気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

続・意識の話(10)我・それ・無限なるもの

2019-06-24 06:03:57 | 語り部の章
意識には大きさも量もない・・、つまり無限である。

宇宙意識も・・わたし意識も、本質では区別も何もない。

つまり、わたし・・意識は、本来・・宇宙意識・・であるということだ。

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例えば、聖書に残されている内容でいえば、

”初めに言葉あり、言葉は神とともにあり・・、”がある。

宇宙創造のおりに、そのための神の発意・言葉があったということであるが、

言葉とは・・色々言う、木々にざわめく無数の葉のように、

様々な想いを乗せたもの、意識という木から生じるの枝葉のようなものだ。


人がしゃべる時、その言葉の中には意味を込めている。

・・口を使って音声を発しながら、その言葉の中に意味を込める。

その意味とは、ある思い、ある想念・・ともいえる。

自分の音声の波動に乗せた想い・・これが言葉・・である。

初めに言葉あり・・創造の意図・・が発せられた・・と解釈できるだろう。

宇宙よ・・在れ!のような神の意図といえるかもしれないが、

宇宙よ・・出来てこい・・(笑)ではなく、

当然ながら、神にとっては・・すべてが・・わたし・・であるがゆえに、

創造神にとっての「宇宙よ在れ!」

・・それは・・”われ・・在り!”・・である。


それは・・・これを読んでいる・・あなたでもある。

意識には大きさも量もない・・、つまり無限である。

宇宙意識も・・わたし意識も、本質では区別も何もない。

つまり、わたし・・意識は、本来・・宇宙意識・・であるということだ。



いま、あなたには・・わたしという自覚意識がある。

あるいは、

我・・在り・・の覚知、
生きていることへの気づき、
存在していることを知っていること。

これを過小評価して、世間的な想念で流してきた。

あなたの生活内容や家族、財産や地位などの枝葉で評価してきた。

しかしながら、どの枝葉も、枝葉は枝葉である。


わたしは・・在る・・ことは、意識がある・・こと。

意識とは、そこからすべてが生まれている根本の存在・・「Being」ともいえる。


人は、自ら意識がある・・ことを知っている・・

意識に気付いている・・存在・・である。

しかしながら、

その私意識・・の周囲には、昨日のこと、明日のこと、生活のこと、家族のこと、

仕事のこと、家庭・家族のことなどという、

この世的な想念・記憶が常時取り巻いており、

この世界で生きるために、様々なことで忙しいわけだし、

その忙しさに、ほとんどの時間を消費させてしまっている。

そういう、いわば想念の枝葉の繁茂する様を追いかけている限り、

わたしが・・宇宙意識などとは実感があるわけもなく、

わたしは・・在ることの、創造の奇跡・・と、

今の毎日の現実生活と、いったいどう関係があるのか?と、思うものだが、


しかしながら、真実はその「思い」の元、根源にある「普遍的意識」であり、

何が、誰が、どう思っていたとしても、

今の・・わたし・・意識・・が・・それなのである。



意識には大きさも量もない・・、つまり無限である。

宇宙意識も・・わたし意識も、本質では区別も何もない。

つまり、わたし・・意識は、本来・・宇宙意識・・であるということだ。


宇宙意識とは、宇宙空間のどこかの意識・・ではなく、


今ここで、

空高く続く無限の宇宙を見ている者、

目の前にある無数の物質形を見ている者、

無数の想念を想起し続けている者、

その中に無限の想像と創造のもとを内包する・・者・・

わたし・・という意識・・以外に存在し得ようか?



あらゆる無限性を見ながら、感じながら、

この世的な”重い想念”に取り囲まれ、それに閉じ込められ、

さらに、それすら気づいていない・・

そういう意識存在の経験場、それが、ここ・この世・・の特徴といえよう。



なぜ今、ここに生きているのか?・・といえば、

誰かの何かのせいではなく・・、

輪廻転生の仕打ちでもなく、・・・


本来は普遍的意識である・・わたしが・・

特定の・・「わたしは・〇〇・である」という想念に固定化し、

今・この時空世界においての常識的観念、

「わたしは・・この3次元的世界に生まれた”肉体”である」

「わたしは・・死んだら終わりの、か弱い肉体個人に過ぎない」と、


・・”意識している”だけのことなのだ。






続・意識の話(9)全存在は意識である

2019-06-17 05:39:22 | 語り部の章
あらゆるすべては「意識」であると聞いたことがあるだろうか?

「意識」という概念を、どのように理解するかが重要だ。

あらゆるすべてとは、存在するあらゆるもの、事象・現象・物質・生命など、
あなたや私が ”知覚、認識するあらゆるすべて” のことである。
例外は一切存在しない。

あなたの身の回りの物、その事物の動き、人々も含め、すべてである。

それは「意識」という言葉で表せる・・根源的な気付き・・である。

根源的な気付き・・神が自己自身に気付くことで、
その無限性が展開されている・・のが創造、宇宙・世界である。

都市も、山河も、地球も、宇宙も・・意識の顕れである。

そう言われても、なんとなく直感的な肯定感がある人であっても、
腑に落ちる感覚での明確な理解が難しいかもしれない。

明確な理解が起きれば、感情や行為や想いに反映され、
意識の深化とその展開が拡大するがゆえに、
即ち、存在次元の進化が必然的に起きてくるものだ。


あらわるものは意識の表れである、意識以外のものなど存在しない、
存在するもの・・すべて意識である。。

ブッダの説法の記録伝承にある「山川草木国土悉皆成仏」も、
イエスの生涯の記録に残された第一義的に重要とされる「愛」も、
あらゆるすべては・・意識・・であり、ただひとつの「それ」だということを示している。

意識は・・何かに気付いていることである。
ある何かに気付く・・その気付きと同時にその対象物が在る・・ことだ。

様々な物があるのではなく、気付くことで・・それが在るということだ。

あなたの目の前の事物、スマホもパソコンも部屋の丁度も、電車の中の乗客も
それは・・あなたが気付いている・・から、存在として知覚・認識しているのである。

物だけが・・在るのか?・・いいや、まったく違う!
”物がある”のは・・同時に・・それに”気付いている”からだ。

あなたが眠っている時には、あなたは世界を知覚していない。

あなたが居なければ、あなたの世界は無い。
あなたの意識が無ければ、あなたの周囲に気付かない。


普通は、幼いころから唯物論的観念・想念で刷り込まれているため、
あらゆる物・物質形がある・・ことだけが強調されている。
その物質形を何とかするために・・様々な知識を教えられるが、
当然ながら、根本的な意識のことは、
物質形以前の、目には見えない事柄なので、具体的に教えようがない、
あるいはそれらは主観的な事柄であって、客観的ではないため、
一律、法則的なものではないとしているのだろうか。

目の前に事物がある・・それだけが重要であるかのように、
それに気付いている・・ことは無視されており、良くて、
人間には知的能力があるから・・それが認識できる程度であろう。

そういう能力とか知能とかではなく、

もっと根本の在りよう・・・意識・・気付きそのものの働き、
それが・・その反映たる「存在物」として現れている。
それに・・気付いていることが無くて、その存在物があるわけがない。

あなたに意識がある・・ことは、自分の存在している事、
周囲の事に気付いていることだ。
「生きている」・・ことは、「意識があること」と同義であり、
生きているから世界が体験できるということだ。

そう、これは極めて当たり前であるが、
その背後にあるのは「意識」であるということに気付かなかったのだ。

「わたしは知的な肉体個人である・・」という漠然とした信念は、
わたしの想いがわたしの頭に生じて?、自由に肉体行動が出来る為、
他とは関係のない独立した存在として・・自己認識してきたからだ。

「あんたとは身体も違うし、考えも違うよ!」・・ということだ。
それが個々人という独立した別個の存在認識を生み出していると同時に、
この世的な自己生存本能と結びついて、
別々の相容れない分離した存在の集合意識を醸し出している。

全てはひとつの「意識」から来ているにも拘らず、
その無数の派生意識が、個々として分離した状況の幻想の中でもがいている。

しかしながら、よくよく世界や事物、人々を見てみるならば、
全ての人々には・・「意識」がある・・ことが解るだろう。

動物にもそれなりの意識がある・・・周囲に気付いている・・はずだ。
あなたが道を歩いている時に、そこにいた近所の猫がさっさと隠れてしまうのは、
あなたの存在を察知・警戒したからである・・存在に・・気付いたのだ。

動物達が周囲のことに”自発的に反応”するのは、そこに気付きがあるからだ。

この場合、気付きとは・・人間の高度な発想のようななものではなく、
もっと根源的な・・存在・・への気付き・・のことである。

そう、あらゆる生物に・・「気付き」がある。

生きて活動する生命には・・生命があると言われるが、

生命とは、生きて活動している生命体・・という事であり、
その生命体と・・他の生命との ”反応”によって、
様々な生命現象が起きているわけだが、

その生命現象の根源には何があるか?と言えば・・
自己以外の存在に対する何らかの反応・・「気付き」である。

気付き・・は、もっと普遍的に云えば、
何かと何かの反応・出会いともいえよう。

それはまた、波動と波動の接触による共鳴・反発のようなものでもある。
あるいは、原子と原子の結合と解除などによる物質形の変化は物理的な反応、
無機的とされる石・鉱物も、内部は原子・分子・結晶で構成され、
内部は、回転・振動する電子や原子核、クオークで満ちている。

そう、全ての物質形も、原子・電子・原子核、クオークで出来上っており、
それらは全て・・振動する波動エネルギーなのである。



物理科学で言うならば、
クオーク、素粒子自体、振動・波動自体が・・「存在」の元であり、
その存在・・は振動・波動の反応によって、様々な姿形を現している。
科学者はそれら背後にある法則を追いかけているわけだが、

法則とは・・根本にある気付き・・の表現なのである。

この世といういわば3次元的映像の成り立ちを観察するならば、
あらゆる事物は、原子・素粒子・クオークの動きのことであり、
その振動・波動・エネルギーは・・普遍的気付き・・普遍的意識そのものである、
そういう事が理解できるだろう。

あらゆる時空・宇宙・空間に浸透する・・と言うよりも、
それそのものである・・普遍的意識を・・宇宙意識と呼んでいる。

意識には大きさも量もない・・、
宇宙意識も・・わたし意識も、本質では区別も何もない。

本来は、普遍的意識であるそれぞれの・・わたしが・・
今・この時空において、
「わたしはこの3次元的世界に生まれた肉体である」と
・・意識しているだけのことなのだ。


続・意識の話(8)意識は超次元

2019-06-14 06:15:48 | 語り部の章
あなたの意識が立ち現れると同時に世界が現れる。

これがあなたの生きている真実のあり様を表している。

あなたは、世界があって、地球があって、さらにそれを含む宇宙があって、

その中に、ある時、ある所に生まれてきた「肉体」としての人間であると思っているだろう。


そしてその肉体としての私は、偶然に生まれていつか確実に死んでゆく、

それまでの事であると・・そう思っているのであろう。

自分だけ思っているというよりも、それが誰彼かまわず当たり前の常識感覚である。

みんな一緒に・・感覚なのだが、だれもそれを保証などしない単なる集団妄想に過ぎない。

・・

人間とは、知的な社会的動物・・それが人間・・さも尤もらしい表現だが、

しかしながら、

広大な時間空間の中の小さな人間という、物質的形態としての自分を説明しているだけで、

それは結局、肉体としての「わたし」のことであり、

意識・・としての「わたし」の説明ではないことに気付かなければならない。


あなたは、世界があって、地球があって、さらにそれを含む宇宙があって、

その中に、ある時、ある所に生まれてきた「肉体」としての人間であると思っているだろう。


例えばそれは、あなたが最近大きくなった液晶TV画面に展開する宇宙や世界の映像を観て、

自分がそのTV映像の中に入っている・・小さな人間であると思うようなものである。

でも現実は、そうではないから、どんな物語も結局は楽しむことが出来るわけだし、

ほんの一時であっても、いつの間にか、

そのスクリーンの映像の物語に入り込んでいる気分になり、

ハラハラドキドキを味わえるのだ。


そうでなければ、誰が映画やビデオ映像を視たいと思うだろうか?

一時でも、その中の物語にはまりこむからこそ・・楽しいわけだ。





3次元的世界にいるとしているあなたは、目の前に展開する二次元映像が、

例えそれが、無限遠方や遠い過去や未来に展開するような宇宙ものであろうと、

つまりは2次元平面に展開する映像・物語であると”知って”おり、

わたしはその中に居る者ではない・・としっかり”認識”しているからだ。

なぜならば、目の前の画面映像は、あなたの知覚する世界空間の中の、

ほんの一部の枠内の映像であるという事を知覚・認識しているからである。


しかしながら、ちょっと想像してみよう・・。

そのTV画像、映画のスクリーンが・・身の回り全体に拡大したならばどうだろうか。

身の回りのすべて、知覚する全空間が・・その物語であったら・・どうだろうか?


つまり、わたしたちは・・ある種の時空間に、はまり込んでいるということ。

そのはまりこんでいる要因・原因は何かと言えば・・・

自分がこの肉体以外の何者でもないという、

幼いころから刷り込まれた・・3次元的常識観念・信念によるということ。

3次元的常識観念は、それ以上の次元認識でなければ、

3次元的世界から抜け出せないのは当然であろう。


でも、実際は、そんなわけないと思うだろうか?

いや、あり得ると思うだろうか?


眠るという事は、意識が一時この次元から外れるという事であり、

朝目覚めるという事は、時限付きの肉体に意識が戻るという事であり、

さらに、

死ぬとか生きるとかの現象も、同じように意識の遷移するプロセスであると、

そういう事があり得ると考えられるだろうか?

あるいは、そういう認識は間違いであると・・思うだろうか?


それを真に理解しようとするならば、

自分自身、「わたし意識」のことを深く観察しなければならない。


わたしは・・在る・・が無ければ、世界・宇宙は展開しない。

親の社会的プログラムとしての生殖行為によって自然に用意されたあなたの肉体は、

魂・意識の・・、この世での時限付きの観察・経験基盤に過ぎないと、

そういうことはあり得ると・・思うだろうか?

いや、そんなこと・・あるはずもないと思うだろうか?



続・意識の話(7)目覚め

2019-06-10 05:50:35 | 語り部の章
自意識とは、自分が自分である・・という”自覚”のことだ。
自ら・・覚める・・と書く。

わたしは・・在る・・存在しているという感覚ともいえる。

この「わたしは在る」ことへの気づき、目覚めはいつ起きたのか?といえば、
あなたや私たちが生まれてすぐではなく、2歳か3歳か?

いずれにしても、生まれた後、何年か経った幼少期のことだった。
そうではないか?

私たちの肉体は母親の胎内で芽生え成長し、
オギャーといって、泣き叫びながら?出産と同時にこの世界に出てくるが、
わたしという意識・・は、その時には目覚めていない。
誰であっても、2-3歳までの記憶は無いのがほとんどだろう。

あなたは未発達の赤子であり、
周囲の環境の刺激によって、人体・頭脳組織が成長する期間が必要であるから、
それまでは頭脳、意識が発達しない時期がある・・
というのが一般的な解釈だろう。

また、
肉体の成長とともに、肉体・頭脳の働きが複雑・高度になり、
「意識」が肉体内部に生じるまで時間がかかるから・・というのがその説明である。

でもそれは、赤子の肉体を生み出した親たちから見た観点なのだ。

ある日ある時、ある年月日にあなたは生まれた・・と認識したのは「親」である。

あなたの「意識」はまだ自覚できていない状況であった。

こまでの説明は、特に違和感はないに違いない。

だからなんだ?・・かもしれない。


しかしながら、そういう観点ではなく、

親や社会の観点ではなく、”わたし・・意識”の観点ではどうだろうか。


いつあなたは、”自分の意識”に気づき始めたのだろうか?
いつあなたは、”周囲の世界”に気づき始めたのだろうか?

3歳か4歳のころだろうか?
ある家庭環境の中に居て、動き回っている自分を意識し始めた、
あるいはそれを記憶しているのは、何歳ころだろうか?

意識が芽生えて初めて・・周りの世界を知覚し始めたのはいつ頃か?
そういう観点で言っている。

あなたの意識が芽生える前は、

あなたの世界は存在していたのだろうか?

きっと言うはずだ、・・私は生まれていなかったから知らないよ・・、

でもね、生まれてから社会・世界のこと、歴史等を習ったから、
世界、地球も・・ずっと存在していたはずだよ・・と。

そう、わたしが意識し始める前には、この世界には「わたし」は”いなかった”。

これは言える。そして、

意識が芽生えて初めて、社会、世界や宇宙がある事を知るということである。

これも言える。

そうではないか?

これは、あなたが出現したその時点のこと、重要な原点の話なので、
深くじっくりその観点にとどまって考え、感じる必要がある。

あなたの意識がこの世界に芽生え、出現する前に・・、

この世界があったと・・誰が証明できるだろうか?


あるのは ”今のこの瞬間”だけということを悟っている人は、

すでに、何かを感じるだろう。



わたしの意識が生じて初めて・・わたしの世界が立ち現れる。

そして、
わたしの世界には、無限遠点も観ることかなわない「無限」が広がっており、

この世界にも一人とて同じ存在がいない人間たちがいて、

無数の姿かたちや想い、過去の記憶や未来の希望を持っている。

そういう・・世界とは、

わたしの意識が芽生えてから・・立ち現れているということだ。


(わたし)意識が、(わたしの)世界、宇宙の源(みなもと)である。

あなたの「意識」がこの世界に芽生え、出現する前に・・、

この世界・宇宙があったと・・”誰が”証明できるだろうか?


ふつう、当たり前の事実のように思っている・・ことだが、

そんなに簡単な意味の話ではないところを・・理解可能だろうか?


わたしが今・・在ること・・だけが、

わたしの世界の在ることを、まんま証明しているのである。

わたしの世界・・と言うけれど、それは・・・まさに無限ではないか!


意識が立現れると同じくして、世界・宇宙が現れる・・・・!






続・意識の話(6)認識次元の壁

2019-06-03 05:52:15 | 語り部の章
真のわたしとは・・無限の意識、あるいは気づき・・であるからこそ、

それが時空間のどこかの場所にあるわけでもなく、

ましてや、肉体の中にあるわけではないのである。

こんなこと言っても、すぐに理解可能とは思えないだろう。

そう、すでに、

人の多くは、自分は肉体だと・・思っている、

私は ”時空間のある時、ある所にいる”と思っている ということだ。

「だってそうじゃないか、思っている・・?というより、
それって事実じゃないの!?  わたしや”ここ”にいるじゃないか」
えーと、生年月日は、住所は・・年齢は・・身長は・・云々、

それらすべてを総合したものが「わたし」であると・・漠然と思っている。

生まれてからずっと、そういう個人の私であったし、今でもそうだと・・、
昨今は年齢が気になる時節にはなったが、私はこの肉体の経歴であると・・。

違うだろうか?

しかしながら、それは事実ではなく、
事実であるという・・「認識」なのである。

だって、そうじゃないか?・・は、強く認識されているということだ。
多くの人がそういう認識でものを言い、書き、話していることを、
常識観念という。

「わたしとは何だろうか?」と問いかけた場合、
いや、そんな問いなど普通はする気も起きない状況なのだが・・、

わたし、自分は肉体・頭脳だと思っている。
思っている?・・って、

そうか・・思っているのか・・としても、
それは頭脳が認識しているんだなと考える。

そして、やはり自分は肉体・頭脳であると・・思うのである。
そうだ、
わたしという自己イメージは・・頭脳が作っていると・・。
それが科学的な自己認識である・・としているかもしれない。
つまり、
思索・想定・認識などは頭脳が行っている。
であるならば、たとえそうだとしても、

私はやはり頭脳であり、それを含む肉体なのである、
--と、認識する。

そうではないか?

しかしながら・・それもまた「認識」なのである。

自分とは、この高度な意識の機能を有する、頭脳を含んだ肉体である。

という”自己認識”なのである。

「認識」は、思考、思索、記憶という”意識”の働きのことである。


ここまで思索が進んだならば、すでに常識観念という壁の
その間際に来ているといえよう。


事実、あなたは肉体なのか?

あるいは、

自分は肉体であるという「認識」があるだけなのか?


さて、どうなんだろうか?・・わからなくなったならば、

いわば古い観念という、3次元的自己認識の壁が壊れかけていることを意味する。

しかしながら、それが思い込みかもしれないところの、

自己認識としての肉体自我が、きっと抵抗を試みるだろう。

そんなはずはない・・と、

わたしは認識によってできている自画像であるわけではなく、

わたしとは、あからさまに五感で感じているこの肉体であると、

さっさとその観念の壁から、元のかごの中に戻ろうとするかもしれない。


しかしながら、事実も現実も、ただ単独に事実や現実があるわけではなく、

それに”気づく”ことによってこそ、成立しているものなのである。

そう、意識である・・わたし・・の中に、すべてがある・・。



あなたの目の前にある事物は・・気づいているからこそ、そこに存在する!

物量、サイズに関係なく、宇宙も世界もまったく”それ”が故なのである。


わたしは・・”それ”だ。