精神的な分野での造詣が深い人ならば、転生や生まれ変わりという現象が存在することを知っているに違いない。臨死体験や幽体離脱などのような実体験にもとづく、裏づけがある場合は、普通の人には到底言えない状態に甘んじながらも、それを当然の事実と知っている人々も多いはずである。
●生まれ変わりへは個々で見出すテーマである
生まれ変わりの記憶の断片の再現や臨死体験など、これらはあくまでも集団同時知覚などではなく、あくまでも個人的な体験事実であるわけであり、おいそれと、何時でも誰にでも再現可能なものではない。また数式や物量の測定で説明できるものではないため、それが非科学的であるという主張から、どうしたことかそれが「事実ではない」などという判断で片付けられてきたようである。せいぜいが脳内物質のイレギュラーな反応によるものである?等という、それこそ検証不可能な仮想的理由づけをして、あっさり捨て去るような促しがあるかもしれない。
そこには、世のすべてが「物質」の反応でしかないという思い込みがある?ようだが、実際まともに考えるならば、自分の理解する範囲の中にはないと言うのが当たり前だろう。知らない、分からないというのが真実なのにもかかわらず、自分で確認をしない段階で、それが存在しないなどという風潮で、漠然と人生を流れて行くのはいかがなものだろうか。気付けば数十年という時はあっという間に過ぎ去ってゆくのにもかかわらず。
●他者依存の自己先入観念を超えるべし
極端な人の場合は、観測可能ないわゆる科学的でないものは、実在ではないような不可思議な思い込み・信念があったとも考えられる。あるいは、皆がそんなこと言っていないからといって、それは存在しないなどと結論づけるのは、極めて短絡的な、ある意味での宗教的なドグマでもあるのだ。世の常識外の様々な現象に好奇心を持ち、探求するこころを萎えさせる催眠効果はいわゆる権威付け、やドグマといわれる意識的な囲いの所以である。
例えば、UFOや臨死体験、悟りや解脱を含め、様々な超常現象は我々をして新たな認識にいざなう、言わば進化の道筋にある道標でもあるだろう。未知なるものに恐怖し、安全なドグマの囲いの中で惰眠をむさぼりながら、その常識観念という折の中で汗みどろで生活に追われている我々は、いったい何をやっているのだろうか?
人間が肉体であるという観念であれば、どのようにして「肉体の」生まれ変わりがあるのだろうか。現代でいう科学的というのは、よって立つ観点自体が物質次元であり、物質次元の様々な現象は現われては消えて行くのがその本質であろう。
生まれ変わりというのは、その物質的な現象の中の、生命の自己表現の因側の連続性を言うものであり、それはまず、その因たる意識の自己確認、自己認識と体験の記憶で確認すべきことであろう。それらが大勢の意識存在の認識するものとなれば、それは公知の事実ともなるだろう。生まれ変わりなど、決して機械や測定器で測定出来るものではないのだ。
●生まれ変わりは既に事実と理解する段階
生まれ変わり、それは個々の体験と記憶で検証するテーマであり、物質・計量で測れるものでないのは明らかであろう。単なる事実を数式化して役立てるためのものでないのは明々白々である。
それなりの宗教家の言説や書籍を通じないまでも、古来から言われてきたことでもある。しかしながら、はっきりとした証拠を示すような体系付けがないために、一般観念体系に中で有意な位置を占めることはなかったのだろう。精々何かのたとえ話や教訓めいた逸話に変節されて伝わってきたのかもしれない。
●意識進化の門戸が大きく開いている現代
しかしながら、昨今は情報の氾濫の中にも、転生や生まれ変わりに関する情報がアカデミックな分野の方面からも増えてきている。ブライアン・L・ワイス著「前世療法」や福島大教授・飯田史彦の著、アメリカ臨床医学界からの生まれ変わりに関する統計、立花隆の「臨死体験」の書など等、今の時期には相当数の報告や提示が世に出てきている。多くがスピリチュアルというカテゴリーではあるものの、R・モンローの実験体験レポートや最近の坂本政道氏の書籍等、その他の様々な有象無象の出版物も含め、我々の生命の根幹に関する情報が現われて来ている。考えれば、このような時期はかつて無かったのではないだろうか。
個々の体験や記憶の報告が膨大な数集められ、発表される時代になっている。大勢の他者が認知すればそれは事実であるというのならば、そろそろ生まれ変わりも認知すべき時期に来ていると思わずばなるまい。
●転生は大いなる自己の多彩な展開のこと
今まで、この地球にあっても、悟りや解脱という意識の進化拡大を目指してきた先人や、求めよさらば与えられん、という天からの投げかけを、素直に実施して覚醒した多くの先達たちの歩いてきた細い道が、今その一時ではあるが大きく開かれているのかも知れない。あなたはこの情報の氾濫した世界にあって、その中にあるダイアモンド以上の輝きを捜し出していい時期ではないだろうか。ダイアモンド以上の輝きは自分で磨くものだろう。
