気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

天地との和解

2010-10-24 11:53:12 | 覚醒意識

●当たり前の奇跡に気付けるか

 

我々はいつも我々以外のものに生かされている。

 

空気があるから、呼吸が出来る、それなしでは一瞬も生きてはいけない。

 

光があるから、様々な風景が見える、それなしでは暗黒の世界だ。

 

熱があるから体温を維持できる、それなしでは世界も瞬間に凍りつくだろう。

 

大地があるから、鉱物、植物、動物が造られる、それなしでは空(くう)のままだ。

 

水があるから、エネルギーの循環がある、それなしでは全てが干からびてしまう。

 

ふと思えばその通りだが、人はそれを『当たり前だ』と笑うだろうか。

 

しかしながら・・・、

  

我々は、いつもどこにもあるその当たり前の存在たちに生かされているのだ。

 

我々を根本で支えている大自然、大宇宙・・・、

 

それはあなたに代価の金銭を払え・・等とは言わないながらも、

 

無償で、無条件で、あなたやわたし達を生かしているのだ。

 

天、地、気、土、火・・・象徴的な言葉であるが、

 

我々も、これら全てに生かされて『今』在ることが出来る。

 

今、この瞬間にも、・・・

  

まさにこれが我々人類の置かれた、根本的な事実である。

 

それを言うならば、大自然、大宇宙とは無条件の『愛』の現象化であり、

 

我々人類自体も、その無条件の『愛』の現象化なのだ。

 

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●『争い』は人間の観念でしかない

  

大気も水も大地も太陽も、決して人間が用意したものではない。

 

無条件に、いつもそこにある・・、我々の周りにある・・、我々の身体自体をも造っている。

 

我々が皆、後生大事に扱う身体も全て、その全てがそれらによって造られ、維持されているのだ。

 

どういう詭弁を用いても、どう言いくるめようとしても、この大いなる事実は変え様もない。

 

全てが全てを生かしあっているのだ。

 

空(そら)が雲と戦っているのか?  嘘だろう。

 

地球に溢れる水が大地を侵しているのか?

  

大気が太陽の高熱に犯されているのか?

  

大自然は勝利すべき相手であり、焼き払ってもいいのか? 嘘だろう。

 

一体全体、調和そのものである大自然に、闘いを持ち込んだのは誰なのか?

 

 

●自然から離れ、愛を忘れていた間

 

無条件の生かし合いという『意図』と『意識』の現象化の中で我々は生かされているのだ。

 

宇宙空間であろうと生態系であろうと、全ての形態が、大いなる全て形態の中で相互に生かされているのは明確である。

 

我々はそれを長い間、四六時中忘れてしまっていたのではないか。

 

最も当たり前のこと、最も身近なことのなかにこそ、

 

あなたを今生かし続けている『事実』があることを・・。

 

全てが生きて、全てを生かしている『事実』、それを『』とも言っていいだろう。

 

 

●愛は万物の間の響き合い

   

多くの人は『』を男や女の「情愛」や「性愛」と勘違いしているのかもしれない。

 

情愛や性愛で絡まる『執着観念』は、実のところは自己生存欲からくるものであり、

 

理屈抜きで『直感で響きあう』性質をもつ『普遍の愛』そのものが、

 

社会の渦の中で、いつの間にか欲得づくの自己存続の厚衣にくるまれたものだろうか。

 

相手に誠意がないから自分も誠意を出さないで良いという観念、自分だけ理解を示せば損をするという思い込み。

なるほど、誠意や愛も『損得勘定』の中の大きい銭のようなものに感じているかもしれない。

誠意や愛を求めてさ迷いながら、自分では決して誠意や愛を出したがらない人の群れ。

 

実のところは、

 

『愛』は普遍的であり、人為的な加工物、観念ではない。

 

愛は情愛でも性愛でも、自他の執着でもない。

 

それを言うならば

 

『愛』とは万物の間の『響き合い』と言っていいだろうか。

 

そう、ある意味で、

 

『愛』は、『響き合い』なのだ。

 

 

●人間としての役目

 

お互いがお互いを無条件に認知している在り方、意識している在り方。

 

言葉を変えれば、存在と存在の間の相互認識作用、『波動の共鳴』ともいえるものだろう。

 

それは人間の観念や理論や理屈など一切介在しない、直の波動的共感』でもある。

 

『愛』、『波動の響き合い』

 

それを最も感じることが出来るのは、実は、意識的存在である『人間」なのだ。

 

あなたもわたし達も、人生のほんのチョッとした瞬間に感じてきたものでもある。

 

「意識」における響き合いは、男女の間、師弟の間、親子の間、他人との間に理屈抜きの感情としても生起するが、

 

決まってその後ついてくる社会通念、重い想念、観念によって執着へと変化する場合が多いことだろう。

 

愛が執着という泥沼になり、理解が非難という槍の切っ先になるのは、エゴという「我良し」の想いがいつの間にか入ってくるからだ。

 

全てに重い条件がついてくると、愛が執着にすぐに変化してしまうものだ。

 

確かに、執着によって重い想いを引きずりながら歩くのは疲れるものだ。

 

しかし、元にあるのは「愛」に違いない。

 

無条件の響きを感じたことは、愛であり、共感に違いないのだ。

 

どのような人生も、素晴らしく意味の深いものであるのだ。

 

 

●怖れが作る我良しの観念

  

あなたはもう理解していることだろう。

 

万物の愛はすっきりした、曇りのないこころでしかわからないものだ。

 

その為には、

 

全ては全てで、生かされているという根本的な事実に気づき、

 

こころの曇り、我良しの想い、我欲の歪(ひずみ)をきれいに落してゆく必要があるのだ。

 

その曇りとは、・・人、自然、宇宙への怖れである。

 

自己の肉体が全てであり、その個我を生かすためには、他のものは犠牲になっても良いとする想いである。

 

それを「我良し」の観念という。

 

人が人に、世界が世界にどこか敵対してあるという、わけのわからない「怖れ」であり、

 

自己存続は闘いで勝ち取るしかないという低次元の観念である。

 

怖れを排除するための闘い、それによる新たな怖れの繰り返しの車輪の轍を作り上げる。

 

自然界は闘争場であり、競走場であり、弱肉強食という、極めていびつな観念の轍(わだち)を、

 

今すぐ放り出せ。

 

たった数十年の人生を、人は人々の闘技場で過ごすのか?

 

嘘だろう。

 

 

●ただ、こころの汚れを洗うべし

  

愛、万物の響き合い、それは

 

それはどこにも遍満する、当たり前の在り方であり、あるがままの真実なのだ。

 

それが見えなかったのは、様々に、また幾重にも重なっていた、

 

あなたやわたし達の重い想い、先入観念、常識という、

 

不活性でネガティブな観念群の賜物である。

それは、

 

我々は、事物の『有りのまま』を見るのでなく、

 

我々の植え付けられた『観念』を見ていただけのことだ。

 

こころのざわめきの向こう側は、ざわめきでしか見えない。

 

水面が乱れていては、それに映る月も、本当のその姿を見せることはないように。

  

  

●天地全てとの和解

 

いつも天にある、あの青い空、白い雲は決して同じ姿はみせないが、いつもそこにある。

 

そこに『存在している』ことで、あなたにその姿を『見せて』いる。

 

あなたは眼で、それを光として知覚している。

 

つまり、彼らはしっかりとあなたの中に響いているのだ。

 

空や雲は、人のようにぺらぺら喋らないからといって、人はそれを無意味と感じるだろうか。

 

空や雲でさえ、あなたの為にいつもそこに在り、その『存在』をはっきり『示して』いるのだ。

 

 

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彼らの存在の言葉は、ダイレクトにあなたやわたし達に映像として、体感として内面に響いてきているではないか。

 

あなたもわたし達も、その存在の響きを内面で感じているのだ。

 

響き合い・がいつもそこにあるではないか。

 

見えるもの、聞くもの、嗅げるもの、感触で伝わるもの・・・すべては

 

