気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟り(あるがままであること)

2008-08-27 11:18:11 | 偉大なる先達の言葉

 「悟り」という言葉は、現代社会では少し異質で取っ付きにくい、言いにくい言葉に追いやられているような感じもします。自分達にとっては今は遥かに無縁な言葉、言うにも口はばったい言葉になっているかも知れません。そのあえて口はばったい「悟り」を言葉にあらわすとしたらこのようになるでしょうか。

●悟りはいつでもどこでもすぐそばにあるもの

 悟りという言葉は何か高尚で、難しく、諸人の手の届くものではないと思いがちです。人類の歴史のなかで、実は相当多くの存在が、その悟りといわれる境涯に踏み込んでいるのは、紛れも無い事実なのです。  ブッダ、キリスト、クリシュナ、マハラジ、良寛、道元、栄西、親鸞、空也、その他古(いにしえ)からの文書を通じて、宗教、科学などのカテゴリーを越えて、今も尚その存在感を伝えてくる方々は当然のことながら、我々の今の共時世界にその存在意志を共有している名もなき多くの人々も、多かれ少なかれ悟りという境涯に至ってるのは間違いありません。

 悟りが妙に簡単・明瞭なものかも知れないという感触は、禅問答でも伺うことが出来そうです。わかったようでわからない・・・ここに、すぐそばにある問題と答えがあることが察せられます。何も銀河の向こうに飛んでいかなければわからないことではありません。間違いなく、今ここにあるのが悟りなのです。それだけは絶対に理解できます。

●悟りは本来すでに知っていることをしっかり思い出すこと

 悟りというのがいつの間にか、高度な、つかみどころの無い、一般庶民に手が届くものではないという無意識レベルの刷り込みがあることに気がつきます。悟りが特別なものという感覚そのものが、その「虚妄」を表しています。ここにも無知を既知にしようとしない、権威主義的なヒエラルキーの壁が出来ています。いつも大切なものが「遠く」にあるという感覚。悟りなど普通できるもんじゃない・という感覚の壁、はたしてこれは真実でしょうか。

 悟りとはなんでしょうか。それは別に肉体が光りだすことでも、心の隅から華々しく現れる天使のファンファーレでもありません。自分は悟りなどとは全く無縁であると感じるならば、あなたやわたしは本来の意識ではないということを知っていることを・・・現しているのでしょう。逆に実は悟りというものを体現しているのが事実のようです。それを意識的に知っているかどうかは別としてですが。

●悟りは自由自在の心境をいう

 悟り、それは「今本来在るべき当たり前の意識状態」を言うのだと、本来のあるがままのことを言うの事だと思います。まちがいなく自由自在の意識状態であることを言うのです。 至極簡単な悟りという状態を果たして理解出来るでしょうか。難しそうな理論も、意味深そうな謎かけも、まったく無いのだという思いがけない答えにこそ、なかなか気付かない理由があるようです。ありがたいものは、難しいものだという、無意識の信念に捕らわれている自分達に気がつくでしょうか。

●悟りは力づくの努力を無くした時に現れるもの

 あるがままとは、普通のこと・・でもありません。世間一般の通念に縛られていることは、当然のことながら、悟りではありません。あなたやわたしの前を通過する多くの普通の人々が、どうも悟ってはいないだろうと思われるのは、現状での妥当な観察です。多くの人々がいつも疲れているかのごとく肩を下げ、何事にも無関心で無感動であり、自分に不利になることからはいかに逃げおおせるか、いかに少しでも安楽・快楽を得ることが出来るのかに関心があるようです。

●悟りは物や欲などの執着を外した意識

 また、幸運にも?悟りなどすれば、何か今の大切な物が失われるようで、怖いと思う意識状態であるかもしれません。とにかく多くの仮想の集団の中で身動き取れないながらも、おのれの足場だけを何とか確保していく為にとりあえず生きているという人々が多いのではないでしょうか。  悟りや、あるがままという存在状態が、自分にとって不利益になるかもしれないという心の現われを感じないでしょうか。本来のあるがままになったら、今ある所有物、地位や財産などが、ひょっとして失われるかもしれないという恐怖以外の何物でもないわけです。要は自分にとって更に素晴らしい方向に行けば、大切な物が失われるかもしれない・・というかなりな矛盾を感じているわけです。

●悟りは生と死が単に相対的な現象であると理解していること

 実は、潜在意識の中では、自分達がすでに悟っている存在であることを知っており、本来当然そうあるべきことを、うすうす気付いているのです。ただその本来あるべき状態に移行したとたんに、何もなくなってしまい、または何かが失われるという「怖さ」があるのです。考えても不思議なことです。いつも何かを恐れていること自体が、取り払われるべき、身に着けた「刷り込み」なのです。無意識に作り上げた社会通念という安全装置が、多くの存在達の意識波動を低いレベルで固定しているようです。何も個人が真剣に人生を知る努力をせずとも、大勢の人々の動きの中でひょっとして安穏が保たれると言う期待、これは他者への期待、依存を示すものであり、全体という架空の集合のへの隷属を意味します。  これらを無条件に半強制的に悟らせるのが、いわゆる死といわれる現象です。現世で獲得し身に着けた全てを、無条件に奪ってしまう、一見容赦ない現象なのです。ひるがえって考えると、泣いても笑っても誰にもおとづれる死は、余計なものをきれいに洗い流してくれる「恩寵」と考えることが出来ます。相対的な価値感や信念をきれいにしてくれるありがたいシステムとも考える事ができます。子供達から大切なオモチャを取り上げてしまえば、大騒ぎになり泣叫ぶことになりますが、明日も遊べると考える分別のある子供達は、それを理解する段階になっていることを示しています。

●悟りは、おのれがおのれに意識的である、自立したこころの状態をいう

 我々は生と死というそれぞれの瞬間の一定の猶予期間をわざわざ設けており、その有限の舞台の中に自分を投入します。あわせて自分を投影させた瞬間に全てを顕在意識から消してしまいます。なぜならば、全ての始まりはおのれから発したのであることを再現する為なのです。人生の意味は誰の顔を見てもわからないわけです。誰に聞いてもわからないわけです。物など集めて身の周りに自己保存の要塞を築いても、決してわからないわけです。  わたしが生まれてきたと言うことはわたしの意志であり、他の誰の意志でもないのです。

●悟りは、社会の中に居てもその通念に捕らわれていないこと

 古来からある出家という行動様式は、なにも社会的なものを全て捨てるという事を意味しません。単に悟りを得た者がそのような風な目で見られることを意味しています。富や権力、あらゆる執着を手放した存在達、自己修養努力や偶然に思える強烈な出来事などをきっかけに心の変容を起こした存在達、彼ら集団の信念体系から抜けた意識をもった存在達は、多くの人々のような執着心が無いように感ぜられるためにそういう風に見られるのでしょう。

●悟りは、子供のような純真な在り方

 実は我々は悟りの状態をすでに経験しているのです。皆が皆経験しています。 我々の子供時代を思い出せるでしょうか。どこか遠くの記憶の断片の2つや3つは思い出せると思います。子供時代は、いまだ社会通念という、何か下駄箱のような小さな割り当て意識のようなものに詰め込まれていない状態です。思考や感情がまだはっきりとしていない状態にしても、本来のあるがままで生きていたのです。 無垢のまま、あるがままであることの奇跡的ありかたは、例えば子の親になればそれを観察できるでしょう。無力な赤子と言われる彼らは、無力、無垢のまま、あるがままのいわば「悟り」の意識状態にあったのです。単に彼らが言葉に表さない、思いを流暢に論理的に表現しないだけであり、その代わりに、彼らはしっかり知覚しているものです。それは生命の素の贈り物でもあります。

●悟りは、本来あるがままの無限であるわたしに気付くこと

 歴史の中で巻き起こっては消えて行く人類・民族・地域の平均的な信念体系、その中には、恐れ、疑い、不安、逃避、強欲なども多く混在しています。今のあなたの心のトーン・胸や胃の辺りのなにかのホンのチョッとしたもたれ感に、気がつくでしょうか。身体は非常に高度な表現体ですが、その現われがコンピュータのような単純な論理・ロジックで表現しているものでないために、気付きにくいものです。  地球生命学園での学びは、驚くような混乱と絢爛たる幻想を味わった後、それまでに否応となく身に着けた虚妄の信念を潔く、勇気をもって、意識的に外してゆくことではないかと思います。その過程で本来の無限なる存在である自己に気づいていくことになります。次元上昇、アセンション等の流布している概念は、自分自身の表現形態を自在に変えてゆくことを示しており、自己に相応しい表現環境が相応に現れることを示しているのです。周囲が変るから、そのおかげで自分が変ると考えるのとは違うのです。

●悟りは見切りでもある

 宇宙・森羅万象の元の元である、わたしは在る、という純粋な気付きが、世界を現し、そしてその世界を無限の視点から眺めるための最高の視座、人間を顕現しています。今多くの人々が体験している生と死、輪廻、カルマなども、もうそれを見切ってしまう勇気も必要でしょうか。

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悟り自体に執着することも、また悟りにならないことです。なにか当たり前の自分や他の人達、世界のありのままがそのまま「悟り」であると思えます。ただ感謝せずにはおれない感覚は「それ」です。

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天真に任す  (てんしんにまかす) 良寛

  本当のあるがまま、自然のまま、あたりまえのことだ。

一切有為法 如夢幻泡影 

(いっさいのういのほう むげんほうようのごとし)  「金剛般若経」

 この世のことは全て実体なく「空」である。その「空」を知るものはだれか。


時事雑感1 (自由競争の終焉)

2008-08-17 13:44:17 | 色々な気付き

 まるい地球の写真を見ていると、この惑星がいかに小さいかが分かります。それに大気圏がほぼ透明に近い状態である事にも気がつくでしょう。過去には厚い大気に囲まれていた時代があったようです。今の金星のような厚い大気があり、厚い大気のおかげで太陽からの強い宇宙線は和らげられ、今よりもにんげんの寿命が格段に長かったそうです。聖書や古文書に残っているように、当時の人類の寿命は数百歳まであるのが自然であったようです。

 そのような寿命の長い人生を想像することは、今の人類には出来そうもありません。なぜなら、現代の文明生活はあまりにも刹那的であり、あまりにも物質偏重であるからです。そのような今の時代に、もし仮に、あなたは数百年も生きるんだよと言われたときに、どう考えるでしょうか。とんでもない話であると思うかもしれません。今の時代に数百年を生きるには、この社会自体が、あまりに疲れ果てる要素に満ちていると思えるからです。いまは丁度良い寿命であるかもしれません。

 自由自在に思うままに生きる事が、本来の人間のテーマであり役目でもあるのですが、毎日を幸福に生きていると実感している存在がどれほどいるでしょうか。例えば、家族や自分の憩いの場を提供するはずの、普通の「家」を建てるために、金を借り、金利を払い、必死になってローンを払い続ける人生を送らざるを得ない人々がどれほど多いのでしょうか。毎日を仕事に追われながらも、その中にでも有意義な経験をしてゆく事は可能ですが、生きる為に負債かかえる生活が本来のものとも思えません。その負債を返してゆく為に、生存競争という共通ルールの社会という競技場で悪戦苦闘を続ける日々が、どれほどの価値を生み続ける事が出来るでしょう。たしかに数十年もやれば、もう充分・・の社会であるかもしれません。

 これほどまでに地球環境を壊して、生態系を歪ませ、毎年何千と言う種を絶滅に追いやる文明が、どうしていつまでも正当であるのでしょうか。

 そう考えてみれば、昨年来からの金融危機の発端となったサブプライプローンの破綻は、非常に象徴的であるともいえます。金を返す事情や意志が劣っていると思われる人々にまでお金を貸し出し、案の定返すことが出来なくなったことで、金融市場にひびが入り、もうじきそれは最終的な破壊に至るでしょう。架空に作り上げた信用を元に膨らんだアブクの破裂の波及効果は、20世紀末の、あの日本の失われた10年の比ではないでしょう。

 もうすぐ形を変えて地上に津波がやってくるようです。お金があらゆるところから引き上げる過程で、世界の市場を洗い流すことになるかも知れません。バブルがはじけても庶民には関係ないのであれば、何のことはありませんが、金銭に踊らされている多くの無意識の大衆には明らかに脅威となってくるでしょう。

 日本で起きたことは、やはり世界で起きると言う雛形論も、あながち荒唐無稽ではありません。日本で起きたバブルの崩壊時にも、多くの人々は相当な痛みを体験したのですが、まだ日本という国を中心としたものであり、かつ国民性が比較的温厚であることや、平和憲法のおかげで武力による需要喚起等の、最悪の方式に訴えられないことが幸いしたのだと思います。ただし今度は世界規模の破裂となるようですのでそれはそれなりに意識していなければなりません。

 世界規模でのバブルの破裂は、日本が忍んだような苦渋と忍従のように進むとは思えないところがあります。世界の株式の低落により失われた富が1000兆円規模であるとの情報もあります。日本の年間GDPの2倍程度、税収の20倍程度とも考えられますが、その他原油や食物等の相場の上昇・低落により更に、失われる規模が拡大してゆくと想定されています。

 これは資本による自由競争の最終ステージを表しており、どうも勝ち負けはほぼ決まってきているようです。このような荒れた経済現象は、2局化によって動きのなくなってきた自由競争社会において、勝者側の獲得した富の世界的な猛威によると考えられます。獲得した富を更に増やすべく、世界のあちらこちらに流れては、金利や相場という変動を通して自己主張を続ける、「欲望」という怪物の咆哮にも見えます。特定の1小個人群に偏ったお金や権力を、更に蓄積する為に、いまだ踊らぬ多くの人類の生存を脅かして、その頑張りを引き出そうというのでしょうか。原油や食料が高騰しているのはその最後の猛威を現しているかのようです。

 科学や技術が発展している?という事なのにも関わらず、数十年前と比べて、明らかに悪くなった生活環境に気がつく人がどれだけいるでしょうか。自然環境は汚染され、原発という間違えば核爆弾以上の脅威をもたらす施設を造りつづけ、また、人質になっているような感じの人々のこころは閉じこもりつつあるような状況であり、地球上でともに生存進化すべき多くの動植物の種はすでに去りつつあります。また、気がつけば、人類社会の万民共通の要素が、生活の為の貨幣と権力のみと言ってもおかしくない状況にある気がします。どうも自動車と携帯電話を持つために、とんでもない犠牲を払ってきたような気もします。

 この世界の状況のなかで学びがあるとするならば、一体なんでしょうか。

 世界は多くの存在達の舞台であり、例えそれが終幕になろうとも、その舞台にいる個人個人の成長にとってかけがえの無いものです。舞台自体を変えようとする必要はなく、また個人が変えることも出来ない仕組みです。変えるべきは自分自身であり、さらに加速度的に起きてくるであろう全地上への洗浄波や、その結果怒涛のごとく渦巻く濁流社会から、意図的に超脱することが必要ではないかと思われます。

 悟りや覚醒という意識状態への移行努力は、地道な作業である己の心の観察、調律に基づく意識進化の方向を示したものでもあります。それは、無限なる自分自身を思い出すプロセスを示していると同時に、やがてやってくるであろう砂上の楼閣の崩壊と派生して起きるであろう怒涛の濁流からの超脱の為のものでもあります。濁流をしっかりと観察するためには、それに巻き込まれないことが必要でしょう。世界に在っても、世界の1部になってはいけない・・という言葉は意味があるのです。

 古来からの多くの人達が辿った道、それは今こそ多くの人々が辿ることをを可能とする状況になって来たのだと思われます。

 またどのような時代にあろうとも、生まれては死んでゆくという、相対的な人生という物語の中に、いかに無限性を見つけることが出来るのか?それは、我々自身が創り上げるものでしょう。やるべきことはただ、本来の自己の無限性を思い出すことに尽きるのです。我々は神なる存在であると知ることに、どんな戸惑いがあるのでしょうか。

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心身脱落  (道元禅師:正法眼蔵)

(こころと体を覆っているものをそぎ落とそう)

 

(余談)

自分が2年前に京都、宇治に旅行したときに、たまたま霊視した道元禅師?はほぼこのような姿でしたが、もう少しだけ角ばった顔立ちで、やや赤ら顔であり、どこかの領主のような雰囲気もあり、生気に満ちた波動を感じました。あれは不思議な経験でした。


あなたはスターファミリー?

2008-08-14 07:59:41 | 宇宙的気付き

これは、宇宙において地球より少し意識レベルの高い時空層の、ある惑星生命圏でのお話です。夏の夜の夢としてお聞き頂ければ幸いです。

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 そこは多次元宇宙という無限の創造場の中の1つの宇宙であり、その中のある惑星は1つの中心太陽の周りの軌道上にあります。地球から何光年という距離感は、実際には意味がなく、いわば存在波動の1つの要素、位置情報「ちがい」を表しており、ある時空連続体と別の時空連続体の周波数帯の離間距離、すなわち波長と波動の種類のちがいを表しています。従って遠い近いということではなく、ほんのすぐそばにあるともいえるのです。同一波動帯で振動する身体構造、またはそれを包む船体構造の波動帯を生成することで、時間空間を越えて簡単に移行することが出来るでしょう。

 地球での時間感覚で言えば、何万年かに換算できるような、そのようないわば遠い過去のお話です。地球にとっては大昔という時間経過の壁があるようですが、地球以外の生命圏ではほんの数年間の出来事であるかもしれません。

ひょっとして、あなたの親身な家族は、今の世の家族を含めて多次元にもあり、膨大な数に及んでいるかもしれません。

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アムン: ねえ、学びの一環として、面白い惑星に行って見ようと思います。そこでは銀河のサイクルごとの次元上昇イベントがあるのだそうです。

ゾラ: ほーそれは「テラ・地球」という地かな。まー正直、少しは引き止めたい気がするが、何も心配などないのも事実じゃ。テラのことは知っているのかな。

アムン:はい、おとうさん、少しは知っています。あちらのアカシック情報エリアとわたし達の惑星生命圏のアカシック情報エリアとの直接アクセスが出来ますので、調べてみました。

ゾラ: それでもそこに行くのかな。ここから見れば、下位次元階層の宇宙帯に振動している惑星生命圏なんじゃよ。いわゆる次元降下してゆくことになる。今のおまえの身体の周りの一番外側にある波動ボディに、1つ重たい衣服を着る事になるんじゃが、だいじょうぶかの?

