気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(20)マインドの上に

2020-05-07 07:24:43 | 覚醒意識
意識という言葉には人のこころの意味もある。
こころとは何かといえば、思考や想いである。
何をどう思っているか?・・あれはこうだ、これはそうだという「思い」だ。

その総合したものを「想念」という。
そう、想念とは、様々な思い・観念・信念などの総合されたものである。

想念の <想> は、木の年輪(目)のようにつちかわれた「こころ」を意味する。
想念の <念> は、”今”の・・「こころ」のあり方・・のことだ。

この想念をしっかり観察しなければならない。

いまはそのための日常生活であると言っても過言でないだろう。
外界を眺め、怖い怖いの合唱に同調し、鬱憤晴らしで喧嘩している場合ではない。
また隠微で解りにくい世界大戦争など、カルマの解消以外に意味は無い。

今起こされている集合意識の1部の汚流に対しては、無視せず、また入り込まずだ。
創られた恐怖の流れの行き着く先には、決して幸福も真実も無い。


想念は”情報”であり”エネルギー”でありまた”波動”である。
あなたはそれを超えた存在、観察する者であり、経験を味わう本質だ。

意識的存在(人)の行く末を決めるのは・・その「想念」である。
もちろん人の想念には極めて多岐・多次元にわたった複雑さがあるわけだが、
今・ここに・・在る・・気づいている意識・・としての<わたし>は、
まず、その根幹にある主たる想念の形に気づいていなければなるまい。
表現、行為はそれに従ってあるがままに現れてくるものだ。

なぜならば、人がこの世界にきてどのようであるか、
さらには、その経験と希望と英知の拡大のため、
またどこかの時空に転生することにも大きく関係しているのだ。


エネルギーには「保存則」というのがあって、
それは決して消滅することなく持続するということだ。
もちろんその表現型は現れては消え去るけれど、
その原因であるエネルギーは保存・持続される。
外形・表現体は当然様々な形に変化するのがその本分であり、
千変万化するのが当然であるが、その原因たるエネルギー自体は変化しない。
つまり・・その形を変えて持続する・・のである。

もちろん・・1つ1つの単独の・・形・物体自体は・・失われてしまう。

あなたが自分は肉体だと思っている場合は、
1つの形であると信じこんでいることであり、
現れた物質(肉体)としての自己認識に固定されているということだ。

「私とは死んだら終わりの物質肉体だ」・・と思い込んでいれば、
類は友を呼ぶといわれるような波動の共鳴によって、
わたしは肉体だという類の想念系と同調する。

例えばそこに恐怖が蔓延していれば、その恐怖の想念によって、
それに引き付けられ、巻き込まれるのだ。

肉体の消滅後、その保存されるエネルギー(情報)は、
その主たる想いのフィールド(集合意識世界)に同調し、
そこに想いのタネを下ろすことになる。

タネはそれにふさわしい土壌に植えられるわけだ。
魂はそれにふさわしい集合世界に体験の場を用意する。

自然界を観察し、その仕組みに感じ入ればこれは理解しやすいはずである。




目の前に鉛筆があったとしよう。
これはどうしてここにあるのか?
誰かがかつて鉛筆のイメージを持った、
こうしたほうがいい、これが便利だ、素材は・・などなど、
様々な思いを巡らして・・それを形に表した・・。
代々それを作り、それを販売し、それを購入して、ここにある。

もとは誰かの試行錯誤したイメージの集合であり、
それを身近な素材で形に仕上げたということだ。

そしてその鉛筆が無くなったとしても、
別のものを買うか、あるいは別のものを作るかすれば、
またあなたの目の前に存在することになる。

目先の物が大切なのか?
それを創造している想念・マインドが大切なのか?

古い想念形の形態化と消滅過程という、
ある種苦しいカルマの解消プロセスを・・突き抜けた先に開けている
新たな集合意識世界での基本認識であるといえよう。


主たる思いが人生の方向を決め、経験という実りを刈り取るのだ。
そして人生のみならず、幾多の転生のあり方をも方向づけるからだ。
そう、転生は偶然でも、何かの強制でもなく、想念にもとずいて起きる。
あるいは、別表現でいえは、
この想念(記憶)が、転生によって持ち越される生きた情報である。


一回ぽっきりの無駄な人生などあるわけもない。
そう思わないか?

1回だけだ・・と誰が勝手に決めたのか?
そう思って・・真剣に生きよう・・と言っているだけなのだ。

さらに、
人間として生まれて、たった数年で・・
・・わたし・・という自意識が勝手に発生すると思うか?

微に入り細にわたる想念という壮大な活きた記憶こそが、
人が人間であることを顕現・顕示しているのだ。

わたしが・・わたし・・で在ること・・意識・・それが「証拠」である。

I AM THAT I AM.

この意識原理が理解できようか、

それとも、まったく意味不明だろうか?

今・・人であること・・それは・・

それにふさわしい想念記憶、生きた情報があればこそなのだ。

これは・・あなたも幾多の転生を経てきた「証拠」である。

内面には幾多の転生を経た記憶、

膨大な情報・叡智を蔵している存在なのである。

一体全体・・誰に証拠を求める必要があろう?

必要なのはそれに、真に・・気付くことだけだ。

エゴという一過性の夢

2013-04-11 20:18:24 | 覚醒意識

●あなたの周りの他人

人間の周囲には様々な他の人間がいる。

 

よく知った人、友人・知人、仕事上の顧客や仲間、親兄弟、家族、親戚、道を通りすがる他人、電車の中の人、

 

大なり小なり、あなたが寝るまではほとんどと言っていいほど、他の人と関わっていることだろう。

 

そういう「他人」とはいったい何だろうと・・・考えたことがあるだろうか。

 

ただ単にあなたの視界に意味もなくそこに現れては、いろいろな関わりを偶然に持っていると思うだろうか。

 

個人個人別々の身体と、個人個人別々の想いと、個人個人別の感情を持っているわけであるからして、

 

当然、個人個人は別箇、バラバラ、分離した存在単位であると考えるのかもしれない。

 

その見方は、すなわち2元性の見方と言われるものである。

 

 

●全てそれぞれは「ただひとつ」の性質をもつ

 

右と左、それは別々のもの、上と下、それも別々のもの、男と女、それも全く別々のもの、老人と若者、それも別々のあり方であるという見識である。

 

あなたと私、君と僕、目の前の他人とそれを見るわたし、・・・それらも全く別物であるという認識である。

 

それはそうだろう、肉体が別箇であり、思考や感情も別箇であるわけで、同じ物ではありえない。

 

そう、例えば顕れた物質的現象としてのあなたと私は、別の表現形態を持っているわけである。

 

人は皆それぞれ異なった属性を持っている、身長何センチ、体重何キロ、生年月日、名前、性別、記憶、それらが全く同じ人物は存在しないという直観はあるはずだ。

 

顕れた現象には、同じものは全く存在しないということでもある。

 

時間空間に現れたものは何一つ同じものはない・・ということでもある。

 

これはまた、

 

あらゆる現象には 何もかも同じものはただひとつもない ということである。

 

 

そう、世界、宇宙、あらゆる森羅万象の中で、何もかも・・たった1つ、只ひとつしかない・・・ということでもある。

 

あなたもわたし達も、目の前の親しい人も、たまに嫌な人も、近所の人も、そして家にいる猫も犬も、机も書棚も、食器も、世界・宇宙の中にたった1つしか、只1つしかないのである。

 

同じ銘柄の何かの製品であっても、同時に造られたものであっても、個体として、その存在する時空座標、全てにおいて異なっている。

 

そう・・・、意識して周りを見回せば、あるいは考えを巡らせば、何の、何時の、何処の・・どれ1つとして同じものはないのだと気づけるだろう。

 

これは極めて当たり前であるが、すでにある当たり前の奇跡の連続のようなものである。

 

多くの人は、銭金、効果、効能、影響、損得、勝敗、損得などの極めて皮相な観念の習慣からその意識を外し、元からある、何時もあった事実、こういう根本的でシンプルな事実に気付くべきであろう。

 

日常とは・・・いつでも、どこでもある当たり前の奇跡のことである。

 

●すべてはかけがえのない唯一のもの

 

人は例外なく、現れている諸現象、全てにおいて全てが異なっているという奇跡的な事実の中に生活している。

 

どれ1つとして同じもの、無駄な繰り返し、意味のないおうむ返し・・そんなものはないということだ。

 

例えば、何でもお金に換算する「なんでも鑑定団」ではないが、

 

世界が、世界に1つしかないものだらけ・・であれば、個別に値付け等できるわけもないし、値千金どころか値踏みなど論外であろう。

 

銭金勘定の計算のような、本質的には実際どうでもいいような皮相な観念ではなく、

 

事の本質から見ればすべては<この上なく>貴重なことである。

 

何せ、本質において、世界に1つしかないものを、どうして他と比較できようか。

 

比較できない、相対的でないものは即ち、いわゆる絶対的ともいえるのではないか。

 

全てがかけがえのないものである・・ということだ。

 

また、

 

全てが掛け替えのないものであれば、

 

どうして、どれか1つ、何か特定の何かに執着する必要があるのか?

 

 

●2元的な価値尺度 

  

2元性の観念では、個別別箇に現れた<物>の方だけを見る、あるいはそれらの違いの方だけを見る。

  

右と左、それは別々のもの、上と下、それも別々のもの、男と女、それも全く別々のもの、老人と若者、それも別々のあり方であるという見識である。

 

そして善と悪である。相容れない別のものとする観念である。

 

あれが良くてこれは悪い、あれは高くてこれは低い、それは価値があってこれは価値がない。

  

彼は味方であって、彼女は敵である。あの人は善良でこの人は邪悪である。

  

あの国は正しくてこの国は間違っている。

  

要は、そういう手前勝手な価値観で終始していたということなのだ。

  

そういう価値観念、言わば物差しであらゆるものを観ていたということだ。

  

その根底にあるのは、 個我・・・という一過性の<わたし>観・・・である。

  

その個我への飽くなき執着・・・

  

それを<エゴ>とも言っている。

 

 

あらゆる表現型、またそれに付随する物、財産、地位、親、子供などへの執着もそうである。

 

  

そう・・・、いつの間にか<執着>が入り込んでいるのだ。

 

  

●過ぎたる自己保存が恐怖を生み出す

  

そして、その元にあるのは何かというと、自己保存本能である。

  

人は大なり小なり、自己を生存させるために、何が良くて何が悪いのかという選別をしているということだ。

  

それは肉体護持、現状維持、生活のために必要だという無意識の要求によっている。

  

・・・違うだろうか?

 

 

肉体存続にこだわるあまり、それを何とか維持しようとして、それに適するものを善、それに適しないものを悪としているということだ。

  

要は人間が死を恐れているということだ。

 

不都合な状況は、困難を連想させ、困難は生きにくさにつながり、生きにくさは死への連想をさせるのだ。

  

悪者の行為は、自己利益を棄損し、自己利益の棄損は生きにくさを連想させ、生きにくさは死を予想させる。

  

貧乏は社会での生きにくさであり、仲間外れも集団での生きにくさであり、不名誉も生きにくさであり、生きにくさはまた死を連想させる。

  

一般的と言われる人々の観念では、

死んだら終わり、後は何もない、

従ってよくわからないけれども、とりあえず死ぬのが怖いから、

世間の中で何処か安心しつつも、

その中で揉まれ、叩かれ、這いずり回り、あるいは這い上がり、

あるいは取りあえず安堵しつつふんぞり返ったりしている。

大体そんなことなのだろうか?

 

 

違うのだろうか?

 

そういうある意味で川の流れの上の浮草のような、刹那的な状況においては、こころの下に隠した苦悩が尽きることもないはずではないか。

 

また、中には生きるためと称して、嘘八百を隠れた信条としつつ、大勢の他者をだましている者もいる。

 

特に人前に自らをさらす仕事柄か、昨今の世間の政治家などはそういう者が目立つわけである。

 

しかしながら、皆人の例外なく、いつか必ず死んでゆくのだ。

 

そうして、いったい全体どこに行くのだろうか。

 

 

確たる何かがあるのだろうか?

 

いいやありはしないだろう。

  

●過ぎたるは執着はまさに及ばざるがごとし

  

現代社会では、生きることにこだわることは良しとされていようが、

  

でもそれって実際はどうなのだろうか?

 

特に戦後の欧米流の人命尊重観念は本当だろうか。

 

自由と民主主義を標榜するどこかの国、人命尊重を謳ってきたどこかの国こそが、

 

あちらこちらに勝手に出向いては、最も大量に人命を奪ってきたのは、いったいどういう事だろうか。

  

 

なんとしてでも、何がどうであっても、そして人を押しのけても、また人を排除してでも、あるいは他を犠牲にしてでも、自己保存にこだわることに、一体全体・・どんな正当性があるのだろうか。

 

他よりも1分、1秒、1年、10年でも長く生存するために、他の全てを犠牲にして、場合によって他を殺戮し、挙句の果てに、そういうことを平然と行う輩たちはいったいどういう天国に行くというのだろうか。

 

生きること、・・・適者生存、競争、戦い・・・

 

何か根本的にズレているし、意味がすり替わっていることに気付けるだろうか。

 

  

そう・・・、生きるという、皆ともに当たり前のことが特定の個々人のエゴにすり替わっているのである。

 

  

昨今の世間の風潮はそういう風な、断崖絶壁に誘う方向に流れていることに気付けるかもしれない。

 

  

日本で渦巻いているわけのわからないTPP、放射能汚染処理のできない原発、国民のお金をつかって気ままに借金を積み重ね、挙句の果てはその担保まで収奪しようとする政治的魂胆、

  

これらは全て、個我の自己保存のために他者の犠牲を強いるという観念から来ているのである。

  

まるで、他を犠牲にしてでも、生への過ぎたる執着を良しとする、そういう集団を募っているようではないか。

  

レミングがレミングの群れに合流しようとしているようなものである。

  

そういう集団、個我の飽くなき執着の・・その行き着く先は、・・・・ない

  

 

大いなる大自然環境を与えられ、仲間である魂たち、多くの人々に囲まれながら、

 

自己だけ・個人だけ・自分だけの刹那的な生への執着にはまり込み、

  

他を犠牲にしても、目先の生存と安定に固執する人間の醜い有様を見よ。

  

そのすべての根底にあるのは、個我の抱く死への恐怖なのである。

 

 

恐怖とは、本来肉体に備わっている危険回避の反射機能ではなく、

 

個人我に執着するこころ・・すなわちエゴの妄想なのだ。

  

・・・・

 

今までのこの地球という表層の次元世界で行われていたものは、主にエゴの妄想であったようだ。

  

そして、そういう楽しくも悩み多き悪夢、自己以外をあるいは敵とするような妄想から目覚める時が・・今・・来ているのである。

  

そのうちではなく、今はもうこの時なのだ。

  

全てはひとつ・・・ひとつがすべてに展開している、

  

一は多なり、多は一なり、

 

多は他であり、そのひとつひとつが、かけがえなく、

  

また、あらゆる多、全ての他は自らの多面鏡、

  

・・・すなわち・・・あなたは・・<わたし>なのである。

  

 

お分かりになるだろうか。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


人間とは何か (2)自己の在ることを知る者

2012-12-17 10:09:20 | 覚醒意識

人間とは色々考えることが出来る存在だと多くの人は思っているかもしれない。

 

確かに、毎日毎瞬何かを・・・考え、イメージしているはずだ。

 

そう・・・、人間の特徴はその思考、想念の情報量の多さにあるということだ。

 

動物達との違いは、その思考・想念の質と量の違いであると言えるだろう。

 

なるほど、家のペットや猫さん、犬さん達は自己意識をもってはいるが、複雑にあれこれ考えることはしていないだろう。

 

これに引きかえ人間は、自分のこと、家族のこと、縁者のこと、社会、世界のこと等を次から次へと考えている。

 

あーでもない・・こーでもない・・これは駄目だ、あれもダメだ、これは良いというような色々な思考でそれぞれの意識を満たしていることだろう。

 

しかしながら、

 

そういう思考、イメージの大体が不安、不満足、不足、不完全に色づけされてはいないだろうか・・・

 

またはそんな自己や他者の不完全さのイメージが根底にあるのではないだろうか。

  

だから・・頑張れ・・頑張る・・という思考でもって、不安や不足をいつも満たそうとしているのではないだろうか。

 

社会生活でも、職業活動でも、また家庭内の子育て等でもそのような、どこかにある強迫観念で動いていることが多いものだ。

 

その強迫観念がどこにあるのか、外にあるのか?内にあるのかを見極めること、

 

外にあるように見えることも、それらすべてが人間の内にあるものの現象化であることに気付ければ、

 

どうすることが合理的かは火をみるよりも明らかなのである。

 

それをいわゆる「こころの浄化」というのだ。

 

体は水で洗い流すように、こころは意識の眼で見極めることで洗われるということである。

 

見ること、観ることはそれを意識する・・・ことであり、

 

またこの意識すること・・・・で顕現様式が影響されるということは、最も科学的なと言われる素粒子論でも云われていることなのだ。

  

自己の内面を観るという行為は、実に重要な自己認識の普遍的な方法といえるだろうし、それは思考そのものを超えた意識の有り方への気付きなのである。

 

思考とその集合した観念、世界通念自体に翻弄されるような無意識的な人間のレベルを凌駕するのは意識の力によるのである。

 

・・・・

普遍的な「意識」の中に「意図」が生じ、それがこころの波動として自己の周囲世界に伝搬されること、

 

波動として伝搬されることはすなわち情報として、色として、形として現われることになる。

 

スマホや携帯端末、パソコンや携帯電話のような電磁波のみを使った仕組みも、その皮相的な1つの使用法にすぎないのだ。

 

(くう) (すなわち) (これ) (いろ)なり・・である。

 

  

またすなわち・・・空(くう)とは意識で充満せる空間ともいえるが、実のところは全ての次元、顕現様式、世界を生じるところの<根源>ともいえるだろう。

 

我々の身体、周囲の空間、開けた世界も、宇宙の様々な諸世界も

 

その・・・・全ての元に空(くう)がある。

 

体の中にも、あらゆる物の中にも、宇宙の全てに・・・空(くう)がある。

 

xyzで測量される「空間」ではなく、・・・空(くう)である。

 

気付けるだろうか・・・?

  

空(くう)は無とも言えようが、人間の概念からして何も無い<無>ではなく、無をも含んだところの、数限りない可能性とその顕現意図を潜在的に含む・・それを示す言葉である。

 

それを知覚し、感じとり、理解出来る者が・・・・人間・・・という自己意識を有した存在なのである。

 

その全包容的意識のそれぞれの個別化された意識・・、そして自己を自己として認識出来る意識体まで拡大・深化した者のことを人間というのではなかろうか。

 

例えば、これをご覧のあなたもそうである。

 

皆々ここまで来たある意味での魂意識の猛者であり、兄弟姉妹であり、そして同胞(はらから)なのである。

 

まさに・・・・嬉しきかな。

 

 

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体とこころと魂と(9) 人間とは成長する本質・魂である

2012-11-25 09:46:58 | 覚醒意識

太陽はいつもそこにある。

 

そこにあるがゆえに我々は生きている・・・。

 

まー当たり前だと言われるだろうが、

 

これは科学的な・・という必要もない「事実」である。

 

こころが様々な社会観念というフィルターで曇っていない人間は、いつでも誰でもそれに気づくことが出来る。

 

これも、

 

実に簡単過ぎて、常に取り逃がしているかもしれない根本的な事実である。

 

その事実に向き合うのに、難しい化学式や計算式は必要が無い。

・・・ 

毎朝の晴れた日の輝くような黄金の光を感じるだけでわかるだろうし、

 

思わず知らず、顔の前で両の手を合わせることにもなるかもしれない。

 

光をもらうからありがたい・・というだけでなく、

 

朝の冷気を溶かしてくれるから有難い・・というだけではなく、

 

例えば太陽の、その光と熱を通じ、

 

今、我々が生きてること、それをサポートしている無数の存在があること、

 

その無数のサポート造り上げる宇宙的な周期、リズムの中で、

 

人間達がその毎日の生活によって次第に魂の体験・学びが深まること、

 

同じく進化する魂である、鉱物、植物、動物達が生き生きとして活動していること、

 

天と地、太陽と地球、宇宙と星々の無限のサポート・生かし合い、支え合っている有様に気付けるはずである。

 

そう・・・極めて簡単に言えば全ては「お互いさま」・・・なのであるが、このシンプルさに気付けるだろうか。

 

・・・簡単過ぎるだろうか?

 

それとも、次から次に繰り出される複雑なものの中に真実があると思っているのだろうか。

 

いいや、実はわけがわからないからこそ複雑怪奇になるのだ。 

 

今・・この時に、

 

何かありそうで実は何も無い、あるいは迷い道であそぶような社会観念を投げ捨て、 

 

本来の、人間としての顕れている「魂」としての根本的なあり方のほうに、あなたやわたし達のその意識を据えようか・・・。

 

意識を据えてそして行動に移すことである。

 

それは、 

 

目先の欲や得の獲得にその人生を賭けるのではなく、

 

大勢の無意識の人々の走り抜ける世の濁流に身を投じることなく、

 

これ見よがしの美しげな毎度のプロパガンダにこころを投資することなく、

 

こちらが良いとか、あちらが気持ちいいとかの嘘の呼び込みに耳を貸すことなく、

 

ただあるがままの大自然、宇宙の姿にこそ、我々の依って立つ根本があることを、こころの底から感じる生活を主眼とすることである。

 

そして何事にも意味があるということに、感謝することである。

 

身近な人々に、親や子や縁者や、あるいは近所の人々に、

 

あるいは道行く見知らぬ人々に、

 

あるいは電車に乗り合わせた赤の他人様にも、

 

時を同じくして、時代を同じくして生きているという御縁に、

 

感謝と共感を感じるところまで、

 

あなたの意識を深めようではないか。

 

この人生とは、この世界の魂の進化とは、それが1つの目的でもあるだろうか。

 

生きているということ、人類という仲間達と生きているということ、

 

そしてその意識次元は違えども、

 

あなたのこころの癒しの為に、あなたの食料となって支えている動物の為に・・・、

 

あなたの歩く風景に存在してくれている花や植物、石ころや建造物になっている鉱物達にも、

 

こころから感謝と共感を感じようか。

 

人間は意識的な魂存在として、

 

その意図と意識を想いや実感として放射出来る存在なのであればこそ、

 

感謝と共感と、そして思いやりを、意図しつつ投げかけることが出来るのだ。

 

溢れてきた人類のカルマの所産、銭金、生存、権力、ごまかし、真実隠し、陰謀や・・・24時間その事にことさら思念を集める時は過ぎたのだ。

 

顕れたカルマは、ただ灯篭の川流しのようにただ流れてゆくだけである。

 

・・・

我々はとかく世界、社会、人々の愚かさを嘆き批判するものであるが、

 

そのような人類の愚かさが見えるように、気付けるようになったことに感謝すべきではなかろうか。

 

様々な人生経験は、それぞれのわたし達の無知を英知に変え、無意識に意識の光をもたらし、汚濁をいかに濾過・浄化すべきかの極めて有意味な魂の成長のプロセスなのである。

 

そういう個々人のそれぞれの経験、体験をどうしてか社会通念にあてはめてしまうことで、失意と落胆におちいるケースがあるのだが、

 

どのようなことであっても、全てに意味があるということは<魂レベル>で考察すれば、自ずとその歪みは解けてゆくだろう。

 

魂レベルでは、何が良いとか悪いとかの、この世界の小さな価値基準は決して当てはまるものではない。

 

何事も経験しなければその意味はわかるはずが無く、

 

また多くの人々の苦難や憤り、あるいは成功感、達成感、あるいは悩みや苦悶にも意識を向け、

 

真の同情や共感を通じて自らの経験に転換することが出来るのも、

 

この人類という同胞達のおかげなのだと考えることが出来るだろうか。

 

平和でハッピー・・・なだけの上っ面の与えられた幸福は真の幸福ではなく、

 

まるで泥の中から蓮の花が咲くように、

 

自らをその明確な意識を通じて成長させつつ、

 

汚濁の風雨に耐え、無知の嵐を笑い飛ばし、やがては悲しみを歓びに変換し、

 

自然が促すところの、集合意識の創り上げる様々な変化・変節も、

 

その全てをあなたの足の下にあって、魂の成長と深化を支えてくれるものだと悟ることである。

 

何十億、何百億以上の魂達は・・・それを百も承知でこの表層の世界に飛び込んできたのではなかったか。

 

あなたはもう魂レベルで思い出したであろうか。

 

 

 ・・・

この期に及んで、

 

我欲の造り上げる世間の様々なバラエティさに騙されてはいけない。

 

他者に期待をあずけ、誰かが何かをしてくれると考えてはならない。

 

ある意味では、今の世界のどんな他者もあなたをことさら幸せにしようと真剣に動くものはいないのだ。

  

そうだろう。

 

主人公はそれぞれの<わたし>なのだ。

 

欲を抑え、我を張らず、全てに本来の調和を見いだす意識的な行為、

 

それらを主眼とした日常のありかた、

 

それは欲の少ない、質素でシンプルな生活かもしれないが、

 

別にそれでも普通に生きて行けるのだ。

 

いや・・それは逆に多くの真実を見いだす静けさに満ちた生活になるだろう。

 

今この時期に大切なのは、何でも暴発して終わろうとする観念の流れに巻き込まれずにいなければならないことなのだ。

 

政治権力や社会経済はその最後の胸突き八丁にさしかかったようだが、

 

訳知り顔をした、未だに目覚めぬ者達のかしましい声が響いている。

 

目覚めず、理解できずに持ち越す魂の、謂わば宿題のことを、すなわちカルマという。

 

カルマなど持ち越すな。

 

・・・・

 

宇宙も常にそこにあるし、太陽も常に顔を出してくれるし、尚更地球と言う土台は常に足の下で生命達を支えているではないか。

 

自分達で造ったものでもないにも拘らず、好き勝手に何百何千何万年をかけて培われた森林を伐採し、無軌道に地殻を掘り抜き、無分別に汚染物資を垂れ流し、あまつさえ、生命の遺伝子を壊す性質を持った原子崩壊最中の放射性物質を垂れ流しながら、

 

・・・・今・・誰も・・何もできずにいる・・のである。

 

例えば福島の問題は人為的英知でもって既に解消したのだろうか?

 

終わったのだろうか?

 

・・・

そう、

 

終わってしまったのは偽りの物質文明の方であり、

 

残ったものは、自然のほんのちょっとの操作を覚えただけの者達の、

 

茫然自失した姿だけなのだ。

 

いかに誤魔化そうとしても、いかに言いふらしても、如何に隠し立てしようとも、

 

現実化する事態に茫然自失することは、せめてもの人間らしさと言えるだろう。

 

逆に、そのような姿勢を持った人間がどれほどいるかが今問われている。

 

それは無知の知といっていいだろう。

 

何も知っていないことを知るという人間の真なる知への原点である。

 

宇宙大自然に謙虚でありその調和に沿った生き方をすることでしか、

 

真の知恵は生じないことを、こころの底から<知る>ことである。

 

世界は今大きく変容しているが、

 

事前に推察出来ない人々にとってはまさに驚天動地の変化もあるかもしれない。

 

しかしながら、それがどうしたというのだろうか、

 

それは人間の本質である<魂>の学びの為の、次なる段階へのシフトであると同時に、世界自身の進化・成長のためでもある。

 

忘れてはならないことは、

 

何を感じ、何を想い、何を学ぶのかは・・・

 

肉体やこころではなく <魂> なのだということである。

 

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


体とこころと魂と(8) 魂の進化

2012-11-17 09:34:27 | 覚醒意識

体はご存知のように極めて短い間の乗り物のようなものだ。

 

まるで組織で構成された立体的なスエットスーツのようなものだろうか。

 

そして今の人間は一定の学びが終わる時点で乗り物を降りることになる。

 

それもその多くが顕在意識では理解できない状況で降りてしまうことが多いだろう。

 

車を降りること、これがいわゆる人々がいう死であるが、これは単なる魂の転移にすぎない。

 

世間的な観念では目に見える肉体が動かなくなることで、その存在そのものが終わったと勘違いしているが、

 

それは人間が肉体だと思いこんでいることによる誤解であり、あるいはそれ以上の自己認識に至っていないせいである。

 

単にそういうことであるが、今のこの世界の人々は、眼に見える・耳に聞こえる、あるいは触って感じるような、波動域としては極端に狭い範囲の知覚に「縛られて」いるために、そこまでの知識、理解に至っていないせいでそう感じているわけである。

 

そういう風に感じている人は、車の車体、フロントガラス越しに見える風景、窓から聞こえる騒音ばかりに意識が集中しているドライバー・運転手のようなものでもある。

 

車の外の世界のみを見ていて、その大勢の車の流れの中で上手く運転することだけに集中させられているようなものである。

 

運転手が何時からその車(体)に乗ったのか、そのドライバーたる自分は何なのか、とんと忘れており、またその車の中から覗く、いわゆる世界の方にしか意識が行っていないということでもある。

 

それに明け暮れしていると、車(肉体)のほうがその存在感を持ってしまい、それを動かし改装し、燃料を仕入れ、あちらこちらに動き回る元である・・・「あなた」というドライバー(運転者)に気付かない有様となってしまうことにもなる。

 

当然運転手が無ければ車など動くはずもないのだが、それすらも気づかないようなものである。

 

運転手が車(体)を降りるのがいわゆる死であり、運転手が赤子として車(体)に乗ってくるのが生誕である。

 

簡単な比喩で言っているのだが、これは宇宙全体の極めて完全な仕組みで行われているところの、魂の学習システムの一環と言うことが出来る。

 

学習と言ってもそれは魂の経験とそのフィードバックを行うためのものであり、現世の詰め込み学習やら、意味の少ない複雑なだけの人為世界の仕組みの取り込みや論理・計算・記憶学習等とは全く無縁のものである。

 

肉体を使ったこの次元世界の体験と、こころによる吟味、反省、感慨を含めた総合的な宇宙の仕組みへの理解を促すものである。

 

そうすることで、肉体とこころの出現元である魂の拡大・深化を進める仕組みなのだと言えるだろう。

 

魂はその理解の拡大と深化によってその振動数を上げる・・・と言う表現でいうところの進化をするわけである。

 

意識~(意図)想念~エネルギー~現象化(肉体)  という顕現維持のプロセスを理解していれば、振動数の上昇とは、元に在る「魂意識」の振動数・周波数が高くなるという意味でもあり、あるいは意識の表現がより精妙になるということでもある。

 

これは光がより周波数を上げてその輝きが増しよりクリアーになってゆくという意味でもある。

 

振動数が上がることにより、その情報量は増え、微細精緻な認識と理解が可能になるのは、例えば電磁波通信などの情報工学的な方面からも理解が可能ではないだろうか。

 

即ち「創造主」の個別化された魂・意識が、自己の理解を深めつつ同時に宇宙全体の自己への深化と言うか、進化と言うか、あるいは大いなる無限の<わたし>への帰還の旅と言うか、そういう自己認識の拡大プロセスが本来の「魂の進化」と言うべきものである。

 

それぞれの自己を造った宇宙への理解を増してゆくということは、

 

まさに宇宙各所の無数の一点から目ざめたそれぞれの魂が、

 

拡大・伸長・深化しつつ、

 

宇宙という自らを再確認するようなものだ。

 

今我々が人間として・・今ここ・・・に在るということは、その道にあるということでもある。

 ・・・・

また宇宙の仕組みと言っても、機械論的なメカニズムのことではなく、どうして宇宙が、あるいはあなたやわたし達が存在しているのかというような謎を多次元的に解き明かすことでもあり、

 

それはまた、最初は戦々恐々かもしれず、あるいはドキドキするような、本来は実にワクワクする様な魂の学習プロセスといえるのである。

 

それが本来の科学的・哲学的アプローチでもあるだろう。

・・・・

 

ところが今までの世界は物資肉体中心の、まさにエゴ(我よし・我さき)のレベルの世界であったわけで、

 

つまり先の比喩で言えば、ドライバー(運転手)自体が何者か知らず、単に肉体(車)の維持と安寧だけに血道をあげ、

 

その挙句がお互い同士の衝突やら事故やらによって、宇宙の用意したせっかくの肉体(車)を無碍に降りる羽目になって、また繰り返しを行わなければならないことも多かったというわけである。

 

それはすなわち、魂意識という、言わばドライバー(運転者)が自らを見失っているような状態であったとも言えるだろうし、取りあえず目先にある肉体(車体)を維持せねばならないという観念のみが先走り、自己保身に明け暮れしたわけである。

・・・ 

車(肉体)は地球と言う次元世界の資質で造られ、親という器のコピーによって自然の中で用意され、その中に転移するという形で乗り込むわけなのだが、

 

魂意識の経験の1つである「今生限りの自我」の成長する間に、肉体・・それを自分の物だという偽感覚が備わってくるわけであるし、そして成長する過程で自己所有の物を断じて死守せねばならないという世間的な風潮によって煽られるのだ。

 

その為肉体保身のために自己の周りに様々な物資を集め、安楽な建物を造り、様々な組織を組み上げては最も安心できそうな地位にありつこうとするわけである。

  

そういう者が世の中で偉いのだという妙な観念があるがゆえに、まさに常に世は末に向かっているような天地逆さまの状態になるのも仕方がないだろうか。

 

今のあぶり出された歪みによって混乱を呈している政治経済、社会情勢を俯瞰すればそれを良く観ることができるはずだ。

・・・・

しかしながら、そんな競争・バトルばかりを行うことは、逆に身を縮め疲れ果て、本来の魂の為の肉体経験学習の多くを取り逃がすことにもなるのであるが、

 

・・・これがなかなか気付かないものである。

 

これはこの世界の人類独特の「波動の低さ」にも関係している。

 

波動が低いとは、認識レベルの粗さ、知識の偏り、人類観念の「狭さ」を意味している。

 

そうであるからこそ、何度も何度も上に戻り、また下に降りてくるような無意識的転生を繰り返すことになり、その無意識レベルから意識が目覚めるまでのこの世界での長い輪廻転生を要することになるのだ。

 

またそれも得難い魂の経験であるわけだが、そのようにして何百、何千億と言う魂達がその遍歴を経て、その間で膨大な経験と想念とプールしつつ居眠り続けたある時点で<大いなる援助>を通じて、どうしようもなく目覚めることになるようである。

今はちょうどそのステップUP、切り替わりの時代なのである。

 

またそれと同期をするようにこの地球もその役割を自認し、次なるステージへの自己変革を行うことが出来るのだ。

 

ある一定の割合の人類がある一定のレベルの魂の学習を超えたならば、それが起きると言われるのはまさにそういうことである。

 

あなたが単なる偶然の物質肉体でないように、そのあなたやわたし達の意識の表現形・魂達を受け入れている巨大な「意識体」であるこの愛すべき地球も、また古き舞台を卒業するのである。

 

意識体である人間が多次元的な層を包含しつつ転生しながら、魂の成長・深化、進化すると同時に、それをバックアップしている惑星意識も多次元層を包含しつつその1つの次元層を卒業するプロセスにある。

 

とはいえ、我々人間が今行わなければならないことは何かと言うならば、

 

外の世界の騒ぎや改革の戦、一か八かのやけくその勝負に参加することではなく、

 

・・・・ただ、今ある・・それぞれの<わたし>を観つめることである。

 

世界の様々な洗脳観念や誘導思考を与得る限りの<静謐さ>をもって鎮静化させ、

 

こころの中にあるそれらのうごめきや歪んだ心的エネルギーを観察し、

 

ほんらいそこには空(くう)という無限があることを理解することであろう。

 

空(くう)とは何も無いのではなく、全てを生じる「可能性」であることを理解することである。

 

あなたが自己を物質であると思っていればそれが出来ず、あなたがコロコロ変化するこころであると感じていればそれは出来ない相談であろう。

 

逆に、それらを生じさせるところの本源は、

 

肉体あるいはこころ、それを生みだしたところの・・・・魂・・それ・・であり、

 

また魂の本源は大いなる法則・・・あるいは愛と言える根本原理であり、また魂はそれから発した無数の<観察光>あるいは拡大深化する<根源波動>であると言えるだろうか。

 

謙虚にそれぞれの<わたし>を理解する方向に歩くことが今第一に大切なことである。

 

それは即ち、

・・・

無意識に流されずに、未知なるものへの好奇心が旺盛であり、

 

 

他者を悪く思わず、まず自己に謙虚であり、

 

 

外を批判攻撃せず、かえって自省的であり、

 

 

人に対しては出来るだけ優しく接し、

 

 

自己の言葉を主張する前に人の話を聞き、

 

 

知恵を持ちながら決してひけらかさず、

 

 

生活はつつましくあって、それで良しとする生き方でもあろう。

 

 ・・・

 

それは決して本来難しくはなく、また生きにくいことでもない。

  

 

それは今までもかつてこの日本にもあったことだし、当たり前のことなのだ。

 

 

ただ単にあなたやわたし達の中にあった、長い時代で巣くった嘘やエゴ的な観念をあぶり出し、洗い流すだけのことである。

 

 ・・・

なるほど・・難しいのは自己浄化・・・自分を省みる、観るということだけかもしれない。

 

そのためでもある・・・今・・日常にある生・・・、

 

ここが肝心なところである。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。