気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

中心帰一

2011-09-27 08:23:50 | 直感真知

あなたが何か?を探求し、再発見するためには、あなた自身の在り方を十分に、調べる必要があるだろう。

 

当然のことながら、今まで近すぎて見えなかった、あなた自身を観る必要があるということだ。

 

人は皆当初は、映し出される外の世界ばかりに眼がゆくものであるが、ある時に至れば、必ず自らにその注意を戻すことになる。

 

その時とは、

 

尤もらしい外の世界の在り方の中に潜む幻想性に気づく時である。

 

その時とは、

 

外の世界を観ている・・・当の<わたし>という<中心>に気づく時である。

  

それはまた、人生や世界の出来事という演目の、ある意味で刺激的な映画に観いっていた状態から、その映画を観ているところの<観客者たる>自分自身にその意識を戻すようなものである。

 

例えば、いかに刺激的で、重たく、軽く、辛く、苦しく、楽しい人生映画であったとしても、映画は映画なのだということを「潔く」見極めることである。

 ・・・

 

外の世界の価値観に・・・、いつの間にか刷り込まれた様々な観念に縛られ、振り回され、こころに傷を作りながらも外の世界を探し回ったのは、一体なんだったのだろうか。

 

取りあえずの生存のためか、快適な環境維持のためか、誰かに認めてもらいたいためか、誰かに愛されたいためか、あるいは苦痛から逃れ、出来るだけ快楽を得ようとしたためなのだろうか。

 

色々あるだろう。

 

しかし、それは一体ぜんたい何のためなのだろうか?

 

わたしやその他多くの人々は、一体全体『何を』求めて大騒ぎしているのだろうか?

 

・・・・

 

 

そうして、この世界で疲れ果て、年と共に耄碌したと言われながら、意識を無くして還ってゆくことを何度繰り返したのだろうか。

 

・・・そうした幾多の人生をあなたは少しでも憶えているだろうか。

 

残念ながらも、この多くの人間の創り上げる共通現実というこの世界が、当然ながら未だ発展途上であることも認識しているだろう。

 

また、不浄と見えるこの世界を何とか理想の世界として実現したいと思うのは一体なぜなのだろうか。

  

汚れて見える「この世界」を浄化しようとすることで、一体何を実現しようとしているのだろうか。

 

あなたの眼に映し出される理想世界の実現なのか?

 

・・・

 

いいや、それは違うだろう。

 

それは、

 

もっとも完全で、最も安心で、もっとも大切な『あなた自身』を見つけるためなのではないのか。

 

何ものにもこだわらない、何ものにも汚されることのない、何ものに対しても不動であるところの<あなた自身>を再発見するためだったのではないか。

 

鏡とは、鏡の向こうを観るのではなく、鏡のこちら側を観るためではないのか。

 

不浄なのは、あるいは不浄という観念で汚れていたのは、鏡のこちら側にあるいつの間にか身につけてしまった「こころ」という衣服ではなかったのか。

 

この世界に生まれること、下生するということは、 

 

本来無限であるあなた、無限の愛ともいうべき存在、無限の知恵ともいうべき存在・・・あらゆる可能性を含んだ<あなた>自身を、それがたとえどんな環境であったとしても、本来の姿、嬉しく・楽しい自分自身を・・再発見するためではなかったか。

  

ここは、肝心要なところなのではないかと思う。

 

 

そう。

 

この世界、ある人々にとっては不浄で欺瞞に満ちた愚かな地球3次元世界は、

 

<あなた>があなた自身を再発見するための学校、あるいは体験ワールド、あるいは修行場、あるいは遊び場なのだと思えないだろうか。

 

わたしの世界は<わたし>無くして始まらず、あなたの世界は<あなた>無くして始まらないのだ。

 

われ・在り

 

どのような理論も評論もそれに対しては全く無意味であろう。

 

どのような科学の成果も、技術の粋も、それに対しては全く寄与ができないだろう。

 

どのような世間の情報も、それに対しては全く価値をなさないはずではないか。

 

他人の理論や評価、科学や技術で出来た機器、溢れんばかりの情報が、あなたやわたし達という<存在>を生み出しているわけではないのだ。

  

我々がここに生れて、生きていること、そして去ってゆくこと、

 

それが人生ならば、

 

その人生をどう感じて、どう昇華してゆくかは、

 

ひとえにわたし自身の持ってきたテーマなのではなかったのか。

 

世界や宇宙の誰かが決めることでもない。

 

あなた自身を思い出し、探し出すのは「あなた」しかいないのだ。

 

 

ただ・・、まず気付くべきは、

 

今は、あなたの意識において、どこか遠く隔たった感があるかもしれないけれども、

 

あなた方も、そしてわたし達も、

 

言うならば<無限>、あるいは<神>、あるいは<ひとつ>、あるいは<大いなる意識>・・から出てきた、それと1つのものであるということだ。

 

すべての中心は、あるいは、一なるものは、無数の<わたし>中にある。

 

あなたの中に、私たちの中に・・・。

 

・・・・

 

それは、理屈や理論や評価分析ではなく、

 

今、ここ・・・での直感で認知することができるかもしれない。

 

あーでもなく、こーでもない・・・騒ぐこころを一時でもぬぐい去るならば、

 

自分を改めて、静かに静かに感じることができるだろう。

 

そのうち、

何かの・・不動の一点・・・を垣間見ることができるだろう。

 

何か大いなるものの<中心>を感じることができるだろう。

 

部分ではあるが、全体を包んでいるような不動の一点。

 

今は未だ不完全であるが、完全を包含しているような一点。

 

・・・

 

そう、理屈でも評価でもなく、自らで自らを感じることの中に、

 

すべての根源から放たれている光を感じることができるだろう。

 

わずかであっても、気のせいであっても、<それ>を感じることができるだろう。

  

そう、

 

それは、まさに<それ>なのである。

 

So  be  it  !!

Kinmok24

金木犀の花が香る季節になりました。

 

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あなたは何か?

2011-09-20 07:28:40 | 覚醒意識

探求者とは自分自身を探している人だ

 

 「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい

 

結局、あなたが確信できる唯一の事実とは

 

あなたは在るということだけだ

 

「私は在る」は確かだ

 

「私はこれだ」は確かではない

 

真実のあなたとは何なのか

 

それを見いだすために努めなさい

 

 

あなたが何なのかを知るために 

 

あなたが何ではないかを知りなさい

 

あなたでないものをすべて発見しなさい

 

身体、感情、思考、時間、空間、あれやこれ・・・

 

具象であれ、抽象であれ

 

あなたに知覚できるものはあなたではない

 

知覚するという行為そのものが

 

あなたの知覚するものが

 

あなたではないことを示している

 

 

マインドのレベルにおいては

 

あなたは否定的言語によってしか描写できない

 

ということをより明確に理解するほど

 

あなたの探求はより早く終焉を迎える

 

そしてあなたが無限の存在であることを悟るのだ

 

(シュリー・ニサルガダッタ・マハラジ)

・・・・・・・

 

 

古今東西の多くの覚者は、その限られた言葉の表現は様々に異なっていても、皆同じメッセージを発してきた。

 

学問にも無縁で、インドの片田舎に生まれたマハラジは、煙草の行商人をして家族を養う生活をしていたといわれている。どこにでもいる人、それも地位も何も持たない無学の人だったようだ。

 

ある時、友人を通じて出合った師(グル)の「あなたは至高の存在である」という言葉を信じ、唯一の真実である「私は在る」に意識を集中する訓練と、それを持続する静かな熱意を通じて36歳で覚醒したと言われている。

 

覚醒とは、古来からいわれる「悟り」とも言えるかもしれない。

 

また、

 

覚醒とは、自らに目覚め、自らの本来の無限性につながることだとも言えるだろう。

 

あるいは「常にそうであったこと」に気づくことだろう。

 

これは他人事でなく、例外なく、あなたもわたしも、そうなのである。

  

 

マハラジの話は、少し間違えば、よくある宗教の世界に足を取られてしまいそうな、どこにでもあるものであるが、

 

マハラジの魂自体が既に熟しており、真っ当な出会いと、真っ当なこころと、真っ当な行為によって3年の修業によって覚醒したと言われている。

 

修行は苦行でも、瞑想でも、マントラ、読経でもなく、「わたしは在る」という今の瞬間の唯一の感覚に意識をフォーカスしたのだった。

 

現実生活のために、一般には身体に悪いと言われる煙草の行商をし、生活や家族の世話をやきながら、

 

本来誰でもこの次元世界で通るべき、覚醒・悟りの道をいともたやすく通りぬけてみせ、その見本を示したところに、まさに見事と言わざるを得ないような偉大さがあるではないか。

 

マハラジという個別化した意識は、この混濁した世界に自らを投入し、多分、大いなる援けを受けながら、予定通りに、本来の大いなる意識に立ち帰ることを、見事成し遂げたという事が言えるだろう。

  

「わたし」を探す旅は、どこか遠くに行くことでも、未来の時間に旅することでもない。

 

ましてや世界を作り変えることで見つかるものではない。

 

すべては常に、「今」あなた自身に在るのだ。

 

古来から残る珠玉の言葉、

  

「汝自身を知れ」 に対する素直な反応、

 

「わたし」は何か?

 

ここに、大いなる本来のあなたへ帰還するための扉があるのだ。

 

「あなた」は、

 

あなたという身体、思考、感情、時間・空間認識という小さな<覗き穴>から、この次元世界を観ているところの、

 

本来、大いなる無限の存在であるということに気づくだろうか。

 

わたしが「無限」である等とは、まともに考えれば、眼もくらむようなものであるが、事実は小説よりも奇なりである。

 

I am that <I am>

 

常に自らを、自らたらしめるところの存在が「あなた」である。

 

より自由でより自在なのが、もっとも容易なあなたの本来の姿であり、

 

より楽しく、より嬉しいのが、もっとも容易なあなたの本来の姿である。

 

自らの観念の縛りを、自らで吹き飛ばせ!

 

苦しみというこころのおもちゃは、もう不要なのだ。

 

恐れという身の傘も、もう要らないのだ。

 

・・・

それを自らで宣言し、それを具象化させよ。

 

人の顔色を伺うような依存心や、世間の嘘騒ぎから抜け出す時である。

 

I am that <I am>

 

他によらず、

常に自らを、

自らたらしめるところの存在が「あなた」である!

  

Photo

 

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すべては「ひとつ」という意味 (2)

2011-09-12 08:09:04 | 覚醒意識

そこに物がある、現象が起きているということは、必ず意識の働きがあるということである。

 

何事も、認めなければ現われてこないということでもある。

 

そこに何か現われているから、それが認知されるのだ・・・というのが、今までの当たり前の常識であるが、

 

これは物が先に有る、意識が物質、すなわち局在した時空によって縛られているような、いわゆる3次元的な不自由な認識なのだ。

 

その物、物質の、究極の形態を探求する量子論では、(人の)「観測」というものが素粒子の場所や運動量の在り方を決定すると言われている。

 

これは「観測」すなわち「知覚、認識」という(人の)意識的な作用によって、その観測対象が規定されるという意味であろう。

 

簡単に言えば、意識的知覚、観測することによって物の存在を確認できるという当たり前の経験的事実と繋がっているのだ。

 

すなわち、

現われる  →  観る

ではなく、

    →  現われる

が本当の有り方なのだ。

 

観る、見るとは、・・・意図し、それを意識する、あるいはフォーカスする、意識の焦点をあてる・・ことである。

 

量子論的なミクロの世界の法則、我々の身体レベルの大きさのマクロの世界では、それは通用しないだろう・・という観念があるが、それこそ物質量、空間量で物事を決めようとする「3次元的束縛」を示している。

まさに、そう決め込んでいる・・からこそそうなのだ。 

 

あなたは、既に気づいていただろうか?

 

知覚は観測を通して、物質の有り方を瞬間創造しているのだ。

 

今までは、結果を見ている・・と思っていただろう。

 

見るとは、観るであり、その作用によって、逆に結果を「現象化」しているのだ。

 

知覚・・とは受動的なものでなく、ある意味で「サイコロを振る」ような行為なのだ。

 

サイコロは振られて、その1から6の間の数字という結果を出すだろう。

 

振るまでは、何も起きてはいない。

 

観るまでは何も存在していない。

 

ここには実に、驚天動地のパラダイムシフトがあると気づけるか。

 

まずこころを希望どおりに変えよ」 という、ある意味で執拗な精神的教訓は、とんでもない事実を示している。

 

 

身の回り、社会に有るすべての物は、すべて人間が考え、知覚した範囲で造られたものであるということであり、それは人類共通の範囲の知覚・認識という意識の作用によって創出されたものである・・ということだ。

・・・

 

産業・技術に馴染んだ人々も、

 

素材となる物質、物が先に有り、それを加工して製品に仕上げていると普通に考えているはずであるが、

 

もっと根本的に言えば、

 

社会のあらゆるものは、人間の知覚・認知という「意識の働」きによって、そのものが創造されていくということなのだ。

 

これが3次元であろうと多次元であろうと、存在の根本的なあり方である。

 

意識的存在である人間は、創造者のミニチュアなのだという事である。

 

いまだそれに気づいてもいなかった「自らを忘れた・創造者」を演じていたのだ。

 

・・・・

我々の見ることのできるこの世界、あるいは地球上にあるすべての景色、それを構成している様々な物質形態は、それがたとえ大きかろうと少なかろうと、人間の意識の働きによって存在している・・ということである。

 

地球である、素(もと)の大自然は、「地球という大きな意識」の知覚作用によってそこに出現しているのであり、その地球の意識と、人間の意識が交差・共鳴することで大自然の中の人工物が生じているとも言えるだろう。

 

なぜならば、量子力学的な観点から言っても、そこに大自然という変化を続ける諸現象があることは「意識」が介在しているということであり、

 

地球にある大自然という極めて多様性のある形態は、「地球という大きな意識」の働きによると言わざるを得ないからである。

 

おとぎ話的に聞こえるかもしれないが、宇宙のなかの多くの1つであるこの地球も巨大であるが「個別化した意識」であり、

 

ガイアともいわれる巨大な意識の、自らの自己認識によって大自然が生まれ様々な生態系を創り上げつつ、調和に満ちた多様な変化を、そのガイア自体が体験しているのであり、

 

さらに高度に創造を高めるべく、人間という多くの魂を受け入れ、誘致して「共同創造」をしているという事である。

 

大勢の我々の意識と、大きなフィールドである地球の意識が交差することで様々な共同創造を行っているということが、今の我々と我々の周囲、またその集成である存在世界の真の有り方である。

 

なぜぞうなのか?

 

共同創造は、それが ただ「嬉しく」そして「楽しい」 からなのである。

・・・・

 

そこに物がある、現象が起きているということは、必ず意識の働きがあるということである。

 

我々の世界とは、大勢の人々が同じように知覚していることで、それが「共通現実」という既成事実になり変っているだけのことなのだ。

 

従って、大勢の人々のなかに在るあなたの意識が、大勢の平均的と言われる集合意識に完全に共鳴している場合は、その平均的な意識によってあなたも規定されてしまうことになるのだ。

 

もし、あなたが外からの常識や、権威という静かな指令にとらわれている間は、

 

良きにつけ悪しきにつけ、集合意識というものの描き出す「共通現実」という立体映画の中に幽閉されていることを意味している。

 

自らを自らで、今解き放つ時である。

 

<I am that I am>

 

わたしは本来何者でもなく、わたしがそう信じ込むことで、何者にもなることが出来る存在である。

 

それを理解するには、<わたし>がわたしを観察することによって、わたしの今において、一体何が創造されているのかに気付くことなのだ。

 

<あなた>はいつもころころ変化している、あなた自身に気づくはずであり、

 

そういう現象としてあなたに気づいている<あなた>に還ることになる。

 

それは宇宙意識と言われる、多を統合する一なる意識と言えるだろう。

 

どこにいようと、いつであろうと、常にそこに「道」がある。

 

この宇宙全ては、大いなる神なる、一なるもの、根源なるものが観ている意識的世界であり、その中の<一部とみえるもの>も、<全て>の現われなのだ。

 

自らの内面、想念の流れ、感情の噴出・・それらを自らで観察することができるならば、

 

その向こうに在る、現象の在り方を生みだす根源、

 

表現の土台であり、結果の源であり、多を生じる一なるもの、

 

それ、そのものである「あなた」を発見するだろう。

 

空(くう)は全てを含み、全ての可能性をそれ自体であるところの一なる在り方と言えるだろう。

 

空は1個2個でカウントできない次元のことであり、従って<ひとつ>としか言いようがない。

 

そこでは、大勢のあなたも、大勢のわたしも、

 

ただ <ひとつ> であることがわかるだろう。

 

またただ<ひとつ>は、常に瞬間瞬間<多>として現われるのだ。

  

あなたもわたし達も、その無数の「多」の1つ1つにフォーカスしているだけの、もとは「ひとつ」の わ・た・し なのである

 

 

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すべては「ひとつ」という意味 (1)

2011-09-04 09:50:29 | 覚醒意識

あなたは、「あなたは・・あなただ・・」と感じているだろう。

 

人は皆、「わたしは・・・わたしだ・・」と感じているはずだ。

 

時折忘れていても、すぐにそこには還ってこれるはずだ。

 

それは、自分自身への「意識的な気づき」である。

 

誰にでもある普遍的な 「わたし」 への気づきである。

 

 

大きくは宇宙が顕現するための、いわば神の目覚め、神の自らへの気づきと同じあり方である。

 

考えられる限り無限大のこの顕現されていると見える宇宙も、それを観る者があってこそ顕現している。

 

そうだ。

 

観察物が先ではなく、それを認知、知覚するところの「観察する意識」が先なのである。

 

意識 ~ エネルギー ~ 顕現(物質形態)  であるということ。

 

高名な宇宙物理学的思索であるビックバン理論も、素粒子論的要素を含めて、一段と高い理論に統合されることだろう。

 

宇宙は単に凝縮されたエネルギーの大爆発、あるいは爆発的時空間の拡大ではないだろう。

 

それを観るものがまず存在しなくてはならない。

 

それを観るものは・・・

 

もともと何者ないでもない存在でなければならない・・・

 

言葉では、無限・・・としか言いようがないもの。

 

一なるもの・・神・・創造主・・  言い方は何でも良いだろう。

 

そして・・もう一つだけ言わなければならないのは、

 

それは、今は遠い感があるかもしれない・・・・

 

あなた」  なのでもある!

  

 

そこに「物・対象」があっても、「知覚」が無ければ、存在は認知されない。

 

いや、「それ」が意識に浮かぶそれまでは、そこには何も存在しないのだ。

 

 

 

例えば地球人類すべてが、知らないもの、見えないもの、知覚しえないものは、その世界においては 「存在しない」 と同義である。

 

誰かが新たに発見しそれを大勢の人々が認識して初めて、その存在が明らかになる。

 

後でならば、もともとあったのに気付かなかっただけだと言うだろう。

 

しかしながらそれを認識するそれまでは、何も存在していないと同義である。

 

後になって、「あー存在していたのだった」 とは思っても、

 

それは、知覚認識された、・・後で言う事であり、

 

知覚認識されない間は、当該する対象は存在などしていないのだ。

 

あなたの世界にある無限に様々な物事も、あなたが見ようとしない限り、そこには 「存在しない」のである

 

見ようとしない状況を称して霊的に眠っていると言う。

  

しかしながら、あなたは他者を信じることで、その他者の言う事を自己で咀嚼し、同じような認識をもつことで、他者を介して、あなたには存在しなかったものを存在域に新たに持ち来たらすこともできるのだ。

 

良くも悪くも、このことが行われているのが現実ではないか?

 

洗脳もマインドコントロールもそして支配も、これをネガティブに利用しているだけなのだ。

 

しかしながら、今はもうポジティブに利用する時に至ったのだ。

 

これを集合意識の目覚め、夜明けと言ってもいいだろうか。

 

未だ暗いままだが、確実に夜は明けたのだ。

 

盲信でも依存でもない意識のスタンスにおいて、他者と信じあうことによる、知覚の拡大、認識の増大、意識レベルの拡張は、集合意識の集合意識たる所以の働きであり、なぜ人間が主に集団で生きるのかを示す本来的な意味を示すものだろう。

 

植物・動物も含め、個は個としてありながら、集合意識というあり方を通じて、飛躍的な進化、あるいは発見を促す為の基本的なあり方なのである。

現象世界での重合と離反は、無限の周波数帯域を有する、大いなる意識の波動の共鳴や反発であり、その無限の組み合わせによって様々な創造が行われる。

 

そうして全ての全てが波動として、あるいは情報として、あるいは思考や感情としても・・「ひとつ」に繋がっているのである。

 

この在り方は、高次の意識レベル、魂レベルでも同じことであり、あなたの「魂」と呼ばれる部分・・・それだけで無限の可能性を包含している、謂わば「個としての創造主」も、

 

すなわち、

転生の主体でもある、魂としての「あなた」も、更に広大な集合意識を構成しているのだ。

 

言い換えれば、

 

今の我々の個人としての生命形態、すなわち物質次元の存在形態を含む、

 

さらに高次の存在形態である「魂」のレベルにおいても、集合意識を構成していると言えるのである。

 

簡単に言えば、魂レベルでも、個々別々の様相を呈しながらも、一段と広い集合形態を有する、魂の集合意識があるということである。

 

R・モンローやヘミシンク等においては、そのいわゆる魂の集合のことを、I there  (そちらのわたし) と言っている。

  

霊的な方面からは、守護霊、スピリチュアルガイド、守護天使、魂の霊団、・・などと呼ばれている。

 

あなたの肉体存在としての個は、人類という集合意識を構成しているように、言われるところの高次元での魂も、決して単独ではないということである。

 

もっと単純に言えば、好き嫌いは別として肉体同士に多くの仲間がいるように、「魂」レベルでも、更に広大な次元範囲での仲間、或いは兄弟・姉妹がいるということである。

 

これをさらに単純に言えば、数限りない転生、前世の記憶体などは、あなたの魂レベルでの兄弟姉妹ともいえるだろう。

 

兄弟・姉妹、・・・なるほど、私たちもあなたもある場合は、男であり、また女であったわけだ。

多くの人々は、未だこの外の世界に自分の視野を縛られ、無限に繋がっている内面に気づけぬ分だけ、「自分とは何か?」というテーマを忘れている状態かもしれない。

 

あなたとは何か?

 

性急なその答えではなく、

 

・・・あなたとは何か?というテーマ自体

 

「あなた」は思いだしただろうか。

 

・・・・・

(つづく)

 

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