意識には大きさも量もない・・、つまり無限である。
宇宙意識も・・わたし意識も、本質では区別も何もない。
つまり、わたし・・意識は、本来・・宇宙意識・・であるということだ。
---
例えば、聖書に残されている内容でいえば、
”初めに言葉あり、言葉は神とともにあり・・、”がある。
宇宙創造のおりに、そのための神の発意・言葉があったということであるが、
言葉とは・・色々言う、木々にざわめく無数の葉のように、
様々な想いを乗せたもの、意識という木から生じるの枝葉のようなものだ。
人がしゃべる時、その言葉の中には意味を込めている。
・・口を使って音声を発しながら、その言葉の中に意味を込める。
その意味とは、ある思い、ある想念・・ともいえる。
自分の音声の波動に乗せた想い・・これが言葉・・である。
初めに言葉あり・・創造の意図・・が発せられた・・と解釈できるだろう。
宇宙よ・・在れ!のような神の意図といえるかもしれないが、
宇宙よ・・出来てこい・・(笑)ではなく、
当然ながら、神にとっては・・すべてが・・わたし・・であるがゆえに、
創造神にとっての「宇宙よ在れ!」
・・それは・・”われ・・在り!”・・である。
それは・・・これを読んでいる・・あなたでもある。
意識には大きさも量もない・・、つまり無限である。
宇宙意識も・・わたし意識も、本質では区別も何もない。
つまり、わたし・・意識は、本来・・宇宙意識・・であるということだ。
いま、あなたには・・わたしという自覚意識がある。
あるいは、
我・・在り・・の覚知、
生きていることへの気づき、
存在していることを知っていること。
これを過小評価して、世間的な想念で流してきた。
あなたの生活内容や家族、財産や地位などの枝葉で評価してきた。
しかしながら、どの枝葉も、枝葉は枝葉である。
わたしは・・在る・・ことは、意識がある・・こと。
意識とは、そこからすべてが生まれている根本の存在・・「Being」ともいえる。
人は、自ら意識がある・・ことを知っている・・
意識に気付いている・・存在・・である。
しかしながら、
その私意識・・の周囲には、昨日のこと、明日のこと、生活のこと、家族のこと、
仕事のこと、家庭・家族のことなどという、
この世的な想念・記憶が常時取り巻いており、
この世界で生きるために、様々なことで忙しいわけだし、
その忙しさに、ほとんどの時間を消費させてしまっている。
そういう、いわば想念の枝葉の繁茂する様を追いかけている限り、
わたしが・・宇宙意識などとは実感があるわけもなく、
わたしは・・在ることの、創造の奇跡・・と、
今の毎日の現実生活と、いったいどう関係があるのか?と、思うものだが、
しかしながら、真実はその「思い」の元、根源にある「普遍的意識」であり、
何が、誰が、どう思っていたとしても、
今の・・わたし・・意識・・が・・それなのである。
意識には大きさも量もない・・、つまり無限である。
宇宙意識も・・わたし意識も、本質では区別も何もない。
つまり、わたし・・意識は、本来・・宇宙意識・・であるということだ。
宇宙意識とは、宇宙空間のどこかの意識・・ではなく、
今ここで、
空高く続く無限の宇宙を見ている者、
目の前にある無数の物質形を見ている者、
無数の想念を想起し続けている者、
その中に無限の想像と創造のもとを内包する・・者・・
わたし・・という意識・・以外に存在し得ようか?
あらゆる無限性を見ながら、感じながら、
この世的な”重い想念”に取り囲まれ、それに閉じ込められ、
さらに、それすら気づいていない・・
そういう意識存在の経験場、それが、ここ・この世・・の特徴といえよう。
なぜ今、ここに生きているのか?・・といえば、
誰かの何かのせいではなく・・、
輪廻転生の仕打ちでもなく、・・・
本来は普遍的意識である・・わたしが・・
特定の・・「わたしは・〇〇・である」という想念に固定化し、
今・この時空世界においての常識的観念、
「わたしは・・この3次元的世界に生まれた”肉体”である」
「わたしは・・死んだら終わりの、か弱い肉体個人に過ぎない」と、
・・”意識している”だけのことなのだ。
宇宙意識も・・わたし意識も、本質では区別も何もない。
つまり、わたし・・意識は、本来・・宇宙意識・・であるということだ。
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例えば、聖書に残されている内容でいえば、
”初めに言葉あり、言葉は神とともにあり・・、”がある。
宇宙創造のおりに、そのための神の発意・言葉があったということであるが、
言葉とは・・色々言う、木々にざわめく無数の葉のように、
様々な想いを乗せたもの、意識という木から生じるの枝葉のようなものだ。
人がしゃべる時、その言葉の中には意味を込めている。
・・口を使って音声を発しながら、その言葉の中に意味を込める。
その意味とは、ある思い、ある想念・・ともいえる。
自分の音声の波動に乗せた想い・・これが言葉・・である。
初めに言葉あり・・創造の意図・・が発せられた・・と解釈できるだろう。
宇宙よ・・在れ!のような神の意図といえるかもしれないが、
宇宙よ・・出来てこい・・(笑)ではなく、
当然ながら、神にとっては・・すべてが・・わたし・・であるがゆえに、
創造神にとっての「宇宙よ在れ!」
・・それは・・”われ・・在り!”・・である。
それは・・・これを読んでいる・・あなたでもある。
意識には大きさも量もない・・、つまり無限である。
宇宙意識も・・わたし意識も、本質では区別も何もない。
つまり、わたし・・意識は、本来・・宇宙意識・・であるということだ。
いま、あなたには・・わたしという自覚意識がある。
あるいは、
我・・在り・・の覚知、
生きていることへの気づき、
存在していることを知っていること。
これを過小評価して、世間的な想念で流してきた。
あなたの生活内容や家族、財産や地位などの枝葉で評価してきた。
しかしながら、どの枝葉も、枝葉は枝葉である。
わたしは・・在る・・ことは、意識がある・・こと。
意識とは、そこからすべてが生まれている根本の存在・・「Being」ともいえる。
人は、自ら意識がある・・ことを知っている・・
意識に気付いている・・存在・・である。
しかしながら、
その私意識・・の周囲には、昨日のこと、明日のこと、生活のこと、家族のこと、
仕事のこと、家庭・家族のことなどという、
この世的な想念・記憶が常時取り巻いており、
この世界で生きるために、様々なことで忙しいわけだし、
その忙しさに、ほとんどの時間を消費させてしまっている。
そういう、いわば想念の枝葉の繁茂する様を追いかけている限り、
わたしが・・宇宙意識などとは実感があるわけもなく、
わたしは・・在ることの、創造の奇跡・・と、
今の毎日の現実生活と、いったいどう関係があるのか?と、思うものだが、
しかしながら、真実はその「思い」の元、根源にある「普遍的意識」であり、
何が、誰が、どう思っていたとしても、
今の・・わたし・・意識・・が・・それなのである。
意識には大きさも量もない・・、つまり無限である。
宇宙意識も・・わたし意識も、本質では区別も何もない。
つまり、わたし・・意識は、本来・・宇宙意識・・であるということだ。
宇宙意識とは、宇宙空間のどこかの意識・・ではなく、
今ここで、
空高く続く無限の宇宙を見ている者、
目の前にある無数の物質形を見ている者、
無数の想念を想起し続けている者、
その中に無限の想像と創造のもとを内包する・・者・・
わたし・・という意識・・以外に存在し得ようか?
あらゆる無限性を見ながら、感じながら、
この世的な”重い想念”に取り囲まれ、それに閉じ込められ、
さらに、それすら気づいていない・・
そういう意識存在の経験場、それが、ここ・この世・・の特徴といえよう。
なぜ今、ここに生きているのか?・・といえば、
誰かの何かのせいではなく・・、
輪廻転生の仕打ちでもなく、・・・
本来は普遍的意識である・・わたしが・・
特定の・・「わたしは・〇〇・である」という想念に固定化し、
今・この時空世界においての常識的観念、
「わたしは・・この3次元的世界に生まれた”肉体”である」
「わたしは・・死んだら終わりの、か弱い肉体個人に過ぎない」と、
・・”意識している”だけのことなのだ。
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