気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(33)生誕・・肉体への自己同一化

2017-09-29 06:00:19 | 真我実現シリーズ
人は・・大まかにいえば・・肉体、こころ、魂の複合である。

メカニズム的に表現すれば、構造体・ボディー、プログラム、設計者。
あるいは、肉体・精神・霊の複合体だ。
それら3つは、次元が異なるが故に、
また、人は多次元的・存在複合体とも言える。

当然ながら、あらゆる存在形は、”波動”と解釈しても良い。
これは現代科学でもなじみになってきた観念だが、
波動には振動率、周波数という属性があるため、
その周波数の帯域というカテゴライズが出来るのだ。
もちろん便宜上、観念上の区分けに過ぎないが、
そういう振動率の異なる帯域のことを、多次元世界と言っていいだろう。



空(くう)が”在る”・・
誰も思いもつかない・・ことから原初の気付きが生まれた。

”気付くことで、波動で表す・・対象世界が現れた。
初めに・・言葉ありき・・想いの波・・である。
初めは今である・・・終わりも今である。
だから全てが変化する。
アルファであり、オメガである・・と言う意味だ。
今が・・それだ。



様々な波動の組み合わせの、多次元世界は、
それはどこにあるのか?と言えば、今ここに在る。
空(くう)の中に在る。
「え、どこどこ?」
今見えなくて当たり前だ、それは無限の充満であるからだ。

何でも描ける・・無限の包容・受容・愛・至福でありながら、
思い描かなければ何も現れない・・・それ、
われわれの周囲、内部、すべてを貫き、
またそれ自体は観ることが出来ない・・空(くう)。

そこに様々な物語を描き出すのがマインド、想念だ。

空(くう)とも、根源とも、神、真我ともなずけられる・・それ、
絶対に知覚不可能、想像不可能なそれ、
しかしそれが無ければ、光もエネルギー場も生じない。



例えるならば、いや全くの例えではないのだが・・、
いまあなたは、空(くう)の中のある周波数帯域のなかの、
ある動画のなかに入っていると言えようか。
その中でも、
なかなか・・不自由でゆがんだ動画世界を、苦々しくマトリクスと呼んでいる。

見る聞く感じるという、実にリアルで、
無限に細かい感覚解像度を伴う、バーチャルなリアリティ世界だ。

さらに、今この世界には、
それに気づいている少数と、全く気付かない多数がいると言えよう。
あなたは多数派が好きだろうか?笑)

外側からの探求者、多分まっとうな科学者は、少数派であろう。
また内側からの真理探求者も、つねに少数派であった。

物語の中の肉体に自己同一化している・・ことに
大なり小なり・・”気づいている”魂と、
あらぬ想念に仕込まれて、
自己を肉体そのものであると”信じ込んでいる”魂があるということだ。

あなたは世間に、今それを見ているかもしれない。

そう、この世界も信念体系世界なのだが、
つねに信念体系は、観察と気づきで破られるのだ。

気づきが深くなるにしたがって、つまり意識進化するにしたがって、
さまざまな階層の幻想マトリクスが破られてゆく。
そういう魂のゲームだ、・・ともいえよう。

この世界は、かなり濃密なマトリクスであったわけだ。
私たちは、まだ少しもがいているかもしれないが(笑)。

動画、活動写真、これは古い言葉だが、
動画を活動空間、時空間といえば身近に感じられるかもしれない。
あなたのまわりにある様々な動き、物質形、人々、
そして宇宙もその活動空間のなかの動きである。
あなたの身体も、その中の動く物である。
そう、動物というのはあながち間違いではない(笑)
肉体は確かに、時空間内で動く物である。



普通の映画は2次元平面での活動時空間であり、
例えその物語に感情移入し、思わず涙しても、マジに恐れても、
すぐにも<わたし>と<その世界>を区別できるのだが、

われわれの世界は3次元空間であり、そこで活動する肉体は、
3次元空間内の活動物そのものであるがゆえに、逃げも隠れも出来ない。
あなたは、その中にいる「動物」だと”信じ込んでいる”からだ。


その中に”魂”が”自己同一化”をしているとうこと。
魂であるわたし・・、本来は・・あらゆるものを観察すべき者、
いや、本来全てに気づいている普遍なる<わたし>に、
ある種の興味、想念が起き、
その想いの流れと共鳴する場へと、
物語が流れているその時空内へと、
”自己を投入”するのだ。

わたしは、それ・・、である、自己実現。
何かになりたい、成ろう、と言う強烈な欲望。
怖れも、利得期待もない、好奇心とも言える。
神の、自己を知ろうとする行為でもある。

この世界に来た魂たちは、
地球の生態系、人間の生命形態のなかの深いところから入って来た。
赤子の肉体として、生命の核から成長するプロセスを通り、
そうしてやがて母体から、この次元世界に生まれ出てくる。
「おぎゃー!」

まるで映画、物語への感情移入をするように、
「わたしは・・それである!」という想念によって、
様々な物語世界に入ってゆく。

 I am that・・I am.

神の自己創造である。

創造者であるがゆえにこそ、味わい多きこの世界の、
人間という存在へと自己同一化出来るのだ。

それが、不変の気づき、無限の意識のなせる業、自己同一化・・、
人である物語への参入、この世での生誕でもある。

あなたもわたしたちも、実にはるか遠くにきたものなのだ。

心底、気づいただろうか?
もし放蕩を旨とする・・マインドがそれを理解すれば、
いまはもう、少なくとも、
放浪の旅に出た放蕩息子が、
ようやく帰還する道にたどり着いたということだ。


空(くう)が”在る”・・
誰も思いもつかない・・ことから原初の気付きが生まれた。

”気付くことで、波動で表す・・対象世界が現れた。
初めに・・言葉ありき・・想いの波・・である。
初めは今である・・・終わりも今である。
だから全てが変化する。
アルファであり、オメガである・・と言う意味だ。
今が・・それだ。




意識の話(32)観の転換 その2

2017-09-26 16:29:08 | 真我実現シリーズ

(つづきより)
・・・
しかしながら、それはわたしの外側から見た”私像”のことだ。
”わたしは肉体だ、頭脳だ”などというのは、
肉体の機構観察とその推論でしかない。
つまりこれも意識の働きでしかない、
マインド上の想定、想念なのだ。

ある意味、解体新書のごとく、人間が肉体であるとして、
様々な臓器、組織分解・分析、観察して・・
肉体、神経組織、そして頭脳が「意識」を生み出している・・と、
外側からの”科学的な”観測に基づく、想定をしているのである。

普遍の意識の上で踊る・・個別のマインド、
孫悟空がどこに行っても仏の手に内にあるのと同じこと。



あなたは自分で、意識が物質・肉体で出来ている事を自分で見ることができるか?
いいや、決して出来はしないだろう。
なぜならば、意識とは観る者、観る働きそのもので、
と、同時に意識に浮上する・・見られる”対象物”ではないからだ。

わたしは、肉体を知り、観察し、意識し、気付いている。
科学者の努力はそのことを示している。
唯物的自己の探求は、いわば、頭脳や身体機能の中に「魂」を探す行為であり、
どうしてもそこに自分自身を押し込めようとしている、
マインドの幻想上の努力の話だ。

かように、
”人間は肉体である”・・は観念であり、マインドの中にある。
”わたしは肉体である”・・も観念であり、思考なのだ。

しかし、肉体を観ている者は、わたしである・・・
わたしは、それに・気づいている。

そこにあるのは、・・存在を・・観る行為、気付き・・、
またそれ自身、そのシステム自身と言おうか
それが・・実在・・であると言えよう。

存在は、目先にある”物”ではない。
観ている者、気付いている側だ、
気付きは・・創造だという意味でもある。

観察し、それに対して湧き上がる様々な想い、マインドがある
それは存在の2次的な波紋のようなものだ。
だが、
わたしは、目に見えない”それ”にも気づいている・・。

ところが、このマインド・思考様々な”波紋”、
情報等とも言うが、そのどれかを、
あたかも真実の説明として採用、錯覚することが起きる。

2次的な波紋である思考、マインドの集積したものが、
コアである、観察者であるわたしの周囲に付着するとでも言えようか。
そしてそれらを<わたし>と錯覚するのだ。

肉体、性別、年齢、履歴、記憶、性向、身長、体重・・etc。
わたしは、アレだ、これだ、いやそうではない・・・。

「おー!、わたしはこの世界の物質で出来ている」
「そうだ、わたしとは肉体そのものである」
「わたしは・・儚く現れては消える現象物だ」
「偶然生まれ、いつか死ぬ・・」
と、そう「想う」ということだ。

この世の現象を観察している<わたし>ではなく、
観察対象である肉体と、そのマインドであるにもかかわらず、
それを自分自身として「想定」するということだ。
自己をそこに投影する、投入するのだ。

諸現象の中に埋没している・・、
思考、マインドの中に埋没している・・、

いつの間にか、
観ている者が、観られる対象になっている。

感覚付き立体映画の中の登場人物である私個人に成りきって、
それを観ているところの、わたしを忘れている。

逃げようもない、苦痛と快楽、悲惨と栄光、
予期せぬ死と生の繰り返しで、これが実に楽しい時があるが、

その映画の本質が消化される段階において、
気付く時が来るのである。

・・・でも、それは誰がやっているのか?
貴方か?、彼らか?、社会システムか?・・
一体全体、悪いやつは誰なんだ!?・・笑。

しかし、そこで止まってはいけない。

それでさえ、

観ている者は、わたし・・しかいないのだ。

観察者は、それ、観る者であり、その生体映画の中にはいない。

それに真に気付くこと。

外から内への・・”観の転換”である。




意識の話(31)観の転換 その1

2017-09-24 10:23:46 | 真我実現シリーズ
わしたちの世界のすべての根本にあるのは何か?
それは文字通り、それぞれ・・「わたし」・・である。

わたしがなければ、私が見る世界もない。
・・
いやいや、そんなことはないよ、何変なこと言ってんの、
世界の中に私たちは生まれてきたじゃない、
世界が先にあって、大勢の人がいて、その中に・・・
わたしはある時、ある所に生まれてきたんですよ・・!
わたしがいなくても、世界はあるんだよ、馬鹿なこと言うな!、
・・と大方はそう思うだろう。

世界があって、地球があって、日本があって、
わたしはある時、どこどこに生まれてきた。

そう・・、
これが事実だと、絶対的にそう思うものだが、それは全く違うのである。


・・・
いや、全く違うというよりも、それは観点の違いといってもいい。
観点は、一般に”考え方”の違いと言われているが、
確かに、簡単に言えば考え方の違い・・であると言っていい。

えー、どういう意味だろう?

観点の違い・・、
これならば、異次元やらなんやらという、
不明確な物差しを持ち込むことはない。
今在ることを、しかと観る事、先入観にとらわれず、
あらゆる方面から熟考することで、

今・・在る・・わたし・・の奇跡的な事実も窺い知れるだろう。

・・・

わたしが、生まれてきた・・という”私”とは、”身体”のことである。
私の”身体”が生まれてきたと、親や周囲の人が体験して、見て、言ったことだ。
たしかにそうだ、・・・しかしながら、
そのとき、当のその人・・<わたし>はいただろうか?

そう、いま、あなたが”わたしとして自覚している”その・・<わたし>だ。

その時にいたか?といえば、わたしは「まだいなかった」と言うだろう。
全く記憶がないとも言える。
・・
赤ん坊が体内から出てきて、いきなり「わたしだ!」とは言わない(笑)
あなたは、生まれてすぐ「おいらはおいらだ!」とは、・・言わなかったろう。



これは別に、大それた異見ではなく、当たり前の常識なのである。

つまり、身体はその時、その場所で生まれたが、
・・その時には、<わたし意識>の存在は・・は認められなかった。
自己認識の主体であるところの・・「わたし」はいなかった。

なので、わたしという”意識する者”は、後で生じたとなるのだ。

身体から・・・わたし意識が生じたと・・
有機生体物質や身体組織や、頭脳が成長して、
ようやくわたしが芽生えた・・と、

時間経過では、物質が先だ、意識はその後だという・・
常識的かつ先天的な観点となっているのである。
私もかつてそう思っていた。
あなたもそうではなかろうか?

西洋の偉い学者ダーウインが
人間は猿の進化したものだと提唱したとか、、
あるいはアリストテレスの、人間は社会的動物だとか、
そういう話も、まことしやかに聞こえるわけである。

・・・
身体組織、頭脳が、周囲の環境経験をしつつ、
2-4年程度の月日で、次第に自己認識をするまでに成長する、
そして、いつか<わたしという自意識>が芽生えると
いっているということである。

この観点でいえば、意識は・・後で生まれるということになる。
肉体という物質形の中に・⇒・意識が生じる・・ということだ。

常識的でかつ理知的な人は、それはそうだと思うだろう。
そして、わたしという意識、また精神は・・物質から生じるという話にもなる。

なにせ先に生命物質形態が生じて、後で精神、意識的働きが生じるからである。

これが今までの、世間一般の常識的な見解となっているのである。

世界が先にあって、わたしは・・そこに生まれた小さき身体、
知能はあるが、宇宙、世界の中の微小な生物であり、
死んだら終わりの一時的な生命である・・という話になる。

そうではないか?




(つづく)



意識の話(30)マインドで出来た世界

2017-09-19 07:20:09 | 真我実現シリーズ
宇宙、世界、森羅万象すべてが”意識”である、と、
聞いたことがあるかもしれない。

どういう意味だろう?
すべてが意識・・?
すべては、目に見える物質ではないのか?

意識とは何かといえば、”何かを意識する、気にするなど”
英語では、Awareness(注意、意識する)、consciousnessともいわれるもの。
焦点を合わす、あるいは波長を合わすという意味もあるだろう。

まず、確かに、
人間社会においては、すべてが意識・・・であるといえる。

なぜなら、
意識から、その派生である無際限のこころが生まれる。
こころ、マインドがすべてを作り上げているからだ。
ビルも車も、社会制度も、ジェット機も橋も、何もかも、
もとは人間の思考、設計によってできている。
素材は地球にあるものを使っているだけで、
思考、思い、それを秩序立てた「設計」によってすべてが作られている。

その根本にあるのが「意識」なのである。

ここで「こころ」というのは、「人間の精神の働き」とされているが、
それはつまり、”意識”から生ずるのだ。

例えば、
あなたが、何かを見た・・・⇒、それに関する様々な思いが生じる。
何かを聞いた・・⇒、それに付随する様々な感情が沸き上がる。
何かを想像した・・⇒、関連するいろいろなイメージが生じる。

つまり、
”意識する”することで・それに関する”思い”が生じるのである。
これを「マインド」の働きと言っている。

日常の生活、生きて活動しているとは、まさにそれなのだ。
”意識”とその派生である思いや感情、の、その無際限の連続生起なのである。

つまり生きていることは、実に、
”こころ・マインドで充満”している中にいるということなのだ。

気づいていただろうか?

あたり一面様々な「物質」で作られているように見えて、
本質からいえば、・・・
あたり一面・・マインドの充満なのである。

宇宙では、物質が勝手に運動しているって?
物しかない、唯物世界だって?
その換算の、お金がすべてを決めるって?
人間は物質だから死んだら終わりだって?
どこかの大統領が人類の幸せを決めるだって?

もういい加減、騙され続けるお馬鹿はやめたほうがいい。(笑)

肉体の五感感覚を通じて、
何かを見る、聞く、味わう、嗅ぐ、触れる・・ということは、
単に、見る、聞く、味わう・・ではなく、

つまり、何かに”意識”を向けるということなのだ。
見る、聞く、味わうという感覚の違いは、
単に意識を向ける、そのベクトルの種類・・のようなもの。

そして、
あなたが意識を向けるから・・・”同時に”対象が現れて、
同時に、さまざまな想念、マインドが生じる。
そしてそのマインドの形を意識的に変えることによって、
さらに、その対象が様々に変化、デフォルメされるのである。



たった1枚のDVDの中に、時空物語、歴史絵巻が記憶されている。
同じように、あなたの魂意識には無数の記憶があるからこそ、
今、ここで生きている・・と気づけるだろうか?

どのような世界も、マインドで創られている。
かような、変化や多様性しかないマインド幻想世界で、
何をもって、そこに必死になる必要性があるのだろうか?
いいや、ありはしない。

いまはもう、
物質などという幻想のかたちの中に閉じていた
「わたし意識」の殻を、静かに蹴破り、
まず、この観点にまで自らを上昇させる必要がある。

上昇とは時間・空間の物質次元でのことではなく、
それを超えた、魂意識、気づきレベルでのことである。


例えば、迫力や歴史という奥行きがあると感じる映画も、、
それを記録したDVD自体には時間も空間もないように、

実にリアルこの上もないように見えるこの世界も、
普遍的な意識に生じるマインドの物語なのである。

マインドは常に変化変遷するために、
世界は無数に表れては消えてゆく、
数千年も、数万年も、いや何十億年も、

マインドを生み出す・・意識から見れば、
マインドを含み、生み出し、したがってそれを超えている意識からすれば、

ほんの一瞬にもならない。

そして明らかに、それを忘れ、思い出す道すがらの、
あなたやわたしたちは・・・その無限の意識・・そのものである。

それを本当のわたし・・真我と呼んでいる。

わたしとは何か?・・・
それを問うのは誰か?
永遠に、
わたし・・しかいなかったのだ。






意識の大海に生じる波紋・・想念で宇宙が創られる。
物質なるものは、その一定範囲の振動率の・・「意識」の波動である。




意識の話(29)問うのは・・誰か?

2017-09-05 05:25:51 | 真我実現シリーズ
わたしは何か?・・と問うのは誰であろうか?

それは・・わたし以外にない。

つまり、わたしが ⇒ わたしに問うている。
思考や言葉を使いながら、わたしが⇒わたしに問うているのだ。

その問うている<わたし>とは・・・何か?


こういうプロセス自体、自己にとって最も根本的なことでありながら、
世の中の雑事や混乱、身体的快楽と苦痛に意識を集中している場合、
一体全体なんのことか、まったくわからない人々もいるだろう。

あなたは、いま・・・これを読んで、何を感じるだろうか?

<わたしが ⇒ わたしに>問うている。

意識を・・・わたしという意識のほうに向けている。

わたしとは何だかわからないけれど、
とにかく、わたし自身が何かを・・わたしが・・問うている・・のだ。

自らに・・気づいていること・・
創造の根幹にあるものだけができることである。

自らに気付いている者、それはわたしの宇宙で・・わたししかいない。
多くの同じ人間たちが、多分私と同じであることはわかるが、

わたしの世界には、いや気づける範囲の無限の彼方も含め、
<わたし>という・・自らに気付いている存在は、
わたし<しか>いないのである。

天上天下唯我独尊・・
あらゆる全ての中において、ただ<わたし>だけが・・唯一・・在る・・のだ。

釈迦の伝えたとされる言葉には、その表現こそ色づいているが、
確かに嘘はない・・、
それは偉い人だから信じるというよりも、
まったくその通りだと感得するからなのである。
あなたは綿々と伝わっている、真実の言葉に気付いているだろうか。



それとも、実はあなたの培った、歪んだ想念の記憶という、
膨大な潜在意識の映し出す幻影に幻惑され、

同じく想念で映し出された、一時の身体的感覚に埋没し、
実際にはどこにもいない、大勢の他者の影の行く道に従うのだろうか。

いや、それもまた良し、閉じられた時空間での、
夢の中の夢、苦痛と快楽の味わいもまた良し。
それも、無意識ながらも・・・自らに気づく方向のものである。

しかしながら、
わたしの世界には、いや気づける範囲の無限の彼方も含め、
<わたし>という・・自らに気付いている存在は、
わたし<しか>いないのである。


わたしは・・在りて、在るものだ。(旧約聖書)
わたしとは、特大な神という何か別の存在などではない。

天上天下唯我独尊・・

それは、わたしであり、またそして・・あなたである。

その証拠は、<わたし>をよくよく吟味すること、
あるいは平たく言えば学ぶことだ。

まったく意味不明で、何の役に立つのか?と言われる問いかけ、

わたしは何か?・・と問うのは<誰>であろうか?

これだけは、

他の誰かがあなたに代わって問うことはできない、

絶対に・・・。






まさに知るべし、空は一草なり。
この空、必ず花咲く、百草に花咲くがごとし。(空華 :正法眼蔵 道元)