●峠越えの時期来たる
いま世界で起きていることと言えば、あらゆるものが『飽和点』に達しているということだろう。
飽和とは、一杯になった、完了した、満たされた、限界に達した・・・等という意味である。
世界の出来事や、現実生活や、インターネットでの発信内容や、ごく普通のニュース等の中でもそういう飽和した事象を観察することが出来るかもしれない。
既に限界に達した事を示す現象が、世界のありとあらゆるところに噴出していることに気付けるだろう。
様々な問題に対して人類がそれを解決できないことは一切ないというのが真実であるが、
その「意識レベル」が旧態依然としているために、そのままではどうしても解決できない事象が増えているということだ。
経済しかり、政治しかり、放射能汚染しかり、金融危機、そして実質的な破綻しかり、
騒ぐばかりで、なに1つ解決できないステージにあるではないか。
人類の意識レベル、考え方、それが真実である・・・と認識している古い「観念」が、今はもう障りとなってしまっているということ。
これを越えなければならない時点に既にきているとうことだ。
●古き自縄自縛観念の放下
障りとなる観念・・・根本の・・・それは何度も言うように、
低次元に甘んじている自己認識にある。
自己が単なる肉体・物質体であるという固定された思考である。
いわゆるよく言われるところの3次元的自己認識なのだ。
こういう思考体系から、恐怖や無知や他者への思いやりの欠如、孤独や閉塞感が生じている。
それはいわゆる3次元的、物質的自己認識、自分を偶然に生じた「動く物体」でしかないとする漠然とした「信念」なのだし、
またそうであると思うからこそ、自己を不活性で不自由な存在だとイメージするからこそ、
変化や進化を怖れることになり、いわゆる3次元的制約を受けた、
保守的な自画像を描いて、自らがそこに幽閉されるのだ。いわゆるマトリクス世界である。
そう、魂は今この世界の、そういう不自由さを敢えて経験しているということでもあるが、
未だ気付かぬ人々も多いのだが、そういう時代はもう峠を越えるべき時であることに気付けるだろうか。
今はもう、魂が、旧道に再び引き返すのか、勇気をもって前進するか、2つに1つの峠にきているのである。
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●魂の修行の1つ越え
魂が何を演じ、何を経験するか、魂の自己認識による表現には、それこそ無限の選択枝があるのだが、
今までのこの地球の表層レベルの文明世界では、あろうことかわざわざ無知に沈みつつ、自己を不自由という観念の縄で縛る意識的行為をしていたのである。
古い人はお分かりかも知れないが、まるでアニメ・巨人の星の、飛馬(ひゅうま)の大リーグ養成ギブスのようなものだ。(笑)
今まで、自分達がバラバラの個人、動物に知的な毛をはやしただけの者だというような、
尤もらしい観念が植えつけられ、肉体生命を生きるための物質・物資をいかに獲得するかという事が人生の目的であるかのような社会組織の歯車になってきたというわけだろう。
苦しい、つらい、ああ面倒だ・・・等とつぶやき、あるいは叫びつつ、大勢の人の中で、浮きつ沈みつ、悲しみや楽しみのマダラ模様の波の中で浮かんでは沈み、必死こいて彼岸まで泳ぐような、そんな人生を過ごしてきたのかもしれない。
老若男女を問わず、多くの魂達はそういう長い時代を繰り返し生きてきたことだろう。
そして・・・しかしながら、静かで強靭なパワーを知らず知らず磨いてきたのである。
あなたもそうだろう。
この文章を読まれている方々は、すでにこういう気付きを得られた人達ではないかと思うのである。
嗚呼・・・兄弟たちよ・・・、あなた方は実に良くやってきたのだ。
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●大自然に闘いはなく、共生と物質循環があるのみ
古い時代を振り返り観るならば、人間は、
思考という創造力、想像という自己実現力をまるで抽象的な観念でしかないとする、
物質偏重の「考え方」によって、思考、創造力そのものがきっちりと束縛されてきたというわけである。
想念がエネルギーの青写真となって事象化することを知っている人は良く理解できるはずである。
そう、想念は単なる抽象理念ではなく、パワーを生み出す原因なのである。
独特の世界マトリクスは・・・大勢の存在の想念形で創られるものなのだ。
なかなか気づかないところの・・・・人類に隠された秘密はここにある。
束縛された、不自由で有限である個体である自己、大自然・宇宙と切り離された自分を、
集団で共同創造しているがゆえに、それらバラバラ別個の自己たちが、そういうゲームの世界で自分だけは生き残ろうとする行為にいそしむことになる。
そういう信念思考の者たちから見れば、おバカにも、世界は弱肉強食、適者生存の修羅場に見えるわけである。
男性性の愚かな部分が前面に立って、あたかも世界を開拓しているかのような誤解のなかで、バトルロイヤルを演じている者たちには、
大自然の中の鉱物・植物・動物達の調和や交流、素材である分子原子の生物間における変換と循環が、まるで戦いに見えるわけである。
卑小で有限極まりない個体から見れば、ライオンやトラの猛獣が百獣の王などと持ち上げられ、他の生き物よりも上位であるとかいう観念を生み出すのである。
ミサイルや戦車、核爆弾や電磁波兵器を持っていなれば、恐怖で寝ていられない仕儀と相成るのである。
暴力的に強いものが優秀であるかのような、相当におバカな偏執思想、優生思想であろうか。
西洋的なバラバラの個人主義、唯物史観、弱者強奪の時代は・・・すでに終わったのだ。
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●想念の汚染を除去すべし
現実生活では、放射能汚染やら、大気の汚染やら、水の汚染がもろに脅威となっている感もあるが、
最も注意すべきは、「思考」の汚染である。
それらも知らず知らず流されて来ているのである。
思考が固まると信念、常識となり、人々を動かしやすい迷路に誘い込む強制力となる。
TVや新聞、ラジオやインターネットさえも、そのどこかに確実に危険で、汚れた、観念的放射性物質も流れているのである。
それらに不用意に接し、恐怖、不信、侮蔑、憤り、怒り等が、あなたの体内ならぬ「想念」の中に浸透しないようにすべきであろう。
恐怖や不信、怒りが・・・・たとえそれが当たり前に見えたとしても、それらの多くは精神の汚染物質あるいはウイルスのようなものであり、精神の波動を乱すことになり、
今起きている霊性の時代、魂のステップアップへの大道から外れる効果をもたらすだろうからだ。
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次第に身近な時空に増えてきた、大風や大波や地の揺れや、火の働きによって、
出来れば必要最小限度、出来れば最大多数の最大の気付きを促すような、地球の一大浄化がなされるこの時代にあって、
お金や欲望でうごめく世界が、波風騒ぐ世間がどうであろうとも・・・、
内面は清らかで鏡のような意識を保っているべき時なのだ。
今の特異な地球規模での移行時期は、大騒ぎに騒いでパフォーマンスすることでなく、
大自然の動きとその意思を尊重しながら、
あなたがどういう存在なのかの本質を自らで「示す」時である。
本来はどうあるべきなか、あなたは本来何者であるのか。
単なる動く物なのか、銭金で動くロボットなのか、
あるいは生命なのか、そして生も死も超えた「魂」なのか、
自らの本質に・・・目ざめて・・・今在ること・・・・が第1義的に重要である。
そして必要な行為は・・そこから自然と出てくるはずである。
本質とは物的顕現物ではなく、その因である精神・こころにある。
また精神・こころを構成するところの、魂の働きにあるのだ。
また魂は当然ながら、目に見える物、身体そのものではなく、
それを生み出すところの、言わば、無限の可能性体・・というべきものである。
本質とは「魂」であり、生と死も合わせて・・・生きている命であり
命とは宇宙根源の消えることのない呼吸、息吹である。
それに気付き、修養を重ね、その本質に沿ってより大きい自己を演じる勇気を持つ者たち、
より拡大した意識を有する者たちの時代を、
霊主体従の時代という。
そして、体主霊従から霊主体従への移行は、
ラクダが針の穴を通るほどのものではないものの、
極めて大きな意識的変換点を、集団ではなく、1人1人で通過しなければならないということなのだ。
財産の多いものが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通過するよりも難しいという聖書の話は、
物欲想念ではそこを通過できないが、精神的汚れの少ない存在、素直さや、希望や愛の多い魂には、やすやすと通過できるというのがその意味であろう。
霊主体従ということは、肉体主体の自己の保持だけではなく、スピリット、魂としての自己を前面に出さなければならないということである。
それには、頭の知識や欲得勘定でなく・・・まず腹を据えることであり、そしてハートを駆動すること、
そう、宇宙大自然への大いなる信頼と勇気が必要であるといえるだろうし、
そして、大いなる信頼と勇気の裏側にかならずあるのが、
万物一体である事を知るところの、「愛」という意識の共振、共感である。