気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

生まれ変わり

2009-07-27 08:35:50 | 宇宙的気付き

 精神的な分野での造詣が深い人ならば、転生や生まれ変わりという現象が存在することを知っているに違いない。臨死体験や幽体離脱などのような実体験にもとづく、裏づけがある場合は、普通の人には到底言えない状態に甘んじながらも、それを当然の事実と知っている人々も多いはずである。

●生まれ変わりへは個々で見出すテーマである

 生まれ変わりの記憶の断片の再現や臨死体験など、これらはあくまでも集団同時知覚などではなく、あくまでも個人的な体験事実であるわけであり、おいそれと、何時でも誰にでも再現可能なものではない。また数式や物量の測定で説明できるものではないため、それが非科学的であるという主張から、どうしたことかそれが「事実ではない」などという判断で片付けられてきたようである。せいぜいが脳内物質のイレギュラーな反応によるものである?等という、それこそ検証不可能な仮想的理由づけをして、あっさり捨て去るような促しがあるかもしれない。

 そこには、世のすべてが「物質」の反応でしかないという思い込みがある?ようだが、実際まともに考えるならば、自分の理解する範囲の中にはないと言うのが当たり前だろう。知らない、分からないというのが真実なのにもかかわらず、自分で確認をしない段階で、それが存在しないなどという風潮で、漠然と人生を流れて行くのはいかがなものだろうか。気付けば数十年という時はあっという間に過ぎ去ってゆくのにもかかわらず。

●他者依存の自己先入観念を超えるべし

 極端な人の場合は、観測可能ないわゆる科学的でないものは、実在ではないような不可思議な思い込み・信念があったとも考えられる。あるいは、皆がそんなこと言っていないからといって、それは存在しないなどと結論づけるのは、極めて短絡的な、ある意味での宗教的なドグマでもあるのだ。世の常識外の様々な現象に好奇心を持ち、探求するこころを萎えさせる催眠効果はいわゆる権威付け、やドグマといわれる意識的な囲いの所以である。

 例えば、UFOや臨死体験、悟りや解脱を含め、様々な超常現象は我々をして新たな認識にいざなう、言わば進化の道筋にある道標でもあるだろう。未知なるものに恐怖し、安全なドグマの囲いの中で惰眠をむさぼりながら、その常識観念という折の中で汗みどろで生活に追われている我々は、いったい何をやっているのだろうか?

 人間が肉体であるという観念であれば、どのようにして「肉体の」生まれ変わりがあるのだろうか。現代でいう科学的というのは、よって立つ観点自体が物質次元であり、物質次元の様々な現象は現われては消えて行くのがその本質であろう。

 生まれ変わりというのは、その物質的な現象の中の、生命の自己表現の因側の連続性を言うものであり、それはまず、その因たる意識の自己確認、自己認識と体験の記憶で確認すべきことであろう。それらが大勢の意識存在の認識するものとなれば、それは公知の事実ともなるだろう。生まれ変わりなど、決して機械や測定器で測定出来るものではないのだ。

●生まれ変わりは既に事実と理解する段階

 生まれ変わり、それは個々の体験と記憶で検証するテーマであり、物質・計量で測れるものでないのは明らかであろう。単なる事実を数式化して役立てるためのものでないのは明々白々である。

 それなりの宗教家の言説や書籍を通じないまでも、古来から言われてきたことでもある。しかしながら、はっきりとした証拠を示すような体系付けがないために、一般観念体系に中で有意な位置を占めることはなかったのだろう。精々何かのたとえ話や教訓めいた逸話に変節されて伝わってきたのかもしれない。

●意識進化の門戸が大きく開いている現代

 しかしながら、昨今は情報の氾濫の中にも、転生や生まれ変わりに関する情報がアカデミックな分野の方面からも増えてきている。ブライアン・L・ワイス著「前世療法」や福島大教授・飯田史彦の著、アメリカ臨床医学界からの生まれ変わりに関する統計、立花隆の「臨死体験」の書など等、今の時期には相当数の報告や提示が世に出てきている。多くがスピリチュアルというカテゴリーではあるものの、R・モンローの実験体験レポートや最近の坂本政道氏の書籍等、その他の様々な有象無象の出版物も含め、我々の生命の根幹に関する情報が現われて来ている。考えれば、このような時期はかつて無かったのではないだろうか。

 個々の体験や記憶の報告が膨大な数集められ、発表される時代になっている。大勢の他者が認知すればそれは事実であるというのならば、そろそろ生まれ変わりも認知すべき時期に来ていると思わずばなるまい

 

●転生は大いなる自己の多彩な展開のこと

 今まで、この地球にあっても、悟りや解脱という意識の進化拡大を目指してきた先人や、求めよさらば与えられん、という天からの投げかけを、素直に実施して覚醒した多くの先達たちの歩いてきた細い道が、今その一時ではあるが大きく開かれているのかも知れない。あなたはこの情報の氾濫した世界にあって、その中にあるダイアモンド以上の輝きを捜し出していい時期ではないだろうか。ダイアモンド以上の輝きは自分で磨くものだろう。

 また、生まれ変わりという概念は、因果やカルマという概念を含め、大いに洗濯すべきものであろう。おどろおどろしい感情の汚れや無知なるがゆえの恐怖の覆いは、もういい加減きれいさっぱりと剥ぎ取るべきものである。 

 我々がこの世界に生まれ、周りにある既成の価値感のみで身を固めながら、人生での様々な体験を経て、やがて年をとるに従い、呆けてゆき、そうして無意識に死んでそれで終りというような人間の生涯パターンが、あたかも自然であるなどというような世間一般の通念は、この際キッパリと捨て去る勇気が必要であろう。その為には、今在るこころの作用、意識に因らずして出来る相談ではないのだ。

