気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

全ては兄弟・姉妹であるということ

2012-04-29 09:27:39 | 直感真知

「人間とは何か?」は、もっとも本質的な問いかけであると言えるだろう。

 

そして「あなたとは何か?」という問いかけも、また本質的に重要な問いかけであろう。

 

人間とは、

 

まさに 「自問自答とも言えるその問いかけの出来る存在」 ということが1つの答えなのである。

 

言わば他者に、そして自分自身に<意識的>になることがその特徴の意識生命体である・・とも言えるだろう。

 

二足歩行の知的生物・・というイメージ・カテゴライズは、人間という外見のほんの1側面に、人々の意識を固定するような作為的想念のことであると言われても仕方がない。

 

我(われ)という自己意識、あるいは自己認識の深化、拡大を「意識的進化」というならば、我々すなわち他の人間達も含む、その集合せる人間社会とは、

 

我(われ)という自己認識を進化させるための、無数の鏡、あるいは参照点であるとも言えるのである。

 

それはすなわち、人間関係というものを通じて進化する知性の働きなのだ。

 

あるいは一時はその中でもみくちゃにされながら、

 

あるいは一時はその中で孤独を味わいながらも、

 

あるいは一時は押さえつけられるような体験をしながらも、

 

それを通じてこそ、自らが何者であるかということを、

 

身を持って知ってゆくことが出来る、言わば無限の<鏡>の配置された仕組みとも言えるものである。

 

ここでいう仕組みとは、それは人知、加工知からのものでなく、

 

気付かぬだけで、既にあった、常在の法則であると言えるだろう。

 

普遍的法則であり、言葉を変えれば真理の道であり、また天の知、大自然、宇宙の法則というべきあり方である。

 

こころを広くもってこれを観るならば、

 

人間達とは、社会とは、お互いを理解し合い、その気付き、意識をより深くより広く切磋し琢磨してゆく仕組みであることが理解できるだろう。

 

それこそが本来の、人間達の集合、あるいは有るべき集合意識と呼ばれるものであろうか。

  

例えば考えてみれば解るけれども、宇宙にたった1人の世界では、どんな刺激も反省も、後悔も、自慢も、落胆も、嬉しさも起きようはずがない。

 

不満が無ければそれに相対する満足もなく、恐れも無ければそれに相対する安心もないはずである。

 

嫌悪が無ければ、好きもあり得ず、

 

大きさが無ければ、小ささもあり得ず、

 

辛さが無ければ安堵もあり得ない。

 

そのような、ある意味で2極性ともいえる、相対的な光の陰影を学ぶことが出来る世界として、今こここの地球という生命圏があったと考えても良いだろう。

 

我々は、大きく言えば地球に転生を繰り返した意識達は、制限された感のある時間と空間の中で、

 

右に行き、左に戻り、

 

あちらにぶつかり、こちらに反発され、

 

落胆の極みに涙も枯れ、

 

歓喜の極みにほとばしる涙があふれる、

 

上に登りつめた時、そして下に落ち込んだあの時・・、

 

・・・そのような2極性とも言える狭間で、辛抱強く体験と知的集約を成し遂げてきたのである。

 

あなたもまたそうではないか。

 

人間が、身体をともなう体験と、その知的集約を生み出す元にあるのが<魂>と言われるものなのだ。

 

体験を通じて大いなる知性につながる、言わば進化の大道を歩いている「本質」たるあなたやわたしが、<魂>と呼ばれるものであり、

 

その時々の身体と、それを通じて体験を重ねることで得られる知性、そしてそれらを生じせしめる普遍的なソースともいえる「魂」あるいは「霊性」を兼ね備える者こそが、あなたであり、そして私達である。

 

人間とは、

 

<身体>のみにあらず、

 

また<こころ>のみにあらず、

 

また<魂>のみにあらず、

 

それらを統括したところの極み無き一点、あるいは無限遠点をも、

 

軽く小さく容易に含んであるところの、一なるものの顕現である。

 

全体と部分、有限と無限が入れ子になった、フラクタルな構造は存在宇宙の普遍的な仕組みであろうか。

 

すなわち無限たる<全体>が、あらゆる<部分>に自らを畳込んでいる不可思議な仕組みに気付くことが出来るだろう。 

 

 

例えば人、それを宗教的、観念的に言うならば、

 

我々は皆、神の化身あるいは神の子ということになる。

 

そういうことにどこか、静かに謙虚に気付けるだろうか。

 

神とは完全無欠、静的な完成品などではなく、

 

常にダイナミックに変化し続ける、あるいは無限を展開し続ける、あるいは無限を知り続けることの、極みなき「嬉しさ」を味わう仕組みであるとも言えようか。

 

存在することの嬉しさが無ければ、どうして今・ここ・世界・宇宙があることだろうか。

 

おのれに目覚めた者、人間・・、

  

意識を有する<今>ここ・・の存在、

 

すなわち、いわゆるところの神の化身であるあなたや私たちが、

 

皆兄弟や姉妹であるという事実に気付いたならば、

 

誰がどうしようと、何をしようと、

 

愛や思いやりを持たないはずがないではないか。

 

世界が無限に展開しつつそこにあるのも、

 

ただ ひとつ と言うしかない、空(くう)たる無限があればこそであり、

 

またそれを一貫して、表出しているところの普遍的意識の主テーマは、思いやり と 愛 、そのものでしかないのだ。

 

人は皆気付く・気付かないに関わらず、

 

大いなる愛と思いやりの中に生かされている・・。

 

どの人が気付いていようが、誰が今がどうだろうと関係は無い。

 

それはまさに事実である。

・・・・

世間での、騒ぎまくることを良しとする者たちの醸し出す愚かで嘘に満ちた情報の類から、あなたのその意識眼を外してみようか。

 

太陽の暖かい光も、

 

頬をなでる心地よい風も、

 

時には荒れ狂う嵐であっても、

 

道に咲く小さな花や雑草たちも、

 

あなたの接する家族や愛想のない御近所の人々も、

 

どこか嫌々やっているかもしれない仕事の先の人々も、

 

毎朝顔を洗う水たちも、

 

毎日変わる空の雲たちも、

 

夕暮れ時の大空を行く鳥たちも、

 

たとえあなたに親切でなくても、

 

また、何も物言わず、何を語らずとも、

 

そこに一緒に同時に存在しているあなたの仲間であることを、

 

その身をもって示しているのだ。

 

それは無理やり思う類の、センチメンタルな感傷などではなく、

 

 

これが今・ここ・・の本質ではないだろうか。

 

 

 

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観自在

2011-10-03 06:20:59 | 直感真知

人間は肉体を有しているが、人間は肉体そのものではない。

 

数十兆と言われる細胞で構成されている我々の身体は、さらに無数の分子・原子によって構成されている。

 

さらにまたその原子自体も、無数の素粒子によって構成されている。

 

例えば、その原子・分子・素粒子などを量的に数えることが可能であろうか。

 

いやいや、

 

多分それは、眼前にある1つのこの宇宙の中の恒星、惑星、あるいは原子・分子・あるいは素粒子の数を数えるのと同じようなことだろう。

 

一定の体積であるからには、それなりの数量はあると推測可能ではあるものの、人間知で数えること自体に無理があるとも思える。

 

またそれらの無数の構成要素が、完全なる調和をもって、各々無限ともいえる相互作用を通じて、

 

今のあなたやわたし達の「肉体」を現前させているのだ。

 

我々の肉体を構成する要素も、量的計測、カウントなどの物理的方法を超えているということである。

極微の存在するか存在しないか定かではないレベルの素粒子群は、自らを自らたらしめるべく、重合、結合を行う事で原子・さらには分子、さらには細胞となって我々の肉体を作り上げつつ、それを維持している。

 

それがあなたの「肉体」となって、そこに現前しているのだ。

 

実のところ、

   

人が意識的に身体細胞の働きを細かく指示しているわけではない。

 

すべての肉体の活動は我々の意図に関係なく自然に行わなわれている。

 

あなたの今の肉体もそうである。

 

あなたのごく表面の意識ではなく、大いなる意識、あるいは宇宙意識、あるいは全体そのものの意識が、

 

あなたの肉体を生かしているということである。

 

微小の部分で創生され維持されている肉体の在り方も、

 

それは一糸乱れず動いている、

 

それこそ完全円満なる調和そのものではないだろうか。

 

人間のこころで痛めつけた肉体の疾患もいつか自然に治癒するように、

 

それは自動で、自然に完全なる調和を常に志向しているのだ。

 

我々は肉体を通じて顕現している、謂わば霊的実在であるとしても、

 

その肉体の驚異的な在り方にも、あり得ないような奇跡と調和を感じないではおられないはずである。

 

また、我々が肉体を超える『霊的存在』であるが故にこそ、

 

その1つの現われである、この『肉体』を観照することができるのだ。

 

 

 

それとも、

我々は飯を食らい、排出し、性衝動で突き動かされ、あるいは肉体存続のために他の命を犠牲にするような、単なる猿の頭脳進化の結果だと、本当に信じているのだろうか。

 

世が弱肉強食だという嘘はどこから出てきたのだろうか。

  

それは一体ぜんたい誰の洗脳なのか。

 

学校の先生か?、親たちか?あるいは、偉そうな議員か?

 

あるいは政府の訳知り顔の役人たちか?

 

あるいは世界の表の裏で支配している者たちか?

 

あるいは虐げられて歪曲した思想に固まった、哀れな民族の仕返しなのか。

 

それは真実なのか?

 

いいや、違う。

 

そんなことよりも、何よりも、他者がどうであろうとなかろうと、

 

我々は自らの「観念」の鎖を、自らで解き放たねばならない。

 

これこそが真実なのだ。

 

自らの『観念』は、誰が言おうと、皆が言おうと、

  

結局は自らで造り上げるものである。

 

造り上げたものは自分で刈り取る定めでもある。

  

これは逆に意識を有する人間であるからこその、完全なる自由さを示していると言えるのだ。

 

不自由だ・・と宣言して、自らを不自由に落としこむこと、

 

その不自由さを作り上げる能力は、人が自由な意識存在であるがゆえのことである。

 

他者のおかげで不都合を味わうと信じ込むこと。

 

実はこれこそ、笑える話なのだ。

 

その不自由さを、自分以外の他のせいにする幼き観念、

 

皆がそうでないなら、自分もそうでないだろうという、

 

いわゆる他者依存の幼児的観念、 

 

自らの映しだす哀れな自らの姿、

 

それを観て、それを何かのせいにするようなこと。

 

 

それすらも気づけぬことにこそ、人間本来あり得ざる闇に閉じ込められているということを悟る必要性があるのだ。

 

何であろうと、教えられた嘘であろうと、それをそうだと信じ込んでいること自体が、自らの造る観念に束縛されていたということである。

 

 

悟りとは自らの『虚妄の観念』からの解脱である。

 

その為には、その観念自体をそれとして客観視しなければならない。

 

 

まさに、

 

我々は日常で、様々な不満を憶え、不平をこぼし、あれが悪いとかこれがダメだというような、邪で不調和な思いを抱きながら、

 

こころを重くし、足取り重く歩いているようなものだが、

 

そういうこと自体が、何か重大な意識的存在、あるいは人としての『過失』であると思えないだろうか。

 

我々は、発展途上の人類のこころの集大成である、この文明の中にいて、それら不完全さばかりを論(あげつら)いすぎたのだ。

 

他への不満の前に、自らのこころの在り方を客観視しなければ、どうしてもこうしても、他者を責める観念ばかりが横行してしまうことは火を観るより明らかではないのか。

 

 

また、外の輝ける新しい時代の仕組みについて考える前に、

 

まずその前に、

 

自らの依って立つ大自然の在り方に、こころの底から気付かなければならないのだ。

 

大自然の中にこそ、学ぶべきものがあるということに気づかねばならない。

 

自然は搾取すべきものではなく、それから学ぶべきものである。

 

我々は、勝手に必死に生きるのではなく、

 

大自然の、大宇宙の ふところに生かされてあるということを、

 

当然のこと、当たり前のこととして気づくべきである。

 

観るべきものは、我々の小さく幼いこころの作り上げるところの文化、文明の方ではなく、それらを包んで存在するところの、大自然、大宇宙の在り方のほうなのだ。

 

我々をいつも包んでいる大自然、

 

それはいつもそこに在るではないか、

 

逆に、我々の愚かな行き過ぎの文明のおかげで、

 

かろうじて息も絶え絶えになっていながら、

 

海も山も空気も、いまだそこにある。

 

涙が出るほど、有難いことではないのか。

 

 

 

毎朝確実に昇る温かい太陽、

 

夜をそこはかとなく照らす、高貴な光を発する月、

 

寝ころべば、ざわざわと寝床を作ってくれる草たち、

 

途切れることなく、我々の肺を満たしてくれる精気に満ちた大気、

 

あらゆる動物の生存のための酸素を供給している様々な植物たち、

 

塩水と淡水を見事に切り分ける輝くような水の循環、

 

 

我々は、このような無条件の豊かさ、無条件のいたわり、無条件の愛の顕現によって、

 

生かされていることを、いつから忘れてしまったのだろうか。

 

これらは決して単なる感傷ではなく、今我々の置かれている厳然たる事実であることを知るべきではないだろうか。

 

知らぬこととは言え、自らを含め、大自然の無条件の、そして文字通り言葉に出せないほどの、そのいたわりと愛に対して、人類自身の無知なるそのおバカさ加減に気付くべき時なのだ。

 

大自然、それは我々を育て慈しんだ親たち以上に、愛深い現われであることに、もう気付かねばならないのだ。

 

人工的な小さく愚かな価値観の中に、うずくまり、不平を言い、

 

最後には金融という単なる貨幣の動きばかりに惑わされ、

 

上に行くほど重たいばかりの社会、組織の維持のために人生をすり減らし、

 

たまに、思い余って革命だ、改革だと騒ぎまくる。

 

いつも最後には、生活のためと、自己存続のためといっては、GDP信仰や経済発展という自然破壊を続けようとする。

 

我々を黙って生かし続ける大自然を壊して、人間だけが幸福になれるわけがないではないか。

 

大自然の中の、我々の朋友たる動物、植物を滅亡させて、人間の文明が栄えるわけはないではないか。

 

 

大自然、大宇宙、微細なものから極大まで、

 

調和に満ちたこの次元世界、

 

我々の喜び遊ぶこの世界、

 

それを「そう」現前せしめているところの極大とも言える「

 

それなくば一瞬とても、誰すらもこの世界で生きてゆくことは出来ないのだ。

 

今ここに在ることに、どこをどうしても、何をどう言い繕ったとしても、

 

まず、出てくるものは『感謝』以外にないではないか。

 

あなたは、例えば大切にしている自分の肉体にも深く感じるところはないだろうか。

 

言葉に現わすならば、我々の個々別々にみえる肉体すらも、まさに小宇宙とも言える在り方をしているのだ。

 

そのように現われている「あなた」は、そのままで何をすることもなく、

  

まさに小宇宙以上の存在である。

 

 

我々の両の眼から鱗(うろこ)を落とし、

 

歪んだこころを素の輝きに戻し、

 

本来の嬉しさ、楽しさを意識の底から湧きあがらせるのだ。

 

その為には外の世界という、世間という鏡に映った自らを、

 

客観視してゆかなければならないのだ。

 

曇りなき平安、動揺なき静寂、晴れ渡る爽やかさは、・・

 

自らの観念を自らが「観る」行為によって達成されるのだ。

 

観る』ことで『意識の光』が発せられ、様々な不安、恐れを感じさせるところの虚妄の観念の黒雲は消え去るのだ。

 

昔で言うところの『菩薩』とは、まさに『観自在』であるといえよう。

 

それはどこかの他の誰でもなく、すべてのあなた、すべてのわたし達のことである!

 

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中心帰一

2011-09-27 08:23:50 | 直感真知

あなたが何か?を探求し、再発見するためには、あなた自身の在り方を十分に、調べる必要があるだろう。

 

当然のことながら、今まで近すぎて見えなかった、あなた自身を観る必要があるということだ。

 

人は皆当初は、映し出される外の世界ばかりに眼がゆくものであるが、ある時に至れば、必ず自らにその注意を戻すことになる。

 

その時とは、

 

尤もらしい外の世界の在り方の中に潜む幻想性に気づく時である。

 

その時とは、

 

外の世界を観ている・・・当の<わたし>という<中心>に気づく時である。

  

それはまた、人生や世界の出来事という演目の、ある意味で刺激的な映画に観いっていた状態から、その映画を観ているところの<観客者たる>自分自身にその意識を戻すようなものである。

 

例えば、いかに刺激的で、重たく、軽く、辛く、苦しく、楽しい人生映画であったとしても、映画は映画なのだということを「潔く」見極めることである。

 ・・・

 

外の世界の価値観に・・・、いつの間にか刷り込まれた様々な観念に縛られ、振り回され、こころに傷を作りながらも外の世界を探し回ったのは、一体なんだったのだろうか。

 

取りあえずの生存のためか、快適な環境維持のためか、誰かに認めてもらいたいためか、誰かに愛されたいためか、あるいは苦痛から逃れ、出来るだけ快楽を得ようとしたためなのだろうか。

 

色々あるだろう。

 

しかし、それは一体ぜんたい何のためなのだろうか?

 

わたしやその他多くの人々は、一体全体『何を』求めて大騒ぎしているのだろうか?

 

・・・・

 

 

そうして、この世界で疲れ果て、年と共に耄碌したと言われながら、意識を無くして還ってゆくことを何度繰り返したのだろうか。

 

・・・そうした幾多の人生をあなたは少しでも憶えているだろうか。

 

残念ながらも、この多くの人間の創り上げる共通現実というこの世界が、当然ながら未だ発展途上であることも認識しているだろう。

 

また、不浄と見えるこの世界を何とか理想の世界として実現したいと思うのは一体なぜなのだろうか。

  

汚れて見える「この世界」を浄化しようとすることで、一体何を実現しようとしているのだろうか。

 

あなたの眼に映し出される理想世界の実現なのか?

 

・・・

 

いいや、それは違うだろう。

 

それは、

 

もっとも完全で、最も安心で、もっとも大切な『あなた自身』を見つけるためなのではないのか。

 

何ものにもこだわらない、何ものにも汚されることのない、何ものに対しても不動であるところの<あなた自身>を再発見するためだったのではないか。

 

鏡とは、鏡の向こうを観るのではなく、鏡のこちら側を観るためではないのか。

 

不浄なのは、あるいは不浄という観念で汚れていたのは、鏡のこちら側にあるいつの間にか身につけてしまった「こころ」という衣服ではなかったのか。

 

この世界に生まれること、下生するということは、 

 

本来無限であるあなた、無限の愛ともいうべき存在、無限の知恵ともいうべき存在・・・あらゆる可能性を含んだ<あなた>自身を、それがたとえどんな環境であったとしても、本来の姿、嬉しく・楽しい自分自身を・・再発見するためではなかったか。

  

ここは、肝心要なところなのではないかと思う。

 

 

そう。

 

この世界、ある人々にとっては不浄で欺瞞に満ちた愚かな地球3次元世界は、

 

<あなた>があなた自身を再発見するための学校、あるいは体験ワールド、あるいは修行場、あるいは遊び場なのだと思えないだろうか。

 

わたしの世界は<わたし>無くして始まらず、あなたの世界は<あなた>無くして始まらないのだ。

 

われ・在り

 

どのような理論も評論もそれに対しては全く無意味であろう。

 

どのような科学の成果も、技術の粋も、それに対しては全く寄与ができないだろう。

 

どのような世間の情報も、それに対しては全く価値をなさないはずではないか。

 

他人の理論や評価、科学や技術で出来た機器、溢れんばかりの情報が、あなたやわたし達という<存在>を生み出しているわけではないのだ。

  

我々がここに生れて、生きていること、そして去ってゆくこと、

 

それが人生ならば、

 

その人生をどう感じて、どう昇華してゆくかは、

 

ひとえにわたし自身の持ってきたテーマなのではなかったのか。

 

世界や宇宙の誰かが決めることでもない。

 

あなた自身を思い出し、探し出すのは「あなた」しかいないのだ。

 

 

ただ・・、まず気付くべきは、

 

今は、あなたの意識において、どこか遠く隔たった感があるかもしれないけれども、

 

あなた方も、そしてわたし達も、

 

言うならば<無限>、あるいは<神>、あるいは<ひとつ>、あるいは<大いなる意識>・・から出てきた、それと1つのものであるということだ。

 

すべての中心は、あるいは、一なるものは、無数の<わたし>中にある。

 

あなたの中に、私たちの中に・・・。

 

・・・・

 

それは、理屈や理論や評価分析ではなく、

 

今、ここ・・・での直感で認知することができるかもしれない。

 

あーでもなく、こーでもない・・・騒ぐこころを一時でもぬぐい去るならば、

 

自分を改めて、静かに静かに感じることができるだろう。

 

そのうち、

何かの・・不動の一点・・・を垣間見ることができるだろう。

 

何か大いなるものの<中心>を感じることができるだろう。

 

部分ではあるが、全体を包んでいるような不動の一点。

 

今は未だ不完全であるが、完全を包含しているような一点。

 

・・・

 

そう、理屈でも評価でもなく、自らで自らを感じることの中に、

 

すべての根源から放たれている光を感じることができるだろう。

 

わずかであっても、気のせいであっても、<それ>を感じることができるだろう。

  

そう、

 

それは、まさに<それ>なのである。

 

So  be  it  !!

Kinmok24

金木犀の花が香る季節になりました。

 

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わたしは・・私を含む全てのこと

2011-08-05 08:38:57 | 直感真知

わたしは、個人としての「私」であるが、それが全てではない。

 

私の肉体は、私が観察するところの1つのユニット、フィールドであるが、

 

それは「わたし」ではない。

 

肉体に備わる両目は、外の景色を見ているとされているが、

 

「わたし」は肉体の私の中にいるのではない。

 

わたしが見ている全てが、すなわち「わたし」のいわばフィールド、身体である。

 

1つの個別の肉体機能が、別個の外界の一部を見ているのではなく、

 

見ているその物、その景色全てが、対象すべてが、

 

実は「わたし」なのである。

 

観察者と観察対象は不可分である。

 

すなわち、

観察者と観察対象、その双方はシステムとしての「1つの系」を作っているとも言えるだろう。

 

その両方が1つ(ユニティ)となって観測され、それをそれとして観察しているものこそが、二元性を超えている系であり、一段と高い次元の有り方である。

 

あなたの観ているもの全ては、すなわち大いなる「あなた」なのだという事が理解できるだろうか。

 

あなたはそれなのだ。

 

それが意識の中心で理解できるならば、あなたは個々別々の、あるいは分離された観念の世界、この3次元世界を超えているという事が出来るだろう。

・・・

真実は、どこか遠くや、他の次元や優良惑星等にあるのではなく、

 

いつでも、「今・・ここ」 にあるのだ。

 

すなわち、見る聞く感じるこの世界は、貴方の肉体の外にあるのではなく、

 

大いなる「あなた」の中にあるのだ。

 

・・・・

 

すなわち、私は・・・・「わたし」を観察している。

 

卑小な肉体であると信じ込んできた、あるいは思いこまされてきた

 

個人の私とは、本当の「わたし」ではないのだ。

 

今はもう、しっかりと気づける人々は多いはずだ。

 

 

あなたの、見る・聞く・感じる・すべてのことが、

 

実は「あなた」自身を観察していることなのだ。

 

遠い青い空に浮かぶ雲、 野原の草花、 街並み、 アスファルト、

 

 家並み、 そびえるビルの群れ、 散歩する人と子犬・・・、

 

満点に輝く夜空の星、闇夜に映える三日月、そして毎日昇る太陽も、

 

見はるかすかぎりの全て、聞こえる限りの全ては、

 

「あなた」自身なのである。

 

五感という媒介で映ずる世界は、

 

実は私という内と、・・世界という外で切り離されてはいない。

 

外と見ゆるもの全ては「あなた」なのだ。

 

道行く見知らぬ人々、親しい家族達、それらも全て「あなた」なのである。

 

個別の肉体としての1個のあなたの事ではない。

 

全ては兄妹姉妹だというのは当たり前の事実なのである。

 

愛と慈しみ以外に、憎しみや恐怖など本来あるはずもないのだ。

 

 ・・・・

色(しき) 即(すなわち) 是(これ)  空(くう)なり、

 

そして

空(くう) 即(すなわち) 是(これ)  色(しき)なり

 

わたしは、本来全て、また空(くう)であり、

様々な個別の色に顕れるのだ。

 

今、あなたも私たちも、その1つの色として、人として顕れている。 

・・・・  

今まで、「わたし」は、肉体である私のことを「わたし」と思いこんできた。

見える物、聞くもの、触るもの、全てが「外」にあると想いこんできたのは、

 

わたしが、私・肉体であると想いこんできたからなのだ。

 

「 I am that ・・・・ 」

 

ここには、あなたを 「あなた」自身で開放する「鍵」がある。

 

既に、開けることは容易なのだ。

 

「あなた」は貴方という肉体ではなく、それを含む「全て」なのだということが解ればいい。

 

 

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