また、生まれ変わりという概念は、因果やカルマという概念を含め、大いに洗濯すべきものであろう。おどろおどろしい感情の汚れや無知なるがゆえの恐怖の覆いは、もういい加減きれいさっぱりと剥ぎ取るべきものである。
我々がこの世界に生まれ、周りにある既成の価値感のみで身を固めながら、人生での様々な体験を経て、やがて年をとるに従い、呆けてゆき、そうして無意識に死んでそれで終りというような人間の生涯パターンが、あたかも自然であるなどというような世間一般の通念は、この際キッパリと捨て去る勇気が必要であろう。その為には、今在るこころの作用、意識に因らずして出来る相談ではないのだ。
●「今」は終わりのない瞬間のこと
我々の在る「今」が、「永遠」の今であることの1つの側面を現す法則が「命の生まれ変わり」という「現象」なのである。その証左がこれほどまでに一般に示されてきた時代はかつてないのではないか。過去の時代のように、求道の信念の強さや意識レベルの高い存在だけがそれに気付くという狭き門ではなくなっているようだ。今の時期、大きく門が開かれているように感じないだろうか。
●夢にも意識的になるべき
更に大きい自己というものに関する情報は、一般に言う夢などといわれている意識状態でも得られる。常識的な観念の生活を中心とした顕在意識のちょっと眠った間に湧き出すところの、内面からの情報でも得られるものだ。夢と言ってもある種の意識状態であることには間違い無い。日常の生活をしている時の、普通といわれる五感頼みの意識状態は、意識のあり方の、その単に一端でしかないことを理解する必要があろう。
普通の社会生活に対応する五感の一部を使った意識状態のみが「レギュラー」あるいは「正常」であるという観念があるものだ。
●内面にある思わぬ記憶や感情に気付く
わたし自身も夢や半覚醒意識状態から様々な情報を得てきたと感じている。到底勝手な思い入れや潜在意識のなせる技ではない部分が大いに有ることに気付いている。思いもかけぬ自分の幾多の所業や恐怖や癒しなど含め、潜在自意識のご都合主義では説明が出来ないものが出てくるものだ。まさにその方面に意識的にならなければ決して得られない内面からの知覚情報といえるものでもある。
わたしの場合は、ここで100回?前後の転生があるようであり、そのうち半分弱がなんと女性であったようである。100回となれば数千年~1万年以上の記憶だろうか。そのような記憶断片?として出て来たものの中には、近代のフランス戦線、超古代エジプト、ドイツの田舎、戦乱期・江戸時代の日本などの色々なものがあり、言うのも気後れするが、相当な修羅場もくぐっているようだ。特に、出て来る傾向が多いのは、いわゆる争い、反乱、戦いや支配に関するものも多くあり、確かにいえることは内面にあるそれらの体験・感情をどこかで認識し、癒す必要があったのかも知れないということだ。
自分の心をある程度観る事が出来ない場合は、夢も憶えている価値がないと決め付けてしまいがちであり、たまたま鮮明に憶えているものも、偶然の夢や幻視としてすぐさま忘れることが常だろう。・・あーあれは夢だったか・・、という具合である。どういう意味が含まれているのか?考えるてみるべきではないだろうか。何ごとにも無駄がないのがこの世界であると感じれば、どんな些細なことにも意識、注意を向けてしかるべきではないだろうか。
●外と同じく、内にも意識的になること
夢の啓示やインスピレーション、癒しや浄化を伴う感情に湧出、または胸騒ぎや、何か気になる執拗な感じ等も、内面での成長や気付きを促し、意識の窓を拡大させる為の、高次の自己からの切なる働きと考えていいだろう。高次の「わたし」が、ある意味、閉鎖環境に囚われている個我の「わたし」に与え続けている、力のこもった眼差しなのだ。夢や胸騒ぎ、突飛なアイデア、不可思議な感情の爆発、露出と思われるもの等も、パズルのようなアンバランスさや不透明とも感じ得るフィルターに包まれている場合がある。その包装を解きほぐす努力は、顕在意識で培った理性や感性の役目とも言えるだろう。
パズルのような夢の体験にも、様々な深遠な意味が含まれているのだ。それを分析しつなぎあわせてゆく行為もそれ自体が自己発見というプロセスだ。その努力を少なからず行うことで、前世なる記憶も断片的ながら湧き出すものだ。自己のなかにある精神的、意識的な無限性を認識理解していなければ、このような行為自体も行われることがないだろう。単なる有機物質に何が出来る?という現代社会の呪縛こそが、そのハードルであろう。
●創造は、一なるものの自己想起