●「今」は終わりのない瞬間のこと

 我々の在る「今」が、「永遠」の今であることの1つの側面を現す法則が「命の生まれ変わり」という「現象」なのである。その証左がこれほどまでに一般に示されてきた時代はかつてないのではないか。過去の時代のように、求道の信念の強さや意識レベルの高い存在だけがそれに気付くという狭き門ではなくなっているようだ。今の時期、大きく門が開かれているように感じないだろうか。

●夢にも意識的になるべき

  更に大きい自己というものに関する情報は、一般に言う夢などといわれている意識状態でも得られる。常識的な観念の生活を中心とした顕在意識のちょっと眠った間に湧き出すところの、内面からの情報でも得られるものだ。夢と言ってもある種の意識状態であることには間違い無い。日常の生活をしている時の、普通といわれる五感頼みの意識状態は、意識のあり方の、その単に一端でしかないことを理解する必要があろう。

 普通の社会生活に対応する五感の一部を使った意識状態のみが「レギュラー」あるいは「正常」であるという観念があるものだ。

●内面にある思わぬ記憶や感情に気付く

 わたし自身も夢や半覚醒意識状態から様々な情報を得てきたと感じている。到底勝手な思い入れや潜在意識のなせる技ではない部分が大いに有ることに気付いている。思いもかけぬ自分の幾多の所業や恐怖や癒しなど含め、潜在自意識のご都合主義では説明が出来ないものが出てくるものだ。まさにその方面に意識的にならなければ決して得られない内面からの知覚情報といえるものでもある。

 わたしの場合は、ここで100回?前後の転生があるようであり、そのうち半分弱がなんと女性であったようである。100回となれば数千年~1万年以上の記憶だろうか。そのような記憶断片?として出て来たものの中には、近代のフランス戦線、超古代エジプト、ドイツの田舎、戦乱期・江戸時代の日本などの色々なものがあり、言うのも気後れするが、相当な修羅場もくぐっているようだ。特に、出て来る傾向が多いのは、いわゆる争い、反乱、戦いや支配に関するものも多くあり、確かにいえることは内面にあるそれらの体験・感情をどこかで認識し、癒す必要があったのかも知れないということだ。

 自分の心をある程度観る事が出来ない場合は、夢も憶えている価値がないと決め付けてしまいがちであり、たまたま鮮明に憶えているものも、偶然の夢や幻視としてすぐさま忘れることが常だろう。・・あーあれは夢だったか・・、という具合である。どういう意味が含まれているのか?考えるてみるべきではないだろうか。何ごとにも無駄がないのがこの世界であると感じれば、どんな些細なことにも意識、注意を向けてしかるべきではないだろうか。

●外と同じく、内にも意識的になること

 夢の啓示やインスピレーション、癒しや浄化を伴う感情に湧出、または胸騒ぎや、何か気になる執拗な感じ等も、内面での成長や気付きを促し、意識の窓を拡大させる為の、高次の自己からの切なる働きと考えていいだろう。高次の「わたし」が、ある意味、閉鎖環境に囚われている個我の「わたし」に与え続けている、力のこもった眼差しなのだ。夢や胸騒ぎ、突飛なアイデア、不可思議な感情の爆発、露出と思われるもの等も、パズルのようなアンバランスさや不透明とも感じ得るフィルターに包まれている場合がある。その包装を解きほぐす努力は、顕在意識で培った理性や感性の役目とも言えるだろう。

 パズルのような夢の体験にも、様々な深遠な意味が含まれているのだ。それを分析しつなぎあわせてゆく行為もそれ自体が自己発見というプロセスだ。その努力を少なからず行うことで、前世なる記憶も断片的ながら湧き出すものだ。自己のなかにある精神的、意識的な無限性を認識理解していなければ、このような行為自体も行われることがないだろう。単なる有機物質に何が出来る?という現代社会の呪縛こそが、そのハードルであろう。

●創造は、一なるものの自己想起

 自己が自己のことを観る、これは同じく「天地開闢」のことでもある。無限なる一なる根源の自己認識によって、あらゆるものが現われているのであれば、神なる一なる根源の目覚めは永遠なる今という瞬間に於ける「自己想起」といえるだろう。目覚めによってあらゆるものが光の世界に現われるのだ。一なる根源自己が、即、多なる自己を投影しているのが我々の魂というものであり、その人格表現が高次の自己と呼ばれるものであろう。我々の個我の人格・記憶はその高次の自己の中の部分にあたるものだ。

●部分は全体、全体は部分、一即多、多即一

 一般的な常識観念では部分は部分でしかないと考えるのだが、一なる根源が全てであれば、部分は全体でもあるということに気付く必要があるだろう。個我の刹那に見える自己は決してローカルな部分というわけではなく、その個我の部分から全体が見えることが分かるだろうか。そのための愉しい自己発見が、意識の進化と言われている、我々の歩んでいる道のことである。

●幼年期は終った

 我々は、目の前の狭い周波数帯、五感の世界に一喜一憂するだけに終始しながら、無限の今の一部を消費している幼児達であったかもしれない。

 幼児のヨチヨチ歩きの危なっかしさを親身にケアした経験があるならば、よくわかるに違いない。我々はいつでもどこでも、ただ知らないだけでどれだけの存在に助けられ慈しまれていることだろう。我々が気付かない幼児を愛するような無償の愛に満ちているのがこの宇宙、いやあまたの存在界なのであろう事に察しがつくであろうか。

●あなたの個我としての「個性」は1回きり、しかしあなたは無限

 今までの世間一般の観念として、「人生がたった1回切りだから素晴らしいのだ」というものである。転生など考慮せず、ただ、今生きていることに真剣に対処することが素晴らしいことであるという考えかたが、今の観念体系での最高のものかもしれない。これはある意味でまさにそのとおりであり、今回の人生の主役たる、あなたやわたし達の人格・個性・生まれた環境・地上での舞台設定、人生航路の意思決定と経過は、まさに繰り返すことの出来ない、宇宙、いや存在界全ての中でいつも唯一のものである。

