気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(39)想念とは

2017-10-29 15:29:43 | 真我実現シリーズ
「想念」とは、考えること、思うこと、また感情という精神の働きであり、
またそれらの繰り返しによってパターン化された想いの集合である。

ちょっとした思いなども含めて「想念」としている場合があるが、
より明確に言えば、思考や感情の膨大な記憶集合体と言ってよいだろう。

余談だが、日本語漢字などを見てみるにつけ、
古い時代の人は、現代人に比べて遥かに優れた霊性と知性があったとわかる。

・・・「相」の下に「心」が来る。
相は”木の目”と書くように、階層、多層になっている様を表す。

・・・は心の今・・と書く。今の・・こころの有り様だ。
念とは、怨念、執念、観念、念力、・・などのように、
強くパターン化、集中化された、また持続された「思い」「感情」のことだ。

だから、「想念」とは・・・、
考えること、思うこと、また感情という精神の働きであり、
またそれらの繰り返しによってパターン化された「想いの集合」である。

念力、念写などと言われる現象があるように、
「想念」は情報であり、かつ力(エネルギー)である。
これに気づかない現代文明人は、非常にまずい状況にある。

内面にある想念が・・目に見えないもの、実体でないもの、
他人にはわからないもの、
外的物証としてすぐに役立たないものとして、

単なる「精神」として無視され続けていることは、
実に摩訶不思議と言えなくもないし、
自らの想念によって自らの文明の崩壊を招くことになる、
・・・
それ自体に気づかないからだ。
だから非常にまずい状況にあるということだ。
・・・
話は戻るが、
この「想念」は転生のたびに持ち越し、持続されるものである。
簡単に言えば、ビリヤードのAの球がBにぶつかると、AのエネルギーがBに移る現象、
つまりエネルギー保存則と同じように、想念も消えることなく持続される。

人が生まれてきて、まっさらの赤子から始めるように見えるが、全くそうではない。
同じ親から生まれ、同じ環境で育った兄弟でも、全然性格も趣向も異なるのは、
誰でも気づいているはずである。

なんでも偶然か?
メンデルの遺伝の法則による・・性格の違いか?
まったく馬鹿な話だ。

人間として生まれること自体が、
すでに魂・意識の中に「人として在ること」の<情報>があるからこそ、
人として生まれてくるのである!

何もインストールされていないパソコンが、勝手に動き始めるだろうか?
赤子の頭脳・神経が、勝手に、偶然に、ゼロから自己増殖を始めるのだろうか?
ビルの建築物が、勝手にひとりでに建ってしまうのだろうか?

走っているビリヤードの玉・Aが、静止している同じ玉・Bにぶつかると、
その運動がそっくりAからBへと移る。
A→Bと「エネルギー」が転移するわけだが、動く方向などという「情報」もそっくり移る。
このような、
エネルギーや情報の保存則は何も物体だけの理(ことわり)ではない。

人が死んだら終わりだ、終わりだ・・などと言っているのは、
ビリヤードの玉・Aが、止まった、止まった・・と騒ぐようなもの。
玉Aは動いてまた止まるが、その原因であるエネルギーや情報はBの玉に転移する。

この例と同じように、人の背後にある「エネルギー・情報」も消えることなく転移する。
それを転生とか、生まれ変わりと言っている。

人間死んだら終わりだ・・としている世界は、
人があたかも、読み終わったらゴミ箱にポイ捨てされる雑誌
のようなものだとするような、とんでも世界である。(笑)

したがって、誰かが生まれたということは、転移してきた、転生してきたと言える。
それは、人として成長し、意識的に活動するための「種」を持参しているということだ。
それを魂の記憶などと言っている。
そしてそれは「想念」なのだ。

想念は、目には見えないが現象化を促す「因」であり、植物でいえば「種」だ。
余談だが、宇宙の間で転生する魂を「スターシード」などと呼ぶように、
想念は・・魂、あるいは自己世界開花のための種子ともいえよう。
それは、実に膨大な活きた情報を内包している。
ほんの一部が開花した場合、彼、彼女らは、天才などといわれる。



「想念」とは、考えること、思うこと、また感情という精神の働きであり、
またそれらの繰り返しによってパターン化された想いの集合である。

想念は表現行為のもとにあるものであり、かつ知覚する世界体験に付随する思いでもある。
つまり、想念は、その想念のパターンに<共鳴する世界>との親和作用がある。
想念にふさわしい環境を引き付ける・・というよりは、現出させるということだ。

昨今は、こころの法則とか、引き寄せの法則とかが知られるようになったが、
これは多分の・・架空の話ではなく、
今のまんま、そのまんまの現実を説明しているのである。

自分の来し方行く末を決める・・自分の想念に気づかないで、
外の世界、TVやメディアの情報やら無数の宣伝情報の踊り、
変幻自在の、ある意味、真実などどこにも存在しない、
どうでもよいことばかりに気を取られている現代人は、

いまこそ気づくべき時が来ている。
I AM THAT I AM.

人は、肉体ではなく、まったく想念そのものである。

来し方行く末、もちろん、未来も過去も実在せず、
ただいまがあるのみだが、
その今の無限に展開する方向としての、瞬間ベクトルともいうべき、
自らでしか見えないその「想念」を観る時が来ているのだ。

意識の話(38)真の目覚め

2017-10-28 09:58:28 | 真我実現シリーズ
私たちは主に、目覚めて起きだしてからの生活だけを意識している。
たぶん現実生活のことしか頭にないかもしれない。
あまりにも忙しすぎる、あるいは気ぜわしい世界にだけ意識を向けている。
そうとも言えよう。

例えば1日のサイクルも、
睡眠は体を休めるだけのもの、
夢見は何かの、ついでの妄想のようなもの、意味不明(笑)・・・
大切なのは、目覚めて起き出してからの生活である・・。
そんな風に思っているかもしれない。

1日の中で、眠りや夢見のことなどトンと気づかず過ごしているわけだが、
これは重大な片手落ちといえよう。

・・・

”意識”は・・熟睡、浅い眠り(夢見)、および目覚めの相を通過して、
この「現実」といわれる世界に気づく。
毎日とは、その繰り返しだ。

熟睡、夢見、目覚めた後の生活・・・
これが「意識」から見た人間の毎日のあり方である。

普通一般では、生活・・身体が活動している・・現実だけが重要と社会全体で思っているが、
”意識”が目覚めて、身体が起きだして、
その身体と思考がいろいろと活動することだけが存在ではない。

目覚めたあとの、身体と思考の働きだけが存在であるという考えは、
「わたしとは・・この肉体である」という信念をそのままを表している。

その観点からすれば、
「熟睡」「眠り」は・・体の休息以外の何ものでもない。
その合間の「夢見」は・・なんだかな~の妄想の類・・と思い込んでいる。
そうではないか?

「意識」としての自分に気づくまでは、
自分がこの肉体でしかない・・と思っているわけだ。

・・・
そう、
「わたしは肉体である」と・・無意識ながら”思って”いる有様、
それを集団で思い込んでいるのが・・この世界の特徴である。

「肉体」としての自己、が、「意識」としての自己に気づくまでは・・
肉体生活だけが現実だ、重要だと・・そう思っているということだ。

・・・
そういう現実世界、この3次元世界といわれるのは、
物理的空間(XYZ)の中の”動きもの”の世界。
さらに、4次元世界といわれるものは、
物理的空間の中の”動きもの”を、時間軸を追加して説明している世界である。
そういう観念世界なのである。

しかしながら、・・・
そういう世界としているのは誰か?・・神か?
・・人間である。

人間が行う・・思考、マインド上の想定なのである。

そう、次元世界などというものは、
人の意識の働きである「思考」あるいはそれを体系づけた「理論」といってもいい。
結局は、3次元世界も、4次元世界も・・人間が「想定」、説明しているのだ。

つまり根本的には、
世界という対象に対した・・その知覚にもとづく”想念”なのである。
われわれは3次元、4次元世界にいる・・等という”世界観”だ。

そうではないか?
・・世界観は・・つまり観念である。

人の”思考””こころ”が介在せずして、そういう世界観もなかろう?
・・・あるわけもない。
世界は、まんま事実・・ではなく事実認識であるといえよう。

つまり、注意深く気づいてゆくと・・、

”世界がある”・・というより、”世界観”があるということだ。
”宇宙がある”・・というより、”宇宙観”があるということだ。



とはいえ、
「いやいや、そういうけれど、世界は現実にあるじゃないか!」
実際に目に見えるじゃないか、聞こえるじゃないか、触れるじゃないか・・。
そういう世界でみんな苦労しているんじゃないか!

・・と、そういう話にもなるだろう。
------

しかしながら、それは全て・・・”五感感覚”の情報と、
それらに対する思考認識なのである。

あるのは、
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる・・五感感覚・・”感覚”だ。
ちょっと現代科学風に言えば、五感も、
つまりセンシング情報ともいえる、一種の「情報」である。

観察「情報」は、、リアルな物・・そのものではない。

そう、
世界にある様々な物事は・・たとえ大きな物体といえども、
重大な出来事といえども、
ちょっと冷ややかに言えば、
それは「物」、「現実」というより・・・「情報」ということである。
・・・

これに気づく人たちは、この世界がバーチャルな世界であると言う。
まったくだ。
この世は、実際に、(五感による)”情報でできた世界”・・なのである。

情報・・味気ない言葉ではあるが、
永遠不滅の「物質」「現実」などは、どこにもないということだ。


なるほど、原子構造からいっても、
物質なるものが・・実にスカスカであることに気付くならば、
世界、宇宙も実に霞(カスミ)以下の密度でできた世界である。
それを幻想世界といっても過言ではない。。
我々の身体も、様々な物質も、ほとんどが「空」なのである。

我々はいわば、五感感覚を伴った、立体映画の中にいるということだ。
肉体はその情報装置のようなものである。
そして、それを観ているのは・・それぞれの”わたし”という「意識」である。

意識は・・知覚する者・・気づく者・・だ。
世界、宇宙は・・知覚される対象である。

我々は、五感感覚を伴った、幻想世界の中にいるということだ。
その幻想世界をリアルに受け取って、二進も三進(にっちもさっち)もを、
ありがたく経験させて頂いているということだ。

誰しもマトリクスの中で、つまり観念の中で、悪戦苦闘していたということだ。
いや、大勢はまだ気づかないかもしれないが、
それも気づくまで・・のことである。

きれいごとを並べて、こうあるべきだと言いながら、
こころの裏では、
肉体自我の生き残り、サバイバルの観念マトリクス世界。

「だってお金がものを言うではないか?!」
すべてがここに集約された・・とまではいかないものの、
今のニュースで、お金に絡まないものを探すのは難しい。

唯物資本主義者の根深い画策とは言わないが・・(笑)
「人間は社会的動物だ・・」という、偉そうな観念で、
明日の糧を得るため・・の観念で餌付けされた「動き物」・・だったわけだ。

文明が進んで?便利になった分だけ、大勢がやたらに忙しくなり、
体も精神もボロボロになるようでは、もう気が付いても良い頃であろう。

・・・
触っている目の前の物体も、コーヒーカップも、
五感の感覚、一種の”情報”の類である。

・・で、
誰がその情報を見ているのか?
・・わたし・・だ。

<わたし>とは、まず・・その情報を”観察”している者である。

情報が勝手に
・・”自分は情報だ・情報だ!!”とは言わない・・(笑)

あるいは、情報の処理・整理・記憶をする「頭脳」「神経組織」が、
「俺がやっている、わたしがやっているんだ・・」とは言わない。

それを”知覚する者”が・・それを”情報だ”と知るのである。
いや”気づいている”のだ。
それが、それぞれの・・わたしだ。


わたし・・は知覚する者、
・・世界は知覚される対象、事物である。
そして様々な想念で脚色されている。

知覚する当事者がいなければ、知覚される対象は、
どうして存在していると言えるだろう?

あなたが眠っているときには、あなたの肉体も知覚できていない。
その間、あなたにとって肉体も存在しなければ世界も存在していない。
・・実感として、・・存在していない・・はずだ。

そうではないか?

傍であなたの身体を見ている人は、あなたが”寝ているだけ”だと・・
外から観察して、そう言うわけだが、
それは、その傍らの人の知覚であって、
<あなたにとっては>・・その時は、肉体もなければ、世界もない。

あなたは生まれる前に、この世界にあったのか?
そんなことはない。

熟睡中は・・あなたという自我意識も、肉体知覚もない、
つまり肉体知覚がないために、世界や宇宙も存在しない。
だが、
眠っていない他者は、あなたの肉体を見ているが、
それは・・他者の世界の中の・・あなたの<体>である。
再び現れるために、世界はずっとあったと錯覚する。
それが毎日だ。

あなたが眠っているときには、実際・・何もない。
そうではないか?
わたし意識が・・眠っている間は・・
世界、宇宙は存在しているとは言えないのだ。

これは・・普通に通り過ぎている重大な事実である!

これは西洋のお偉い先生の理論でもなく、
唯心論だとか唯物論だとかの「論」ではない。
思考や想像、思い付きではなく、

知覚経験上の・・事実・・なのである。

超簡単に言えば・・”気づき”だ・・・。

それぞれのわたしが居なければ、世界も宇宙もあるとは言えない。

それは毎日の・・意識の変遷で、すでに示されている。

・・・
世界や宇宙が先にあって・・あなたも私も、
小さな肉体人間として生まれてきた・・と、
宇宙がずーっと何百億年も前からあった、と・・・
今・・目覚めている時だけ、そういう話を・・聞くのみである。


知覚するわたしがいなければ、わたしの世界、宇宙は存在しない。
わたしの中に・・わたしの宇宙がある。
見える天空宇宙も、わたしの中にある・・というわけだ。
私の”身体”の中ではない。
すべてが”わたし”の知覚の働き、意識のその対象とし現れている。
わたしの気づきの中に、世界がある。

あなたが、
宇宙や世界という現実の中の、小さな動き物であるというのは、
あなたが生まれてきた集合世界の・・支配観念に過ぎない。
それは、他者の目線からみた、
肉体という世界観察点だけに注目した存在認識であって、

・・・わたし・・意識・・という視点が欠落した世界認識なのである。

あるのは、その他大勢の”肉体人間”の集まり・・
あなたもその一員に過ぎない・・という信念体系なのである。

・・・
世界があるから、一時私は存在している・・は、
肉体としての動きを見れば正しいわけだが、

それは外側から見た、肉体の見地からの言いぐさでしかない。
意識である・・わたし・・が外されたまま、
「あーそうだ」と信じているのである。

そうではなく、

わたしは在る・・そして世界はある、のだ。

意識が目覚めれば世界が出現し、眠れば世界は消える。
その繰り返しである。
毎日のサイクルも、人生という大きなサイクルもしかり。
生も死も、そのサイクルでしかないのだ。。

これに気づくのに、
難しい観念も、学問も、霊的知識もそれほど必要がない。
逆に、
様々に複雑な学問や知識は、どんなに深くに入り込んでも、
一層暗くなる思考、マインドのジャングルであることが見いだされるのみである。

そして最後にはマインドのジャングルは自己崩壊する。

意識する者、知覚する者が追い求める先に、
その知覚対象が現れる・・というのが、事実であるからだ。

・・・
”意識”が目覚めれば世界が出現し、眠れば世界は消える。
その繰り返しである。
毎日のサイクルも、人生という大きなサイクルもしかり。
生も死も、そのサイクルでしかないのだ。

毎日の繰り返しと見える中に、すでに真実が示されている。


意識の話(37)世界はわたしの内側にある

2017-10-20 06:12:00 | 真我実現シリーズ
世界とは”わたし”の「外側」にあるものだと誰もが認識している。
いや誰も・・というわけではないが、多くのいわゆる常識人は、
そう想っているのである。

そうではないか?

学校で”そうだ”と教わるわけではないし、
社会であからさまにそう言っているわけではないが、
誰でもそう想っているものだ。

この世と言われる、”外側の”世界に、あるいは外側にいる大勢の人々に、
どうやってうまく対応するのか?日夜それで悩んだりするものである。

いや場合によっては悩みどころの話ではなく、さあどうする?どうする!
生きるか死ぬかと・・、そういう風にもなるもの。
つまり世界の中で、身体・肉体をいかに保持・防御するかというような、
そんな想いでいっぱいにもなるわけだ。

従って、何とか外側を制御したい、
さらには支配したいという欲望が生まれる。
なにせ、外側は内側に対して敵対的とも見えるし、
世界は、自分の都合、思考、想いに「忠実」なんかではないと、
そう想うからだ。

従って、
世界を変えよ、
世界を改革せよ、
あわよくば支配せよ・・・ともなる。(笑)
それがあちらこちらで衝突、爆発するわけである。

・・・
ところで、
この・・外の世界とはなんだろうか?

この世界とは何かと言えば、普通は、
”わたしの肉体”の・・外側・・ということだ。
そうではないか?

その場合、
「わたしは何か?」と問うたならば、
「それはわたしの身体だ・・」と言うだろうし、
そうは明言しない人であっても、
わたしの”身体”を強く意識しているはずであるし、
はて、それ以外にわたしは・・・どこにあるの?さとなる。

つまりわたしとは・・この肉体である。

それは、なぜかと言えば、
肉体の五感によって知覚しているからだ。
外界の情報を処理・記憶する頭脳・神経組織等のはたらきで、
わたしが見る、聞く、感じる世界を”知覚”しているからである。

そう、
”知覚している者”が、わたしの肉体である・・と、

なので、わたしは・・この肉体である・・と、
そう想っているのである。

「何言ってんの?、それに決まっているじゃないか!」
「皆、そう言っているよ」・・(とまでは言わないが、)
それが当たり前の真実だと思い込んでいる。

でもこれは、世界を知覚、観察するものは肉体である、・・
「わたしとはこの肉体である」という”想念”なのである。

・・・んな、わけないじゃん・・も想念だ(笑)。

実際に、わたしたちにあるのは何かといえば、

ただ知覚することがあり、
肉体機能の働きを観察しつつ、
「それがわたしだ」という”想念”がーー起こっている!
・・ということなのである。

マインド、こころ、思考を観察できるならば、
こころ、思考さえも、”起きている現象”であることが・・”知覚”されるはずだ。

あからさまな物質環境や身体に限らず、
目に見えない、思考や感情も・・生起していること
そして、”知覚される対象”なのだ。

これは五感の知覚ではなく、”内面での気づき”と言ったほうが良い。
内面と言っても、肉体の中・・ではない。
・・・

ただ気付くこと、知覚することがあり、
それに付随した「思考」が沸き起こっている・・、

「それがわたしだ」という・・”想念”も”起こって”いる。

思考は”わたし”が起こすとか、私が考えたんだ・・・と思っているが、
実は、起きている・・・。

思考や感情も・・高次の<現象>なのであり、
意識すること、気付きの・・その対象だ。

逆に言えば、”気づき”があるがゆえに、
知覚があり、想念がある、世界がある。

更に言えば、
”気づき”の中に・・世界も肉体も顕れている・・のである。

波動でいえば、空(くう)なる無限の静寂の中に起きた、
原初の波動、根源波動・・とも言えようか。
それによって全てが創造されている、根源の波動とも言えよう。

3次元的に言えば、空(くう)に満ちている、無限小の波動・・、
あるいはクオークの極限・・、

その波動は、あらゆる全てを貫いているがゆえに、
全てに・・気づいている・・と言うべき、それだ。

・・・

例えの話だが、
プラネタリウムというものを観たことがあるだろう。
あれは装置の中心に光源があり、それがレンズの仕組みを通じて、
設えられた天幕に投影されたものである。

「いやー、スゲーな~!」とうっとりするものだし、
あたかも、そこにあるかのように感嘆するし、
思わずそこに引き込まれてこそ、感動を生み出しもする。

しかしながら、
実際に目に見えるそれは、光源からの放射光の波動で描かれたもの。
人はそれを・・見ているだけなのである。

そのシステムを知っている人はわかるだろう。
決して、光源と、その投影されるものが無関係ではないことを。

いや無関係どころか、様々に映し出される世界、変幻する世界、
投影される世界は、文字通り光源にその”源”があることを知るはずだ。



わたしたちは、自らが光源であると知らず、
光源の照らすその投影像のなかに居ると思い込んでいた。

光源から見れば、宇宙のすべては・・その光の中にあるように、
気付いている・・わたし・・の中に、わたしの世界が展開しているのだ。

世界は、わたしの意識のなかにある。
その逆ではない。

これは単に、観の転換ともいえるが、
まさに内と外が、グレンとひっくり返ることになる。


意識の話(36)本来皆、観自在菩薩

2017-10-12 07:18:40 | 真我実現シリーズ
無限なる”わたし”を忘れて、1個の肉体自我に自己同一化するという、
荒業が出来るのは誰あろう、神以外にあろうか
いいや、あるわけもない。

また、それがゆえに、すべてを忘れてしまうということも、
無限者にとって、実にあり得ない奇跡のようなものだ。
いや、無限者である故の自己忘却という奇跡である。

誰あろう、あなたのことだ。

人は・・今ここにある・・と自覚している、気づいている。
意識が・・ある、気づきがある。
不自由な身体に自己同一化していたとしてもだ。
毎日あらぬことばかりの想念で忙しくともだ。

そのすべての知覚認識の働き・・は、根源からの気づき、
真我・からきている。

へんな例だが、本店があることを忘れている、
地方の出張所の単独個人代表のようなものだ。
自分一人だと思っている、あるいは思わされている、
辺境地域の市場開拓、顧客開拓のための1人社長?(笑)


真我とは、在る・・こと、そのもの。
形や、次元は、いかようであれ・・、だ。

この世では誰もみな、生まれては死ぬという定めにある、
死ぬとは、本質・魂がこの次元から離脱するということだが、

それまでに培った想念・マインドの重さによって、
すぐには完全離脱できないという現象が起きる。

マインドの習慣、肉体経験での蓄積した想いによって、
「重さ」がつくためだ。
その重さとは、わたしは肉体だ・・という観念の重さだ。
それに付随した、様々な自我欲観念が尚更重くしている。

それが特定の時空周囲からの離脱を妨げる。
これは惑星の周りの人工衛星と同じようなもの。

肉体への自己同一化によって輪廻転生が起きるという事だ。
それも、気づかず知らず、生まれては死ぬという周回。

それ自体も、
I AM THAT I am.
自己創造者であるが故だ。

宇宙から?の話によれば、地球は閉鎖・監獄惑星であるとか・・
つい、「人を悪く言うな!」的な感情は起きるわけだが、(笑)
なるほど確かに、多くの存在たちが、気付かず知らずに、
3次元的肉体自我に閉じ込められているわけだ。

OH MY GOD!

地球文明が知的、科学的に未開で、重力から十分に離脱できない・・と言う意味ではなく、
多次元意識生命体が、1つの次元に閉じこもっている・・と言う意味だ。
意識的、あるいは霊的に未開だと言う意味だ。

人が死にかける、あるいは死んで戻ってくる、
または考えられないような苦難や苦痛に遭遇することは、
実際に、驚天動地の転換となるのだ。

マインド、こころ、肉体の快不快では決してごまかされない、
大勢の他者がおためごかしの励ましをしようと
”そんなの関係ない” 気づきに至らざるを得なくなる。

本質の自己に・・向き合うことにになるからだ。
それまでは、まったくの烏合の衆なのである。


臨死体験の話は、
あー怖いとか、そんな話ではなく、
幽体が離脱とか、魂がフラフラ抜け出すとかそんな話ではなく、
天国とか地獄とか、あるいは天界とか、そんな話ではなく、
頭脳が作っている妄想だという科学的理論の話でもなく、

生身の人間の逃げも隠れもない体験の話である。

体験といっても、肉体の限られた五感の経験ではなく、
それを含んだ”全包容的意識”の経験である。
それはまた多次元的階層を含む意識体験だともいえよう。



この世界の、あたりまえの経験、
肉体を中心とした五感、そして付随するマインドの知覚経験は、
そのほんの一部であるということだ。

臨死体験は、肉体自我からの一時的な解脱、
自らに気づける意識レベルによって到達の可能な、
根源なるわたし・・真我への一時の帰還の話であるとも言える。

だからそれが怖いのは、たんに無知と無探求がゆえである。
集団に埋没し、あなたまかせ、他者に利用されるだけで、
自らで探求することを怠っているだけである。

臨死体験も、何か突発的に起きるように見えるが、
その中身は、魂の気付きのレベルによって色付けされている。

大なり小なり、
それは、あらゆるすべてを同時に「気づいている」無限者としての、
真の自己、宇宙意識との一体感覚の話だともいえよう。

すべての・・・根源は・・常在、
いつも、今・・ここにも、どこにも在る・・ということを示している。

在るのは、・・今だ。
とは言え、今と言えども、
様々な観念が執拗に付着している、”今の現実”など・・ではない。

今の現実とは・・全てマインド、こころである。
この世のそれはまた、相当に重く出来ている。
そうではないか?

マインド、こころを超えたところに・・真我が在る。
だからこそ、
いわれなきこころ、マインド、想念を眼下に観ることの修練が必要なのだ。

いま在ること、のなかで、逃げずかくれず、
ただし、たんたんとした生きざまを通して、

意識的に、自ら・・それ、を超えてゆく必要があるのだ。

明らかに、馴染んだ時空物語の終わりにさしかかった、
いま、この”現実世界”で、
黒雲のごときマインドの浄化・・?簡単だろうか?

いや、またそれ以外に、重要な何か・・があるのだろうか?


I AM THAT I AM.

それが、

行きは良い良い、
帰りはこわい、 ♫

あなたである天神様の、
真我への、かえり道なのである。






意識の話(35)神さまはどこにいる?

2017-10-07 05:45:52 | 真我実現シリーズ
あなたである天神さまが下りてきた世界は、実に大変な世界だった(笑)。
そうではないか?

生まれたての赤ん坊が「オギャー」と”泣く”のはなぜか?
親ならわかるが・・普通は、肉体の快・不快を訴えている。
うんちやしっこ、腹へった、お尻がキモい、などだ。
あるいは、
肉体に自己同化して来たことへの、複雑な素の感情の発露・・ともいえようか。
悲しくて泣く・・ばかりではない、身体に自らを閉じた経験の衝撃もあるだろうか、
親たちは親族の希望が生まれ、可愛くて仕方がないだろうが、
赤子で再誕生した魂にとっては、いかばかりだろうか。
・・・

無限なる”わたし”を忘れて、1個の肉体自我に自己同一化するという、
いわば、とんでもないその創意工夫?を一体誰が思いつくだろうか?
だから天神様なのだ。
天の神といっても、かつてある星の宇宙人様だったという意味ではない: 笑。

それは、わたしの多次元的側面では、別の人間、あるいは生命体だというような話である。
また、それは時空間の転生、時空内(輪廻)転生の話である。




天とは空(くう)、すべてを貫きすべてである・・それだ。
自分とはかけ離れた偉大な神様、
あるいは煌びやかな装飾の木像の類でもない。

真の・・わたし・・真我・・だ。

くどいけれど、
わたし、と言っても、肉体個人の私・・ではない。

ここにマインド上、観念上のいわば多次元的ややこしさがある。(笑)

空(くう)ともいう無限の包容、
至高の実在、無限のそれ、完全なる充満、
それ・・は、

そのなかに、自らの投影である様々な諸世界を、
またその中の1つの、<今の>この時空世界を・・観ているそれだ。
それが天神さまの例えだ。

貴方や私と言う、肉体個人あるいはその集合は、その複数投影である。

集合写真の中に入(い)っている者だ。

「卒業写真のあの人は、やさしい目をしてた〜♫
人混みに流されて、変わってゆくわたしを、
あなたは・・時々、遠くで叱って~ ♬ ♪」そんな流行り歌があったっけ?


(写真はネットでの拝借)

個人とは・・、
肉体の中に・・いるとして・・自己同化している神だ。
あなたは、いま自分個人に・・自己同化している紙だ、いや神だ

神も仏も長い歴史のなかで相当に手あかがついた概念となっており、
これを使うと、つい曲がったイメージが付随するため、
「それは・・なーに?」の「それ」を使うが良い。

”それ”とは、不特定、不明、未知、知られざる、把握せざる、もの。
いまだ具象化しない、形態化しない、知覚対象でない・・こと。

だから、神さまはどこにいるの?と言って、
何の返事もない、助けてくれない、顔を出してくれない、
天から降りてきてくれない、・・・と嘆く人もいる。
・・・

知覚する者は、知覚化できない・・。
知る者は、知られることはない・・。

現れた「もの」・・ではなく、現す・・「それ」を、
直接・・肉眼視できるわけもない。

映画のシナリオ作家が、映画に出演するわけもない。

陶芸の作者が、その陶芸の中に、蓮華座すわりでタバコ吸ってるわけもない(笑)。

創造者は、見る聞く触れるなど、直接知覚できない。
  なぜならば創造する者だからだ。
創作者は芸術品そのものではない。
  実は、誰でもすでに知っていることだ。
  そうではないか?
小説は、作家そのものではない。

現す者は・・現れたものそのものではないということだ。
観察するものは、・・観察対象そのものではないということだ。
知覚する者は、知覚されえないから・・知覚者なのだ。
・・・
だから何処にもいない・・と観察されるのである。
場所や時間、空間の中にはいない・・という表現になる。
つまり時空を超えているということだ。

地球も月も太陽も、無数の観察される・・星々も、
「それ」の・・観察対象である。
どれだけ時間や空間が大きかろうと小さかろうと・・、
観察する者は、観察対象を超えている、包み込んでいる。
次元を超えている・・のである。

それを、例えの表現で「天神さま」と言っている。

だから、天神さまはどこにもいない。
天のどこかにはいない、当たり前だ。
特定の時間・空間、次元に・・”居る”わけもない。

また、どこにもいないけれど、
そうであるがゆえに、
様々な形、波動、表現型で無数に現れているのだ!

気づき、知覚し、想いを巡らせ、様々な現象を・・観察する。
そして、それに”気付いている・・者はだれか?

あなただろう?・・

え?違うの?、みんながそう言ってないから?
お金持ちでないから?からだがしんどいから?
しかし、それらは観察対象、映画に映った私の姿のほうだ。

外の姿絵ではなく、その知覚者である、また知覚できない、
真のわたしは・・何か?・・だ

神は息吹を吹き込んで、自らに似せて・・、
人間を作ったという聖書の言い伝えがある。

無限なる者が・・何かに”自己同化して、それに成りきり、
またそれ自体に気付いている・・それが”人”である。


今、生きている・・あなたは何か・・?

”それ”・・だ。  I AM THAT.

”それ”以外・・何があろうか?

・・・
わたしは・・・今・・それで・・在る・・!

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以前アニタの臨死体験のサイトを紹介したが、
本質のわたしとは何か?という
1つの実経験版がここにも出ているので勝手に紹介する。
尚、経験といっても、・・意識の・・である。

ほんとうのような、・・実は嘘ばかりの世界で、
これらは、”嘘のような”ほんとうの話である。

世間常識では、臨死というと「やだ~怖い」という反応があるが、
そういう場合は、
この世界の肉体とこころの乱舞による幻惑と恐怖、
あまりの本当らしい嘘観念に翻弄され続け、
肉体の生と死というものを超えた・・わたしの在り方、
より高次の「おおいなる生命」に未だ気づく時が来ていない。
いや、単に未だその”気がない”ということだ。

しかしながら、誰しもだが、
・・わたしを忘れっぱなしと・・いうのもねー(笑)、
なんだかな~・・とそう感じる時が来るものだ。

嗚呼、それも、
気づけば、今であり、
気づかなければ、それも今・・である。


アニタの臨死体験