気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(28)転生の話と保存則

2021-11-27 05:52:33 | 語り部の章

『転生』とは、生まれ変わりのことであり、

「転」という言葉にはころぶ、回る、サイクル・・の意味が含まれている。

 

そう、転生は、繰り返し生まれ変わるという意味で良いだろう。

あなたもまた今回生まれて、いまここ、そこにいる。

今生きている・・存在している・・そのことに気付いている。

だからそれ、今生きていることを知っている。

・・・

これが1回ぽっきりだという言葉が、特に現代社会、

この地球世界で”流行って”いて、それが当たり前だと信じられている。

人生1回きりだ・・から大切なのだ・・という美しい話を良く聞くだろう。

「今が大切なのだ!」・・という想いが含まれているために、

ちょっとした感動を伴って受け入れられている。

しかしながら、これは尤もらしい「騙し」と言ってもいい。

 

生きることが・・1回ぽっきりだと・・誰が決めたのか?

科学の法則で証明されたのか?

いいや、誰も証明なんかしていない。

いつも、責任者は・・・どこにもいない。

責任者は・・永遠に・・それぞれ・わたし・・以外にないからだ。

 

ただ我々が観察して、事実だと認識しているのは他者の「肉体」の生誕と死滅の現象なのである。

死とは、他者の肉体、あるいは自己の肉体が消えてなくなる現象のことだ。

 

つまり、

人間・・死んだら終わりだ・・は、

”わたしたちは・・肉体である”・・という言説に過ぎないのだ。

 

わたし・・が、肉体単体であれば、

物質現象である肉体が生誕・死滅するのは自然界の理(ことわり)であり、死滅によって永遠に存在しなくなる。

・・

例えて言えばこういうことだ。

わたしたちの本質が・・風に吹かれて地に落ちる「木の葉」であれば、

ひらりひらりと空を舞い落ちて、やがて地に落ちて分解するものだ。

その1枚の、特定される木の葉は、現象の中で1度きりの出来事である。

観察される現象の中に現れて消える、1枚の木の葉・・

それが私自身であると・・・そう涙ぐんで思い込む・・。

 

で、・・それを観察しているわたしは・・木の葉だろうか?

いいやちがう。

 

観察した現象に関して、それを自己自身・本質として認識しているにすぎないのである。

わたしたちは・・肉体である・・という自己認識・信じ込みとは、

わたしたちは・・肉体である・・という強い「想い」があるということだ。

宣言すること、信じること・・はすなわち ”想っている” ということだ。

 

日常のすべてにおいて、この何をどう「思っているのか」に注意が必要である。

全ては「想い」によって、観察事象を偏向して理解している場合が多い。

特にこの世界は、あらゆる尤もらしい偏った想念で満ちている。

・・・

物理科学の法則で、エネルギー保存則なるものがある。

この法則を理解しなければ、文明自体が存続し得ない。

様々な物質やその動きはエネルギーという概念の何かに換算され、

様ざまな現象は様々に起きては消えるが、

無数の現象を起こす原動力・・、背後の普遍的な何かは、

・・エネルギーと名付けられ、

そのエネルギー自体は「不変」に保たれるという法則だ。

 

エネルギー自体はどんな姿・形も持たないが、

それを導入しなければ、

様々な現象世界の、生起・変転・変換が説明できない。

 

あらゆる現象の背後に、見えないエネルギーがある・・。

それは力学・電気・・の現象のみならず、あらゆる出来事にも言えるのだ。

ーーー

簡単なエネルギー保存の例え、

力学エネルギー保存の動画

 

玉の運動量や方向という「情報」が、別の玉に転移すると説明してもいい。

・・・

 

現象の背後にあるものは、普遍的なものの反映である。

普遍的なもののことを、理(ことわり)とか「法則」と呼んでいる。

普遍的なものがあるからこそ、現れては消える現象が起きるのである。

従って、

現われては消える「肉体」の背後に、普遍的なものがあるということだ。

肉体を伴うこの世の人生の背後に、普遍的なものがあるということだ。

人間においては、その普遍的なもの・・を「魂」などと呼んでいる。

「魂」があるからこそ、人間としての生が起きているということだ。

 

そして、その普遍的なものが・・・真のわたし・・ということになる。

わたし・・と言っても、この肉体人生の一過性の単発個人の私ではなく、

その人生という現象を生み出す・・背後の・・普遍的なもの・・である。

・・・

大自然・宇宙・様々な現象を観察し、読み解き、気付きつつ、

自己自身が何であるかを発見してゆく・・道・・・

未知・満ちている人生の紆余曲折も、

かつてはあった七転八倒も、

気付かず知らずの有為変転も、

人生の様々な現象・転換・変換を通して・・・、

あなたである・・普遍が・・

自らの無限性を体現し、味わい、感動し、楽しんでいるのである。

 

閉じこめられ、押さえつけられ、不安のこころの海を泳いできた人は、

今回生まれて培った・・重い・想いを、

もう十分に、十二分に味わっただろうから、

普遍としての魂にとっての特別な経験として認めてあげようか。

 

敢えて言おう、

暗い・どん底の次元を味わった、雄々しき魂たちよ・・!

既にそれは、大いなる英知・エネルギーに転換されたことを知れ!!

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


生と死を超えて

2021-11-02 07:01:33 | 語り部の章

わたしとは何か?に関すること、

生きていること、死ぬとはどういうことか・・、

私たちは、それら肝心なことを随分と避けて来たのではないだろうか。

 

多くの人は、多分何もそんなことを重要視せず、問題視せず、

ただ目先の人生の流れだけに追従すること、

とりあえず、いかに他者より有利にあることが出来るか、

とりあえず、死ぬまで生きながらえることばかりを考えてきたのだろうか。

 

なぜ今・・今・・生きて在るのか?

実際、死んだらどうなるのか?

それは一体どういうことなのか?

そもそも、その主体として在る・・わたしとは‥何か?

 

何も考えず、調べず、努力もせず、

大勢の走り回る姿を追いかけ回して、

何とか良くなろうとしながら、いつか人生を消費することに、

いつから明け暮れていたのだろうか?

 

そして、今・・・、

自分の・・この「生と死」の意味を理解する必要性に迫られている。

身近なことを片付ける必要性だけ強調しつつ、

時間を先延ばししながら、

出来れば安楽さの中に眠ってしまいたい想いの癖は、

今まで何生も演じてきた人生の焼きまわし、繰り返しに繋がるだろう。

 

きっと誰かが、きっと神様が、

私を・・よりよい人生に送り出してくれるだろうという”外側信仰”は、

それそのものが、被支配、奴隷根性の表明であって、

他者依存を示しているのだ。

 

気付かず知らず、いつか生まれてきて、

大勢の人の流れに沿い、喜怒哀楽取り混ぜで、とりあえず生き永らえ、

結局は死を恐れつつ、生を生き切るまでもなく死んでゆくような、

短い時間空間での単発の肉体人生、

連続した意味深い生の記憶を持たない1回ぽっきりの人生は、

 

リンゴを食べて、1時間後にはそれを忘れてしまうようなものである。

忘れて、また繰り返す・・それってどうよ?・・・

 

偶然に世界に出現し、その自分に関して意味不明なまま死んでゆく、

そんな輪廻・転生の中、あちらこちらのたらい回しのマトリクス人生は、

米つきバッタのように、執拗に繰り返すほど、面白いわけもないのである。

・・・

 

人が今、どこかで、その意味を深く感じながら、

世界がどうこうとは関係なく、

今自分は ”幸せだ” という実感があるならば、

その人は3次元的時空間での生と死の概念を超えている。

 

もちろん、「幸せだ」・・という想念・実感の波動的中身にもよるが、

その・・幸福が・・どうして単発で、すぐに忘れることが出来ようか?

内面から感じる幸福感、至福・・・、

それは至高の実在から・・そこはかとなく伝わってきた波動なのだから。

 

前世もなにも憶えていない、来世がどうかも考えられない、

そんな過酷な世界においては、

毎回毎回忘れることが幸福だと・・いう自己忌避のへ理屈であり、

いわゆる地獄の世界で役にたつ嘘の方便でしかない。

 

しかしながら、すでに時は来ている。

3次元的マトリクス世界が終わり、あるいは次元認識の理解が拡大すれば、

単発の人生、偶然生まれていつか死んでいって、

それで終わりという・・今まで常識とされていた、

1回ポッキリ人生も終わりとなる。

 

例えれば、単発の1コマ漫画だけが漫画ではなく、

連続したコマ送りによる、壮大な魂の記憶物語でつづられるアニメ映画もあるように・・・だ。

 

いままでメジャーなところからは一切情報が無かっただろうが、

実際にはあなたには膨大な、幾多の人生の記憶があるのだ。

そうでなければ、生誕してたった2-3年で意識が自己に気付くはずがない。

 

真我の意識・魂は時間・空間を超えている。

 

生と死は・・一体誰が経験しているのか?

それぞれ・・わたし(真我・意識)・・・自身である。

経験することを知るのは・・誰か?

それぞれ・・わたし(真我・意識)・・である。

 

知るということは・・記憶していると同義である。

しかしながら、それを忘れる・・ということは、

その記憶から意識がそれる・・という意味であって、

つまり、記憶自体がなくなることは無いということだ。

 

それに意識してアクセスしないならば、どうして記憶が再現されよう。

とにかく、誰かが何かを勝手にやってくれる・・ことはない。

だから・・人生は貴重なのだ・・・、

絶対的な主人・主人公は、それぞれ・・真のわたしなのである!

 

 

空(くう)に巻き起こった根源からの波動は、拡大しつつ、

同じく様々な波紋の織り成す世界を創り上げる。

それぞれの波紋の中心は、

等しく・・無限次元を含む空(くう)の中心である。

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


日常は色即是空

2021-10-10 05:39:13 | 語り部の章

もっとも身近なところに、最も肝心なものがある。

あなたが最も気にしている外的世界、他の人々、環境・・

・・世界の様々な事象は、複雑怪奇ながら・・

それはあなたという意識が観ている「夢」のようなものである。

 

決して世界そのものの中に・・真実は無い!

それに捕らわれ、従い、自縄自縛もする・・世界、

「そこ」には実際・・どんな真実も無いのだ。

 

真実とは・・それを観ている、知覚している・・経験している・・

あなた自身のことである!

世界を映し出している・・至高の実在・・真我・・

あなたがそれだと言っている。

 

え、どこどこ?誰の事?・・と探し回っている、

それ自身が・・そうだということを、どうしてか気づかないほど、

次元を下る・・はるか遠く、はるかかなたにやってきた・・ということだ。

我々は今、ここまで到達した。

 

 

真実とは・・それを観ている、知覚している・・経験している・・

あなた自身のことである!

世界を映し出している・・至高の実在・・真我・・

あなたがそれだと言っている。

 

こういうことは、もちろん意味不明な言説と感じるだろうが、

嗚呼・・ここが肝心かなめな・・意識の超えるべき峠と言えようか。

 

・・・

 

あなたは毎日眠りを経験している。

眠りとは何かといえば、身体が休息していることと考えているかもしれない。

眠りの時は、身体が休止していると同時に「意識」が無い。

その意識が無い・・いわゆる熟睡時には、どんな知覚経験も無い。

どんな知覚経験もない・・無意識・・である。

 

さて、この熟睡時、無意識の時に、日常の世界は存在しない。

そんなこと言えば、・・

いやいや、

存在しない・・?わけではなく、・・あなたはただ眠っているだけ、

世界はしっかりあるはずだと・・漠然とそう思っている。

 

そう、

自分が眠っているだけで、ちゃんと世界は存在している・・

そういう風に思っているだろう?

「そりゃそうだ、当たり前だよ、

世界がその間存在しない?とかを意味する・・、

そんなことってあるわけがないじゃないか!」

 

当たり前のように・・そう思っているはずだ。

1日24時間のうち8時間、そのうち熟睡が4時間・・

24時間分世界はちゃんと存在しているのだと、そういう言い方である。

世界が存在している24時間のうち、一部分で睡眠がある。

世界は24時間存在していて、自分が数時間眠っているだけだと・・

そう想っているのである。

 

でも、・・・

眠っているその時、・・一体誰がそれを証明・検証するのか?

それ・・というのは、世界が存在している・・ということだが、

誰が証明するのか?

 

あなたが無意識であれば、世界も知覚できないわけで・・

その時世界が存在しているとは決して言えないのである。

・・・・

そんな馬鹿な!・・熟睡中(無意識)にも世界がある・・に決まっている。

そう想って、それ以上考えないかもしれない。

なぜならば、目が覚めれば、すぐにいつもと同じ世界が現れるからだ。

いつもと同じ世界がまたそこにあるから、今までもずっと在ったと、

そう「想う」のである。

 

だから自分が無意識であろうと、そうでなかろうと、

世界・宇宙は、意識の有るなしに関係なく、

常時存在しているのだ・・・・というのが常識である。

そうではないか?

・・・・

さらに、

あなたが眠っている間も、誰かほかの人が起きていて、

世界を観ているのであるから、

世界は持続して存在していると言う話になる。

・・・

でも、繰り返すが・・・・

あなたが眠っているときに・・つまり無意識であるときには、

世界も、他人も、宇宙でさえ知覚できていないその時に、

世界が存在していると・・・

どうしてそれが・・わかるのかということである。

その時には、「世界がちゃんとあるよ・・」と言ってくれる他人さえもいないのだ。

・・・・

今までこのような話を聞いたことが無いとは思われるが、

実に肝心なところなのである。

 

多くの人が、

日常の・・真の・・在りのまま・・に本当に気づいていない。

在りのまま・・とは、

あなたが気づいていなければ、その気づいている対象としての世界は無いよいうことである。

あなたという「意識」が無ければ、あなたの「世界」も無い・・・ということである。

 

(つづく)

 

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


宇宙の中心

2021-10-04 04:32:43 | 語り部の章

・・真空から・・、

どうして・・原初の波動・物質の元になる・・微細な波動が起きるのか?

結論を言えば・・

それは・・・観察者がいるからだ。

観察者がいるから・・観察する対象物が存在する。

 

観察者=気付く者=気付きの総体・・意識・・である。

意識があるから真空に・・気づきの対象である・・客体・対象物が出現しているのだ。

出現する・・といっても、おもむろにその形がゆっくり時間をかけて形成されるというのではなく、

気付いた瞬間に・・その気づきの深さに応じて、

ちょうどその深さ・広さに応じて・・対象としての世界が、

そのままが既に有るように観察される・・という仕組みである。

 

その観察者の・・気づきの深さ・広さの違いが次元認識の違いといって良い。

昔からの哲学的言い方では、主体と客体の関係ともいえる。

 

・・・

意識があって・・初めて・・対象物が有る

 

この認識に至れば、

これが常識のように腑に落ちるならば、

その人は、今までの3(4)次元的世界観から”脱する”ことになる。

 

環境(物質)の中に人間がいて、人間は環境の中の社会的「動物」であり、

たとえ不自由で閉じられた世界と言えども、

その中の支配の中で従属して生きなければならない・・

・・というのが3次元的世界観、信念マトリクスである。

 

・・・

これは、カゴメ紋のなかの・・・幽閉された・・鳥・・

3次元の知覚対象(物)の中に・・

主体としての「意識」が閉じ込められていることを意味している。

鳥が・・焼き鳥にされている?(笑)ようなものである。

 

意識があるから真空に・・気づきの対象である・・客体・対象物が出現しているのだ。

つねに瞬間に・・なので、気づかないのだ。

 

気づきの総体(魂・意識)の深さ・緻密さに応じて、

ちょうどその深さ・広さに応じて・・対象としての世界が、

そのままが既に有るように観察される。

 

また、

意識(魂)がそこに入っているように見えるその「肉体」も、

意識・気づきの総体・想念の束・・によって、

観察対象として・・それにふさわしい形態で現れているということだ。

 

よく、人生はあなたの意図、意識、選択次第であると・・言われるのも、

その仕組みから来ているのである。

 

わたしたちは・・知覚する主体・・意識である。

これが3次元的認識を脱したところの、高次の自己認識である。

意識主体の・・自己認識が根本的に変われば、

その知覚対象世界も、いやも応もなく・・変わらざるを得ないのである。

 

 

ただ単に、文字を追って出て来るイメージを感じるのではなく、

あー、それだ・・という気付きが生じるまで、

我が身、周囲、人生の生きざまを通じて、感得することが大切ではなかろうか?

 

すでに、いま・・3(4)次元的世界の・・

古いカルマのバーゲンセール的な放出に伴う、

無数の恐怖や混乱、嘘八百が交差しつつ、

消えてゆこうとしている昨今の短い時代においては、

喫緊の課題であろう。

 

あなたは・・何者であるか?

 

偶然生まれてちょっと生きて、死んでゆくだけの、

環境に捕らわれたままの肉体存在なのか?

あるいは、

元々・・それらを含み、それを越えたところの・・

知覚・認識する対象としての世界を映し出す光源としての、

意識・魂・・、

あなたが・・あなたの宇宙の・・中心なのか

 

今・・・自分で・・選択する時が来ているのである。

もう気づいているはずである・・、

そんなに時間は残ってはいないことを。

 

ホピの予言等で有名な壁画の絵のデフォルメ。

「ロードプラン」と呼ばれるもので、4回目の人類文明の行方を暗示していると言われる。

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


観察者

2021-09-21 05:22:29 | 語り部の章

元々、なにも無い・・エネルギーもない・・その真空から・・、

どうして・・原初の波動・物質の元になる・・微細な波動が起きるのだろうか?

 

物理学の理論話ではないので、

こうなって、ああなって、そうなるからこうなんだという、

難し気な枝葉の話を避けるならば、

 

・・真空から・・、

どうして・・原初の波動・物質の元になる・・微細な波動が起きるのか?

 

結論を言えば・・

答えは・・・『観察者がいるからだ』ということになる。

 

観察(者)が・・物質の元になる・・微細な波動を起しているのだ。

「観察(者)」は・・「観察対象」を常に・・瞬間・・伴うのである。

 

意味不明だろうか?

そんな簡単なものか!・・馬鹿言うんじゃねえ!・・だろうか?

 

 

観察(者)が・・物質の元になる・・微細な波動を起している

拙い文言だが・・これは宇宙創成の原理を・・説明している。

 

観察者である・・あなたが・・

あなたの観察対象世界を瞬間・・起こしている!

 

起しているって?・・・そんなつもりも何もない・・はずだから、

そんなことあり得ないと「思っている」のである。

曇りに曇ったマインドが大きな邪魔をしているのだ。

それはあるがままではない。

 

あるがままの真実は、

観察者である・・あなたが・・

あなたの観察対象世界を瞬間・・起こしている!・・・のである。

 

言い方を変えれば、

あなたがいるから、あなたの世界がある。

チコちゃんの言うように、「ぼーっと」生きているわけではない。

 

観察する者がいて、観察対象があることは簡単に理解可能だろう。

観察対象が・・対象が・・独自に存立しているわけではない。

物質も素粒子もすべて・・観察されるもの・・対象物だ。

それらで構成されるあらゆる物、世界・宇宙も観察対象物である。

 

対象が・・どんなに小さかろうと巨大であろうと・・

それは観察対象の集合形以外の何物でもない。

 

観察(者)がなくて観察対象・事象は存在し得ない。

これは自明の理である。

 

究極の観察者・・根源意識・・を創造神とか呼んでいる。

 

人間にもその創生原理は適用されている。

単に文字読みだけでなく、ちょっと目を話して身の回りをよく観るといい。

 

例えば、あなたが目の前のスマホや周囲の環境を観ているから、

そこに観察対象が知覚されている。

物質も・・物、物、物体、実体としてそこにあると思っているが、

観察手段である視覚や聴覚、臭覚、触覚によっている。

 

手で触って、その質量感を感じている。

大きさやずっしり重い質量感も・・触覚の知覚対象または情報なのである。

それらの情報を知る者・・それを観察者という。

人間の場合は・・わたし・・あなたである。

わたし・・→ 観察者、     

周囲の環境の知覚内容・・→ 観察対象である。

 

難し気な物理科学においても、

素粒子の動きを機械・装置で観測する者も、調べる者も「観察者」だ。

その「観察者」のことを人間と言っている。

観察者の存在によって、素粒子の挙動が変わるのを「観察者効果」と呼んでいる。

 

人間は、視覚・聴覚・触覚などの五感を通じて観察している。

高度・精密な機械装置を使っていても、元は人間が観察するのである。

また、さらに

人間の・・目そのものが観察者ではなく、

耳が観測者ではなく、手そのものが観察者ではない、

その背後にある者?・・・が観察者である。

 

その背後にある者?・・となれば、

神経細胞、神経系統、それを集約処理している「頭脳」が観察者であると言う言説があるが、

神経組織・頭脳さえも・・また観察される対象・・物質・原子・素粒子などの集合体である。

それらも観察対象に過ぎないのだ。

だってそれも科学の追求の対象、そこに有る物だ・・からである。

 

結局それらも・・物質で出来ているとされている。

その働きの全貌は不明としても、頭脳だって物質ということだ。

・・・

だから、人間の本質はつまるところ「頭脳」だ・・という言説になり、

つぎに、結局・・わたしは「物質」である・・という話になるわけだ。

従って、

わたしは肉体・物質だから、それが崩壊すれば全終了・死・・と考える。

これはまた、唯物還元論、機械論という類の考え方だ。

こういう風にして、

わたし・・とは結局・・有機的物質の集合体という話に落ち着く。

これは科学の成果による認識である・・と。

確かに・・わたしの肉体は物質で出来ている・・と観察している。

 

しかしながら、普通、『わたしの肉体』などと言うように。

単に肉体・・などと言わず、「わたし」・・をつけて言うだろう。

 

わたしの・・(持っている)・・肉体?・・・であり、

わたしそのものではない・・ことになる。

わたしはそれを持っている・・のである。

つまり、わたしは・・肉体・・ではない ということになる。

・・・・

理知的な人は、ここで気づくだろう・・・。

いつも・・・わたし・わたし・と言っているそのわたしとは何か?に・・

頭脳を観測・観察している、あるいはそれを物質だとしている・・・のは・・誰だろうか?

 

簡単に言えば・・「人間の肉体は物質である」・・と、

気づいている者は何か?

 

誰か?・・と言えば、お前かあいつか・・あなたか?という個体人間のイメージがあるが、

そうではなく・・そういうこと全てに・・気づいている者・・というか、

気付いているのは・・何者か・・・ということだ。

 

それを・・・直感的に・・わたし・・と言っているのである。

 

結局・・・わたしとは・・何か?

 

あなたはもう解ってきたかもしれない。

どうなんだろうか?

どう思うだろうか?

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。