気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

想念を見直す

2017-05-30 06:29:16 | 真我実現シリーズ

真実の探求者にとっては、こころ、マインドは克服すべき敵のようなものだ。

なぜならば、真我への渇望を生み出すところの教材である、
苦痛や快楽でみちた、今あるこのような世界は、
その種のマインドによって創られており、
そこにある苦痛や快楽から超脱するためには、
マインド、こころ、想念を克服する必要があるからである。

超脱とは、たとえそこに在っても、それに組み敷かれない、
本質で自由な在り方なのである。

自由とは・・おのれに由る・・出来るだけ、
真我にふさわしい在り方を志向する・・

深く言えば、
今・・ここに在りて・・なお、
この次元を超えている在り方である。

次元とは、本質で、
意識の展開階層のことであるといえるからだ。

それは<わたし>の中にあるが
決して、
<わたし>の知覚対象物である肉体の中ではない。


・・・・・・・・・
想念とは思考、思い、感情、それらの記憶すべて、
普通は頭の中に発生すると考えているイメージである。

このうち感情は頭だけではなく、
身体の各部位の反応とリンクしている。

例えばこうだ・・、
ある事に悩みに悩んで 胸が苦しくなる。
背後からワッと驚かされ、背中がぞっとした。
映画鑑賞中、感動が胸から込み上げ、目に涙があふれる。
仕事や人間関係の苦痛から、胃のあたりが重くなる。

これら、誰でも経験している。
思考、思い、イメージ、感情はまとめてマインド、こころだ。
日常の生活のすべてといっていいものが、
マインド、こころによっていることがわかる。

あなたは常に何かを考えている。

仕事のこと、家の事、家族のこと、あるいは社会のこと。
意図的に考えたり、思ったり、
あるいは意図せず考えたり、思ったりしているのだ。

熟睡中そして夢見、半覚醒状態以外の、
いわゆる目覚めている間、身体が起きて活動している間、
マインド、こころの独壇場なのである。

いや、わたしゃぼんやりしているときがありますよ、
という人も、そのぼんやり中、眠っていなければ、
何かのイメージが、次から次に、
頭の中にやってきているのである。

断言できるの?・・
そう、断言できる。

実に面白いことに、
そして、これに気づく人と、
まったく気づかない人がいるのである。

ここにまず「次元」の違いがある。
意識という言葉は、いろいろ含みがあるが、
意識の違い、気づきの有無・・ともいえるだろう。

次元とは、
何かの物理的な時空間の特質そのもの・・ではなく、
一なる根源からの距離というか、
意識、気づきの段階というか、気づきの深まりというか、
あるいは意識進化というか、波動の振動率の変化というか・・、

次元とは、それのことだ。

そしてそれはマインドの違いともいえるのである!
マインド・想念によってそれに沿った世界が展開される。

世界とは、知覚する対象世界のことで、
あなたが見る映画の、スクリーン上の物語である。


それぞれのわたしの生きてある様、生活は、
こころ・マインドで出来ていることに気づけるだろうか。

何かを見て、何かこころが生じる。
何かを聞いて、何かこころが生じる。
何かを味わって、何かこころが生じる。
何かを嗅いで、何かこころが生じる。
何かを触って、何かこころが生じる。

そして、
何かを考えて、何かの考えが生じる。

それが、毎朝目覚めて、起き出してからの、
日常生活のすべてを創っているのだ。

外側の世界ばかりを見ていては、
まったくと言っていいほど、これに気づかない、
マインド、想念、思考・・それらで
自らの生活すべてができていることに気づかずにいる。

社会制度や、都会のビル街や、大勢の他者の行き交いや、
TVや新聞など、その中には現実、リアリティーは存在しない。

自己のあり方を観察すれば、本質はこういうことである。

何かを見て、何かこころが生じる。
何かを聞いて、何かこころが生じる。
何かを味わって、何かこころが生じる。
何かを嗅いで、何かこころが生じる。
何かを触って、何かこころが生じる。

(つづく)




シュリー・バガバーン・マハルシの教え



現実とは想念である

2017-05-29 07:08:40 | 真我実現シリーズ
我々は皆色即是空を地で行っている。

あるいはそのものであるが、
これに、なかなか気づかない。

それぞれ私が存在する今の在り様は、
1日24時間という概念で説明された、
単なる繰り返し現実だと、そう思っているかもしれない。

しかしながら本質を言えば、
1日は「意識の変遷」そのものである。

熟睡から夢見へ、そして目覚めている状態へ、
つまり朝起きだしてから、
毎度おなじみの生活があるがゆえに、
最後に意識が行くところ、現実と言われる状態へ、
それはより具体的な事象の世界なので、
それが現実・真実だと思い込んでいる。

そうではないか?

「おいおい、違うの?、何言ってんの」
これが現実ではないなんて、どういうこと?
そうでなければ、なんでこんな苦労をするわけ?
だってそうでしょ、毎日毎日の努力でちょっとは変わるが、
基本なんにも変わり映えがないし、
生活に追われている現状が、どうして現実ではないのか?

と、そういう強い思いが定着しているのだ。

人は皆、
夜明けに「意識」が再び目覚めてから、夢見を通じ、
自然な過程で、現実生活というお馴染みの世界まで毎日到達し、
到達したそこで活動している。
これが自動化されているのが「人生」というサイクル。

そしてその繰り返しによって、
これが現実であるという思いが刷り込まれる。
そうではないか?
学習だって、繰り返して覚え、それを使えるようになる、
それが「現実」を作り上げてゆく。

そして現実というそこは、
様々な具体的事象、いろいろな刺激的事物であふれており、
こころは・・それを面白いと感じている。
快楽や苦痛、恐怖や不安さえも面白いと思っている。

そう思っているから、繰り返しそれを経験するのである。
したがって、面白いと思っている人に、何をいっても無駄だ。
「えー、冗談じゃない、嫌だよ嫌だ」・・というのは、
もうすでにそれにつながっている証拠なのである。

つまり、
自分の想念に気づいていない、と、そういうことだ。

絶対的な真実として、
それぞれの・・わたしの世界は、
わたしの想念の感覚映像化であるということだ。

もっと自由で楽しいのが良いという段階になった存在ならば、
どうすればいいのかと言えば、それは、

わたしの「想念を観る」ということだ。

瞑想は良いし、自分の思いへの気づき、観察は、
いつでもどこでも出来ること。

実際に、これが極めて重要な、
避けては通れない修練なのである。

あなたは毎日、自己の「想念形」を観えているか?
それとも、結果の吹き溜まり、
外の世界の盛んに吹聴する、誰もどんな責任者もいない世界の、
出来事ばかりを追いかけているだろうか?

あなたの想念が、今のあなたの世界の種・基本形であり、
死んで生まれてを繰り返す、意識の作り上げる、
その物語の、種、基本形でもある。

わたしとは・・何か(23)回答集

2017-05-19 06:24:33 | 意識の拡大
以前、ユーチューブに出されている「ラマナ・マハルシとの対話」を紹介した。
誰かが朗読をUPしているというわけなのだが、
何ということか!
それは「わたしとは何か?」という命題の、
回答集のようなものであることがわかる。

すでに回答が与えられ(てい)たということである。

回答集といっても、
「あーそうだったか・・わかったぞ・・へへん・・」とか、
そんな数学の問題集の巻末にある回答編を覗くこととは違い、
(昔、よくやったな~笑)
そこに集約された内容を、
今在る・・人生を通じて、真剣に熟考、追試、感読すべき、
実に重要な指針であることがわかるのである。

ヒンヅー文化独特の言葉や言い回しはあるものの、
そんな枝葉にとらわれなければ、
そこには、実に偉大な・・という表現も色あせるぐらいの、

真実というか、本質というか、それに触れるような、
共感、共振する意識を感じないではいられない。

実は、
このサイト記事、「わたしとは何か」のテーマの記事を続けるうち、
自分もひょんなことからそれを知り、
「なんだかな~?・・」という思いが邪魔をしつつも、
通勤途上の電車の中で、何度も何度も繰り返して試聴した。、
今でもそうだが・・。

ここ、なんだか個人的な体験の話となっているが、
まるで「赤ペン先生?」(通信教育かよ!笑)のような事象が、
ここ一連の記事を続けるうちに現れた・・ということである。
これも、それ自体に・・気づくか、気づかないか・・?なのだが・・。

ラマナ・マハルシの語った言葉とされるもの、
肉声でもなく、単に日本語に変換された朗読内容なのだが、
ただ聞くだけでも、そこに含まれる、
「ほんとうの・・わたし」、真我といわれるそれの、
今は遠く離れてしまった、あるいは、忘れてしまっていた「根源」からの、
その「原初の想い」が感得されるのである。
そう、いつも変わらずあったそれとして。

これら言葉、思いは波動である。
またそれは根源からの精緻・精妙な波動であり、
自己内面という空(くう)によってその共感・共振され、
不完全な歪を有しながらも、そこに再現されるということだ!

不完全な歪(ひずみ)、マインド、こころの傾向によって、
人によって異なることは仕方がない。
また、全然感知しないことも、また仕方がないことである。
あるがまま、・・。

かつて、そしていつの時にも、
神なるそれ、<真のわたし>を思い出すために、
それを教えるための師というべき存在が、
この地球という生存カテゴリー内に様々な形で下生して去っている事実、
霊的知識のある人たちは知っているだろう。

そうではないか?

イエス、マホメット、仏陀、クリシュナ、サン・ジェルマン、・・・
あるいはエマーソン、バグワン・シュリ・ラジニーシ、ニサルガダッタ・マハラジ
その他大勢の師たち、あなたも幾人か知っているだろうか。



そして、シュリー・バガバーン・ラマナ・マハルシもそうだ。

19世紀から20世紀中期までの古い時代の人とはいえるが、
現代までに至る霊的胎動の先駆けとなった、師の中の師・・ともいえる、
実に偉大な存在であると言えるだろう。

うかつにも単にヒンヅーの裸の聖者等としか見ていなかった。
「裸でふんどしの人なのか・・」(笑)そこで、もう引っかかっていた。

さらに、文字が小さく難しそうという理由で、
ラマナマハルシに関する書籍を「BOOK-OF◇」に売却したことがあるが、
高い値段が付いたので驚いたものである。(大笑)


余計なお世話だが、あなたも出来れば、
ユーチューブにUPされている朗読を聞いてもらいたいものだ。

忙しくて、そんな暇は無いというかも知れないし、
目で情報を検索しているだけの人ならば、
まったくその気になれないかもしれない。

目で見ること、あるいは読書もいいが、
左右の耳で、つまり右・左の脳という感覚器官を通じて、
その波動を内面意識で知覚することは、
実に大きな目覚めの作用を促すかもしれない・・。

当初は違和感を禁じえず、「なんだかな~?」という思いが付随するのは、
いわゆる3次元的世界の特徴である「小さく分離した自己」から沸き起こる、
そのいつもながらの世俗的な「想念」によるものであることがわかる。

そう、輪廻転生でのその時々の人格を造る、
一時の生起現象であるマインド・こころは、
本来の自己、無限のわたしのことを理解しがたいからなのである。

限られた体積を持つ茶碗は、
無限の空間の中にこそあれ、
無限そのものを入れることはかなわない。

まさに、そんなものである。


  (天目茶碗)

例えば、人は、
物体化した茶碗が自己だと思っているが、
その茶碗は、無限の空間があってこそ、
有限の小さな茶碗として存在することができる。
どちらが本物だろうか?
現れては消える、一時の茶碗のほうか、
茶碗を含む無限の空間だろうか?