 しかしながらこれは生まれてこの方の人生のみを論ずる行為であり、刹那の花火のようなものなのだ。また逆にこのような一回切りの人生の生き方をする人が、この地上にどれほどいるであろうか。もしそのような生き方をしている存在がいれば、それは、まさに聖人であり覚者であろう。ところが、世間の価値基準に大騒ぎすることなく、静かな「今」を生きれば生きるほど、その生命が刹那のものではないことがわかってくるだろう。生まれ変わりなど検証どころでなく、至極当たり前のことであることに気がつくだろう。

●今の瞬間に全て包含されている

 「ただ今、ここに有ること」に意識的であればあるほど「永遠」が理解されてゆくものだ。その永遠の中には、無限なる者、あなたやわたし達の魂の多様な表現があるのだ。愉しくて仕方がないがゆえの転生や生まれ変わりなのだ。不安な未来にこころを投影したり、過去の幻影や恐怖、あるいは甘い思い出に、こころが嵌っていては決して「今」の永遠を感じることは出来ない。

 「今」ここには全てのものがあり、気付ける範囲が小さくとも、それをその時々で出来うる限りの真剣さをもって生きようと努めること自体の中に、「無限」というものがあることがわかるだろう。

 これは物量で測れる代物ではなく、内面で気付くと言う以外に表現のしようがない。全ては自己の「内面に間違いなく感じる」ことであり、不安や憶測の入り込む余地の無い「直覚知」ともいうべきものであろう。

●こころの質的態度に注意すべし

 仏陀がどのように悟ったのか?まさか機械仕掛けの量産装置のおかげだろうか。王侯貴族の生まれで、本来何不自由のない身分に生まれたからだろうか?

 あるいは偉い人が言うから、そうだと信じ込むことによるのだろうか。大勢がそう信じ込めば、また繰り返し念じればそうなるのか?

 すべては自己の意識の質によるものであることは、火を見るよりあきらかなことである。生まれ変わりや生命の無限を知るのは、誰かのおかげでもなく、頭から信じ込む努力によるのでなく、現実逃避の先に希望する夢物語でもなく、ただ今の生きてあることに心底気付く、こころの質的態度(意識的振動率)の中にあるものであろう。

 気付く気づかないに関わらず、己の意識の質的内容によってこそ、我々は我々自身をどう在るかということを決めているのだ。常に、気付く気付かないに関わらず、自己想起、自己完結の体験の記憶群が、長い道のり、人生の軌跡を示している。生まれ変わりを理解し、知るということは、それらを包含する更に大きな自己のレベルの多様な表現に気付くということでもあるだろう。

 こころ、すなわち人間としての意識作用の中に全ての可能性が湧出する。我々、すなわち肉体、こころ、根源たる魂の一体化した存在は、今、肉体やこころを静め、それを見つめる「魂」の働きに気付くべき時なのだ。

いつもあるのは「今の瞬間」なのだ。

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。


内観の重要性

2009-07-19 13:13:36 | 心の科学分野

 このブログでは、盛んに自己観想、内観の記事が出てくる。どうしてそんなに自己を観ること、自己の意識を客観視する行為が重要なんだろうかと思うかもしれない。単に精神の修養だろうか、と考えるかもしれない。また、精神の修養であれば、それは物質環境が整って、余裕が出来てからでも良いのではないか?と考える節もあるだろうか。

●外と内はつながっている

 しかしながら今の時期ほど内面の無限性に気付くべき時はないとも言えるのだ。1つの外宇宙が無限に見えるのは、内面に無限があるからなのだ、外に見えるものは必ず内にもある。我々と世界の関係は、あたかもメビウスの帯のごとく、内と外が繋がった1つのものといえるだろう。

180pxmc3b6bius_strip180pxkleinbottle01 ( ウイキペディアより)

 

 この内と外の相関性に関して比喩的に説明できるものとして、波動の共鳴という概念がある。科学的に?言えば「位相共役」というものである。位相共役とは、進んでいるまったく同じ「波」が、その方向が全く逆の関係にあることを示す。右から進む波と、左から来る波が同じであれば、出会うところで重畳され、そこで相互に共振する新たな定在波が生成される

●知覚とは波動の共鳴

 通常は、我々は外の世界を知覚していると思っているわけであり、すなわち肉体にある五感というセンサーで、光や音や振動という波動を受けて感じていると思っているのであるが、これは片手落ちというものであり、逆に、我々の内面を通して五感を含む全知覚の窓から正反対の波動を送り出しているということなのだ。すなわち、我々は、外の世界からの刺激情報を一方的に受けている受身の存在ということではなく、内面(こころ)からの波動と外面(環境)からの波動を「共鳴」させているという仕組みを言っているのだ。

 例えば、コウモリ、イルカ、クジラなどが超音波を発して身近な物体の位置などを認識してるのは、受信のためにまず発信をしていることによる。船や飛行機がレーダー波を発信して、その反射、干渉波を受信しているのと同じ理屈である。

 またラジオ受信機と言えども、受ける電波と同じ波長の振動が機器内部になければ、それを同調・受信することは出来ない。これは、例えば脳による刺激感受であっても、その受信者たる人間は、入射してくる波と「位相共役」な仮想信号を作り出さなければならないということでもある。

 知覚の全ては波動間の共鳴といっても良いかもしれない。大切なのは、我々が内面に波動をもっていなければ、外と見える世界の何も知覚出来ないという新たな気付きと言えるだろう。

 ビスケー湾に現われた西洋の帆船を、原住民が一切見えなかったと伝わる話も、また、催眠術師の暗示によって、特定の人や対象が見えなくなる不可思議な現象も、ある意味理解可能と言えるだろう。

 外の世界を知覚しているということは、知覚を通して外と内が一体である有様のことであり、外と内が実は一体である証拠でもあるだろう。もっと根本的に言えば、五感を含む全ての知覚作用は、根源から現われた大いなる意思の表現する世界を「意識する」ことであり、人間の役目はそれを無限にある各自各自の方向から観察することではないかと思われる。観察とは静謐の中にあるダイナミックな創造へのありのままの共感のことだ

 

●外と内の狭間にある鏡:自我意識

 比喩でいえば、外の世界と内なる世界との間の「鏡」が、我々の自我といえる。鏡を見ながら化粧するのはおなじみの行為であり、鏡のこちら側、あなたや私たちの意識のある方を変えると、鏡に映る像も変わるのは日常の経験である。それは単に化粧直しや整髪のことではない。身体をもってこの世界にいるというあり方そのものが、外面(世界)と内面(意識)の相互のあり方を明示していることに気付くべきだろう。極めて単純なことの中にこそ真理が示されている。

我々は決してこの世界に取り残された、数十億の哀れな魂の孤児達ではではないのだ。

「外」は常に「内」なるものの、丁度そのとおりの表現であればこそ、どこにどうして孤独や分裂があるものだろうか。いいや実は、それは有りもしない幻想であったのだ。単に自ずから描くべきこころのカンバスが空虚であっただけのことだろう。外に叫ぶ必要などなかったという事が真に気付く時が今訪れている。

13叫び」 ムンク作 1898

●片手落ちの世界観

 我々は今、光と物質に溢れた世界にあり、物質のその硬そうな形態をいかに変化・加工させるかに腐心してきたようである。物質文明はまさにそのように進捗してきたものだろう。外にのみその「対象」が在るという観念は、まさに当たり前のようにわかり易いものであり、そうであるがゆえにこそ、我々自身は、その物質世界の片隅に在る、ひ弱な肉体人間であると無意識に結論付けてきたのだろうか。

 また唯心論的宗教ドグマも、外なる神なる者を対象にしてきたきらいもあるかもしれない。唯物論的世界観も、唯心論的世界観も、どちらも片手落ちであろう。外の美しい物質世界も外の神なる完全なる者も同じことではないだろうか。 自己(内面・意識)と 世界(形態・表れ) との共鳴が見受けられないとも感じられる。

 全てが大いなる根源の内観によるものとしても、今我々人類が精一杯の世界観を持つとすれば、このような内と外の調和と共感ではないだろうか。今ようやく量子物理の世界を経由して、このような自他一体的な観点を見出し始めているようだ。

 こころの復権とは、こころだけに偏ることではなく、それを現し続ける周りの世界へも最大限の愛と敬意と感謝を表明することではないだろうか。

 

●用意された環境・物質世界

 地球の提供する物質環境、外の世界、ある意味御膳立てされたこの世界のおかげで、人類は泣き笑いしながらも様々に学ぶことが出来たわけである。しかしながら、一体全体このような、内面を映しだすところのわかり易い物質世界・外の世界が用意されていること自体に、どうして気付かずにいたのであろうか。まさに当たり前の中にこそ奇跡はあると言うことだ。

 三次元的物質偏重観念により、どうしようもないと感じる世界を、健気にそれでも力づくで変えようとする者と、それをボンヤリ見ている者に分かれてきたのかもしれない。またその本質を理解する覚者も少なからずいたことを忘れてはならないだろう。

●なぜここに我々がいるのか?

 しかしながら、それは既に答えが伝えられている。それは様々な変質を経ながらも人類のハイレベルな記憶や教訓として語り継がれてきた。仏陀、イェショア、・・・・、その他大勢の覚者たちの珠玉の言葉は、延々と、かつ静かに歴史にあり続けてきたのだが、我々、普通と言われる人間達は、その静かな言葉に意識を向けず、その他大勢の顔色を見ることを選び、有りもしない作られた平均的な観念に安住し、心地よい眠りの中に自らを没入して来ただけのことだろう。

「汝自身を知れ」

なるほど、この真の意味を少しづつ知ってゆくという事は、なんという驚愕の学びなのだろうか。

 

●外の世界:鏡の前に、いつもいた私たち

 外の世界にうごめく、自己の希望とすれ違う様々な諸現象に遭遇することで、それから逃れるべく、鏡の前で眠ることを選んでいたのかもしれない。他生に渡るカルマや転生はその為にこそ用意された辛抱強い仕組みといっていいだろう。カルマ・転生、それは自分が様々な夢の体験から目覚めるまで、辛抱強く待ち続ける「自分」のためのものといえる。

●外界は我々の衣服のようなもの

 外の世界は、あなたや私たちの内面の反映であることを知るためには、内面を観ずして出来る相談ではないのは明らかではないか。外の世界は単独にまた偶然にあるわけではなく、あなたや私たちの教材の為にある。

 我々はこの世界を、それぞれで多少異なる衣服として着ている同士ようなものであろう。各自の世界は各自の視座から見える別々の角度をもっているが、人類の魂レベルでの無意識の同意に基づいて、この地球というある意味で共役な、時空生命学園を構成している。

 しっかりと確実にあなたや私たちの意識の拡大と進化、深化にピッタリとした衣服を提供しているのだ。我々の衣服は肉体ではなく、我々を取り巻いているように見える世界のことだ。

 

●内面にて創造するための学び

 一説によると、我々が肉体を去った後に赴く高次元世界、霊界は、様々にある学びの場への中継地とも言われている。そこではそれぞれの魂の表現レベルを調律し、思いや感情がどれだけ鍛えられ進化したかを自己観想するようである。我々は忘却というルールをもって何度も行き来しているものであるが、高次元意識体であればこそ、自己のツールである意識の使い方の進化レベルをしっかり把握し、更なる体験と気付きをすべく再び下生するか、数多ある生命学園に進級するか自己裁量で決めるようである。

