気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(37)言霊の技術

2022-01-24 06:15:36 | 意識の科学(総合編)

言霊・・には、言葉に霊力が宿るという意味がある。

人の言葉に霊力があるということだ。

霊という言葉には様々な意味があるが、

霊力とは、身近な物理的な仕組みではない、高次の仕組みによる力と解読されよう。

また力をエネルギー、現象化する力・法則と解釈できる。

 

スピリチュアルで言えば、霊力とは、

3(4)次元的なエネルギーでなく、5次元以上のエネルギーであり、

3次元的(物理的)なエネルギーに影響されない、

逆にそれを上位から動かすところの、

それを超えたエネルギーであると解読できるのである。

・・・

言霊・・・人の発する高次のパワーを内在した「言葉」である。

あなたはいつでもそれを実施できる。

発動できる。

ただ今まではごく少数の覚者達を除いて、

あるいは部分的に応用している少数の人たちを除いて、

多くの人たちは、

それを知らず・知らされず、またそれを習得してもいない。

・・・・

 

何度も繰り返して悪いけれど、

人が幸せでないと・・そう思い・そう感じていることが、

そのもの・・不幸せであることを認めている。

そう、その通り・・不幸せなのである。

意味不明だろうか?・・・

 

かくかくしかじか、こういう理由で・・・

あれもない、これもない、得られていない・・

それはもう、様々な理由付けをして、

・・私は不幸せであると自己認定しているのだ。

 

これは禅問答のように聞こえるかもしれないが、

再度言えば、

そういう想いを発することが、

そう言葉や行為に出すことが、

 

それそのものが、

不幸せな状態を・・・長年に渡って創り出してきたのだ。

 

我知らず、他も知らず、

実は世界の人々も知らず、

言霊を自虐的に使ってきた・・とも言えようか。

 

言霊は、思いを形にあらわすパワー・技術なのだ。

これは言わば、自分自身の中に既にあるにもかかわらず、

それを外界の現象世界の中に探し続ける愚策を続けるがゆえに、

実に発見されにくい、

秘中の秘の技術であると言ってもいいだろう。

事は・・実は重大なため、人の意識の進化・開花を伴わない間は、

秘中の秘であるともいえる。

 

言霊は、3(4)次元的な物理的エネルギーを超えた、

言い換えれば、我々の馴染んだ次元、

物理的環境や事象世界、

それを含んでそれを超えているところの、

高次のエネルギーを駆動する技術ということだ。

 

誰にもよらず、依存せず、

ただ本質の真我の方向へ意識を向けること、

 

うれしいなあ、たのしいなあ・・幸せなんだなあ・・

そういってもいいなあ・・という感覚を起すこと、

これに努めること・・

幸せの振動を内面意識で起動・発振すること

 

これは単なる自己暗示やマントラではなく、

これは「言霊」の技術を駆使することであり、

長く、長く不幸の中で、苦しく遊んできた者たちだけが、

ハッキリと気付けることでもあるだろう。

 

今はもう、それぞれの個性化された意識の上に、

本来備わった、幸せの振動を起こす時なのである。

 

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠に有難うございました。


(36)幸せの実践・創造

2022-01-21 07:30:59 | 意識の科学(総合編)

幸せとは何かといえば、心の平安である。

こころの平安とは、

こころが穏やかで静かであり、安心した状態を意味する。

こころ、つまり意識の様相が「穏やか」であれば、

人は皆「幸せ」を感じるのだ。

 

あなたが幸せを感じていないというならば、

それは心が穏やかではないからである。

 

こころが穏やかであること

この状態は、ある意味で「達人」の域にあることを意味している。

達人とは、何かのことに対して熟知しており、

知識・知恵・経験に裏打ちされた”穏やかさ”があるものだ。

そのこころは平安である。

そして、その背後には・・穏やかさ、意識の「静けさ」がある。

 

静けさと言えば、

なにも無い閑散としたイメージがあるかもしれないが、

これも大いなる誤解、間違った観念である。

 

穏やかなこころ・・は、

全て・・、全てが・・そこから出現できるところの、

無限の可能性を露わに・・秘めた・・”意識”から来ている。

そこから全てが立ち上がってくる無限の意識・・

本来、わたしたちはその意識の個性化したものである。

 

こころの穏やかさは、

より高い次元の意識レベルからくるものであり、

意識の振動レベルが微細で、より創造のパワーが大きい。

・・・

物質・環境・人間関係もろもろは、

因たる意識が、二次的、三次的に現れ出たものに過ぎず、

それらを現象面(上っ面)でいかに加工・処理・整理しても、

単なる形を変えただけのものを、さらに変える努力に過ぎない。

 

自分が不幸だ、不幸だと嘆いているならば、

周り車の輪の中で、それ自体を回し続けているネズミ自身が、

「おーい、誰かこの回る車を止めてくれないか?!」・・

と言っているようなものだ。

 

まず止まる・・ことである。

誰か?って言えば、

自分自身でだ。

マインドの刺激に満ちた騒ぎを・・止めるのだ。

そういう時間を持たねばならない。

空いた時間をテレビなどでごまかすのは、最悪この上ない。

 

あなたが今幸せでない・・と感じているならば、

まず、何を知っていようと、知らなかろうと、

頭が良かろうと、そうでなかろうと・・

若かろうと年寄りだろうと、

 

まず、こころを静める必要がある。

こころを静めるということは、

感覚的で都会的な雑多な刺激を避けて、

内面を見つめる時間を持つということだ。

瞑想、内観、禅など・・と難しく考えず、

とにかく・・こころの騒ぎを静める必要がある。

 

こころの静寂を図ること、

これは絶対といって良い。

 

不安や義務感などでバタバタ騒いでいるときには、

決して心の平安は得られない。

1日のうちで必ずこころを静かに保つ”実践”が必要である。

 

電車の中、ひとりの時、トイレの中、風呂に入っているとき、

今は未だ、気付けば時間はいくらでもあるはずだ。

 

外側世界、雑多な不安ややらせに満ちた五感の世界でなく、

静かに内面に意識を向ける時間をもつことだ。

 

 

これを実践するならば、

その程度、ちょうどその程度づつ、

マインドの静寂さを感じられるようになり、

 

マインドの静けさが意識できるならば、

そこに言葉で言われる真の意味の

「幸せ」があることが実感できるだろうし、

そこに平安の波動を感じるだろう。

 

うれしいなあ、たのしいなあ・・幸せなんだなあ・・

そういってもいいなあ・・という感覚が、

そんな実感が

自然と、

わき出て来るのである。

 

それが私たちの周囲の時空間の、

その色合いを次第に変えてゆくことになるだろうし、

さらには、

いつか来る、持続する次なる人生へも引く継がれるだろう。

 

幸せは内面で感じる・実感するものであり、

文字列を読んで記憶する類のものではない。

 

これらは知識、学、頭だけでは理解・実感不能である。

実践・実演・・・実存・・・

そう在ること・・以外には・・ない。

そして、

そのための人生ではないのだろうか?

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠に有難うございました。

 

 

 


(35)幸福は既に内在するもの

2022-01-11 18:20:07 | 意識の科学(総合編)

幸せは外側からくるものとか、環境次第とか・・

そんな風に考えていた人も多いだろうが、

実は全くそうではない。

 

幸せであるためには、

まず幸せの感覚を内面で起す・起動する必要があるのだ。

つまり、幸せとはその人の・・意識的な創造によるものであって、

偶然の結果としてやってくるものではない。

 

・・・

物的環境や人的処遇が幸せを決める?・・等、

大きな詐欺的ともいえる観念上の嘘と言わねばならない。

 

幸せはたまたま起きるもの、偶然の結果で生じるもの、

環境次第で幸せが決まる・・

財物・地位・血筋・容姿等で決まるもの、

そんな風に考えさせられていただろうし、

世間の多くがそういう漠然とした常識を持っているだろうけれど、

嘘も甚だしい。

・・・

ひょっとして、あなたも幸せではないと思っているだろうか。

というか、幸せという言葉自体に、

どこかあり得ない状態を聞く様な違和感・・、

自分とは関係が無いような異質感

あるいは

ある種の気恥ずかしさがあるかもしれない。

そんなのあるの?・・・

 

多くの人は、たまたま幸せを感じる出来事があって、

それで、初めて幸せを感じると信じているかもしれないのだが、

注意深く自分自身(意識)を観察すれば、

結局は、幸福とは内面で実感することだということだ。

 

幸せとは・・環境や出来事そのものではなく、

それを契機として・・その人が感じるものである。

 

感じるとは、一般に感情などと呼ばれている意識(振動)状態だが、

その感じるものの中に、

安心感、平安、うきうき感、喜びなどがあれば、

それを幸福感と言っている。

 

同じ出来事がいくらあっても、それで幸せを感じるとは限らない。

外の世界が独り相撲をして、気まぐれに何度か、

あなたのために幸せを運んでくるのではない。

宝くじが当たらなければ幸せになれないわけではない。

 

もし、たまたま偶然に外側から幸福がやってくると信じていれば、

まず、そのとおり、ごくたまに幸福感が訪れることになる。

「あー、あの時は幸せだったなー」

「今は何てざまだ・・・」

 

しかしながら、

幸せとは、元来・・内面で感じるものである。

内面に幸福感の種(因)が無い場合は、

どうして幸せの知覚事象(果)が起きてこようか。

・・・

外の世界に知覚され、発見されるものは、

常に内側の因によって生起される。

 

内面に「幸せを感じる」という意識的原因があるからこそ、

結果として投影される事象世界に、それが現れ出ているということだ。

光源無くして投影無し・・である。

 

内面にないものは、外面にも発見されない。

内面に種が出来れば、それが外面に展開する。

それは、生命表現を表す草木を観察してもわかることだ。

 

これらの一種の原理・法則と言えるものは、

あるいは「因果律」・カルマの仕組みとも呼べるだろう。

 

こういう意識を含んだ言わば5次元認識は、

言わば生命・意識の顕現の方式というべきものであり、

物質の反応や運動だけを扱うような、

3(4)次元的認識では理解できないはずだ。

なぜならば、

時空間(4次元)だけで、観察する”意識の次元”が抜けているからだ。

 

幸福はすでに真我に内在していて、

それを意識的に発動することで様々に体験として展開する。

 

何があっても無くても、

<あー、わたしは幸せなんだ・・>

そう感じること、そう感じようと意識的になること、

それに意識を合わせ続けることは・・・、

 

その意識的実感の程度に応じて、ちょうど、その程度

・・それが体験事象として生起されることになる。

 

「あー、わたしは幸福だ・・」と感じることの中には、

安心感、平安、うきうき感、喜び、躍動感、好奇心等・・

様ざまな嬉し楽しが含まれている。

 

貰うのでなく、取るのでなく、待つのでなく・・

そういう侘(わび)し、寂(さび)し、悲し、苦し・・でなく、

 

意識して、嬉し・楽し・愛し・可笑し・・を創造することだ。

 

だって、誰でも幸福を願っているではないか?

 

種がまかれれば、自然の法則に従って必ず刈り取るのが、

因果の法則である。

・・・

 

余計なお世話かもしれないけれど、

もしこれをご覧の方々で、

この意味の妥当性に気付いている方々は、

まず、日常生活の中で、

是非ご自分で実践・実感の、

意識的努力をせられんことを願う次第である。

 

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


(34)すでに在る・・至福へ

2022-01-06 05:54:39 | 意識の科学(総合編)

誰でも幸福であることを願っている。

意識する、しないに関わらずだ。

動物、動物種、人、人種の違いに関わらず、誰でも幸せを求めている。

これは否定しようがない。

存在は・・創造の喜びがあるからこそ「存在」なのである。

 

誰であっても、つまらないものを好むことはない、

嬉しくないと感じるものを、大事にしようとは思わない。

あなたは嫌いな人と是が非でも一緒にいたいと思うか?

不快な状況は避けようとするし、

気持ちが悪いものを肌身離さず持とうとはしない?

不幸を好むか?

・・・・

いいや、決してないだろう。

誰でも、自分が幸せに感じるもの・・

それとつながるものだけを欲しがるのだ。

だからシュールで意味ありげな例外はないということだ。

全ての人々の目的は幸福にあると言っても過言ではない。

 

悪い人も良い人も、その思考や行動がどうであれ、

自分自身の幸福につながると信じているからこそ、

悪いことも良いことも行うのである。

人に隠れ、人にひけらかし、騙し、騙され、

嘘を言い、真実を言うのも、

自分の利益になると信じているからこそだ。

良い思考、悪い思考、それから必然的に起こる行為、

それが確信犯的であろうが、詐欺的であろうが、

真実一路の行為であろうが、

その背後にあるのは・・その時時に信じ込んでいる、

自らの幸福の追求である。

皆々、これを漠然と行っているのである。

 

・・・・

しかしながら、なかなか幸福は得られない。

これでもか、これでもかと頑張っても、

幸せを実感することは針の孔より小さいものだ。

あっ・・と思えばすぐに消えてゆく。

それは、

地で満ちている不幸の群れの中で、

夜空に輝く星々のように小さい。

・・・

たしかに、幸福でなくとも毎日生きていける。

やらねばならないことがいつも山のようにあり、

それらをこなすことが、どこか苦しいながら、

それ自体に安定・安心を感じることもあるだろう。

そうやって、瞬間にも及ばない間の、

与えられた人生を消化するものだ。

 

・・・

そして今、あなたは幸福だろうか?

もしそうでなければ、なぜなのだろうか?

得られないことに意義があるのだろうか?

 

またそもそも、幸福とは何だろうか?

それが分からないのに、得る得られないもない。

幸福であるとは・・何だろう?

なんとなくの霞の中の幻想か?

・・・

それはこころの状態だ。

こころが幸福なるものをを感じている状態だ。

明らかに、物でも状況でもない、

絶対に、地位や名誉、財産や美貌ではない。

あなたの意識する・・

それ・・その対象物、状況そのものではない。

 

言葉で表現するならば、

「あー幸せだ・・!」と感じるこころ・・のことだ。

・・・

こころ?感じる?・・・馬鹿言うんじゃない、

そんなもの何の役に立つ?

銭や財産、地位や権威が効くんだよ・・

それで幸福をつかむんだよ・・

 

そんな大嘘の支配観念に気づくだろうか?

それは、肉体自我保身への不安を払拭する、

切ない努力ではあるものの、

生存のための過ぎたる試み以外の何物でもなく、

それで幸せを感じることはない。

なぜならば・・・

不安と不信のこころが根にあるからだ。

 

常に何かの問題があるので・・

いつもこれを何とかしなければならない・・・!

そうやって、次から次へと問題・トラブル・不安・不幸を創り上げ、

それを打ち消そうと努力に努力を重ね、

汗を流し、苦渋の涙を流し、

その先にきっと・・幸福がやってくると・・・

そう集団で思い込んできたのだ。

 

そうやって・・人生を終え、気を取り直して、

また次の人生へと・・突入してきた。

 

そうは思わないか?

 

条件付きの幸福を願い、

そのための条件を次から次へと・・

次から次へと・・・

不安と不信がゆえに、繰り返し繰り返し創り上げ、

決して到達しないように、

到達しないことが良いことのように思い込み、

幸せであることが間違っているかのように、

集団で真似事しながら思い込み、

顔を見合わせつつ、互いに戦いながら、

 

どうして幸福や平和は訪れないのだろうと、

難し気な哲学者のように考え込み、

永遠のかなたに追い求め、押しやり、嘆き悲しむ。

 

嗚呼、何という屈折して腐食した、

こころ・マインドだったのだろうか。

幸せの青い鳥は外の世界のどこかにいると、

今まで外の世界のどこかに幸せがあると信じ込み、

あるいは集団幻想を信じ込み、

あちら、こちら、あの人この人と探し回り、

いつもいつも、永遠のかなたを見上げながら涙したのか。

・・・

マインドの論理、理屈の罠にはまっている場合、

これらは意味不明な言葉と捉えられるかもしれない、

しかしながら、

 

幸福とは、

幸せだ・・と感じるこころ・・。

今・・感じる・・幸福感のことだ。

 

今・・何はなくとも・・幸福だと・・感じること。

あれが無ければ、これが無いから・・

そういう条件はまったく、まったく不要なのだ・・・

他人がどうであれ、環境がどうであれ、世界がどうであれ、

 

今・・幸福であることを実感・宣言・実践することだ。

そして、

そこから・・幸福が出て来るのである。

 

常に今の瞬間に湧き出す切なる根源からの想い、

創造の源・・理由・・

「あー、わたしは幸せだ・・!」

と、

何はなくとも、

無条件で・・

今・・感じること、

今・・瞬間の・・・創造なのである。

 

理由を付加しない無条件の・・

幸せであるという実感こそが、

それがマインドが撒く「種」である。

 

種は必ず成長し大きな花が咲く。

種を蒔かずして、どうして収穫があろう?

今、無条件で幸福を感じなくて・・

どうして幸せの現象花が開くのか?

 

現実という、過ぎては消える「結果」の世界を、

繰り返し繰り返し議論すべきではない。

・・・

元にある根源の・・創造の実感・・

それは・・既に在る、

時空を超え、常にいつも在った・・

至福である。

 

それを思い出し、それを芽吹かせるのは、

今ここでの・・幸せの実感である。

 

それに気づいただろうか?

 

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠にありがとうございました。