気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

私とは何か?の考察 その3

2018-12-25 04:58:27 | 語り部の章
気づけば実に不思議なことだが、我々は自分自身のことを知らない。

普通、自分と言えば、漠然と自分の・・肉体であると思っている。
もちろん普段はそんな意識も無く、外の世界で急かされるままに、
ただ五感感覚の世界で生きていると言っても良い。

自分、その言葉の中にすでに深遠な意味がある。
ここにも、日本語、漢字というに及ばず、
便利な生活に浸っているだけの現代人には到底及ばない、
古代人の英知の片鱗を感じるはずだ。

自分の「」は・・まず”目”のことと読み取れるだろう。
目の上についた✔は、まるで目とまつ毛のようである。
意味としては、見ること、知覚すること、観察することでもある。



次に、
自分の「」は・・分ける、分割、細かくなるという意味があるだろう。
例えば身体組成の細胞分裂のように、
1つが2つになり、さらに・・分かれてゆくことだ。
分かれても本体が減ることはなく、まったく同じもののコピーという意味もあろう。

己を分ける・・自分・・わたし・・のことだ。

つまり・・わたしとは・・”自ら”が分かれたもの、

さらに、分かれ出たものであるが、その根本・原初と全く同じもの、
と、そういう意味がある。

わたし・・自分・・無数に枝分かれしたものであり、
かつ元のままの・・それである。

<わたし>のことを「自分」と言う。
その自分は単に肉体であるならば、そういう名を付けたはずだが、
まったくそうではない。

わたしは何か?・・自分である、まったくそうだ。
己(おのれ)を分けたものであり、また己(おのれ)自身である。

ひとつが無数に分かれ、また無数はひとつである・・それ・・だ。

冬の「言の葉」祭り

2018-12-16 07:18:48 | 語り部の章
●冬の「言の葉祭り」のお知らせ

昨今は急に寒くなってまいりましたが、これをご覧の方々はいかがお過ごしでしょうか。

ここは個人の気ままなサイトにて、時折コメント祭りのようなものをやっておりまして、
今回も年末~年始にかけて、言葉のお祭り騒ぎをやろうかと考えます。

コメント欄しかありませんが、疑問、世間話や哲学的、科学的、あるいはスピリチュアルな会話、質疑・応答なんでも良いですので、
興味と時間、あるいは度胸?のある方はご参加いただければと思います。

景品も何のプレミアもありませんが(笑)、ここに生きている間、何かの気づきになればと思います。


尚、ご参加ゼロの場合、あるいはお正月過ぎたら終了と致します。





わたしとは何か?の考察 その2

2018-12-13 05:28:37 | 語り部の章
わたしとは何か?

普通、こんな問いを発することは無い。
なぜならば、そんなこと既に知っていると思っているからだ。
そうではないか?

常識で言えば、
わたしとは--、
何年何月にどこそこで生まれ、ここまで生きて来た、個人だとそう思っている。
赤子で生まれ、成長する過程で様々な経験の記憶を持った肉体個人であると、
普通はそう思っている、と言うより、それが事実であるとしている。

つまり、ある時生れた肉体個人である。
もっと言えば、わたしはこの身体(からだ)である。
・・だって、そうじゃない?・・である。

なので、わたしとは何か?と問うことは、
この肉体である自己、肉体自我とも言うが、それを”疑う”ことを意味している。

「人間は考える葦である」とパスカルが言ったらしいが、
考える・・ことで、自己が葦である?ことを疑うという事だ。
わたしは葦(肉体)なのか?・・と。

わたし・・とは何だろう?

実は・・

これ自体が「答え」なのである。


わたしとは何だろう?・・・で人生が起きてきたのだ。
わたしとは何だろう?・・・で様々な体験が生じる。
さらには、
わたしとは何だろう?・・・で宇宙が出現する。

I am THAT・・・わたしは・・それ、
それとは?・・何?、え、何で?なんで?

それが実は、あらゆる顕現の”発意・動意”である。

根源は、自らを知ろうとして無数の宇宙を創り出す。
あれか?これか?・・
自らが無限ーーそのものーーであるがゆえに、
その、あれやこれや・・顕現も無限に展開するのだ。

あなたはいつも見ているではないか。
ミクロ、マクロ、生活、人々、環境、大自然、宇宙。



I am THAT・・I am

わたしは・・わたしである・・こと、そのもの、
全てが自己完結でありながら、数限りなく、無限に展開する。

それが・・真のわたし・・である。

今の肉体個人である・・と信じ込んでいるあなたも、実はそれだ。

この世界に肉体を持って生まれる・・という人生設定に基づき、
その世界の常識をそのまま信じている状況は、
わたしは--肉体個人である・・という想念形で固まっていることを意味する。

深く思い込んでいることで、それそのもの、
つまり儚き肉体個人として・・現れている・・。

言い換えれば、
無限なるわたしは・・結局・・自己自身の創造をしているのだが、
それが実に小さく儚いレベルに集約している・・だけなのである。

身体を維持するため悪戦苦闘していたとしても、
人生に常に不安を感じていたとしても、
あるいはこの世の常識の刷り込みの影響宜しく、
気付かず知らず、生きては死ぬを繰り返していたとしても・・。

しかしながら、今はもう気付く時が来た。
「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と、
チコちゃんに叱られる時が来たのである(笑)

気付かねば、同じ輪のまま、別の輪廻を生じさせ、
もし真に気付けば、古い輪廻を脱することで、
さらに、より自由自在にわたしを表現できる境涯となる。

自由とは・・おのれに由り、そして在る・・ことで、
外からの・他者からの縛りや支配に由る必要がなくなるということだ。

I am THAT I AM.

人生の生まれ変わり、人格の形成・・、
わたしとは・・あれだ!これだ!
特定の何か、何様かに特化することが、自己投入、あるいは次元降下である。

本来は無限であるがゆえに、有限・極限も可能となる。


わたし・・とは何だろう?

実は・・これ自体が「答え」なのである。

従って、その答えは無い・・、いや、あるいは無数、無限にあるのだ。



わたしとは何か?・・を深く問いかければ、それだけ、
わたしとは無限者である・・ことが解るだろう。

人とはその途上にある意識存在の事である。