 また更に高次といわれる数多の異なる時空世界では、意識の作用・こころの思いがすぐさま形態化する世界のようである。それはあたかも熟練した画家が短時間に絵を描きあげるようなものだ。絵も作文もこころが創るものであることは誰も知っているだろう。カンバス、筆、鉛筆、原稿用紙が描くものではない。ましてや肉体、頭脳自体が人生創作の因ではあり得ない。

 我々の核である魂の様々な人格表現、それが高次元意識体であっても、これで十分と言うことはなく、それは、今この根源から湧き出し続けるところの宇宙が、永遠ともいえる輝きをもっていつもいつもそこに見えることでも理解可能だろう。

 

●愛を気付かせる地球フィールドに感謝すべし

 我々の学ぶべきことは、多分に、この世界が「愛」で遍満した形態世界であることに気づくことであり、そのためには、同時に、あなたや私たちの内面に「愛」を発見してゆくことが必須だろう。

 その為にこそ、自己の意識作用、こころの働き、思考、感情を観察し、その時々で出来うる限りの純粋で、強力で、美しい「愛」と「理解」を、内面に創り上げる必要があるのだ。愛は内面同士の共鳴を外に現したものであり、共感であり、その共鳴波動は新たな別の波動となる。自他一体とは、それぞれ別でありながら、愛で一なるものに統合・調和される新たな創造だろうか。

 地球はそのための学びの場を提供している、愛と理解に満ちた巨大な「意識」なのだ。それが口でもの言わずとも理解すべきことだ。我々の周りに様々な物や事があるのは「」の賜物である。すでにある愛に気付くには、飛び跳ねるこころを静めることがまず肝要であろう。こころという意識波動自体に自己投入せず、そのこころを観察しながら、それを創る者として、遥かに見晴らしのよい視座に、本来から居続けてきたことに気付くべきときではないだろうか。

意識の変容は、まさにそのようになされることだろう。

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


こころの大掃除・自己観想

2009-07-12 09:39:58 | 心の科学分野

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われわれのこころすなわち、思いと感情あるいは想念は、われわれ人間存在にとってもっとも重要な属性であるのは明らかだろう。身に着ける衣服は汚れるたびに洗濯するだろうし、体の汚れはそれこそ毎日のように、シャワーやお風呂で流している。

 それなのに何故、その衣服や肉体より極めて「わたし」に近い、こころ・想念の洗濯はおざなりにしているのだろうか。眼に見える物は劣化し汚れるのがわかるけれど、眼に見えないため、また自己の傍にあるため、そのこころの作用の調律の必要性、それ自体を意識していないせいなのかもしれない。毎日の生活の体験や、それらに対する思いや感情でもって経験知を重ね、それぞれに人生の意味を見出している身でありながら、どうして根本的な自分の思いや感情・想念自体に注意を払わないのだろうか。

 われわれが他の動物でなく、人として生きて在ることの特性は、実に、この想念にあるといって過言でもないが、どうして自分の思いや想念に殊更気付かないのであろうか。因である思いや感情が行為や行動を促し、その集大成であるわれわれの人生を形づくっているのというのにもかかわらず、何故か気付くことを忌避しているようだ。それとも、自己がどこか遠くにあり、面倒な自己に向き合う代わりの、別の何かを探しているのだろうか。

 我々の多くは、自己という存在の、外側からやってくるように見える、不本意なハプニング、他人の命令、脅し、促しや集団規律、そのようなものが、自分達の人生を決めざるを得ないだろう・・?という、漠然とした、ある意味で弱みをあげつらい、多くの人々の間の、架空の相互依存で構成された集団信念体系をに没していると考えても良いだろうか。

 自分という存在のあり方を枠付けするのは、なんと、自分ではなく、すべては外からの、あるいは環境からの働きゆえのものである・・というような、不明確な自己認識に陥って、眠っていると考えていいだろうか。それはまた、極めて単純な唯物史観やプラグマティズムの賜物だろうか。それに気付く機会を毎瞬毎瞬持ちながら、皆が皆眠っているお互いを見て安心し、再びまどろみの中で眠ることを繰り返して来たのかもしれない。それは恐怖を反面教師にした、一時の仮の惰眠でしかないにもかかわらず。

 

 外から規制される自己の人生?という不本意な信念をもっていれば、何がやって来るかわからない不安定な外側の世界や社会からいかに身を守るか?いかに有利にもってゆくか?いかに逃げるか?というような、こころの態度を持つことになるのは、火を見るより明らかではないだろうか。その根底に在るのは「恐怖」である。何が出てくるか?、なにが自分の身に及んでくるか?わからない不安な状況は、あたかも、わけのわからぬ幽霊の話を聞いて怖がることと同じことだ。その不安は「好奇心」や、いわゆる「ワクワク」とは正反対の、いわば戦々恐々というものであろうか。我々は、いつの間にか、重くて疲れる、こころのゲシュタルトを身に着けているということかも知れない。

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ホドラー作:生に疲れた人々1892)

  

 このようなこころのパターンをもった我々の有様が、例えでいう子羊の群れであり、ハーメルンの笛吹き男についてゆく子供達のたとえであり、揺りかごで何世にも渡って眠れる人々であるといえるだろう。

 物質偏重の観念世界においては、巨大な物量に比べて肉体はか弱く、個々の人々は相互に理解不能であり、人生の一寸先は闇の中でありそうだ。自分がまさにそのような、ある意味恐るべき環境に生存していると感じ続けてきたのかもしれない。そのための戦いであり競争であったのだろう。

