気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

宇宙意識(2)常に神は内に在り

2015-02-20 09:22:50 | 意識の拡大
人は皆、自分が自分である・・・という自覚意識を持つ存在である。

わたしは・・わたしである」という自己を自己で認識する存在であるともいえる。

それを 英語表現で、「I AM・・」という。

また「わたしは○○である」・・という「自己創造」する存在であるということだ。

そして、その自己創造を「意識している」存在である。

しかしながら、今迄大きな勘違い、あるいは小さく自己幽閉する観念が支配していたのがこの世界である。

その自己認識する自己とは、

表現された姿・形・機能をいうのではなく、その原因たる創造者のことである。


あなたが描いた「絵や作文」が、<あなた>自身ではない様に、

あなたの言葉、想い、身体自体も、<あなた>そのものではない。




ここで「あなた」「わたし」という人称表現を、考えられる最大、最小の範囲とすると、

それを「神」「この宇宙」とするならば、

「宇宙」とは、「神」の自己創造表現体・・・、言葉、想いや身体であるということだ。




宇宙は、様々な波動(つまり言葉)で満ちているだろう?

宇宙は、様々な想念形で満ちているだろう?あなたの(その都度の想い)はそれである。

宇宙は、様々な星系で(身体・肉体)満ちているだろう?

そうだ。

宇宙も何もかも、そうした表現形であり、それ自体に自らを投入しつつ、

その無限性を、まさに無限で在るがゆえに、常にその表現型が変化しているのだ。

そして、あらゆるものが変化しつつも、自らの自己創造のパターンを保持しているのである。



我々はそれを自然界の「法則」と呼んでいる。

人間が自然界に発見する法則、科学的、電気的、磁気的、統計的・・

我々の知っている、あらゆる分野での大小さまざまな法則は、

宇宙での神の自己表現の、自己創造のパターンを部分的に読み解いた結果なのである。


だから、ニュートン、デカルト、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク・・などの、

バリバリの唯物論者的な科学追求者たちや、その他のまっとうな科学者は、

自然界の仕組みの壮大さの一部に、否応なく触れることで、

おおいなる直観を得ざるを得ないのである。



科学の力、我欲の力を使ってどこまで遠くに行っても、

お釈迦様の手がそびえていたという、あの孫悟空の物語なのである。


宇宙は全て「法則」のもとに在ること、

それは無限性を表現するための手段であること、

その法則を作っている「何か」の意図・意識があること。

今日も明日も太陽が昇り、大気が循環し、水が流れ、

諸惑星は調和の中に周回しつつ、ハーモニーを生み出し、

それらの中心たる恒星は、無数に重合、離散、変化しつつもその位置を全うしている。




そして、

我々は、それをそれとして発見、観察しているのである。

我々は、例え部分的であっても、この宇宙を意識的に見ている存在である。

その宇宙、大から小までの事象を観察しつつ、

法という、宇宙を貫く・・・意識と意図を読み解き続けているのである。

それは、

大いなる神自身、宇宙の根源神、創造の原案、が、

そしてそれ自身が、人という意識的存在である、無数の<自己>を生み出しつつ、

様々な次元でその無限性をいちいち確認、発見し続けているということなのだ。

あなたもその無限の中にある者、

無限の発見を楽しんでいるところの意識的存在なのである。




あなたが自分のこころや肉体を「自己」と想起しているように、

神は宇宙を「自己自身」であると想起しているのである。

あなたが自己を意識しているように、宇宙も大いなる自己を意識している。

その宇宙を貫く意識が・・即ち『宇宙意識』なのだ。


「宇宙意識」は当然ながら、あなたやわたし達にも貫かれて在ることに、

十分に・・・十分に気づくべきなのである!


物量や数量、大きさや比較で判断する思考は3次元的閉塞観念だ、

それは既に十分すぎた閑念であり、破棄すべきものである。

今ある生活レベルでの閉塞感や鈍重感は、

社会的規範や規則、生活の為の3次元的な物量観念から来ているわけで、

ままよ、それはそれとして、この世界における学びやカルマとも捉え、

古い世界の消え去るまでの、残りわずか一時のおつきあいと弁(わきま)えつつ、


今現在の当たり前の生き様の中で、

自らが無限の創造根源意識、神の、その子供たちであり、

かつまた、無限から生じた、無数の神のひとり子たちであり、

そして神々であることを、願わくは、

今この瞬間にでも・・・悟るべきであろう




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宇宙意識(1)世界にたったひとつ

2015-02-16 06:49:23 | 意識の拡大
人はその自覚の程度はあれども、皆「わたし」という自意識を有している。

あなたも、そして誰でもだ。

大変に身近すぎることなのだが、

「わたし」「われ」という自己意識は、世界を創り上げている中心だ。

中心というのは、それがなければ世界などないという「根源点」のことである。

あなたの世界で、「わたし」という自意識を有するのはあなた以外にない。

いやいや、人間はみなそうじゃないか、だから「世界で私だけって何よ」、というかもしれないが、

あなたの見る聞く感じるという世界の中で、あなたが・・・あなた自身だと感じている、
なんというか視点の中心というか、意識の自己中心点というか、そういう意識主体というか、

そう言う意味で、あなたの世界では「あなた」だけが存在している。

あなたの世界で、主体意識を有する存在は・・・「あなた」だけなのだ。

人は結局、皆そうじゃないかという直観はあるものの、
あなたがは他者にすぐさまなり替わることもあり得ないからには、
多分、あの人もそういう
「あの人の世界の中心である」・・ということが解るだけなのだ。

あなたの世界では、主体的な意識をもって、世界を見ている存在としては、
<あなた>しかいないという事である。

<わたし>の、歩く、走る、見る・聞く・感じる・考える・想像する世界の中心点は、
わたし・意識・・以外にないという事である。

これは当たり前のことであるとして無意識に見過ごしてきたことではないだろうか。

あなたの世界には、たったひとつの「意識点」としてのあなたしかいない。

宗教的に言うならば全ての意識を有する存在は「神のひとり子」ということである。

それを勘違いしつつ、何処かの誰かだけが「神の子」などという話に堕してきた。


象徴的に言うならば、

わたしの宇宙には「わたし」しかいない・・ということである。

この世界とは、それぞれの<わたし>が共同で創造している世界のことであり、

そうであるがゆえに、さも尤もらしく、客観そうに見えているだけのことで、

その中心は、その共同世界の「どこか」にあるのではなく、

あくまでもそれぞれの<わたし>であるということだ。


何言ってんの、中心が無数にあったらそれは中心じゃないではないか?

そういう観点は、全くの3次元的というか、物量的、計量的なものでしかない。

あなたが見る・聞く・感じる、考える、想像するところの「宇宙」、

その根源は・・・あなた・・なのである。

とは言え、

わたしが世界の根源である等と言っても、

そんなもの何も自覚せず、誰に言いつけられもせず、教育もされず、

目先の外の世界に目を奪われ、ローンを負い、子育てに奔走し、仕事で毎日疲れている、

表面上のわたし・・そのものという意味ではなく、

今まで、そういう意識レベルで頑張っていた・・その意識を生み出すところの、

わたしが<わたしである>という自意識、自己認識を生じせしめるところの、

本質のわたし・・のことである。

それを創造主だとか神だとか、根源意識だとか、宇宙意識だとか呼んできた。


本質のわたし・・あるいは魂・意識と言おうか、それは、

日常のどういう事もない、人としての「小さな自意識」を生じせしめているところの、

全ての背景に間違いなく存在している・・・大いなる意識・・・神なる「わたし」のことだ。

これはある意味で驚天動地とも言えることだが、単なる「事実」を述べているに過ぎない。

わたしや・・あなたがそこに在る・・事そのものを表現しているだけのこと。


本質では、あなたの意識する世界には誰もおらず、居るのは常に「あなた」である。

これはこの宇宙が生じている事実の相似形、フラクタル構造でもあって、

宇宙には、その部分と見えるものにも、

そのすべてが畳み込まれているという事を示しているのである。


この世界においてさえ、その小さいけれども「神なるわたし」・・に気付き、

さらに大いなる意識へと拡大する自覚が生じることを神は願っていることだろう。

それが普遍的な「親」の意識である。

そうではないか?






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臨死体験の真実(5)死後の生の証拠(後半)

2015-02-08 03:17:43 | 魂の諸相
「生まれ変わり?・・・そんなの迷信だよ、科学的じゃない」とある人が言っていた。
当たり前のように、さも当然の科学的認識のように・・・だ。
しかしながら、それは現在までの「物質的科学では証明できない」というだけのことに、全然気付いていないのである。
こんな感じで、何事も自らが確認し、腑に落ちるまで探究することをせずに、尤もらしい権威筋の言葉を受け売りするだけに徹している人も多いだろう。
だれも決して責任等持つわけでもないのにだ。


人生、生きるとか死ぬとかいうことは、まるでDVD映画を「何巻も借りて見る」ようなものだろう。
また、シリーズ本を「何冊も読む」ようなものでもある。
次元設定、シチュエーションが違えども同じパターンではないか。
体験、物語自体に・・・自己の意識を投影・投入する・・・そういうパターンである。

それになぜ何巻も鑑賞したり、何冊も読むのだろうかと言えば、結局それが面白いからだろう?

例えば、今迄のこの地球の演目ように、
そのテーマが無知や悲・喜劇のストーリーならば、
その主人公は、その映像や物語の中で、楽しい反面どこか悲惨で苦しい役をも負っているものである。
あなたはどうだろうか。

しかしながら、「読者」(魂)としてのあなたは、
その物語に引き込まれ(下生して)、登場人物にいつか成り替わり(人格を形成し)、
それを『自分のこととして味わう』ことで、ハラハラ・ドキドキしつつも、
実は魂レベルではその醍醐味を感じているのである。
それは、魂としての本質の<あなた>が、ある人格を演じつつ体験進化しているということだ。

しかしながら、小さな表面意識、それも不特定多数の影響をもろに受けて、常識観念にはまり、
それにがんじがらめになっている場合はなかなか気づけないものである。
いわゆるマトリクスの中で身動きできない在り様とも言える。

自己とは何か?・・・まるで、てんで皆目わからずに人生を送る場合もあるわけだ。
だから本質の自己を思い出す・・までは、この世界あるいは同レベルの世界で生死を繰り返すことになる。
それはいわゆる3次元的な、物質偏重的な観念世界独特の学びだとも言えようか。
ところが、それもいつか卒業すべき時がくるのである。

しかしながら、今までのような残留と再生は、今回の特殊なステージでは不可のようであり、
それは同じレベルの世界での横滑り的再生となるかも知れない。
それも、どうするのかを、あなたの本質:魂はすでに選択済みという事かも知れないのである。


今はそのチャイム音が教室全体に鳴り初めていることに、本当に気づけるだろうか。
時は金なりではなく、今の時は目覚めの鐘鳴り・・・ということだ。

この時期に及んで、何を言おうと、どうなろうと、未だ本質の自己に気付けない人々は、
そういう人生物語の中で、喜々としつつ没我となっている段階なのだ。



そんな風であれば、
体験者としての魂:本質の自己に無自覚である為に、忘れたままであるために、
いつか、その(人生)物語が必然的に一巻の終わりとなった場合、一時非常なショックを受けることにもなるし、
それを観ている「高次の自己」にその意識を戻すプロセスさえも忘れてしまうだろう。

そのための救済のプロセスとして、
臨死体験や体脱体験の、その事実認識や、
否応のない「科学的」「統計的」な証拠が出てくるようになったのだと察してよいだろう。

そう、今はもう目覚める時なのである。
ずっと、今までの「未だ」は・・すでに「もう」なり・・・ということだ。

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「臨死体験9つの証拠」 P76より・・・
6.臨死体験中に出会うのは、まず例外なしにその時点で死亡している人間で、ほとんどの場合、親族である。
 臨死体験中に知り合いと出会うとき、それは必ずと言っていいほど死んでいる人間だ。対照的に、夢や幻覚の中で会うのは生きている人間が多い。これも臨死体験と夢や幻覚とを区別する際立った特徴で、臨死体験の信憑性をいっそう裏付けている。
 臨死体験者が見覚えのある人物に出会う事例は多いが、誰だかわからないこともある。しかし、のちに一族の古い写真を見るなどして、身元が判明するケースもある。

7.幼い子供の臨死体験と大人の臨死体験の内容が驚くほど似通っているという事実は、それらが現世での何らかの信条に影響されたものではないと強く示唆している。
 五歳以下の幼い子も含めた子供たちの臨死体験の特徴は、大人の臨死体験の特徴とほぼ一致する。この事実自体が、臨死体験は、夢やでっちあげではなく本物だという強力な証拠だ。
 なぜなら子供たちは大人と違ってほぼ確実に、今まで臨死体験のことなど耳にしてこなかったはずだからだ。彼らはライフ・レビュー、トンネル体験といった臨死体験の特徴をおそらく何も知らない。
 自ら臨死体験---多くは生まれて初めて---をして初めて、そうしたものの存在に気付く。子供と大人の臨死体験の特徴がほぼ一致するという事実は、臨死体験が真実で、何らかの信条や文化的影響、人生経験に触発されたものではないというもっとも強力な証拠と言える。

8.世界中の臨死体験の内容が驚くほど共通しているのは、臨死体験が本物だという証拠である。
 この事実をわかりやすく示すたとえ話がある。アメリカ人とスペイン人とメキシコ人の家族がパリへ行ったら、三家族とも同じエッフェル塔を見るか?
 答えはもちろんイエス。違いが出るとすれば、それぞれの説明の仕方である。これと同じことが、異なる文化圏の臨死体験者たちについても言える。私たちのもとに世界中から寄せられる体験談からは、その内容の驚くべき共通性が見てとれる。

9.臨死体験者は、体験後にさまざまな面で変化を遂げ、その多くは一生続く。
 研究では、臨死体験後にその人の人生にはっきりした長期的な変化が起こるという結果が出ている。まず臨死体験者は死への恐怖が薄れ、これと反比例するように死後の「生」を信じるようになる。死から生還したあと、人を助けたり癒したりする職業を目指すケースが見られた。
 さらに彼らの多くは臨死体験によって大きく変わり、それまでとは違う人間、つまりより善良な人間になっている。





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臨死体験の真実(4)死後の「生」の証拠(前半)

2015-02-04 19:55:35 | 魂の諸相
笑える話ではないか。

良くわからないままに放置しているがゆえに、

死を怖れ、忌み嫌う事で、

逆に、生が委縮し、生に囚われ、生きにくくなるのだ。

本末転倒なので笑えるだろう。そうではないか?


真に死という現象を理解し、死後の生も明らかとなれば、

また今の生も・・・より意味あるものとなるのだ。

そうすれば、生死の区別など無くなって、ただ「今」の・・・変化のみがあることが悟れるだろう。

毎日のサイクルは小さな変化であり、人生のサイクルはより大きな変化に過ぎない。

本質の<われ>すなわち、魂の表現形の変化はあれども、真の<われ>は不変なのだ。

不安だとか、死だとか、怖れだとか、騒ぎだとか? 一体全体・・、

だから、それがどうしたというのだ?

人のそういう・・・無条件の・・「穏やかで不屈の意識」こそが、強力なガードとなり盾ともなるだろう。

・・・・

そう、今の時期は・・・まさに、それが問われているのである


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臨死体験 9つの証拠(ジェフリー・ロング,ポール・ペリー共著)
71ページより
・・・

死後の生の証拠

1.意識不明、あるいは臨床的に死亡しているとき、非常に系統だった明瞭な体験をするというのは、医学的に説明不可能である。

 私たちNDERFの調査では、「身体状況がこのまま改善しなければ死に至る」と予想されるくらい身体機能が低下している者を「臨死」状態にあると定義している。臨死状態にある者は通常意識不明で、呼吸と心拍が停止し、臨床的に志望している場合もある。
 臨床的な死亡状態で「意識を伴った経験」をするのがどれほど驚嘆すべきことか?
心臓が止まったらたちまち脳への血流が止まるという事実を伝えれば少しは解ってもらえるだろうか。
・・・
2.臨死体験者は、しばしば体外離脱状態に陥り、そこで見聞した内容はほぼ常に現実と矛盾しない。

 臨死体験者は多くの場合、最初の特徴として体外離脱を体験する。そして見えるはずのない出来事を描写する。見るはずがないというのは、主に彼らが意識不明状態である為だが、ときには肉体から遠く離れた出来事を説明しているためである。
 意識が抜け出たあとの肉体や、自分に施される懸命な蘇生処置を目撃するケースが多い。何百もの事例で報告されているこれらの描写は、現実と矛盾しないことが報告されている。
・・・
3.盲目の人たちにも臨死体験は起こり、視覚的体験を伴うことが多い。

 生まれつき完全に盲目の人は、目の見える私たちが日常認識している視覚的な世界を全く認識できない。・・・だから彼らに視覚をわかってもらおうと別の四感にたとえても、うまくいかない。
 それなのに彼らの臨死体験には、多くの場合視覚的な体験が含まれている。



・・・
4.いかなる類の意識もあるはずもない全身麻酔下で、臨死体験が起こっている。

 全身麻酔下で明晰な体験は不可能で、ましてや日常より意識レベルがあがることなどありえない。
しかし調査では、全身麻酔下での臨死体験が何ダースも寄せられた。次に挙げるデボラの例もそのひとつだ。彼女は一三歳のときに簡単な手術を受けるため入院し、麻酔が原因で心臓が停止した。医師が懸命に蘇生を試みる中、デボラは突然、自分が体外に出ているのに気づいた。

【手術中に麻酔のため心臓が止まった・・・。
気づくと天井に浮いていて、台の上に横たわっている私の体が見えた。
医師たちが焦って、私が死にそうだと話していた。怖くはなかった。とても親切な人がふたり、一緒にいてくれたから。
そのときは天使だと思った。
心配しなくていいよ。守ってあげるからと言ってくれた。

ヒュン、と音がしたと思ったら暗いトンネルに入って、光に向かって進んでいた・・・。
女の人が私に手を差し伸べてくれた。私が誰だか知っていて、しかも愛してくれているようで、そばに居ると安心できた。誰かはわからなかったけれど・・・。

手術から何年もたってから、たまたま父方の祖母の写真を見せてくれた。
父を生むときに亡くなったそのひとは、トンネルを抜けた先で私の手をにぎってくれたきれいな女性だった。
それまでは一度も写真を見たことがなかった】


(つづく)



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