気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

宇宙は生かし合いの場

2010-06-27 14:41:18 | 宇宙的気付き

●あなたは生きているのか?それとも、生かされているのか?

人は毎日身体のことに関与しながら、それをいかに安楽に維持するべきかを考え、行動しているのが本当のところだろう。

人は皆それぞれで一生懸命生きていると考えているだろうが、真実は、自然、人々、宇宙すべてに生かされているということなのだが、それを知っているのだろうか。

あなたは知っているに違いない。

 

人は、太陽、光、空気、水、土が無ければ生きることは出来ない。

他の人々もいなければ、人は生きることは出来ない。

逆に、人がいなければ生きていけない生命は、

一体どこにあるのか?

 

ペットも植物も、自然があれば生きていける。

動物もペットも人間に優しくすること、

言葉以外のメッセージを人に伝える為に、

そこにいるのだ。

人間が、生きいてる意味を忘れては、

生きてはいられないことを知るべきだろう。

 

生命が皆仲間であることを、知らないで、

観念の世界で様々な価値感を作り上げ、

これでもかというほどの汚物を流し続けているのは、

一体、誰なのだろう。

それも永遠に続けることが出来ないことすらも、

・・・気づかないのかもしれない・・・。

 

 

身体を維持する努力も結構たいへんな時代ではあるが、しかしながら人間の努力、それは自己のみを生かすことに過ぎず、逆に、太陽、光、空気、水、土は他を生かすべくそこにある。

我々は自分の幸せを求めているが、太陽、光、空気、水、土は、その我々を生かしてくれている。

我々の身体の求める食物も、自ら嫌うその排泄物も、すべて自然によって生成、浄化させてもらっている。

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様々な自然の生命たち、それらが自己主張や言葉をしゃべらないからといって、その有り難さに気づかずに、それを当たり前のように搾取、汚染してきたのが、実は我々人類なのではないか。

一概には言えないが、西洋文明とはそのような傾向があるだろう。

やれ、わたしがどうだとか、アイツがどうだとか、どこの会社が、政治家が、国が、組織がどうだとか、何をどうこう主張しても、大騒ぎに騒いでいても、

それは、地球、大自然、宇宙という舞台があればこそなのだ。

 

我々は森羅万象すべてに生かされている・・・

それは理想論でも、なんでもなく、事実である。

・・

人類は、もらうばかりを体験してきたようだ。

・・・・それに気づきもせず。

 

インカ、マヤ、インディオ、ヒンズー等の古代民族の末裔達は、驕り高ぶる意識的存在達の陥りやすい過ちへの回顧と伝承を苦労をしながらも伝えてきた。

彼らは1万年以上前の文明の遣り残しを、この数千年の時間絵巻のなかにおいて、その務めを全うしたといえるだろう。

これからのことは、多分、別の時空で、また同じようなことが為されるかもしれない。

それはそうと、わたし達や、あなたは、どうするのか?

確かに、

決めるのは、いつもおのれ自身である。

行くも来るも、いつもおのれ自身である。

しかしながら、わたしが「今在る」事実に気づき、それを忘れないことだ。

常に「今在り」続けるのが、永遠の存在である「わたし」や「あなた」なのだから。

また、

それを感じることが出来るのは、知覚でもなく、肉体でもなく、こころ・マインドでもなく、

、という瞬間の奇跡のおかげである。

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意識の拡大プロセス(4) 外と内は一周り

2010-06-20 14:43:13 | 宇宙的気付き

●我々は一体何を頑張り続けているのか

我々は世界の中で必死で生きている、頑張っていると思っているだろう。事実、子供の頃から「頑張れ、頑張れ」とはっぱをかけられどうしの人々も多いだろう。学校でも社会でも、頑張ること、それが美徳であり、それについては誰も否定しないだろう。

他人を励ますには、ついつい「頑張って」という言葉をかけるものだ。これ自体には何も問題はないのだが、ただ、何かを行なうのに事前に障害物を想定し、これを乗り越えることで何かが得られる・・という意味を含んでいるのかもしれない。

つらいことに歯を食いしばって耐えるからこそ栄冠が得られるものだ、という意味もあるだろうと思う。

しかし、頑張るだけで良いのか?

 

●わざわざ問題を創造する遊び

人々が体験する辛さや艱難は、往々にしてそのように「頑張っている」人々の中で起きる利害に起因していることに気づくだろう。

問題を解決しながら自己存続をなんとか図ってゆくという姿勢そのものが、トラブルの元であると言っても良いかもしれない。

そこには、わざわざ「見えない問題」を自ら事前に提起し、そして「現れるであろう現象」を、自ら解決することで成長があるのだ、という信念が潜在しているのかもしれない。

ここには大きな誤謬があるにちがいない。

頑張ることでいつも問題が山のように出て来ているのがこの社会ではないのだろうか。

個人が頑張り、他人と利害で衝突する。

国単位で頑張り、他国と利害で衝突する。

人類が頑張り、他の生命を絶滅に追いやり、またその土台である地球そのものを汚染してしまう。

数千年頑張りすぎて、妄信に閉じ込められたような人達もいるようだし、

富の蓄積に頑張りすぎて人類の資産を一人占めにする人達もいる。

集団の自己保身で頑張りすぎて、罪もない民衆の命をだめにしてしまうような極めて幼い人達もいる。

 

●個我の頑張りの果て

多分、もう、事ここに及んで気づかなければならないことは、必死になって自己存続をかけて頑張っている姿は、決して雄々しいものでも、逞しいものでも美しいものでもないということだ。

頑張りすぎて地球が汚れてしまったとは、笑い話ではすまないし、シュールな悲喜劇とも言えないつらさがある。

確かに、そんな我欲の頑張りはもう不要なのだ。

 

●本当の頑張り

実のところ、頑張ることの真の意味は「克己」を意味しており、自己の魂の開花へのたゆまざる姿勢を維持するためのフォームを維持するということなのだと思う。

闘い挑んで勝つとすれば、その相手は己の恐怖の影しかない。

人それぞれの中にある「恐れ」という影は、己だけがつくっているのであり、決して他者の押し付けではない。

自分の影であるエゴを、誰のせいにもできないのだ。

社会のごたごたのすべては、外の人を変えようとする、外の世界を変えようとすることに起因するだろう。すべての問題は自分の都合のいいように他を変えようとする想いによって生起しているといえないだろうか。

周りの世界はその人のこころの反映であり、鏡に映った自己を修正・変化させる為の、いわば体験修行の場と考えるべきではないか。

確かに自己が変えるべきは「自己」である。

自己を変えることが出来ない人が、他を変えることが出来るわけがない。

別に政治の批判でもないが、人々を糾合し、勢力を作り上げ、その数のパワーを元に改革を起こし、世界をより都合の良いものに仕上ようとすることは、形が出来れば中味はなんとかなるだろう的な無責任さを示すものではないだろうか。

例えば、政治家も指導者も自己における切磋琢磨に頑張ってもらいたいと感じるのは自分だけではないだろう。

 

●個我の頑張りの最終幕

また、外から、誰かからやってくるといわれる理想世界には充分気をつけるべきであろう。

今現在世相を見れば、その最後の嘘が行なわれようとしているようでもある。あなたは外からやってくる笛吹き男の楽しそうな音色に騙されるだろうか。

数千年の興行であった「個我の頑張り」という演目芝居の最後の舞台の、自作自演の悲惨なお芝居にまた入り込んで行くのだろうか。

あるいは、それに騙されず大いなる自己を思い出すだろうか。

もっとも同じ映画にいつまでも固執する必要もないはずだ。

非常に尤もらしいスピルチュアルな最後の騙しにあなたは気づけるだろう。

・・これは有り得ないだろう?・・というのが最後の騙しである。

そう、それが卒業試験のようなものなのだ。

あくまでも、他(ほか)を頼りにしてはだめだろう。

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●数千年に渡る肉体への自己同化

人々の意識がフォーカスすべきは、強制的な社会の変革・改革ではなく、内面の無尽蔵の意識の働きの方だろう。

自分の意識をさておいた時代は、物質華やかな、そしてその中におのれの魂を閉じ込めたような時代であった。

すなわち、環境が変われば人の意識が変わるという、あくまでも唯物思考的な思いに捕らえられていたことを知る必要があるだろう。

世界の1小ピースの人間が幸福になるには、その枠である世界が変わる必要があるという考えは、自らを個我の肉体に自己同化することであり、また刹那の肉体が自己である?という狭い次元に自らを閉じ込めたことになるのだ。

「刹那の肉体自我」、それは人類が今まで数千年のあいだ馴染んだ思考であり、その思考によってこそ、各人が各人の肉体に自らを閉じ込めてきた経緯がある。次元降下と言ってもいいだろう。

そうやって子羊の群れを体験していたようなものだ。

なるほど羊使いも、狼も次第に現れてきたようではないか。炙り出されてきた支配層や陰謀者はその役者、役どころのようではないか。

今の時代は、肉体自我という、その根の思考の解消時期に来ている。

肉体自我という自己認識の重りは十分に重たかったのではないか。そのために生と死の周辺の世界が、ある意味で天国と地獄の間で賑やかだったのだ。

地上、水平の世界での都会やその町並み、市外や郊外と同じく、垂直方向にも様々な空間や生業があるのだろう。いわゆる霊界は、地上の世界での存念や残留思念、執着という意識の領域ともいえるかも知れない。高級住宅地も巣窟も、この地上だけではなかったのだ。

この地球での執着、葛藤の着脱を学ぶのにも、中間地帯での往復が必要だったということだろう。

恐れ、執着、葛藤・・・これらは同じ意識の振動率の少しずれたものにすぎない。重い想いのことである。

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●普遍生命の体験と帰還

我々人生を送り、そしていつかまた逝く場合には、その信念に従った生命形態を表すような、いわば存在周波数帯に移行することになるだろう。

また重い振動率を維持している場合の死後は、いわゆる霊界といわれるところのお世話になる場合もあるだろう。

霊界、いわばチャンネルの違う地球周辺の周波数帯域、そこには様々な世界が作られているが、やはり情報変調の飽和時期を迎えているようであり、次第に高周波数帯に移行しながら、情報の昇華、クリーニングが行なわれているようである。

これは結構、相当なことだと言わねばならないだろう。

変な例えではあるが、今進行中のTVの地上デジタル化のような、高周波数帯への移行が行なわれており、今までのような霊界の周波数帯ではなくなりつつあると言えるかもしれない。

ある意味で休息域である霊界も、浄化、昇華過程にあるということであれば、あたかも地上波のチューナがなければ画像が映らないがごとく、コアの意識の周波数・振動率が合わない場合は、もう地球周辺の周波数帯には留まれないことになりつつあるともいえるだろう。

あるいは、途中で遊ばず上位に直ぐに帰還する体験学習の仕組みになったのだろうか。

あなたはどう感じるだろうか。

多くの人々は、地上での世間常識に合わせて、最後まで生と死のテーマを忌避し続けてしまうのだろうか。

 

●すべては波長・振動率の違い

肉体死のあと、霊界の信念帯域に引かれるということは、地上で培った信念が重い荷をもっていると、それに相応しい周辺周波数帯に引っかかるということだろう。

顕在意識の振動率、同調出来る周波数帯は、想いと感情、記憶の複合であり、総合して信念という固有の振動率をもっている。

今ここにある、今のこころ模様、顕在意識を軽く考えてはいけないわけだ。

なるほど、地球という惑星生命圏での肉体死の後の霊界というものが必要であったのは、本来の普遍なる生命・意識の有り方と、地上での個別の肉体存在の有り方のギャップがあまりにも大きい為とも言われると、なるほど、頷ける話ではないか。

 

●世界は内なるわたしに因って現れるもの

我々の意識が遍満する宇宙の意識の1点であるからこそ、1点たる個別神ともいえる意識の抱く信念は常にその反映をもたらすことになり、自らがそうだと信じる形態をまとうことになる。

内面の意識が「内」で、その反映が「外」の世界である。

同じような内面の意識の存在達が、それらの反映の外の世界を共有し、学んでいるというのが、数多の宇宙での実際の生命のプロセスであると思われる。

現に今、地上でも何十億の存在達で溢れかえっているように。

 

●常に自己の信念を注視すべし

地上で刷り込めれた信念に自己同化している人や、死んだら終わりだ・・と考えている人が肉体死を迎えた場合、その本体たる次元を悠に超えている魂は決して死ぬことはないにもかかわらず、その信念たる想いの波動は、その波動自体でこの世界の周囲の帯域に留まることになるかもしれない。

それを例えれば、中継母船本体から放たれた探査機が、本体に帰還途中で何かに引っかかって立ち往生しているようなものだ。

また、ピクニックに出向いた先で記憶喪失になってしまい途方に暮れた状態で家まで帰れないようなものだろう。

 

●それぞれの「わたし」は遍満する宇宙意識

この世に生きているということは、あたかも大いなる自己から放射された光が、諸世界、幾多の時空へ投射・転移をしているということである。

すなわち、我々は、この地上で肉体という形態をまとって、ある意味体験学習をしている遍満する意識ということだ。

因たる宇宙意識自らが、宇宙の各所からその創造を観照しているといってもいいだろう。

その本質は、

わたしは「わたし」であるところのものである。

わたしは在る。

誰にもあるこの「自己認識」を通じて、人とは遍満する宇宙の生命、宇宙意識の気づきそのものであることを、意識的に思い出すことが何をさておいて肝心なことであろう。

確かに、近すぎて気づきにくいものではある。

世界のどこに行こうと、何を成し遂げようと、どんな権威を持とうと、それは一過性の栄華であり、また映画であり、また体験学習に過ぎない。

その映画体験を観照している「わたし」こそ、真我といえる。

その真我、大いなる意識、宇宙意識へ戻る階段が意識次元の上昇である。

今、ここ、に在りながらまさに全体と一体であることがそのテーマでもあるだろう。

いわゆる次元上昇は、本当の「わたし」へ還るステップを上がるということであり、それを例えれば、山上の神社への階段を汗を流しながら昇るようなものなのだろう。

階段を登るに従い、周りの景色も変わってくる。周りが変わるから上って行けるのではなく、上がるから周りの景色が変わるわけだ。

人間存在とは、大いなる自己自身に帰還するプロセスを体験しているところの、すべてに遍満する生命・意識である。

・・と言っていいだろう。

意識の拡大とは、そのことである。

 

・・

・・・・・アイ・アム・ザット「私は在る」ニサルガダッタ・マハラジとの対話 より

質問者

あなたに耳を傾けることで何の得があるのでしょう

マハラジ

私はあなたをあなた自身に呼び戻している。

私があなたに求めることは、あなた自身を見ることだけだ。

あなた自身に向かい、あなた自身のなかへ見入ることだ。

質問者

目的は何なのでしょうか。

マハラジ

あなたは生き、あなたは感じ、あなたは考える。あなたの生きること、感じること、考えることに注意を払うことで、あなたはそれから自由になり、それらを超えていく。

あなたの人格は消え去り、観照者だけが残る。

それから、あなたは観照者をも超える。

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意識の拡大プロセス(3) 以心伝心の世界

2010-06-13 09:30:10 | 宇宙的気付き

●想念は去来する意識の波

想念とはあなたにいつもやってくる様々な想いのことである。朝起きてから夜寝床にはいるまで、日中様々な想いがあなたの頭に去来していることに気づいているだろう。

よく頭に浮かぶというような感覚があるのは、視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚などの、馴染んだ五感の機能が頭部に集中しているからだ。そう、人の頭の周辺には、いつも様々な想い、イメージ、感情が浮かんでは消えているのだ。

何かを集中して考えている時の「思考」も全く同じである。また、それは自分が創造的に、考え、感じ、想像している・・ものだと思っているだろう。「わたし」がそれを発している・・ととらえているだろうし、またその考え、感じ、想像すること自体は、一切何者にもわからない、自分独自のものだとも思っているに違いない。

その想念・感情類の総合的な、いわば積分された波動が古来より「オーラ」と呼ばれるものだ。オーラはいわゆる想念と物質形態の間の波動帯域での現象と考えられ、これを観ることが出来る人は、オーラの発生主のその時々の意識状態を総括的に読み解くことが出来るものだ。

 

●想いのソース(源)は遍満する意識

しかしながら、その思考、想いのソース(みなもと)は、宇宙を含む、またそれを超えた、あらゆるところに遍満する「意識」からくるのだ。

それは昔から神とも、宇宙意識とも、大いなる存在とも呼ばれている。

それはあたかも電波の伝播のように遍満しており、それを受信機のようにその時空でキャッチ同調するのが、身体及び頭脳という高度な機能である。

われわれの意識の作用、あらゆる振動帯域を含む宇宙の遍満意識への個々の意識の同調、こころの振動レベルに応じて遍満する意識波動に同調しているということだ。

その同調ズレや、あるいは個々の歪んだフィルターによって、内面に現れる想いが、我々のいう「不幸」のもとなのだ。

個々の生存のみに変調された意識の振動域というべきもの、普遍性から離れた、いわば歪んだフィルターのことを「エゴ」と言っていい。エゴをクリアーにする過程を通じて、人類の名付けた不幸なるものが減退してゆくのだ。

そういう意味で、意識ある人間は自分の時空に湧出する普遍意識を「加工」「変調」している存在といえる。こころの浄化や調律とは、こころの歪、すなわちエゴと呼ばれるフィルターのクリーニング、あるいはノイズのキャンセルを行なうということである。

 

●世界中の不幸は「影」にすぎない

自分の想念は誰にもわからない・・、そう思っているかも知れない。

そうであればこそ、ウソをいっても誰にもわかろうはずも無く、好き勝手なこともバレなければ問題もない・・ということになり、自分の都合に合わせた、嘘やダマシが横行する世界にもなる。

我々人間の世界にある様々な出来事の、その生起の元にある「根の想い」がわからないがゆえにこそ、世界の人々の挙動が、複雑怪奇な、何か深遠な意味がありそうなものになっている。

 

しかし、多くの人々が幸福を求めているはずであり、その意図は何処の誰であろうと変わりはしない。極悪といわれる人々も陰謀者も権力欲に染まった人々も、心底では幸せを願っているからこそのことである。多分、やり方が相当に稚拙なだけのことなのだ。

 

確かに、誰も皆、今この瞬間にも、何がしかの思考や感覚が生じているし、それに従って相応の言動・行動をしているのだ。

人の想い、それを意識的に認識する力が備われば、あなたにどんなウソも通用しないだろう。

しかしながら現実は、それ自体に気づいていない人々が多いからこそ、世界は混乱して、終始不能のかたまりのごとく、時の流れに流されている。

 

●自他の想念に気けることはすなわち意識の拡大を意味する

自己の想いに気づき、これを観ることが出来るようになれば、その想い、想念という波動は、他者とも同じ周波数帯で振動しているものであることが理解出来るようになる。

こころを観るという意識レベル、ある意味で曇の上の周波数帯域に移行するためには、まず「こころ」の働きを知らねばならない。

我々が、より高い、より広い見晴らしの良い視座へ進むためには、意識の働きである「こころ」をどうしても知らなくてはならないことが理解出来るだろう。

想念を自在に観ることでそれを知り、潜在せる意識の拡大をはかるのだ。

ところで、あなたや、あるいはわたし達は、その想いが他者に知れても問題がない程度に、「こころ」を洗濯しているだろうか。

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●テレパシーは本来自然な意識の同調機能

想いに敏感になれば、今はSFチックに言われるテレパシーも、自然な知覚として我々に次第に備わるようになるだろう。それは私自身、自分の体験によっても明白である。

自分の思考を観ることで、結果、人の思考にも容易に同調出来ることにもなり、他者の想いの大枠が瞬時に理解できることになってゆくのは道理である。

自己の想いが次第にわかるようになれば、他者への「思いやり」も出てくるようになり、そのシンパシー感は、まさに同調をしやすくする要因となるのだ。

以心伝心とは、古来から言われている直接の意識の共感・共振のことであり、こころを観ることが出来る、それなりの人々の間の同調のことである。

多くの人々は、今は表面上の言葉の応酬でそれを何とかしようとしているが、人々の直内面への共振が困難な為に、複雑怪奇な人間模様となっているのだ。

 

●内面の不動の点に戻ること

無理など何もしなくてよいのだ。まず自分のこころ模様を観ることである。ついついそれを忘れてしまい、何かの概念・観念・他者に自己投入する場合があるだろうが、いつも「わたしはわたしである」ところの、自分に戻るようにするとよい。

自己観想は、別に必ずしも座禅を組むパフォーマンスも必要もなく、常日頃のあり方の中で、自分に気づいていることである。

何か別の物・者・に自己投入をしている「自分」に気づいているだけでも、日常の嵐を体験しながらも、決して嵐に巻き込まれない、台風の目のような、不動の意識の点にあることにも気づくようになるだろう。

その不動の意識の点は、いわば「空」でもあり、それは無限の知恵や理解や豊かさの泉のようなものだ。

あなたのなかにある不動の一点は、

あらゆるすべての根源から湧き出す命の泉である。

まさに、今、ここに幸あり。

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意識の拡大プロセス(2) 敵は内にあり

2010-06-06 17:05:47 | 宇宙的気付き

●マインドとは

有名なデカルトの言葉「我思う、ゆえに我あり」、はある意味で「こころ」への明確な気づきを言ったものだ。

・・これは単に哲学のテーマではなく、意識ある人間が、自らの意識によってこそ、自らの存在を生ぜしめる・・という極めて重要なプロセスを言っている。

それは意識的存在が、自らの意識に気づく、すなわち目覚めの瞬間」ともいえるのだ。

まさに、人が人であることが出来る基本に気付いた瞬間のことである。想いがあればこそ、その想いの対象が浮かび上がる、ということであり、また物質形態などの対象物を知覚する当事者=「わたし」への気づきのことでもある。

これは繰り返し言うところの、宇宙の自己認識、自らが自らを現し続ける働きのことでもある。

神なる根源が目覚めているからこそ、我々の世界、宇宙が現前しているのだ。

そうして無限なる自己自身は永遠なる変化によって紡ぎだされているのだ。

人も同じく例外ではない。

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●こころはいわばソフトウエア

ソフトがなければハードは動作せず、ソフトウエアのないハードウエアそれは単なる機械といえばわかりやすいだろう。

マインド(こころの働き)はいわばソフトウエアのようなものであり、身体であるハードウエアの働き、すなわち知覚、体験、情報を処理、蓄積、昇華するための人間のツールなのだ。

我々は、「こころ」というソフトウエアの重要性に気づかない状態にいるのかもしれない。「こころ?へっ・それがどうしたのだ?目に見えないものがどうして役に立つ?それは単に計算の為や夢想をするだけのものではないか?・・・」という段階かもしれない。多分そうなのかも知れない。たしかに、こころよりもお金の方が大事になっているではないか。

自分のこころがおざなりでは、身体や周囲の環境はギクシャク、ガタガタしたものになるのは致し方がないのは理解出来るだろうか。

今使っているパソコンのソフトが無茶苦茶では、パソコンが充分に機能せず、分けがわからないことになるようなものだ。

確かに、物事を複雑怪奇にしているのは、あなたやわたし達のこころなのではないだろうか。

レンズにシミや傷があれば、あたかも映し出される世界が、シミだらけで傷だらけと見えてしまうものなのだ。

 

●自己の内部のバグ?に気づくべし

パソコンの内部のソフトにバグ(不具合)があれば、画面は不安定な表示をしたり、急にシャットダウンしたり、また電源が落ちてしまったりするだろう。そうして、それに対して怒ったり、嘆いたり、毒づいたりするのだ。

問題は、不具合の生じた現象そのものではなく、不具合を生ぜしめるところの原因である「ソフト」であるということだ。

これと同じように、いわばバグ(不具合)はあなたやわたしの、こころのなかに、多かれ少なかれ存在している。

それがゆえに、本来あるところの当たり前の「幸せ」から遠ざかっているのかも知れない。自ら創るソフトで自らが困るのも神ならではのことであるが、バグ修正はいつも早めのほうが良いに相場は決まっているのではないだろうか。

 

●敵は常に内にあり?

他人のバグ(不具合)が何せ問題である・・と勝手に決め付けて、他者を批判する場合もあるだろうし、自己のバグ(不具合)を温情ある誰かが修正してくれる・と期待する場合もあるだろうが、それはあり得ない相談だ。長く人間関係を経験した人ならばわかるだろう。

敵は本能寺にあり・・・ならぬ、敵は内にあり・・、と気づけるだろうか。

人間においては、身体、環境という現象そのものが問題ではなく、そのハードウエアを体現・表現するところの「こころ」が問題であるということであり、それが主要なテーマであるということだ。

古来から言われている「内面を観る・・」ということはそういうことでもある。

内に敵があろうとは露にも考えないだろうが、不幸の元は確かに内にしかないのだ。

最後の戦・ハルマゲドン?・・たしかにそれは起きるだろう。また起きなければならないものだ。

しかしながらそれは外の世界の大戦ではなく、あなたやわたしのこころの中での自分の影との、いわば最終戦のことである。

 

内なる敵をあぶり出すこと、これが戦ではいつも肝心要なことなのだ。克服すべき内なる敵はすなわち、今日の味方であるあなたやわたしの「エゴ」のことでもある。

 

エゴの克服、それは、あなたがあなたの、わたしがわたし自身の意識の働き、いわゆる「こころ」を観るということでしか為されないのだ。

みずからに平安をもたらすためには、みずからのこころの中にある様々な「恐怖」を、自らあぶり出すことが絶対的に必要なのだ。

その恐怖や無知が、ひいては集合無意識の恐怖や無知となって集まっている。

少なくとも個々人の意識のなかの恐怖の響きを消し去らなければ、外から現われる恐怖の影に引きづられることになるだろう。

影は、日向においてはあなたが引きずるべきものであり、残念ながらその逆ではない。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アイ・アム・ザット「私は在る」ニサルガダッタ・マハラジとの対話(ナチュラル・スピリット)より抜粋

 ・・・

質問者) 毎朝、新聞を手にするたびに、貧困、憎悪、戦争といった、いつまでも排除されることのない世界中の不幸を知って、私は落胆します。

私の質問は悲しみの要因とその原因、そして救済に関わるものです。

それを仏教主義だとあしらわないで下さい。どうか決め付けないで下さい。

原因はないというあなたの主張は、変化し続ける世界の希望のすべてをを消し去ります。

 

マハラジ) あなたは混乱しているのだ。  なぜなら、

あなたのなかに世界があるのではなく、

世界のなかにあなたがいると信じているからだ。

  

誰が始めに現れるのだろう? あなたか、あなたの親だろうか?

あなたはあるとき、ある場所で生まれ、父と母、名前をもっていると想像している。それが、あなたの罪とわざわいなのだ。

もちろん、あなたが働きかければ世界を変えることが出来る。

ぜひとも働きなさい。誰があなたを止めているのかね?

私は想いとどまらせてはいない。原因があろうとなかろうと、あなたがつくった世界だ。

あなたはそれを変えることが出来る。

 

質問者) わたしの知りたいことは、世界の不幸をどうすればいいのかということです。

 

マハラジ) 世界の不幸はそれと関わるなかで、あなたがあなた自身の欲望と恐れから作り出してきたのだ。 

 

すべてはあなたが真我の存在を忘れてしまったためだ。

スクリーン上での画像に現実性を与えた上で、あなたはそれらの人々を愛し、彼らのために苦しみ、彼らへの救いを求める。

そうではない。

 あなたはまず、あなた自身からはじめなければならないのだ。

 

ほかに道はない・・・・

・・・・・・・・・・・・

 

つづく。

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