 そういう観念に縛られていること自体、まさにいわゆる三次元意識形態とも言えるだろう。縦・横・高さで測定、カウントされ、1g10kgで計量される世界の中に、どっぷりとはめ込まれている肉体人間、またそれ自体にも気付かぬ<意識存在>を、いわば三次元意識体と言っても過言ではあるまい。

 そのような三次元意識とは、われわれの意識、こころのあり方が、それが実は三次元であると理解していないが故のものであることは、誠にパラドキシカルではあるかもしれないが、まさに自己意識で創造し続ける、大いなる根源の意識作用であることに間違いはない。汝が信じるごとく汝になる・・という法則は破れそうもない。

 今我々のいる人類世界の不浄部分といわれるもの、一部の物量渦巻く過酷な世界は、まさにそのような自己不信の「恐怖」を集めて創り上げたものかも知れない。肉体を維持・繁栄させるという「種」としてのあり方にのみ、おのれの意識を投影・偏重させた故のものであり、現れては消えて行く現象世界に浸りこんだ意識ゆえのものなのだ。

 われわれの属性である思考や感情・想念は、如何様にも創り上げることが出来るのは誰にも理解が可能であろう。空想、妄想も含め、完全なる自由度を有すのは、この人間に与えられているところの、意識の働きなのであろうことは察しがつくに違いない。

 世間で半ば冗談で言われるテレパシーや念動、不可思議な時空内での現象の一致(シンクロニシティ)、体脱意識経験、臨死体験のような、物質偏重のこの三次元を超える現象は、われわれの意識が第一義的なものであることをほのめかしているのだが、あくまでも物量・計量での検証にこだわり続けるこころの覆いによって、くすんだ光にしか見えないのだろうか。 

 体験し、分析し、経験を集積して、そこに法則を見出す行為は、なにも物質・計量のみに当てはまるものではない。意識、想念という三次元を超えた存在のあり方は、1g10kg、300mという計測・計量を超えているだけのことである。あの、シャイロックの肉片を計るような契約という縛り、物量観念体系に、いつまで浸っているべきなのだろうか。残念ながらその観念体系は、もう終わりを迎えている。

 人間の毎瞬毎瞬抱き、発し続ける想念は、確実にわれわれの「現実体験」にフィードバックされていることに気付くには、間違いなくその想念、思い、感情を観る必要があるのだ。そのものを観察出来ずして、そのものの理解も統御も不可能であろう。

 

われわれの観察すべきものは内面にあることに気付く段階なのだ。外面をこれ以上理解しようとすれば、内面を観る必要がある。他人を理解しようとすれば、まず自分を理解すべきであるように。

 

 自分の思いを観ることは「内観」と言われる。またそれは具体的な表現をすれば「想念観察」ともいい、また自己観想とも言われる。一時、五感の刺激をさける時間をもち、おのれのこころの様々な動き、その千変万化する有様を見ることが出来るようになることは、まさに禅の目的でもある。変幻自在の意識の織り成す万華鏡のパターンが、変換されて気付かない間に、あなたや私たちの世界に投影されていることに気付くまでは、心底次の言葉に気付くことはないのかも知れない。

  

汝(なんじ)ら、汝自身を知れ。

汝が信じるごとく汝になる。

 

 古来からの言い伝えや、聖典と言うものに共通する宇宙開闢のパターンは、神なるものの自己観想ということであろう。根源神はおのれの無限さを知ろうとし続けることで、今われわれもこうして生きてあることは、実にシンプルな存在証明ではないか。

 根源はいまだかつて眠っていたこと等ないのだ。宇宙開闢の<前の>段階はあり得ないであろう。今がいつもその時というのはまさにそうであり、覚醒自体が今であるからには、創造主の覚醒自体に「過去」も「未来」もあり得ないことが直覚できるかもしれない。

 今展開し続ける諸次元宇宙といえども、また、様々な世界を包み込む時間や空間といえども、それは相対的な現象の1幕であり、今の瞬間に、まさにいわゆる三千世界が花開いているといえるだろう。

 

根源たる存在は、常に「今」生きて在り、おのれの無限を嬉しく楽しく現し続けていることであり、それは、そう、今、あなたや私たちがここに在るということで、既に十二分に示されているではないだろうか。

 

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本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠に、ありがとうございました。


バシャール語録の感想文

2009-07-04 14:17:14 | 宇宙的気付き

 今回の記事は一風変わった趣向です。いつもながら気楽にお読み頂ければと思います。

 「精神世界の鉄人」さんのサイトに<バシャール語録>のピックアップがありました。勝手ながら一部採用させて頂き(笑)、ちょっとその「感想」なるものを記事にしたいと思います。

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  時間は過去から未来へ流れているように見えますが、永遠の「今」の中に時間はあり、「今」の揺らぎによって過去や未来も現れるものでしょう。過去も未来も、あなたもわたし達も、今の中に在るのが真実といえるのです。

 また大いなるもの、永遠の一なるものの、いわばその無限から派生した光が人間存在であり、今はなかなか気付かないとしても、その大いなるものの視線は、まさに貴方の視線でもあるものでしょう。全ての生命・意識は根源からの多彩な派生でありながら、根源その者であることは変わりがないのです。あなたの意識の中に大いなるものの意識もあると言えるでしょう。

 古来からの教えや禅問答などでもうかがえる、「一即多」とはまさにそのようなことを言い表したものであり、「多即一」とはまさにそのようなことを表現したものでしょう。

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(変わった解釈かも知れないでしょうが、下記のような仏教画の中にも、無限に続く生命と個性の表現がなされているのでしょうか。仏様の階層などと言うよりは、永遠の一なるものから咲き出でたる無限の自己たちの織り成す世界を表現しているのではないかとも思えます。)

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 直覚知を得ることが出来るような言葉は古くからも伝わっており、このような言葉の奏でる波長の向こうには、漠然としながらも、また、はっきりとした我々の生存原理・創造原理の輪郭が見えるものです。