スオン: そうですよ。おかあさんも別に心配しているわけでは無いけれど、かの地での学びもこの地での学びも同じく大切だと思うの。

アムン: はい、おかあさん、おとうさん、今のこの地での学びはそれは素晴らしいと思います。でも、あの地でのイベントはまた特別なものらしいのです。かの地はあの太陽系の存在周波数帯では最下位層にあり、逆に言えば、1つの次元最先端・フロンティアでもあります。あの惑星生面圏の周りにある意識オーラは、何でもありの周波数帯を構成しているようで、その無秩序の想念波動帯のおかげで、意識生命体がそこのフィールド圏内に入るならば、なかなか抜ける事が出来ないそうです。何でもモンローと言う存在は、プレアデスと言われている時空結節点経由で地球に入っていったそうです。今は地球周波数帯の上部で案内役をやっているとか。

ゾラ: そうか、肝心なところを良く調べたもんだね。あの地へは決して物見遊山では行けないものじゃ。場合によっては衛星形態のごとく、地球の時空連続体のまわりを転生周回せざるを得ないようじゃ。つまり短い人生での転生を繰り返すことにもなるだろう。かの地では転生を繰り返す事で少しづつ重りをつけることをカルマといっているようじゃ。

スオン: そうですよ。こことあちらでの時間の扱いは全く違うのです、あちらでは何百年、何千年、何万年という歳月をも経験することになります。その長い歳月という経験を、重たく感じてしまう存在も多いと聞いています。あなたがその地に行って、その長い長い経験を身につけた場合、わたし達と遥かに離れてしまうという意識をもってしまうかもしれませんよ。いや、ごめんなさい、決して信じていないわけではありません。何万年の間に経験した数々の知恵を、一瞬の出来事として自覚すれば、またわたし達とも会えるのですが、そうすればほら明日にでも帰って来れるのですが。

アムン: そうれは知っています、でも心配いりません。悠久の時間は相対的な観念の中にあることをこの地で学んでいます。この前も、ここから別の銀河に旅行することが出来ました。例えば今のわたし達の太陽の仲間である第7惑星は、わたし達の次元の1つ下の階層にありますが、そこの人達から見れば、銀河への旅行は何万年もかかると言っているそうです。それと同じ事です。

ゾラ: そうじゃ、そのとおり、時間は観念の中にしかないんじゃ。観念が想念として発露したのが我々の周囲の時空じゃからの。おまえも縁あって、わたし達の家族という形態を通して、この惑星生命圏に生まれてきたわけだし、我々皆が実はそうなんじゃ。宇宙に存在する生命は全て兄弟姉妹というのは誠の事実なんじゃ、それを忘れる事はあるまい。

スオン: そうですね。わたし達も宇宙の存在も、元は1つの無限の生命なのです。人間生命体もその他の意識存在も、皆家族ですね。でもおまえやわたし達は、今は近しい親身なる仲間意識を共同創造しているのです。愛に濃い薄いなどありませんが、間違いなく親身な体現を共有しているのです。いつも家族であること忘れないでね。

アムン: ありがとう、ありがとう。どうしようもなくハートが震えてしかたがありません。新しい宇宙が産声を上げるような感覚をありがとう。お父さん、お母さん。

ゾラ: この惑星の進化レベルでは、かの地に行くには高次元船体を使うじゃろう。それ程時間がかかるもんじゃない。あちらに着いたらあちらのガイアを管理している意識体にアクセスして情報を得る手はずじゃ。単に観察する場合は、高次元領域で待機するんじゃが、地球の存在次元に一致させる場合、地球の次元へ降下する場合は、主にその地での赤ん坊として生まれることが必要じゃ。

スオン: かの地では決して幸せを感じている人達ばかりではありません。荒れ狂う感情や知らないことへの恐れが渦巻いている人間関係の只中に生まれる事も多いと聞きます。それに、次元降下すると、高次元の記憶はあなたの魂の奥にしまわれます。アムン、そのときは、あなたの意識があたかもずっと向こうの次元、物質レベルといわれる領域にフォーカスしてしまうのです。そうして降下した次元の意識状態からの目覚めを経験するプロセスなのです。

アムン: はい、それも聞いています。ずっと向こうという例えは面白いです。ここにいても次元を降下すれば、遥か彼方の辺境のエリアに行くようなことですね。

ゾラ: そうじゃ、宇宙は果てが無いのは我々がそうであるからじゃ、どこに行こうと魂の中心では時間も空間もないことを、根本で忘れる事はありえないんじゃ。かの地球生命圏はあらゆる波動の混合状態・それも飽和状態にあるゆえに、新しいレベルに移行せざるを得ない時期にある。あらゆる現象が嵐のように起きてきても、ただそれをしっかり見て学びとするんじゃよ。

我々は言わば、宇宙ファミリーじゃ、いつもどこでも、多くの存在の縁をもっておる。何も心配など不要じゃ。忘れんようにな。

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 このようなかたちで地球に転生してきた方もひょっとしておられるかもしれません。意識的な生まれ変わりも可能であると思います。何も死んで後いつの間にか生まれ変わるという、無意識レベルの生命遷移だけではないでしょう。意識進化をする過程では、生も死もその意味を充分に理解し、それさえも相対的な事象に過ぎないことが分かるでしょう。今は比喩でしか思えないかもしれない無限の生命、それが事実であることはもう知っているはずなのです。

スターシード、ワンダラー、ウオークインなどという言葉が最近あるようですが、このような学びや奉仕の体験をするために、意図してこの地に現れた生命存在がいても不思議ではありません。この宇宙に生命が存在しているのはこの地球だけだという、傲慢でせっかちな信念体系に縛られた考えは、一体どこから来るのでしょうか。

我々のそれぞれ今宿る身体・生命組織体自体も、物質化学反応の偶然の産物であるという、今では最悪ともいえる唯物論的理念が、今世界の全てのトラブル、問題を起こしているのでしょう。文明の進化は外の仕組みの進化ではなく、我々1人1人の自己探求、向上拡大意識からのみ生まれてくるものです。

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  無一物中無尽蔵

 花有り 月有り 楼台有り  (蘇東波の詩) 

(すべては深くかかわりあい、支えあっている)

 

 

 


原初から永遠に生きている実感

2008-08-12 22:07:20 | 宇宙的気付き

霊的波動の高い言葉は、書であろうと、声であろうと、気付く人の意識の拡張をもたらします。少ない時間を使ってその間、真剣に耳を傾けることで、次第にこころの濁りは少なくなってゆくでしょう。たとえ今は全てを直覚出来なくとも、なにか良い事だと感じること自体が、かならず恵みをもたらすものです。今のような貴重な時期こそ、あらゆる機会を惜しみなく使い、真理に接するようにしたいものです。

我々は、いつかここに来て、いずこかへ行くのだけは、もう誰しも分かっていることと思います。今目覚めかけた存在達は、もう、まどろみの彼方へ沈む必要はありません。自信をもって自らの内面の無限性にこそ向き合うことが大切です。

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「神癒の原理 ヒマラヤ大師の教え」 より (M・ペイン (中里誠桔訳))

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 精神が自由でなく、何らかの制約を受けている限り、

あなたは真理を識別することも、理解する事もできない。

なぜならば、生命を理解する道を開くものは、

あなたの内部からおのずと現れる天性の知恵であるからである、

真理は知覚しうるものではない、

なぜなら、真理は知覚を越えているからである。

知覚しうるものは、あなたの想像の中にのみあるもの、ある考えか、感覚か、心象である。

だが、真理とはそのいずれでもない。・・・・・・

また万一道を見出しえなくとも何の不安も無い。

永遠の生命とそれに伴う全てのものを確保するために、

あなたが成らなければならぬと想像しているその何者かに、

成ろうと努力する、その努力も必要ない。

もともと心(マインド)の領域を超えているがゆえに、

心では理解し得ないものを理解しようと、心に無理強いする努力も必要ない。

あなたは本来常に存在しているものを探し出すということは出来ない。

それは自分自身を差し置いてどこか他所に自分自身を見つけ出そうとするようなものであり、自分自身の影を追いかけるようなものである。・・・・・・・・

真理の力は、我々のマインドがあらゆる先入観に満ちた概念や観念から

開放された時にのみ確立されるものである。

そのとき真理は我々を自由ににし、我々自身は現象と影の世界に生きておりながら、

もはやそれには束縛されなくなる。

「我はこの世のものにあらず」

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ここに掲載した、この書の冒頭の言葉の中には、今でいう「アセンション」「次元上昇」または覚醒、悟り等の意味が含まれています。心あるならば、普通に書かれた平易な文章のなかにこそ真理が輝いているものであることを悟るべきではなかろうかと思います。

「真理」は誰かが与えてくれるものではなく、何気にある見えないヒントを頼りに、みずからの手で手繰り続けることであり、そしてその努力の分だけ自分で真に実感するものです。実感は、妄信や単なる希望的観測でないことは、もう体験済みなのではないでしょうか。

創造主、一なるものの実感がなければこの世界など現れることはなかったはずです。我々がここに生きているという実感もなかったはずです。

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 輪廻から開放された後のことを、心配することはそれ自体、まだ開放されたくないことを意味するようです。しかしながら、同じことを繰り返す事ができる時間?は、もうそれ程多く残されていないかもしれません。

最後に簡潔明瞭な、あのマハラジの言葉です。 「I am that わたしは在る」 (マハラジ) より。

私はほかでもない脱出だけを示しているのだ。

 ひとつが三つ(創造―維持―破壊)を含んでいることを理解しなさい。

  そしてあなたこそがそのひとつなのだ。

   そうすれば、あなたは輪廻から解放されるだろう。

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波動で構成された諸世界

2008-08-01 08:27:39 | 宇宙的気付き

 自分の経験では、夢という状態、その中でも顕在意識が部分的に働いている状態での映像体験が良くある。場合によっては、銀河の向こうや、あちらの世界?にも瞬時に居ることに気付くような、とてつもなく自由自在な形態もある。これはなんだろう、単なる夢なのだろうか・・と考えていたわけだが、今はある程度その仕組みが理解できそうだ。ヒントは波動という森羅万象の元にある存在形態であるとも考えられる。夢に限らず、現実の五感感覚主体の生活自体も、同じような波動の存在形態の体験の一部であるというのが、おそらく当を得た理解ではないだろうか。

●夢の映像と現実の映像

 夢は毎日見ているが、その多くを忘れてしまう。それは多分に夢というものを、どうということもないことであるとか、突き詰めれば、所詮脳内物質の反応でしかないなどという、仮説によるものだと思われる。夢の体験では確かにそのような漠然とした感覚は誰にもあるものだ。漠然としたものを、そのままにしているのは、自分の心の働きに全く気付いていないからだ。そうでなければ、夢等を無価値なものとして、無意識に打ち捨てる生活はしていないと考えられる。我々は毎日の生活で、五感による視覚映像を見たり、音声や皮膚感覚などを確かに感じているが、夢の中でも映像や音声のような感受が出来るのはどういうことなのでしょうか。 それらの感受方式には全てに同質な、波動による「知覚」という真実があると考えられる。

●夢も現実も波動の感受である

 ここの記事で何度も出てきたように、我々は波動の世界にいることは妥当な判断だろうと思う。物質も究極は波動で理解され、光も電磁波という波動である。音声も空気振動という波動だ。もっとも堅個と感じている物質というものも、波動によって構成されているということが事実ならば、我々の身体を含むこの世界は、あまねく波動で成立っていると考えておかしくない。現実生活での五感で感受する刺激と、夢や変性意識状態で感受する刺激は、波動としての性質から見れば、実は同質ではないかと考えられる。

 現実生活の映像と夢や変性意識下の映像が果たして違うものなのでだろうか。 TVやラジオ、携帯電話、衛星放送なども波動の原理により、映像や音声を伝える事が出来る。夢での映像や頭の中でのイメージ等も、同じような仕組みではないかと考えて無理はないだろう。但しその波動が単に電磁波・音波などという、既知の波動とは異なるだろうというのは推測できる。我々の3D(次元)世界は、電磁波などで代表される波動帯にあるということであり、夢や変性意識、テレパシーや遠隔認識などは、それとは異なる波動帯によるものであるというアナロジー(類推)は、当を得た考え方だろうと思われるのだ。

●霊界と現実3D世界のちがいは、周波数帯域のちがい

 そう考えてみれば、今のこの認識空間も、実は我々の感覚での受信周波数が、ある波長帯に集中しているだけであるともいえる。FMラジオの80Mhz帯では、1つの放送番組しか聞こえないのと同じことだ。我々の主関心事が、この3D世界の諸現実にあるからこそ、その波長帯の映像、振動を体験しているのである。すなわち意識を集中=同調しているのだ。我々は、ここしかないと思っているがゆえに、この世界にフォーカスしているとも思われる。我々が、かつて産道を通って生まれ出て来るときに、この3D世界、このフォーカスレベルへの意識の自然な同調過程を経てきたのだろう。

 私が自身が個人的に体験することで得られた、様々な夢映像や感覚、ちょっとした新たな認識や気付きなどは、夢を覚えていよう・・と意図したことことがもともとの原因であり、その結果、いつも肉体五感で感受している周波数帯域を、少しばかり広げたことになったのだと思われる。夢など無価値と考えていれば、その夢からの感受など、ことごとく忘れてしまうのも当然なのだ。長い間そうのようであり、多くの人々もそうであるに違いない。気がつかないということは、眠っていると言うこともできるだろう。意図・注意等しなければ何事も現れることはない・・意識原理がここにもある。

 実は超意識、潜在意識では自由自在のようであるが、顕在意識に気付かせなければ、この世界への顕現化が出来ないことになる。潜在から顕在へ、未知から既知への行為は創造と同じことであり、人間の行なうべきものである。そのためには「同調」という言葉には何か大きな意味がありそうだ。同調、共感、アクセス、・・愛なども同じ方向の意識と考えられそうである。

●こころによるチューニング

 夢はそのままでは、多くの人々がそう感じているように、実にあやふやな場合が多いが、夢そのものを意識してゆくに従い、その夢・情報という映像・音声・感覚等の中の、粉飾部分と真実部分が判定できるようになるだろう。そのためには、その仕組みをおぼろげながらでも理解していることが大切である。

 すなわち、どれが自分の心の投影物か、どれが真なる情報かを判定するには、自分のこころの働きというものを出来るだけ認識していることが重要なカギになる。自分の思考・感情等を理解して選別等が出来なければ、場合によっては支離滅裂な映像の断片になってしまう。それは、あたかも知らず知らず草ぼうぼうにしてしまっている沃野のようであり、その中を迷ってしまうようなものだ。広く見渡す為には、常識という壁の向こうを見ることができる、1段高い意識、見識が要求される。

●夢は高次領域への窓

 例えば地震予知や将来の出来事なども、事前に「夢」や「なんともいえぬ感覚」で予知することがある。現実に起きうる出来事の青写真も、実は高次ともいえる周波数帯にあるようで、今はまだ不可思議な過程を通じて、その振動数を低下させる事により、次元を降下して現れてくるらしいことも理解出来るかもしれない。  物質的な3D世界では、五感感覚によって周到に用意された感受作用で非常に判りやすくなっており、たとえ自分のこころが如何様にあろうとも、五感による存在感そのものは微動だにしないようだが、少し違う波動域では、我々の意識作用であるこころのあり方が、その世界認識を決定する傾向が大きくなっているようだ。言葉を変えて言えば、こころの働きによって感受される波動域がはっきりと異なってくるようであり、あたかもどのような周波数帯に同調するのか、ダイアルを廻すのに必要な責任や習得すべきスキルが増えてくるような感じがある。

●波長域の異なる様々な作用  

 世界の国々等では、ESPやリモートビューイングなどもかなり認知されているが、これも当たり前といえば当たり前と考えられる。他国の軍事機関などが採用していると言うことは、情報収集の決め手でもあるかもしれないということであろう。実際に過去からの一見不思議な現象を捨て去ることなく、科学的な集積や統計を元に検討してみれば、人間本来の能力であると考えることが自然な解釈となるだろう。尚、その能力を扱うにはそれなりの訓練が必要なのであるが、本来、軍事情報など、現実世界での隠された他人の情報を垣間見るのを目的するのではなく、「人間とは何か」という、今思い出さなければならない真実への、1つの開かれた窓であると認識することが大切だ。それらを扱うには、絶対的な必要条件として、自分自身のこころの働きをしっかりと観察できる「意識」を持たなければならない。  つまり広い意識を持たなければ、ESPなどから得られる新しい情報には対処できないわけであり、狭い利己的な了見で間違って使えば、その効果は必ず自分達に戻ってくるだろう。

 なおリモートビューイングやモンロー研のヘミシングも、意識周波数の変調を元にした次元間の情報取得や世界への一時的な移行であろうと考えられる。これらは意図的なトライアルであり、逆に夢の多くは偶然のものであるということだろう。

●こころは単に同調器

 身体も、こころも一時の生命・意識の表現形態であり、マインドとも言われる。マインドを自分と思っている間は、それから目を背けるかもしれない。あまりにもコロコロと動き回る感官のこころに同調せず、それをツールとして観ることが大切だ。マインドはあなた自身でなく、与えられているものであると気付けば、それをしっかりと観察できるはずだ。  いつもいそがしく動き回るマインド、それはパラボラアンテナのようであり、感官の作用と反応、すなわちマインドを自分自身と勘違いしてそれと一体となり目を回すことで、不快になっている自分自身に気がつくだろう。

●こころ・意識作用を現すのは、永遠に在る「わたし」という気付き

 色即是空、色は無限の現れであり、空は空であるがゆえに全ての根源であり、それを統合するのは、わたし、という気付きと言えるだろう。そのわたしという根源的気付きは、それでも、何層ものレベル次元にわたって1つ貫かれている実在原理といえる。

そう、生きとおしなのは、「わたし」であるからだ。

 Nature2003

 

 

 

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(「わたしは在る」 ニサルガダッタ・マハラジ  より

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私は映画のスクリーンのように明白で空っぽだ。

画像はその上を通り過ぎ、明白で空っぽのままの状態を残して消えていく。

どの点においてもスクリーンが画像に影響されることはない。

また、画像もスクリーンによる影響を受けはしない。  

スクリーンは画像を遮(さえぎ)り投影する。  

スクリーンが画像を形づくるのではないのだ。  

それはフィルムと何の関わりもない。  

フィルムはフィルムとしてひと塊(かたまり)の運命なのだ。  

だが、私の運命ではない。  

スクリーン上の人びとの運命だ。

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あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついている。  

すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。

この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。  

それ以外何も存在をもってはいないのだ。  

これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。

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