい。

さらに、好きなタイプの映画はたくさん見たいと思うものだ。


そう、どんな映画を観るのかは、その意識の好む傾向に基づくように、

どんな人生を”味わう”かは、その魂の潜在的な性向、傾向によっている。

あるいはさらに、どんな生まれ変わりをするかは、

魂・・あるいは潜在意識のシナリオによるのである。

シナリオとは、こころの潜在的な傾向、信念、波動パターンのようなものであり、

嫌も応も無く、そのベクトルの先に”生まれ変わり”が生じるということだ。

癖になった性向、想念の鋳型、カルマという歪を解消し、

さらにより拡大された壮大な自己へと帰還する方向を意識進化といっていい。

人生の主観的な幸不幸、それが誰かのせいだとか、不可抗力的なやらせだとか、

まったくそんなものではなく、間違いなく・・自らのこころのパターン・・プログラムなのである。


意識が・・新しい世界を投影する・・

個別意識的には・・つまり、わたしたちと言う・・個の意識としては、

その世界にわたしが”意識転移”するかのように感じるだろう。



目ざめると、・・とある世界の中にいる。

もちろん赤子からの場合は、幼少期というその世界に慣れる時期が必要ということだ。

あるいは意識の具現化の道具としての肉体・頭脳・知識の成長も必要だ。

そうやって生まれて来たのだ・・が、

ただ、この世界では・・親や社会から無意識的に”自分は肉体”として刻印されるがゆえに、

以降は三つ子の魂百までと言う事になってしまうわけだ。


その自己イメージの外部からの刻印、刷り込み観念ともいう「肉体自己イメージ」を打破し、

より壮大な意識的な自己を取り戻す過程が悟りと言っていいだろう。



I AM THAT I AM

これは自らによって自らを在らしめる・・自己完結的創造とも言えるもので、

いわゆる神なる一者の在り方とも言えよう。

個別意識、あなたやわたしたちという、人間としての意識であっても、

真我として在ることは永遠であり、

その側面である肉体、環境現象変化、生成と消滅、個性化、進化、そして転生がある。


あなたが今、・・在ることは、

その創造原理そのものを包含していることを意味する。

それを観えなくしているのは、

十重二十重に包囲している低次の観念・・

自己が肉体であるという・・間違った自己イメージであり、

いわゆるところの3次元的な自己観念以外の何ものでもないのである。


わたしたちが・・今・・在る・・事実を、真剣に詳細に観察するならば、


意識が現れて・・思考が現れ、肉体や環境が現れる。

その肉体や環境という、

知覚可能な世界の”感覚情報”が、創造物としてあまりにも強烈・印象的なため、

その知覚投影世界のほうが真実だと錯覚するのである。


意識が立現れなければ、どんな世界もない。

しかしながら、意識は・・・

意識する・気付く先の世界を展開するからこその”意識”であり、

生まれ変わりという”意識の転移”、知覚世界の変化もまた当然・自然なものである。


人みな、そうでなければ・・いまここにいない。


今・・在ることの中には・・膨大な情報が含まれているのである。









転生の話(5)”今”は過去・未来でもある

2019-08-12 07:05:53 | 語り部の章
過去生や来世というものは、まずそれは明らかに「概念」である。

「過去生」「来世」・・・それらは、そのもの”実在”するものではない。

いまどこにある?といえば、どこにもありはしない・・

どこかの店や図書館に置いてあるわけでもない。


過去世の記憶も来世の可能性も、外の世界のどこかにあるわけもなく、

誰かの意識上に浮かぶ・・自己実感を伴ったイメージ・・想念である。

いわゆる実感を伴う「マインド」上の物語・・ともいえる。


一般に、過去生とは、

別の時代、別の人格、現在ではない状況における、”わたし”の「記憶」のこと。

しかしながら、それらは・・

今の瞬間・瞬間・に連続して想起される、意識上に浮かぶイメージである。

そう、

わたし達は・・決して、過去に・・在ることは出来ない。

在る・・ことは、今・・の瞬間のことだ。


今・・在る・・ことの中に、沸き上がる記憶・・があり、

そこに感情の含まれる断片的な物語を見るかもしれないため、

あーそれは私の過去世なんだと・・実感もするわけだが、

あくまでも、それは・・今・・想起されたものだ。

物質がそこにコロンと出てくるわけもなく、どこかの権威が保証するわけもない。

だから、待っていても・・決して得ることなどできはしない。


誰かがリーディングし、あるいは自分が思い出すとしても、

それにどんな外的保証も権威もなく、

ただ、わたしが・・そうかもしれない・・と”感じる”だけである。

前世の記憶・・それは、意識内面にある・・既視感・・のようなものだ。


世に言われるリーディングも霊的精査も、

何かを目的とした場合に、意識に湧き上がる「イメージ」に相違ない。

能力者の誰かに頼んでも、あるいは自分で過去世を思い出しても、

それは、あくまでも、

わたしの・・”意識上”に浮かぶ、わたしの・・過去の経験・・という

既視感覚のある ”記憶・イメージ”以外の何物でもない。

既視感・・は、既に経験したことの記憶の再現・・である。

そうでなければ・・既視感・・は生まれない。


こういう意識内面の・・微妙ながら、明確な違いを見分けるような、

そんな繊細な意識レベルに至るならば、今ここで話されていることは明らかだろう。


実のところ、例えばあなたが小学校の頃のことを思い出そうとした場合は、

実に容易に、直ぐにも断片的な記憶イメージが沸き上がるものだ。

あの時、この時、親や友達、嫌なこと、楽しかったこと・・その他・・色々だ。

そうではないか?


同じように、前世のことも思い出すことが出来るのだが、

そんなものは無い・・という社会的風潮・・観念が強く支配しているため、

無いものは思い出せない・・わけで、(笑)

それを思い出そう・・という意図にまでならないのである。


束縛、支配されているといっても、

外の世界、社会ではなく、あなたやわたしの意識の中で・・あり、

ただ、それだけなのだが、既成の”観念”が十重二十重に包囲しているため、

身に着けた安全確保のため、決してそこから動こうとせず、

いつか包囲網が打ち砕かれるまで、

何かが変わるのを待っている場合が多いかもしれない。

しかしそれは期待できそうにない、

なぜならば・・あなたの意識の中には・・”あなた”しかいないからだ。


わたしの知覚する社会・世界という次元投影世界は、

わたしが在るからこそのものであるということを真に理解すべきであろう。

それぞれの・・過去生や来世は、

次元投影世界のコマ送りの仕組みの理解の先に湧き上がる情報である。


今・・在ること、

当然・・過去も未来も・・今・・あるという事を理解可能だろうか?






転生の話(4)記憶はどこに?

2019-08-04 06:03:30 | 語り部の章
前世の記憶など存在しない・・と思っている場合は、

それ自体が何の根拠もない断定であることを知る必要がある。

またはっきり言えば、

前世の記憶という「概念」に関して、何も知らないということであるが、

初めからそんなのない・・を決め込んで、

勝手に無視していることにも気づかなければならない。


あるいは、学校で習っていない、世の中の公式的な事実認識のカテゴリーにない・・

親たちも近所の人もそんな話はしていない・・等というのがその理由である。

そうではないか?


実に偉そうな、上から目線のうんちくのような言い方ととらえる人もいようが、

よく言われるように、「自分で考える」ということが極めて重要なことだ。


自分で・・調べる・探求する・経験する自発的な意識・行為か、

人の言うことを鵜呑みにする・受け身・依存的意識、どちらだろうか。


これは人を信頼しない・・ということではない。

また個人主義ということでもない。

怪しげな枝葉思考に騙されてはいけない。


前世の話はすなわち、今回だけではない幾多の人生があったという話だが、

その証拠はどこにあるのか?といえば、

今ここに・・それぞれの「わたし」の存在そのものの中にある。

私の性格、趣味趣向、行動の癖、そして何より、思考や感情の傾向・・・、


親兄弟、遺伝、家系・・肉体の系譜ではなく、メンデルの遺伝の法則でもなく、

社会的な常識という重い観念、覆いかぶさった刹那的信念でもなく、

今在る・・それぞれの・・わたし・・

意識のその中の未だアクセスしていない膨大な情報の中にある。


ある言い方では、人間をやっているからには、

それまでの膨大な生の経験があるからこそだ。



ラマナ・マハルシはこれを・・

魂・・生まれ変わりの要因 ”想念の潜在的傾向”と言っているが、

一見微妙で、常識ではほとんど顧みられない・・想念上の性癖・・の

その背後に・・膨大な「前世情報」が含まれているということだ。


今・・生きている・・存在している・・という事実は、

今・・わたしが在る・・ことの意識的自覚「自己への気づき」ともいえようが、

今・・という瞬間・・自体が  常に、

過去や未来の自己、そしてその展開世界という、

あらゆるすべてのものの原点であることを識(し)るならば、

未来も過去も、”今ここに在る”・・ということに気付くのだ。


過去とは、過ぎ去ったことの・・今・・残る残照イメージ・記憶である。

未来とは、これから予想される・・今の可能性イメージ・想定である。

すべては・・今という瞬間という・・アクセスポイント上に生起するため、

過去も未来も・・今・・という瞬間にアクセスする以外には存在し得ない。

これは、例えば、

音響レコードの音声再生が、レコード針の一点で波動再生されたり、

あるいはDVDビデオでの1点でのアクセスヘッドによって再生されるようなものである。

レコードには膨大な情報(波動)が記録されているが、

ぼんやり眺めているだけでは、どんな音楽や歌も聞こえないだろう。


同じく、何も気づかず知らず、意識的努力もないならば、

あなたの膨大な幾多の人生の経験・記憶も再現されえない。

また、未来への可能性に関する・・今・・の方向性も見えてこない。


実に小さく見える・・今の・・わたし意識・・あるいは表層意識は、

そのレコード針のようなものであり、そのレコード針としての「意識」なくば、

無限にわたる存在情報、生存形式、生命表現形式、あるいは人生・・を、

味わうことや楽しむことが可能だろうか?

無限にわたる可能性、永遠性そのものである、神・宇宙意識・絶対無限、

言い方は何でもよいけれど、その”無限自体”・・が、

あなたや私たちという、

一見常に発展途上で、無知・無明なる部分を多く抱える人間として、

あるいは進化する意識的存在として、

存在宇宙・世界に無数に、その姿を現していることは、

どういう意味なのか薄々ながらも理解可能ではなかろうか。


自らが無限、至高の実在として、その無数の感動と喜びを味わうために、

そしてそれ以外に・・・わざわざ宇宙創造をすると考えられるだろうか、

より身近に言えば、

それ以外に、今のあなたや私たちが・・・在る・・・理由があるのだろうか?


ましてや、悲しみや無知、憤り、不本意な死を加えたり受けたり、

またその反動処理としてのカルマの返済など、

永遠に繰り返すことには、まったくもってどんな意味もない。


それに真に気づけるならば、今より、そして常に展開される今において、

本来の大いなる意識にそぐわない苦痛と快楽に翻弄されるだけの人生は、

永遠に戻らない過去となるだろう。


今の私たち・・人としてあることは、

すでに無限にもわたる、幾多の生経験のその賜物である。


それを思い出すことは、それそのものが・・証拠となる。




転生の話(3)「覚える」と「憶える」

2019-08-02 06:03:33 | 語り部の章
ほとんどの人はいわゆる過去生の記憶がない。
あなたはどうだろうか?
つまり、
今世、生まれる前の「記憶」はあるだろうか。

幼少期の記憶も薄く、ほとんど思い出すことが出来ないのに、
生まれる前の、つまり前世の記憶など、とてもとても。
そういう人は多いだろう。

ところで、こういう話を聞き、
「さて、どうかなー」と思いめぐらす・・ということは、
すでに前世の記憶に関する概念に触れていることを示す。

つまりその人にとって、前世の記憶に関して知るべくして知ること、
意識内面の必要性に迫られた状況になってきているともいえよう。
一種の、意識の内面からのサイン・・促し・・合図であるともいえよう。

例えば、
あなたは前世の記憶などを思い出す努力をしたことがあるだろうか?
経験者であれば、それ自体・・嘘か本当か?不明ながら、
いわゆる霊的能力者などに、自分の前世のいろいろを聞いたりしたこともあるだろうか。

そう、
それらは嘘か本当か?実際わからないのである。

読み取る者、その他者を信頼するという程度に応じて、
その人の語る、あなたの前世の記憶なるもののに信ぴょう性を感じるのである。

またその人の語るあなたの前世なるものの説明が、
自分の中にある、相応する想念に共感する部分があれば、
それに信ぴょう性を感じるということなのである。

言い換えれば、「やはり・・」と腑に落ちる部分があれば、
それが間接的な想起を促していると言えるだろう。

しかしながら、世間的な常識観念では、物的な証拠、権威からのお墨付き?
形に現れた物質的な裏づけがない限り、そういうものはないものと断定してしまっているため、
その断定観念に従っている限り、決してその域を超えることができない。

逆に、そんなものは非科学的・あるわけもない・・という断定の、
その証拠もないのである。

そこにあるのは「物的な裏付けがない・・」という想念だけなのである。
どういう判断、どういう断定も・・”想念”でしかない。

ここのところは、前世のことのみならず、
あらゆる事象の認識において、きわめて重要なところでもあり、
確実に理解することが大切であろう。

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結局は・・あると思うか?・・ないと思うか?・・、
よくある都市伝説的な「信じるも信じないも・・あなた次第・・」
というのはなるほど妥当な言い方である。(笑)

真実の裏付けとしての物的証拠、公式発表などを
”待つ”ように刷り込まれている場合は、
多分、いつかどこかでしか、そういうものはめぐってこないだろう。

私たちは、いま・・生きているにも拘らず、
いつかどこかで、誰かが・・
”わたし”にとっての真実を明かしてくれるだろう、
そういうのって・・・ある?だろうか・・・

ここにも、物的なものだけを存在と認識するか、
それを超えたものをも認識できるかという・・
認識レベルの進化・拡大のステップがあるということなのだ。

眠れる預言者などと呼ばれたエドガー・ケーシーは、
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「もし前世があったとしたら、どうして前のことを覚えていないのでしょう」
という依頼者の質問に答えて、
「いや、覚えているのですよ。自分たちが記憶しているということを、
忘れてしまうことはよくあることです」
と言ったといわれている。




つまり、憶(おぼ)えてはいるが、忘れていると言っている。
言い換えれば、思い出す努力をしたことがない・・とも言えるし、
記憶はあるが、意識的な再現・想起したことがない・・とも言えるのだ。