 今ここに在る我々は、その無限ともいえる生命の表現である「多」の中の、たった1つの自己のみに、意識を集中しているだけの事であり、「多」という無限小の「個我」の殻の中に、自らの意識をわざわざ「閉じて」いる経験をしているだけに過ぎないのです。個我という有限の肉体という殻に、「おのれ自身を同化」している経験をしたいがゆえのことでしょう。

 人々の間の悲しみも、苦しみも、憎しみも、葛藤も、有限の個我という、ひ弱な、割れ易い「殻」と「殻」同士の摩擦といえるでしょう。 「殻」を仮想で創り上げるのは、逆に殻同士の摩擦を回避する為の方便でもあります。そのきっかけを作り出す思いは、何かが「怖い?」からこそであり、そのためにこそ、個我という「殻」に閉じこもるようになるものです。

 しかしながら、怖い・怖いと思うその対象は何なのでしょうか?よくよく考えれば、「怖い」という観念自体の仕業であることがもう誰にもわかるでしょう。ましてや、この自然界が恐怖等で成立っているわけがないことに気付くはずなのです。

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 精神世界では有名と思われる、バシャールという最近のチャネリング情報というものに対しても、それを見聞きする自分達の方に、どこか偏った思いが混在するかもしれません。一般的には、何かの宇宙人の?チャネリング??・・などというイメージがあるかもしれませんが、よくよく見てみると、なんだか古くからある普遍的な言葉のようにも感じるのです。

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(一部余計な個人的な感想文を付加してしまいましたが、精神世界の鉄人さんのサイト<バシャール語録>からの抜粋です。赤字の部分。

●私は、あなた達の未来の姿である。

 (感想)

 直線的な時間軸の先の未来に生まれ変わる予定の存在・・という意味ではなく、今ある別のあなたのことでもあり、理解と意識の拡大した大きな存在である(未来の)あなたは、すなわち今のあなたでもある・・ということでしょうか。

●愛の反対語は憎しみではなく罪悪感である。

 (感想)

 憎しみは相手に執着している負の有様であり、愛の反対でなく、愛の変形のようなもの。罪悪感は自己の中に閉じこもるものであり、与える・発散する愛とは、まさに反対方向の意識であるのかも知れません。

●宇宙船のうちいくつかは、地球の過去や未来の文明からやってくる。

 (感想)

 時間軸が直線的であると考えていれば、これは理解不能です。時間が例えば本のページを捲るようなものであれば、どのページを読んだあとでも、ページの前に戻ったり、後のページをめくったりする事も出来るでしょう。時間送りは、ノートに絵を描いて、指でぱらぱらめくって漫画にするようなものかも知れません。

●あなたが「現実」と思っているものは「夢」であって、あなたが「夢」と言っているものが「現実」である。

 (感想)

 実際に普段から、夢に関して注意深くある人は、夢の中でこれが夢だとわかるようになりますが、夢はあやふやないい加減なものだと考えていれば、それが夢だとは気付きません。

 そのときは夢だなどとは露も思わず、それが証拠に、怖い夢なら汗かいて必死に逃げてしまい、あーっと目が覚めるようなものです。今在るこの次元世界?は、より高次な存在であるあなたが「体験」しているものであるならば、その高次の世界から投射した・・現世という夢を体験しているともいえるでしょうか。夢であっても、それがリアル(現実的)であるからこそ必死になるものです。

●もともと地球にいた人間はひとりもいない。

 (感想)

 これはそうでしょうね。地球の出現前に人類などいないのは常識です。これは、ある意味では、人間存在全てが、めぐりくる機会の中で、この地球という時空を探索経験している普遍的生命という意味もあるでしょうか。

●人間は徐々に眠る必要がなくなる。

 (感想)

 睡眠は身体の休息と同時に、毎日行なわれる、意識の本来の魂のレベルへの回帰(休息)とも考えられます。現世と言われる世界が、上位次元になってゆくにつれ?身体構成自体が、いわゆる物質的なレベルを希薄化させてゆくのであれば、肉体的葛藤による疲れ等も少なくなるかもしれません。

●すべての感情は、固定観念の単なる反応だ。

 (感想)

 確かに言えるのは大体において、何かの記憶がなければ、それを元にした感慨もないものです。特異な感情、怒り、悲しみ等は、「こう在るべきだ!」という、記憶を元にした固定観念から「逸脱した」と・・感じる体験に対する反応であるのはそのとおりかもしれません。また逆に、感動や感激は、「こんなこともあるのか!」という古い固定観念を超える感情ともいえます

●カルマはすべて幻想である。

 (感想)

 カルマは因果応報などとも言われるものでしょうが、自己生まれ変わり経験での他生にわたる「軌道修正」のような仕組みでもあり、決して因果を含めるような、重くのしかかる実体ではない、ということでしょう。カルマはすなわち学びの仕組みということです。

●過去世も来世もない。あるのは「現在」だけ。

 (感想)

 確かにそのとおり、誰しも今の瞬間しか体験してはいません。過去は記憶であり、未来は予想であり、双方の概念とも「今」あるものであることは間違いないところです。

●リニアな「時間」は、人間が創り出している幻想にすぎない。

 (感想)

 過去から未来に流れる直線状の時間は、原子時計の規則正しい振動でイメージされているだけのことであり、時間の本質=原子時計の振動率・・と言っている分けではないのです。1秒・1分・1時間は、人類集合意識の便利な約束事であると考えて良いかもしれません。また、ある意味で拘束されてもいる枠組みとも言えます。

地球には、2つの惑星外文明がある。ひとつは人類、そしてもうひとつはイルカ。

 (感想)

 確かにイルカが高等知能をもっていることは科学的にも言われています。海にいて、かつ我々と姿かたちや意思伝達の方法が違うこと、物質文明をもっていないだけのことかもしれません。