波動による響き合いである。

 

例えば、野辺に咲く花たちは、同じくその姿をあなたの目を通して、

 

あなたの世界に存在していることを顕示しているのだ。

 

時には風とのコラボでもって、ゆらゆら揺られて見せてもくれるだろう。

 

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彼らは、光と風によって、あなたの意識にしっかり響いているのだ。

 

あなたもわたし達も、その存在の響きを内面で感じているのだ。

 

それをそうと感じないのは、

 

常に、こころが何かの観念で騒いでいるからなのだ。

 

仕事、お金、親子関係、世界の出来事、あらゆるものが問題であるとして、

 

いつも、こころを曇らせていたのではないのか。

 

あらゆる事が本当に『問題』なのか? ・・・嘘だろう。

 

 

●本当は、森羅万象は愛・響き合いで満ちている

  

大自然、万物は、あなたやわたし達を批判もしなければ、挑発することもない。

 

ただそこに在り

 

全ての人に、物に、事に、彼らなりの言葉を投げかけているのだ。

 

何万年も、何千年もそのようにして、響いていたのだ。

 

人の役目は、それに気づくこと、

 

その生命の響きに応じること、

 

響き合いの只中にいたことを思い出すことである。

 

全てが響き合うこと・・それを愛ともいう。

 

宇宙、森羅万象は、難しい分裂した小理屈で出来ているわけではない。

 

法則は極めてシンプルなものだ。

 

今すぐに、いつでもどこでも出来るのは、

 

まず、感謝なのではないか。

 

気付かないでごめんなさい。

 

無条件の愛を、響きをいつも、いつも

 

ありがとう。

 

 

全てが全てを生かし合い、響き合っていること・・・

 

これらは決して絵空事の、架空の美しい理念等ではなく、

 

あるがままの事実であることに気付くべきだと思う。

 

そうすれば、あなたの世界は、既にもう、変わっていることにも気付くだろう。 

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 


今は永遠なり

2010-10-17 17:15:27 | 覚醒意識

●あなたは今この瞬間を感じているか

 

我々は今この地球という世界に生きていると感じている。

 

その感覚には、明らかに幻想とは思えない生きた実感があるはずだ。

 

五感体感、想念、感情一式を含めて、「わたしは生きている」 あるいは「わたしは在る」という感覚を持っている。

 

この感覚は、程度の差はあれ、人間固有の共通の感覚である。

 

全人類において、そこには違いがない。

 

違いがあるとすれば、当たり前の感覚として無視しているか、どれだけ意識しているか、気付いているかの差だけである。

 

それこそが我々の在る証なのであり、

 

それはまた神なるものの在り方と質的には同じなのだ。

 

神は全てをわたしと感じ、わたしはわたしをわたしと感じている。

 

規模や量的違いはあっても、同じことだという事実に気付けるだろうか。

 

自己が存在していることに、自己で意識している・気付いていること・・

即ち人は意識的存在であるという所以である。

 

覚者の一人である、あの「マハラジ」が繰り返し言うところの、

 

わたし・は在る・・・」にまず集中すべし・・

  

という導きは、人として、誰にも共通の、あるいは共有しているところの、

 

基本的原点に戻るべきことを示している。

  

人間は自己を認識している、自己自身を「わたし、それ」であると感じているところの存在である。

 

まずそれを再び思い出せということだろう。

 

あなたも、ふと、また思い出しているだろうか。

 

 

●個別から統合への道へ

 

「自身に気付く」 ・・ある意味では、それは真我・魂の帰還の重要なポイントである。

 

真我・魂の往来道は、それはどこかという空間、いつかという時間の範疇にあるのではなく、それは、今の瞬間のそれぞれの「わた」という存在の、いわば内奥の方向にある。

 

いわゆる降下上昇する次元なるものは、外のどこかではなく、常に内にあるといえるだろう。

 

この世界では多くの人が「外」にいつも何かを探している。

 

外は写し絵にしか過ぎない。

 

真我・魂を外に探しても決して見つかるはずもないのに。

 

 

●一なるもの、即ち真なる「あなた」

 

禅での言葉、

 

一は即ち多なり

 

多は即ち一なり・・・・、

 

我々は  でもあり、

 

 でもあり、

 

また  でもあるという意味である。

 

であると言うこと自体の中に、普遍的ながあるのだ。

 

 

「わたしは在る」という感覚は、すなわち、一なるもの、根源、ソース、宇宙意識へつながる道ののことでもある。

 

 

●洗濯すべきは身についた想念

 

我々はエゴ・自我の繁栄を極めてきたのかもしれない。個人の尊厳、法の元の自由とは、すなわち個別バラバラのエゴのための最も優しい仕組みだろうか。

 

人間のそれぞれの「想い」は、自ら独自のものとの錯覚のなせる業(わざ)ともいえるだろう。

 

様々な想いをまとめた価値観念、常識という刷り込みは、我々をバラバラ別個、個別の刹那的肉体存在であるという観念に縛り付けようとするものである。

 

それは、それらの観念自体が、決して「わたし」ではなかったと悟る瞬間にこそ解かれる暗示のようなものなのだ。

 

様々な重い想いは、いわば今までのような重い世界に固定する為のアンカーの役目でもあった。

 

しかしながら、今は様々な観念の海の中から浮かび上がる時であり、

 

それは誰にもある生れた時の赤子のような、あの神々しい素の意識の輝きを、今というこの瞬間に取り戻すことなのだ。

 

それは決してド派手なパワーを誇示するような、スーパーマンのようなものになることではない。

 

少なくとも、いたいけで、幼く無知で、ケアが必要な弱々しい人間という、世相を覆う濁流のような刷り込み観念の中から這い上がり、その足ならぬ、こころを洗うことである。

 

 

●クリアーな「こころ」が幸せをもたらす

 

自らの想いで溜め込んできた様々な観念を、時に応じて見つめ、それらを少しづつでも洗い出して、そして感謝で光らせるのだ。

 

確かにそれは、自分でしか出来ないことでもある。

 

我々は「多」であると同時に「一」であること。個でありながら全体であり、また全体であるためにこそ調和がある。それに気付くことである。

 

個でありながらつながっている全てが、どうしてお互いを不安に思ったり、 傷つけあったり戦いあったりするだろうか。

 

そう、それはわけもわからぬ濁流の中でしか出来ない遊びだったのだ。

 

クリアーな「こころ」で見る事のできる、見通しの良い明るい世界では、 闘争や欺瞞は出来ない相談なのだ。

 

当たり前のような心の平安は見通しの良い世界の特徴でもある。

 

そして、それはいつも捜し求めた「幸せ」というものなのだ。

 

幸せとは、物の豊富なあり方ではなく、こころの垣根、いばらの垣根の取り払われたクリアーなこころの有り方のこと。

 

我々は先入観念、固定観念、価値基準というフィルターを通してしか、物事が見えなかったという単純な事実に気付くだろう。

 

それは、全ての、あるがままを見ず、それぞれの自我の観念基準という物差しでしか見ることができなかっただけのことなのだ。

 

その根にあるのは、個別の物質的存在として刹那の生存のみを追いかける姿勢から来ているわけであり、

 

また必死で生きなければ死んでしまうという肉体自己観念の賜物である。

 

それは諸存在の全体の中で生かされているという事実に気付いていないからなのだ。

 

人は自分で生まれ自分で生きるのだろうか、

 

それとも、

 

大いなる全ての中で、愛の中で生かされているのだろうか。

 

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●感謝の念と観の転換

 

「感謝」は全ての体験や感情、想いの大いなる意味を認め、それを有意義な魂の記憶に変換する最も簡単な方法であると同時に、今のこの時に相応しい方法でもあるといえるだろうか

おのれの「体験」とそれに付随する「こころ模様」を、それから逃げずにありのまま「観る」こと、そしてそれらに「感謝」することは間違いなく、こころの平安をもたらすだろう。

 

それは、マジックでも想定外の奇跡的効果でもない。

 

いつの世にもある「観の転換」の強力でシンプルな方法なのだ。

 

また個々の観の転換は、あなたやわたし達の世界の転換でもある

 

●感謝は根源・神への応答のようなもの

 

何についても感謝することは、一見妥当でないと感じるかも知れないが、それは狭い思考や偏狭な観念のこじ付けに過ぎないことがわかるだろう。

 

必ず付きまといやすい想い、すなわち目先の効果や、なにかの利益への期待、 欲望や羨望という雑草観念、あるいは自己の価値基準からのジャッジを外さなければならない。

 

これは自我の執着を外してゆくことだともいえるだろう。

 

次第に自我を外すことで、真我が出て来る仕組みでもある。

 

もう、すでにお分かりだろうか。

 

そう、「」は森羅万象を顕したいという「根源」からの動機であり、

 

感謝」はそれを知り、「認める」ことなのだ。

 

いわば、宇宙全体との「あー・うん」の呼吸のようなものだ。

 

それに気付いているならば、 その人は真我・魂の道を再び見つけ出したのだといえるだろう。

 

 

これは実に今の我々人間に相応しい、応答の言葉ではないか・・・・。

 

ごめんなさい

許してください

ありがとう

愛しています

 

 

全ては・・・実に、実に「有難き」ことなのだと感じないだろうか。

今のこの瞬間は、永遠なり。

・・

こころを超えて今言えること、

  

創造よ、ありがとう!

 

ここにいる多くのあなたたちよ、本当にありがとう!

 

 

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本日も、拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。


今、このとき、ありがとう

2010-10-10 13:20:47 | 覚醒意識

我々は肉体存在ではなく、肉体を1つの層として有する「意識的存在」である。

 

意識的存在とは、遍在、臨在する大いなる意識による創造に参加している存在でもある。

 

またそれは、信ずる如くに現れると言う「意識」の創造原理を常に体現しているのだ。

 

その創造原理は、意識 → エネルギー → 物質含む顕現諸形態・・・  というプロセスを含んでいる。

 

人生は他者が造るものでは、毛頭あるはずもなく、全てそれぞれの「わたし」の意識と意図によっている。

 

他者にへつらうことも、あるいは高飛車になることも、まったく不要なことだと理解しなければならない。

 

宗教的な表現を借りれば、世界とは、神の無限の楽しき遊びに加わる子供たち、神々の創造の遊びの場であるということである。

 

神なる者たちは如何様にも遊びをこしらえては舞い踊る。

 

あなたもわたし達も今それをやっているのだ。

 

時たまの悲しき音色も、そら恐ろしき旋律も、それもまた自由自在なのだ。

 

しかしながら、

それもこれも、楽しい創造であるがゆえの数限りない感動の物語を創るためなのだ。

 

愛なくして創造もない。

 

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全ては、一なる「意識」「宇宙意識」「根源」「神」であり、

 

その表れたる宇宙、存在の諸相は、

 

全てを「わたし」であると知っているところの想い・

 

すなわち謂われるところの「愛」によっている。

 

われわれ兄弟姉妹たち、そう、我々は、これをもう理解していることだろう。

 

  

ここまで辿りついたのだ。

 

遥かな道のりを感じさせる、あなたの悠久の歴史、時間経過は、今のこの瞬間には記憶としてしか存在せず、

 

どこ果てるともない、あなたの過ごした悠久の空間は、今のこの瞬間には1点としてしか存在しない。

 

無限と思える時間も空間も、あなたの意識の中の小さな物語でしかない。

 

無限の存在であるもの、

 

今、その全てが「あなた」として、そこにあるではないか。

 

もう既に、あなたは気付いたことだろう。

 

あなたという存在は、今まで「あなた」があなたではないと言い続けてきた、

そう、あなた以外、その他の全ての存在たちのおかげなのだ。

 

今、わたしは在る・・・

 

今、同じくあなたもそこに在る・・・

 

わたしは、わたし以外の全てのおかげである

 

本当に、ありがとう。

 

おかげさまで。

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。