何時も、どこでも、そのただ中に生きて在る・・のに、
それに気づかない・・・

その、わたしとは何か・・。
あなたはもう気付いただろうか?

あなたはどこからきて、どこにいくのか?
何者であるのか?

・・・

題して、「わたしとは何か、回答集」

バガバーン・ラマナ・マハルシの教え






-----------

様々な形で、そこ、ここに、あちらこちら、
そして全てにおいて現れている・・真のわたし、
またそれを指し示す師たちに、
そしてこれをご覧いただいているあなたにも、
こころから感謝いたします。



わたしとは何か・・・了






わたしとは・・何か(22)観の一大転換

2017-05-09 07:45:32 | 意識の拡大
<世界はわたしの中にある・・>、

なぜならば、
わたしは存在全ての<第一原因>だからだ。
わたしが在って、したがってその知覚する世界がある。

そう言われて、あーそうだ・・と、
言うわけにもいかないかもしれない。(笑)

なぜならば、「わたしはこの体だ」・・という感覚が、
生まれた時からいつの間にか、それこそ強く硬い「信念」になっているからだ。

信念とは、こころの深層にある根っこのようなものである。
普段は全く気付いていない、自己存在の基本形を決める「想念」なのだ。

当然ながら、3次元的体積を有する人間の肉体、
この体、有限の面積・体積のこの身体、肉体の中に、
あの宇宙、天空の宇宙があるわけもないではないか・・!
これは、極めて当たり前の「思考」なのである。

そうではないか?
わたしのなかに宇宙がある・・などという言明に対して、
あなた?の今のしっくりこない感覚は正しい!
(いったい、どっちやねん・・?笑)

「全て、そして宇宙も・・わたしの中にあるって?・・」
いくらなんでも、そりゃ誇大妄想もいいとこであって、
まともな御仁ならば、聞くに堪えるようなものではない・・。

そんなの常識じゃないか!
えー?、思っている?どころではないだろう?、馬鹿言うな・・
それとも新たな刺激提示、新種のスピリチュアルパフォーマンスの類か?(大笑)

SF的な作り話、あるいは気持ちよさげな夢物語・・と思えば、
それでもまあいいか・・。
そんな風に思うものである。
でも不思議にもあなたはこの記事を読んでいる。

「全て、そして宇宙も・・わたしの中にあるって?・・」
いくらなんでも、そりゃ誇大妄想だ。

それは、そう、「わたしがこの肉体である」と思っているからだ。
それを掘り起こし、その思考の根っこを抜き去るのが実に大変な、
なかなか深く食い込んだ「信念」なのである。

人間、人類は、肉体存在である・・
世の中の常識で、これほど深く食い込んだ思想はない。

その思想、思考形態、そのものが、
この3次元的地球という、生存カテゴリーの特徴なのだ。

そういう信念、常識は、ことさら問題視しないところに、
実に大きな問題が潜んでいるのである。

世界の現象の中での、特定の権力者や闇の勢力、宗教の暗躍、
利権がらみのウソ政治の動きや、果ては宇宙人の善悪とかの話など、
昨今急に拡大された事象の類を問題視する場合もあるが、

最も重要な問題は何かといえば、
それらすべてを知覚し、認識し、思考し、思いめぐらせている、
すべての原点である、わたし・・という存在ではないか?

I am that I AM.