●ひとりの人間は、多くの宇宙文明で、同時に複数の人生を生きている。

 (感想)

 これはバシャール自体が言っていることであり、未来や過去というバラエティーな表現のなかにある、様々な別な「わたし」がいるのでしょう。大いなる「一」が根本であれば、それから派生した様々な自己があり、それぞれが「自己」だと思っているならば、まさにそのとおりでしょうか。無限に在る自己は、全く異なる1つの自己・・眼がまわるような真実と思われます。

●「怖れ」とは、信頼の欠如である。

 (感想)

 よく考えればそのとおりです。今いる自分の家(自然・宇宙)で怖がっているのは、家(自然・宇宙)を信頼できない「不安なこころ」のせいでしょうか。

●「死」とは、ひとつの部屋から、もうひとつの部屋へ移る、という程度の体験である。

 (感想)

 死は単に転換であり、移行であり、魂であるわたしのフォーカスする先を変えるようなものです。生と死の前後がわからない状態では、何が何だかわからない為怖いものです。自分の今の周りだけに、自分の意識のスポットライトを当てているだけのこと、まさに前後不覚でありそうです。肉体感覚中心に「意識」を集中しているだけのことです。

 それでも単に表面意識では知らないだけのことでしょう。

●この世に退屈なことは存在しない。退屈な「人」がいるだけだ。

 (感想)

 よくわかる普遍的な人生訓のようです。

●パラドックスが現れた時、そこに真実がある。

 (感想)

 何かの変化、未知なるものが現われた時は、新たなる真実の門前にいるようなものだと言っているのでしょう。

●「豊かさ」とは、自分がやりたいことを、やりたいときにできる才能をいう。   

 (感想)

 確かに、物質は消えてなくなるものであり、真の豊かさとは、何時でも作り出せる能力・機能のほうでしょう。

●否定的なものが困難を生み出すのではない。否定的なものを否定するとき困難が生まれる。

 (感想)  案ずるより生むが易し。でしょうか。

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(以下感想は省略します。)

●真の共感とは、静けさの中に存在する。

●どんな状況も中立であり、それ自体に意味はない。

●子どもの「概念」は、親からテレパシーで受け継がれる。

●人類のもっとも特徴ある感情は「怖れ」であり、もっとも大きな怖れは「自己否定」である。

●無限の創造は意味のないものを創らない。よって価値のない人間は存在しない。

●あなたが「与えた」ものが、あなたが「得る」ものである。

●「願望」という炉の中で「感情」が火となって燃え、この次元に実現される。

● 疲れるのは、常に、自分以外の人間になろうとしているときである。

●自分の個性を100%発揮したとき、全体とひとつになれる。

●肉体の中に意識があるのではない。肉体が意識の中にあるのだ。

●混乱や困難を生み出すのは、常に「期待」である。

●3次元の中に存在するものすべては、あなたの意識が創りあげたものである。

●「見るもの」と「見られるもの」の中間に、真実は存在する。

●宇宙に生物を探しにいくとき、実はすでに自分の家の裏庭に一匹は居るのだ。

●忍耐とは、いま自分に起きている以外のものが来るのを待っている時に起こる。

●自分の中に力を感じられないとき、人は「怒る」。

●奇跡とは、自然なことが自然に、しかも瞬間的に起こることをいう。

●人に最大限に与える方法は、その人に与えさせてあげることである。

●あなたの意識の中の定義づけを変えたとき、「世界」は瞬間的に変わる。

●あなたが一番ワクワクするものを行動に移すとき、望む現実を起こすことができる。

●怖れとは、否定的な現実を「選択」することである。

●人生を本当にコントロールできている状態とは、まったく努力の不要な状態である。

●自分自身を無条件に愛せるようになったときはじめて、異星人と公的コンタクトが始まる。

●科学者が「意識」を方程式に組み入れたとき、現代の物理学は飛躍的に進歩する。

●私たちの未来も過去も、一切、確定していない。

●人間は「なにもしていない」と感じているときも、実際はなにかを創造している。

●過去世や来世をすべて思い出すたったひとつの方法は、いまこの人生を100%生きることである。

●あなたがあなた自身でいるとき、宇宙は、一番楽にあなたをサポートできる。

●肉体をもって生まれたのには「理由」があり、それには重要な意義がある。

●人間は、ひとつの意識から成り立っており、無意識は存在しない。

●エゴは物理次元の構造の中にのみ、存在する。

●私たちは日常的に、テレポテーションを行っている。

●私たちが想像できるものはすべて、受け取る価値があるものばかりである。

●誰かがなにかを必要なとき、必ず、それをもたらす人も同時に存在する。

●どんな状況からも、肯定的な結果を得ることができる。

●みずから「世の中、そんなもんさ」と答えるのは、自分に仕掛けた油断ならぬワナである。

●人は、他人は、過去の産物ではなく、いまこの瞬間の選択の結果である。

●「現実」は、過去の産物ではなく、いまこの瞬間の選択の結果である。


●どんな人の人生の中にも「失敗」は、一切、存在しない

(以上抜粋終了。)

こう見てゆくと、ダリル・アンカさんのチャネリングによるバシャールなる存在は、かなり身近な人間味あふれる存在でもあると感じてしまいます。古来からある、こころ、精神の方向性の真髄に、少し宇宙的なニュアンスが加味されているような感じですが、まさに21世紀を超えた今の時代に相応しい真実のメッセージかもしれません。

無一物中無尽蔵  (むいちぶつちゅうむじんぞう)

一切唯心造  (いっさいゆいしんぞう)

分かってしまった既成の概念にどっぷりと安住することなく、逆に、分かったような、分からないような、そんな未知なるものの中にこそ、常に探求すべき道があるのではないでしょうか。

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことにありがとうございました