真実の探求者にとっては、こころ、マインドは克服すべき敵のようなものだ。
なぜならば、真我への渇望を生み出すところの教材である、
苦痛や快楽でみちた、今あるこのような世界は、
その種のマインドによって創られており、
そこにある苦痛や快楽から超脱するためには、
マインド、こころ、想念を克服する必要があるからである。
超脱とは、たとえそこに在っても、それに組み敷かれない、
本質で自由な在り方なのである。
自由とは・・おのれに由る・・出来るだけ、
真我にふさわしい在り方を志向する・・
深く言えば、
今・・ここに在りて・・なお、
この次元を超えている在り方である。
次元とは、本質で、
意識の展開階層のことであるといえるからだ。
それは<わたし>の中にあるが
決して、
<わたし>の知覚対象物である肉体の中ではない。
・・・・・・・・・
想念とは思考、思い、感情、それらの記憶すべて、
普通は頭の中に発生すると考えているイメージである。
このうち感情は頭だけではなく、
身体の各部位の反応とリンクしている。
例えばこうだ・・、
ある事に悩みに悩んで 胸が苦しくなる。
背後からワッと驚かされ、背中がぞっとした。
映画鑑賞中、感動が胸から込み上げ、目に涙があふれる。
仕事や人間関係の苦痛から、胃のあたりが重くなる。
これら、誰でも経験している。
思考、思い、イメージ、感情はまとめてマインド、こころだ。
日常の生活のすべてといっていいものが、
マインド、こころによっていることがわかる。
あなたは常に何かを考えている。
仕事のこと、家の事、家族のこと、あるいは社会のこと。
意図的に考えたり、思ったり、
あるいは意図せず考えたり、思ったりしているのだ。
熟睡中そして夢見、半覚醒状態以外の、
いわゆる目覚めている間、身体が起きて活動している間、
マインド、こころの独壇場なのである。
いや、わたしゃぼんやりしているときがありますよ、
という人も、そのぼんやり中、眠っていなければ、
何かのイメージが、次から次に、
頭の中にやってきているのである。
断言できるの?・・
そう、断言できる。
実に面白いことに、
そして、これに気づく人と、
まったく気づかない人がいるのである。
ここにまず「次元」の違いがある。
意識という言葉は、いろいろ含みがあるが、
意識の違い、気づきの有無・・ともいえるだろう。
次元とは、
何かの物理的な時空間の特質そのもの・・ではなく、
一なる根源からの距離というか、
意識、気づきの段階というか、気づきの深まりというか、
あるいは意識進化というか、波動の振動率の変化というか・・、
次元とは、それのことだ。
そしてそれはマインドの違いともいえるのである!
マインド・想念によってそれに沿った世界が展開される。
世界とは、知覚する対象世界のことで、
あなたが見る映画の、スクリーン上の物語である。
それぞれのわたしの生きてある様、生活は、
こころ・マインドで出来ていることに気づけるだろうか。
何かを見て、何かこころが生じる。
何かを聞いて、何かこころが生じる。
何かを味わって、何かこころが生じる。
何かを嗅いで、何かこころが生じる。
何かを触って、何かこころが生じる。
そして、
何かを考えて、何かの考えが生じる。
それが、毎朝目覚めて、起き出してからの、
日常生活のすべてを創っているのだ。
外側の世界ばかりを見ていては、
まったくと言っていいほど、これに気づかない、
マインド、想念、思考・・それらで
自らの生活すべてができていることに気づかずにいる。
社会制度や、都会のビル街や、大勢の他者の行き交いや、
TVや新聞など、その中には現実、リアリティーは存在しない。
自己のあり方を観察すれば、本質はこういうことである。
何かを見て、何かこころが生じる。
何かを聞いて、何かこころが生じる。
何かを味わって、何かこころが生じる。
何かを嗅いで、何かこころが生じる。
何かを触って、何かこころが生じる。
(つづく)
シュリー・バガバーン・マハルシの教え