(わたしが信じている・・とおりの<わたし>・・となっている)

引き寄せの法則とか、成功の法則とか、
それらすべては・・意識の方向性によって、体験世界が現実化するという、
これら幻想世界の物語の、そのシナリヲの書き方のことである。

--------
ジム・キャリーの場合
彼も、真のわたし、(宇宙)意識との合一体験者のようだ。
こころの晴れ間には、仮に一瞥ながら、かならず光は差してくる。

--------

どう「信じるか」によって、どういう風になるのか?
その話なのである。

肝心なのは・・それが当然、正規、常識、当たり前だ・・という
そういう思考、観念なのである。

あなたは、シナリオライターなのだ。

そして、そこにたどり着くまでには、
自分自身、世界の事象、宇宙・大自然の働きも観察し、

それらすべての原因としてある、<意識>・・と言われるもの、
現実というもの、そのシナリオである思考・想念を作り上げる、
意識を探り当てる、そのプロセスが必要ということだ。

それが、まことの自分探し。悟りのプロセス。

幻想世界とは、あなたが見ている今の、この世界であり、
重さや大きさ、温かさや冷たさなど、実にリアルに感じている、
例えば、この世界のことである。


毎日毎日経験していることに、
観点・視点の違いで、まったく見逃していた真実を、
それに全く気付ないことに・・・
一度は腰を抜かす必要があろう。(大笑)


あなたが熟睡すれば、あなたの世界は消え、
あなたが夢を見れば、時折、そのおぼろな想念でできた夢の世界にいる、

そして朝になって、おぼろな夢から次第に顕在意識が目覚めてきて、
毎度おなじみだが、少しづつ異なっている・・この現実世界という、
同じく想念のシナリオどおりの夢の世界が現れてくる。

<わたし>という意識がなくて、どうして世界が立ち現れるのか?

グレンとひっくり返る・・、
実に・・ここに、重大な「観の転換」がある。



わたしとは・・何か(21)I am THAT I AM

2017-05-06 18:16:25 | 意識の拡大
「在る」こと・・存在のことを、英語ではBeing(ビーイング)と言うようだ。

Be に、ing(進行形)がついている。

活動しながら在ること、在り続けること・・という意味だ。

あー、なるほど。

しかし、これは概念での説明であって、実経験が重要である。

今自分が・・在ることを調べてみることだ。


人に関して、在る・・とは何か、

「生きていること」とでもいうのだろうか。

また、生きている・・ことを意識があると言う場合がある。


よく医学系のドラマなどで、

「あー、先生!、この患者、まだ意識があります・・!」という場面があるが、

生きていることは、”意識がある”というわけだ。

生きている、存在している、意識している・・は同じような意味である。

多くの人はこれをすでに知っている。

生きている=意識がある・・だ。

生物的に活動している・・生きている・・意識がある・・である。

・・・

しかしながら、人に意識があるということを、

考えるとか、感情反応するなどと解釈している場合は、

動物、人間などに限ったものと考えているかもしれない。


あなたの家の猫や犬にも、意識があると気づく人も多いだろう。

<散歩に出してくれ、ご飯をおくれ!・・>

そういう個体としての意思表示があるから、動物にも意識があると感じる。

意思を、意識と同じように考える場合があり、

意思のある生き物には意識がある、と考えるのだ。


当然すべてに意識がある、

なぜならば<在ること>、存在すること・・それは意識だからだ。

そうではないか?


しかしながら、ここでいう、・・わたし・・「意識」とは、

思考や目的、思いや感情のもとにあるものだ。

思うこと、考えること、感情を持つことが、つまり「意識」というわけではない。

思いや感情=意識・・ではない・・ということだ。


例えば、

あなたが何かを見た!として、特別な「思い」が湧くとは限らないし、

何かを聞いた!としても、特別な「感情」が起きるとは限らない。

当然のこと、知覚したことに対する反応は、人によって千差万別なのだから。



人の「意識」は、思いや感情、思考という精神作用のもっと根源にあるものだ。

見る、聞く、味わう、触れる・・などの五感の知覚そのもの、

しかしながら、五感という知覚作用、その機能・働きではなく・・、

つまり、様々なものが存在している・・ことを<知る>、そのこと・・、

存在に・・<気づく>・・こと、そのもの、

それ・・だ。

それを「意識」という。



科学最先端のロボットには、人間の五感の機能に類似したセンサーがあり、

そこで受けた情報は、電気信号で情報処理されて、記憶もされる。

様々な・・IF、THEN・・のような反応プログラムによって、

人間に酷似した動きやしゃべりが可能だし、

内臓プログラムに記憶された論理情報を組み合わせることで、

あたかも思考しているかのような振る舞いが可能だが、

「意識」があるわけではない。





意識とは、まず自己の存在に気付いていること・・・、

わたしが・・わたしの在る・・ことに気付いていること。

それが・・・わたし・・である。


意味不明だろうか?


I am THAT I AM.

わたしとは・・わたしであるところの存在・・それが<わたし>である。


これは、なにものにも依存しない、自己存立としての第1原理だ。

これを・・存在の・・第一原理とすると、

わたしとは、なにものにも依存しない、自己存立なのだから、

I am [ ・・  ].の、

このカッコに入るすべての<対象物>は、真正のわたしではない。


例えば、

私は男だ、女だ・・は、性別に依拠している。

私の生年月日は、○年○日だ、は時間に依拠している。

私の体重は68kgだ、は体重計測に依存している。

これら本質ではなく、特定の「属性」のようなもの。


光の色でいえば、赤、とか青等と言えようか。

私とはこの肉体である・・というのも、

同じく特定の対象物である肉体に依拠している。

私の肉体形式、性別、年齢、経歴・・、

さらに思想、信条など、思考、感情、そして記憶の全ても、

具体的事物、または思考の・・概念・・ラベルでしかない。

つまり、真正のわたしではなく、私の一時的属性のようなものだ。



真正のわたしとは、・・わたし・・である。・・(笑)


これは論理や思考では理解できない。

なぜならば、概念、記号の組み合わせではないからだ。

まったくの・・禅の公案のようなものだ。



意味不明かもしれないが、お付き合い願えれば・・、


I am THAT I AM.

わたしは・・わたしである存在・・それが<わたし>である。


I am [    ]のかっこ内は、何かの対象物や記号ではなく、

そこにも・・わたし・・が入るのだ。

注意すべきは、論理でいう、

A=A・・ではないということ。

なぜならば、A=Aが成立するのは、

<A>が何か判っていることが条件である。


わたし・・は判っているのだろうか?

いいや、判っていないのである。


わたしは・・わかっていない、

あるいは知ることができない・・

が・・

わたしである・・ところの、存在。



意味不明だろうか?


・・でも、わかることがある・・はずだ。



I am THAT I AM. 


わたしは何か・・分かっていない、

しかし、<わたし>として、無数に立ち現れる、

現象がどれもこれも、わたしではない!


つまり、わたしは・・在る・・が・・知れていない、

知ることができない・・無限の、それである。

逆に、自己を知らないから、その自己を知ろうとして、

あれとか、これで無数に、無限に現れるとも言える。


また、

知ることができない・・とは、無知ではない・・。

無知ならば、問いかけ自体もあるはずがない!

無限に現れるものが無知なわけもなく、

まさしく無限の知性、いや英知を有すのである。


しかしながら、

無数に立ち現れるわたしの・・どれが、わたしとは言えない。

まさに、無限に展開される・・この宇宙・・そのもの。


大きさも何も関係なく、

今ここにいる・・わたしも・・それ、

I am THAT I AM. 


つまり、私は何者だ、どうしたこうした・・ではなく、

わたしは・・在る・・、つまり、Being  である。

それがすべての根源である。


いつかの時間とかどこかの空間とか、・・・ではなく、

何をどう考えるか、・・ではなく、


今・・在る・・それに、今・・・気づいているではないか。

それを・・意識・・と言っている。



根源意識は、マインド、思考の曇りがなくクリアーなため、

すべてに気付いている。

現象として現れた人間の意識は、マインド、思考、観念の曇りによって、

なかなか気づけないともいえようか。


しかしながら、

I am THAT I AM.

わたしとは・・わたしであるところの存在・・それが<わたし>である。

存在そのもの、・・あらゆるすべての第一原因である。