自己が自己のことを観る、これは同じく「天地開闢」のことでもある。無限なる一なる根源の自己認識によって、あらゆるものが現われているのであれば、神なる一なる根源の目覚めは永遠なる今という瞬間に於ける「自己想起」といえるだろう。目覚めによってあらゆるものが光の世界に現われるのだ。一なる根源自己が、即、多なる自己を投影しているのが我々の魂というものであり、その人格表現が高次の自己と呼ばれるものであろう。我々の個我の人格・記憶はその高次の自己の中の部分にあたるものだ。
●部分は全体、全体は部分、一即多、多即一
一般的な常識観念では部分は部分でしかないと考えるのだが、一なる根源が全てであれば、部分は全体でもあるということに気付く必要があるだろう。個我の刹那に見える自己は決してローカルな部分というわけではなく、その個我の部分から全体が見えることが分かるだろうか。そのための愉しい自己発見が、意識の進化と言われている、我々の歩んでいる道のことである。
●幼年期は終った
我々は、目の前の狭い周波数帯、五感の世界に一喜一憂するだけに終始しながら、無限の今の一部を消費している幼児達であったかもしれない。
幼児のヨチヨチ歩きの危なっかしさを親身にケアした経験があるならば、よくわかるに違いない。我々はいつでもどこでも、ただ知らないだけでどれだけの存在に助けられ慈しまれていることだろう。我々が気付かない幼児を愛するような無償の愛に満ちているのがこの宇宙、いやあまたの存在界なのであろう事に察しがつくであろうか。
●あなたの個我としての「個性」は1回きり、しかしあなたは無限
今までの世間一般の観念として、「人生がたった1回切りだから素晴らしいのだ」というものである。転生など考慮せず、ただ、今生きていることに真剣に対処することが素晴らしいことであるという考えかたが、今の観念体系での最高のものかもしれない。これはある意味でまさにそのとおりであり、今回の人生の主役たる、あなたやわたし達の人格・個性・生まれた環境・地上での舞台設定、人生航路の意思決定と経過は、まさに繰り返すことの出来ない、宇宙、いや存在界全ての中でいつも唯一のものである。
しかしながらこれは生まれてこの方の人生のみを論ずる行為であり、刹那の花火のようなものなのだ。また逆にこのような一回切りの人生の生き方をする人が、この地上にどれほどいるであろうか。もしそのような生き方をしている存在がいれば、それは、まさに聖人であり覚者であろう。ところが、世間の価値基準に大騒ぎすることなく、静かな「今」を生きれば生きるほど、その生命が刹那のものではないことがわかってくるだろう。生まれ変わりなど検証どころでなく、至極当たり前のことであることに気がつくだろう。
●今の瞬間に全て包含されている
「ただ今、ここに有ること」に意識的であればあるほど「永遠」が理解されてゆくものだ。その永遠の中には、無限なる者、あなたやわたし達の魂の多様な表現があるのだ。愉しくて仕方がないがゆえの転生や生まれ変わりなのだ。不安な未来にこころを投影したり、過去の幻影や恐怖、あるいは甘い思い出に、こころが嵌っていては決して「今」の永遠を感じることは出来ない。
「今」ここには全てのものがあり、気付ける範囲が小さくとも、それをその時々で出来うる限りの真剣さをもって生きようと努めること自体の中に、「無限」というものがあることがわかるだろう。
これは物量で測れる代物ではなく、内面で気付くと言う以外に表現のしようがない。全ては自己の「内面に間違いなく感じる」ことであり、不安や憶測の入り込む余地の無い「直覚知」ともいうべきものであろう。
●こころの質的態度に注意すべし
仏陀がどのように悟ったのか?まさか機械仕掛けの量産装置のおかげだろうか。王侯貴族の生まれで、本来何不自由のない身分に生まれたからだろうか?
あるいは偉い人が言うから、そうだと信じ込むことによるのだろうか。大勢がそう信じ込めば、また繰り返し念じればそうなるのか?
すべては自己の意識の質によるものであることは、火を見るよりあきらかなことである。生まれ変わりや生命の無限を知るのは、誰かのおかげでもなく、頭から信じ込む努力によるのでなく、現実逃避の先に希望する夢物語でもなく、ただ今の生きてあることに心底気付く、こころの質的態度(意識的振動率)の中にあるものであろう。
気付く気づかないに関わらず、己の意識の質的内容によってこそ、我々は我々自身をどう在るかということを決めているのだ。常に、気付く気付かないに関わらず、自己想起、自己完結の体験の記憶群が、長い道のり、人生の軌跡を示している。生まれ変わりを理解し、知るということは、それらを包含する更に大きな自己のレベルの多様な表現に気付くということでもあるだろう。
こころ、すなわち人間としての意識作用の中に全ての可能性が湧出する。我々、すなわち肉体、こころ、根源たる魂の一体化した存在は、今、肉体やこころを静め、それを見つめる「魂」の働きに気付くべき時なのだ。
いつもあるのは「今の瞬間」なのだ。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。