気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

今起きていること (3)霊主体従へ

2013-10-26 10:00:08 | 地球の一大変容

●峠越えの時期来たる

 

いま世界で起きていることと言えば、あらゆるものが『飽和点』に達しているということだろう。

 

飽和とは、一杯になった、完了した、満たされた、限界に達した・・・等という意味である。 

 

世界の出来事や、現実生活や、インターネットでの発信内容や、ごく普通のニュース等の中でもそういう飽和した事象を観察することが出来るかもしれない。

 

既に限界に達した事を示す現象が、世界のありとあらゆるところに噴出していることに気付けるだろう。 

 

様々な問題に対して人類がそれを解決できないことは一切ないというのが真実であるが、

 

その「意識レベル」が旧態依然としているために、そのままではどうしても解決できない事象が増えているということだ。

 

経済しかり、政治しかり、放射能汚染しかり、金融危機、そして実質的な破綻しかり、

 

騒ぐばかりで、なに1つ解決できないステージにあるではないか。

 

人類の意識レベル、考え方、それが真実である・・・と認識している古い「観念」が、今はもう障りとなってしまっているということ。

 

これを越えなければならない時点に既にきているとうことだ。

 

 

●古き自縄自縛観念の放下

  

障りとなる観念・・・根本の・・・それは何度も言うように、 

 

低次元に甘んじている自己認識にある。

 

自己が単なる肉体・物質体であるという固定された思考である。

 

 

いわゆるよく言われるところの3次元的自己認識なのだ。

 

こういう思考体系から、恐怖や無知や他者への思いやりの欠如、孤独や閉塞感が生じている。

 

それはいわゆる3次元的、物質的自己認識、自分を偶然に生じた「動く物体」でしかないとする漠然とした「信念」なのだし、

 

またそうであると思うからこそ、自己を不活性で不自由な存在だとイメージするからこそ、

 

変化や進化を怖れることになり、いわゆる3次元的制約を受けた、

 

保守的な自画像を描いて、自らがそこに幽閉されるのだ。いわゆるマトリクス世界である。

 

そう、魂は今この世界の、そういう不自由さを敢えて経験しているということでもあるが、

 

未だ気付かぬ人々も多いのだが、そういう時代はもう峠を越えるべき時であることに気付けるだろうか。 

 

今はもう、魂が、旧道に再び引き返すのか、勇気をもって前進するか、2つに1つの峠にきているのである。

・・・・

  

●魂の修行の1つ越え

 

魂が何を演じ、何を経験するか、魂の自己認識による表現には、それこそ無限の選択枝があるのだが、

 

今までのこの地球の表層レベルの文明世界では、あろうことかわざわざ無知に沈みつつ、自己を不自由という観念の縄で縛る意識的行為をしていたのである。

 

古い人はお分かりかも知れないが、まるでアニメ・巨人の星の、飛馬(ひゅうま)の大リーグ養成ギブスのようなものだ。(笑)

 

Thcaeplpqs

 

今まで、自分達がバラバラの個人、動物に知的な毛をはやしただけの者だというような、

 

尤もらしい観念が植えつけられ、肉体生命を生きるための物質・物資をいかに獲得するかという事が人生の目的であるかのような社会組織の歯車になってきたというわけだろう。

 

苦しい、つらい、ああ面倒だ・・・等とつぶやき、あるいは叫びつつ、大勢の人の中で、浮きつ沈みつ、悲しみや楽しみのマダラ模様の波の中で浮かんでは沈み、必死こいて彼岸まで泳ぐような、そんな人生を過ごしてきたのかもしれない。

 

老若男女を問わず、多くの魂達はそういう長い時代を繰り返し生きてきたことだろう。

 

そして・・・しかしながら、静かで強靭なパワーを知らず知らず磨いてきたのである。

 

あなたもそうだろう。

 

この文章を読まれている方々は、すでにこういう気付きを得られた人達ではないかと思うのである。

 

嗚呼・・・兄弟たちよ・・・、あなた方は実に良くやってきたのだ。

 

・・・

 

●大自然に闘いはなく、共生と物質循環があるのみ

 

古い時代を振り返り観るならば、人間は、

 

思考という創造力、想像という自己実現力をまるで抽象的な観念でしかないとする、

 

物質偏重の「考え方」によって、思考、創造力そのものがきっちりと束縛されてきたというわけである。

 

想念がエネルギーの青写真となって事象化することを知っている人は良く理解できるはずである。

 

そう、想念は単なる抽象理念ではなく、パワーを生み出す原因なのである。

 

独特の世界マトリクスは・・・大勢の存在の想念形で創られるものなのだ。

 

なかなか気づかないところの・・・・人類に隠された秘密はここにある。

 

 

束縛された、不自由で有限である個体である自己、大自然・宇宙と切り離された自分を、

 

集団で共同創造しているがゆえに、それらバラバラ別個の自己たちが、そういうゲームの世界で自分だけは生き残ろうとする行為にいそしむことになる。

 

そういう信念思考の者たちから見れば、おバカにも、世界は弱肉強食、適者生存の修羅場に見えるわけである。

 

男性性の愚かな部分が前面に立って、あたかも世界を開拓しているかのような誤解のなかで、バトルロイヤルを演じている者たちには、

 

大自然の中の鉱物・植物・動物達の調和や交流、素材である分子原子の生物間における変換と循環が、まるで戦いに見えるわけである。

 

卑小で有限極まりない個体から見れば、ライオンやトラの猛獣が百獣の王などと持ち上げられ、他の生き物よりも上位であるとかいう観念を生み出すのである。

 

ミサイルや戦車、核爆弾や電磁波兵器を持っていなれば、恐怖で寝ていられない仕儀と相成るのである。

 

暴力的に強いものが優秀であるかのような、相当におバカな偏執思想、優生思想であろうか。

 

西洋的なバラバラの個人主義、唯物史観、弱者強奪の時代は・・・すでに終わったのだ。

  

 

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 ・・・・・

 

●想念の汚染を除去すべし

 

現実生活では、放射能汚染やら、大気の汚染やら、水の汚染がもろに脅威となっている感もあるが、

 

最も注意すべきは、思考」の汚染である。

 

それらも知らず知らず流されて来ているのである。

 

思考が固まると信念、常識となり、人々を動かしやすい迷路に誘い込む強制力となる。

 

TVや新聞、ラジオやインターネットさえも、そのどこかに確実に危険で、汚れた、観念的放射性物質も流れているのである。

 

それらに不用意に接し、恐怖不信侮蔑憤り怒り等が、あなたの体内ならぬ「想念」の中に浸透しないようにすべきであろう。

 

恐怖や不信、怒りが・・・・たとえそれが当たり前に見えたとしても、それらの多くは精神の汚染物質あるいはウイルスのようなものであり、精神の波動を乱すことになり、

 

今起きている霊性の時代、魂のステップアップへの大道から外れる効果をもたらすだろうからだ。

 

・・・・ 

次第に身近な時空に増えてきた、大風や大波や地の揺れや、火の働きによって、

 

出来れば必要最小限度、出来れば最大多数の最大の気付きを促すような、地球の一大浄化がなされるこの時代にあって、

 

お金や欲望でうごめく世界が、波風騒ぐ世間がどうであろうとも・・・、

 

内面は清らかで鏡のような意識を保っているべき時なのだ。

 

今の特異な地球規模での移行時期は、大騒ぎに騒いでパフォーマンスすることでなく、

 

大自然の動きとその意思を尊重しながら、

 

あなたがどういう存在なのかの本質を自らで「示す」時である。

 

本来はどうあるべきなか、あなたは本来何者であるのか。

 

 

単なる動く物なのか、銭金で動くロボットなのか、

 

あるいは生命なのか、そして生も死も超えた「魂」なのか、

 

自らの本質に・・・目ざめて・・・今在ること・・・・が第1義的に重要である。

 

そして必要な行為は・・そこから自然と出てくるはずである。 

 

本質とは物的顕現物ではなく、その因である精神・こころにある。

 

また精神・こころを構成するところの、魂の働きにあるのだ。

 

また魂は当然ながら、目に見える物、身体そのものではなく、

 

それを生み出すところの、言わば、無限の可能性体・・というべきものである。 

 

 

本質とは「魂」であり、生と死も合わせて・・・生きている命であり

 

命とは宇宙根源の消えることのない呼吸、息吹である。

 

それに気付き、修養を重ね、その本質に沿ってより大きい自己を演じる勇気を持つ者たち、

 

より拡大した意識を有する者たちの時代を、

 

霊主体従の時代という。 

 

そして、体主霊従から霊主体従への移行は、

 

ラクダが針の穴を通るほどのものではないものの、

 

極めて大きな意識的変換点を、集団ではなく、1人1人で通過しなければならないということなのだ。

  

財産の多いものが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通過するよりも難しいという聖書の話は、 

 

物欲想念ではそこを通過できないが、精神的汚れの少ない存在、素直さや、希望や愛の多い魂には、やすやすと通過できるというのがその意味であろう。

 

霊主体従ということは、肉体主体の自己の保持だけではなく、スピリット、魂としての自己を前面に出さなければならないということである。

 

それには、頭の知識や欲得勘定でなく・・・まず腹を据えることであり、そしてハートを駆動すること

  

そう、宇宙大自然への大いなる信頼と勇気が必要であるといえるだろうし、

 

そして、大いなる信頼と勇気の裏側にかならずあるのが、

 

万物一体である事を知るところの、「愛」という意識の共振、共感である。

 

 

 

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今起きていること (2)霊性の時代へ突入

2013-10-19 11:24:03 | 地球の一大変容

1か月ほど前であるが、私の勤め先に知人が訪ねてきた。 

 

彼は前に勤めていた会社の同僚であり、3年ほど前に交通事故の複雑骨折で重体だという噂を小耳にはさんだことがあった。 命はとりとめて一時リハビリ中であって、半身不随どころではないような噂もあり、心配はしていたのだがその後の情報がなく自分も忘れていたのだった。

 

聞くところによれば、夜間に仲間と酒を飲んで酔っ払い、泥酔のあげく道路に寝ていたところを車に引かれたようだという話であった。

 

まるで剛の者の感じであるが、あまり酒癖が良くないことは知っていたし、道路に寝るというところは、無意識ながらどこか自暴自棄的なこころがあったのだろうとも感じていた。 

 

確かに中年以上になって企業倒産に遭遇すれば、なかなか苦しい生活になることもあるわけで、なにくそと頑張っていながらも相当なストレスもあるはずである。 


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・・・ 

その彼の名をHとしておこう。

 

なんと、そのH氏が3年後ひょっこり連絡をよこし、また仕事を始めたので私のところに挨拶しに行きたいということだった。 連絡を受ける方はびっくりするやら嬉しいやらであった。 

 

そして数日後、わたしの勤め先に挨拶にやってきたのだが、外見には身体不自由なところも何も見られず、普通に歩き普通に会話できる状態であったことは少々の驚きであった。 

 

そのH氏の話によれば、事故の時に担ぎ込まれた神奈川の病院の医師が、なかなか技術的に優れた人であったらしく、複雑骨折した胴体を特殊なギブスの考案によって回復させたということだった。 

 

その後のリハビリの苦労などを聞くにつけ、実に良く回復したものだと感嘆せずにはおれなかった。 

 

その他、人に言えないような苦労話をひとしきり聞いたのであるが、私はその時ひょっとして彼が臨死体験をしたかもしれないと、その話を出してみた。 

 

元々いわゆる常識の中で生きてきた感のあるH氏であるし、以前は臨死体験や魂がどうのというような話が出来る相手でもなかったのだが、思い切って聞いてみたところ、それをあっさりと認めたのである。

 

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・・・

H氏は、それを何で知っているのか?というような表情をチラと浮かべた後に語り始めたのはこういう内容であった。 

 

H氏) 「恥ずかしい話だが、以前の会社の人たち、〇と△・・・と酒をのんでね、それで酔っ払ってどうも道路に寝ていたようなんだよ。それで、車が俺の胴体の上を通って行ったわけさ。」 

 

私) 「おいおい・・、それは車にひかれたということか?」 

 

H氏) 「そうそう、それもな、『あーひいちまった!やばい・・・』 という運転手の声が聞こえて、慌てた相手はまたバックしてしまい、2度ひきやがったわけよ。(苦笑) 

 

私) 「なんと・・・・!」(絶句) 

 

H氏) 「また、なぜか慌てているその人の声もはっきり聞こえるわけさ。   

それにいつの間にか、その状態を上からつぶさに見ている自分に気が付いたんだ。」

 

私) 「えー、マジ? 上から下の自分の状況を見ている・・ということ?」 

 

H氏) 「そうなんだよ、数mかな~、上から下の身体がボロボロの自分を見ているのさ。

 

それにな、そういう上から自分を見ているような状態は続いて、病院に担ぎ込まれたあとで医師の先生たちが、なんだかんだと言って盛んに動き回っている時も上から見えていたんだ。」 

 

私) 「うわーっ、それはいわゆる・・・臨死体験だわ。」 

 

H氏) 「そういうことだろうか。その後自分が手術されているのも見えていたよ。」  

 

私) 「その他、何か向こうにつながっているような、トンネルみたいなものは見えなかったの?」 

 

H氏) 「あっいや、それは気が付かなった、下の自分に夢中だったからね」 

 

私) 「あーそうか、偉そうなことを言うようだが、多分未だ行くべき時でなかったのかもしれないね。だから戻ってきたというわけだろう。」 

 

H氏) 「まーそうかもしれない」

 

・・・

 

要点だけを言えばそういう会話である。 

 

私自身も半覚醒状態での<意識の体脱>の経験が何度かあるために、その話が単なる夢だとか、眉唾だとか、びっくり仰天する類のこととは思わないが、 

 

こういう例えば臨死体験によって否応なく<高次の意識体である自分>自身を経験するような出来事を、全くの常識人から聞けることに少なからず驚きを感じたわけである。  

 

嘘も隠しもない、逃げもごまかしも出来ないような、真剣で、ある意味必死な体験を経た者は、もう何が真実なのかが解ってしまうのものである。  

 

人間が気づくべき重要なことは、物的自己ではなく、それを顕現するところの霊的自己であり、

 

そういう肉体以上の<わたし>という、真我への気付きと言おうか、高次の自己を思い出すと言おうか、 

 

今までの物質レベルの肉体自己から、霊的な自己への大いなる気付きが、あちらこちらに噴出し始めている時代になってきたのである。 

 

それを霊性の時代の幕開けと言っても良いだろう。  

 

気付ける者にはそれが分るはずである。 

 

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(手から発する生体エネルギー場)

・・・・

 

そう、我々の世界は既に変わっているのである。

 

 

なぜか他の人が変わるのを待っている人には、それが気づけないかもしれない。

 

そしてその霊性の時代への移行に伴い、どうしても通過しなければならないことは、自己認識のいわば高次元化であるといえようか。 

 

人存在とは、銭・金・物で翻弄され、小突き回されて泣き叫ぶような「肉体小物入れ」ではないということを知らなければならないということである。 

 

自分とは・・・・肉体の欲望を持て余しつつ、社会の中で生き残りをかけて右往左往するような卑小な物的存在等ではなく、 

 

それを演じ、それを表現しているところの因である「魂」的存在であることを知る必要があるということだ。 

 

また大自然、宇宙にあまねく表現されている、調和と生命の進化進展の法則を肌身で認識することである。 

 

本当に知る・・・ということは、見えないものを見えるようにする法則を知ること、 

 

魂・意識の発する意図が、すなわちエネルギーとして、事象として顕現することを・・知る・・ということだ。 

 

社会の中で生起しているように見える様々な物事や、様々な他者の想念形にその眼を奪われ、右に左に揺らいでいる者たちは、その意識の投入先を間違えているということである。 

 

世界がどうしたこうした、他の人々がどう言ったこう信じている等という前に、結局はそういう世間という濁流に流される前に、 

 

それを観察し経験している・・・あなたは何者か?に気付く必要があるのだ。 

 

世界を観ている・・・・ところの、<あなた>がいなくては、あなたのこの世界はないのである。 

 

そう・・・、見えている物ではなく、それを観ている内なる者、 

 

それを・・・その意識に映じているところの、<わたし>自身を観なくてはならないということだ。 

 

今起きていることは、 

 

この学び舎に来ている魂達が、我を忘れて演じてきた過去の時代を振り返りつつその意味を悟り、 

 

そして今はもう、勇気をもって新たな霊性の時代に移行することなのである。 

 

そう、「未だは・・・もうなり」 である。 

 

そういう意味で、時間は・・・もうあまり無いと言えるかもしれない。 

 

地球という我々の遊んできた舞台も、そろそろ、その時空回り舞台の転回を始めているようである。 

 

地球という、時空舞台自体も「意識体」であり、子らであるところの人類や多くの生命の様子を見ながらも、自らが確実に変容してきているということだ。 

 

・・・・・

 

そう、 

 

今はもう、大いなる変化を率先して行うべき時期にあり、 

 

逆に世界が変われば、わたしも変われる・・・と思っている魂達は、 

 

常にそのうちに変わると・・・いう世界の中に、変わらずい続けることだろう。 

 

あなたの周りの世界の・・・全ては、意識とその表現の因である・・・

 

あなたの「意図」によっているのである。 

 

それが「自・由」という真の意味なのだ。 

 

今、ここで、この時に、この地において、 

 

自らに・・由って縦横無尽に表現が可能な・・・魂なのであることを思い出そうか。

 

それに、ここにいる魂達は、存在諸世界において、実に勇敢で、実に愛すべき、

 

魂の猛者達なのだ。

 

 

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今起きていること (1)金融崩壊

2013-10-13 11:35:25 | 地球の一大変容

現在アメリカで進行中の財政破綻問題は、ネットではお馴染みなのだが、日本のメジャーなマスメディアではあまり重要なネタではないようである。 

 

我々一般人は、政治家や政府や自治体などのメジャーな組織は、何事でも全てを知っているはずだと勘違いしているかもしれないし、庶民のためにいつでも対応してくれるだろうと思っているかも知れない。 

 

だから、騒いでいないのは、どうってことないからだ・・・と思っているのかもしれない。 

 

だが、それは違うのだ。

 

 

・・・

 

そう、もうじき、極めて遠くない将来には、アメリカはいわゆるデフォルトをすることになる。

 

 

またそうでないならば、その身のカルマを果たさずに、何かありそうな高度なごまかしで終始するならば、その新生は果たし得ないことであろう。

 

 

いや、今から出てくることは、既に起きていることの<事後認識>に過ぎないという事である。 

 

すでに祭りは終わっているのである。

 

断言するとか、予言するとかの話ではなく、既に<破綻していること>に気付かなければならないということだ。 

 

そして、今はその破綻状態が「固形化」しつつあるということ。 

 

 

完全固形化にあとどれだけ時間がかかるか・・・に尽きるのだ。

 

「困った困った状態」 から、 

 

「何とかしなければ状態」 に移行し、ここから・・ 

 

「とうとう終わってしまった状態」 へ、一直線ということになってしまったのだ。 

 

そして、最終最後には・・・「何か文句があるのか」 状態になってゆく。(笑)

 

 

今は、その嵐の前の静けさというわけである。

 

アメリカだからそんなはずはない。 

 

国の政府が破綻するわけはない。

 

何か陰謀や企てがあるに違いない・・・と訝しむかもしれない。

 

なるほど、確かにそれはあるだろうが、こと金銭の収支を誤魔化しきれるものではなく、

 

0.7の収入に、1.0の支出を維持できるわけもない。

 

公式に14兆ドル、非公式には200兆ドルとも言われる負債を、どうやって2兆ドル程度の税収から返済するのだろうか。

 

大ざっぱすぎるかもしれないが、よくある例示としては、

 

200万円の年収の人が、1400万円の借金をし、利子を50万円づつ返済しながら、あらたに年間200万円づつ借金を増やしているようなものである。

 

「あーだめだ、こりゃ、やってらんない」・・・ではないか。

 

 

負債のほとんどが国内金融資産であるところが異なるものの、まるで日本も同じ状態なのである。

 

分る人には既にいわゆる倒産、破産していることが解ろうというものだ

 

ある意味で、政府は破産し、企業が生き残ったとも言えるかもしれない。

 

これは感情論でも陰謀論でもなんでもなく、元々の資本主義の宿命なのである。

・・・

 

人の良い庶民的感覚では、あの頭の良さそうな知識人が集まっている政府機関が何も出来ないわけはない・・・・という漠然とした思い込みがあるかもしれないが、 

 

そういった意味不明な信念はどこから来るのだろうか? 

 

それは単に洗脳に乗っかった自己都合な思い込みなのである。 

 

そもそも、どこにもそんな保証などあるわけもない。 

 

・・・・

 

実際に1945年以降、世界の60か国以上が実際にデフォルトを起こしている。 

 

トルコ、アルゼンチン、1998年のロシア、終戦直後の日本やドイツ、最近ではアイスランド、世界の半数近くの国が一時的な債務不履行、デフォルトを起こしているのだ。 

 

アメリカ政府といったところで例外ではないのである。 

 

一般にデフォルトといっても、政府の債務不履行がそのまま国家の倒産、解散というわけではないが、一度デフォルトした場合は、その信用回復と債務返済の長い時間がかかることになる。 

 

従って普通は、デノミネーション、通貨の切り下げ、新規通貨切り替え、予算の大幅カット、そして最悪はハイパーインフレによって、債務の最小化政策が実施される事になり、結局は大勢の庶民の苦痛を強いたものになるのである。 

 

いわゆる為政者達がどのような形態の始末と再生を計るのかはさてとして・・・、

 

 

どういう形で移行を果たすかは別として・・・、

 

間違いのないことは、今は一度全てご破算にしなければならない時期が来ているのである。 

 

今回は世界の資本主義の牙城であるアメリカだ。 

 

イギリスと同じく、世界の金融資本の心臓部であるアメリカ、基軸通貨国のデフォルトは、 

 

文字通り心臓の働きによって貫流している資本という血液の、その循環の停止と資本主義全体への重大な障害の発生を意味している。 

 

要は、1国のみならず、世界中にその障害が及んでしまうという事だ。 

 

これが今までの中小な国々のデフォルトと大きく異なるところである。

 

 

プラザ合意のあたりから陰りが見え始めたアメリカであるが、その都度何かの起死回生策を世界に献上し、資本主義の経済成長神話を何とか保ってきたのであるが、 

 

また日本の本当に情けなくなるほどの大量の貢物も空しく、

 

最期の止めのような出血、リーマンショック以降に輸血された膨大な資本が、通常の地道な返済機能をはるかに超えてしまったわけである。 

 

世界あちらこちらの戦争需要の掘り起しも、結局のところはカンフル剤を期待しての新たな投資地域を創らんがためのものであったようだが、当然ながらそれも大枠は破綻してしまったのだ。 

 

投資とその回収の手段であるところの戦争需要も、新興国の経済成長も、増え続ける負債の成長スピードに追い付くことは出来なかったということであろう。 

 

そう、今はもう、投資と回収という資本主義の基本形が破綻したという事である。 

 

まさに資本投資の極大化とその回収、最大の利益を確保しながら繁栄した、アメリカ流の古い資本主義帝国の終焉である。 

 

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その崩壊は、そびえたつ資本主義宗教の天空伽藍にひび割れが生じ、そして音を立ててガラガラと崩れ落ちるようなものであろうか。

  

あるいは物質的繁栄を極めた大陸が、自らのカルマで地殻変動を起こし、大海に飲み込まれて沈んでゆくようなものかもしれない。

 

 

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そして、やや時を遅れて金融津波もやってくるはずである。 

 

なるほど、ポジティブ思考を知っている人々はそんなことはないと、軽くいなしたいところであるが、 

 

それは良い悪いという物差しで判断すべきものではなく、 

 

知らず知らずその中で、大なり小なりそれなりのおすそ分け栄華を味わった人々の、当然ながらも解消すべきカルマとも言えるだろうか。 

 

カルマなどは実際には無いことであるが、気づかぬ者たちにはそれがそれとして、気づける形で現れてくるのが、 

 

いわばカルマという、魂の為の学習テーマなのである。

 

・・・・ 

 

株式投資の諺(ことわざ)の中に、 

 

もう・・は未だなり、未だは・・もうなり」・・というのがある。 

 

つまり、「もう来るぞ~・・」と考えていたら、

 

それは「未だだった」ということであり、

 

また、 

 

「まだまだ・・」 と思っていると、それが「もう来ていた」・・という意味である。

 

・・・・

 

事実とは、自我の想いのフィルターを通さず、

 

そのまま直観知でしか観ることが出来ない代物だとも言えるだろう。  

 

そして・・・、あなたには、今起きていることがしっかり・・観えていることだろう。

 

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魂は修行の身をまとう

2013-10-12 07:29:16 | 意識の拡大

あなたもわたし達もすべての「魂」は、只今修行中であるといえようか。

 

 

修行といっても何も苦行ばかりを言うわけでもなく、遊行ばかりを意味するわけでもない。

 

それは本来、この世界独特の、疲れや嫌気と付き合う事とは・・・無縁のものである。

 

例えば、そこに苦労という塩味はあれども、

 

自分でわくわくすること、ウキウキする経験と遭遇することが本来の修行である。

 

そうそう、修学旅行等は楽しいものではなかったか。

 

 

 

 

実は面白く、楽しいことが修行であると「悟る」には、

 

世の中にゴミのように落ちている、疲れや嫌気や怒気等という、

 

無知で余計な汚れた想いという、こころの荷物をポーン・ポンポン・・と手放すこと、

 

こころを自らで洗濯すること、

 

汚れた観念を棄て去ることだけが求められる。

  

取り込んだら、それを棄て去ること、言わばそれは魂の新陳代謝なのだ。

 

 

 

それらが 「何がなんだか」 理解すればそれでよいのである。

 

「おー、そうだったのか・・」

 

解って味わえば、さっさと手放すことだ。

 

「でも・・・そうは言ってもね・・・」 も、執着観念。

 

さっさと棄て去ることだ。

 

また来たら、また捨てる、そうしてそのうち目の前を素通りするようになるものだ。

 

本当の、自然の、本来の・・・わたしの・・・目の前を通り過ぎてゆくようになるだろう。

 

そう、観念や通念や思考は、・・・わたし・・・ではない  ということが分るのだ。

 

 

 

そう、

 

無意識に溜め込んだ汚れた想いの数々を棄て去ること、それが今・・肝要なことである。

 

何事にも捉われないこと、

 

無執着、・・・それは古代から延々と続く、この世界の魂の修行者への戒めである。

 

 

意識の中で、意識的に自由な状態にあること、、

 

出来れば空(くう)にしていること、

 

なんでもござれの無の境地、

 

どこにも動ける武道の極意、

 

あるいは中庸のバランスの常態、

 

つねに自分のこころの動きを観ている状態、

 

 

湧いては消える思考や観念に突き動かされない不動の精神、

 

何かの思考や観念に引っかからない、ゆったりとした意識の在り方、

 

 

それを「悟り」と言っているのだ。

 

 

それも自由の証、自らに由る、融通無碍の在り方、

 

それは難しい、窮極の目的等ではなく、本来あり得べき、当たり前の「魂・意識」の姿である。

 

そして、これからそれが当たり前の時代となるだろう。

 

Thcag0szxw

今はもう、

 

魂が元々持っていない様々な制限された価値観念、

 

次から次へと出てくる通念という押し付けられた「重り」を、

 

後生大事に背に負って、トボトボと汗を流しつつ、歯を食いしばって歩くこと、

 

それが美徳と信じ込む時代は、はるか昔に終わっているではないか。

 

 

 

 

お互いに自我エゴの重さを慰め合い、またお互いにバトルしながら、

 

無意味な忙しさで、毎日脇目も振れず、銭金を生み出すニワトリ達を演じつつ、

 

その籠の中身がこすれるように生きること、 

 

1円、100円、何億円という幻想の束を必死で数え上げ乍ら、

 

自分の人生そのものを嫌々「すりこぎ」に投入し続けながら、

 

俺はおまえよりも上だ、いや下だと・・・こころの内で罵り合いながら、

 

必死で頑張るのが人生だと思っているのだろうか。

 

 

何が何でも・・・頑張れ、頑張れか? 

 

ちがう、ちがう。

 

人の人生は、他人のものではないのだよ。

 

親の創造物ではないのだよ。

 

社会の所有物ではないのだよ。

 

わたしとは、それぞれの<わたし>以外のものではないのだよ。

 

Thca1n21ss

 

・・・・

 

嗚呼、今までの世界、

 

それは実に、実に・・・面白可笑しき世界であったのではないだろうか。

 

それは例えれば、

 

ニガウリばかりの露店街でごった返す、買い物客達ばかりのような世界、

 

嘘ばかりが価値あるものとして売られ、体に悪いものを高値で買うような、

 

まるでパリサイ人(びと)の市場そのままのような世界であろうか。

 

しかしながら、

 

つばきを飛ばして喋りまくるワールドな売り子たちの、どこか健気な数々の嘘八百が、

 

はっきり「嘘」と分るようになってしまったからには、もう店じまいである。

 

そしてパリサイ人の市場には・・・もう誰もいなくなるのだ。

 

面白おかしき、縁日の露店の楽しみは終わりを告げたのである。

 

物見遊山の時は終わり、今はもう参道を進んで通って、その先の

 

 

神の社に手を合わせる時である。

 

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・・・・

 

 

生きるとは何でもあり、すなわち融通無碍である。

 

自由とは何でもありを意味するのだ。

 

魂の修業はその自由の賜物である。

 

 

 

また自由とは魂の選択できる無限の可能性のこと。

 

あらゆることが、それぞれの<わたし>の選択なのだ。

 

その自由によって、今のこの世界に在るという・・・事実に気付けるだろうか。

 

少なくとも常に自己の周りを美しく、軽やかに、楽しくすることがその目的だろう。

 

それまでの言わば苦楽の道のりが・・・修行と呼ばれるプロセスなのだ。

  

そうではなかったか。

 

 

・・・・

 

 

魂のその無限の可能性、無限の自由による選択によって、あるいは思考によって、

 

あなたはこの世界に来て修業をしているのである。

 

一体誰が・・・・ではなく、自らは、自らに由っているのである。

 

 

いまもまさにそうなのだ。

 

 

 

この世界にいる人々は、

 

魂の双六(すごろく)ルートといっても良いような、意識の進化道をたどり、、

 

いわば次元降下、時空転移をしながら、この青き惑星生命圏に出現したのだ。

 

そして何十回となくこの生命圏の次元を上がったり下がったりの、

 

周回軌道に乗り、いわゆる輪廻・転生を行なってきたわけである。

 

 

 

あなたもそろそろ思い出して来ているだろう。

 

より大きな自己を思い出してきていることだろう。

 

こういう文言に接するということは、多分そういう事である。

 

・・・・

 

 

 

生まれる前、魂の壮大で膨大な記憶のほとんどをその霊的衣服の懐にしまいこみ、

 

母親のお腹の中から出てくるという出現方式を通って、

 

生命の進化と、それを生み出す根本である「慈しみ」「親身さ」という、

 

そう、無条件の慈愛という、神のまごころこもった贈り物を身に着けて、

 

勇躍この辺境の地、いわゆる3次元的世界に降り来ったのである。

 

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それを憶えていないという不可思議な記憶喪失、

 

ほとんど全てを忘れて自己を再開するという、

 

とんでもなく恐ろしいような、とんでもなく破天荒な、

 

あり得ないような無知からの、魂の進化成長を意図する霊的修行の仕組み、

 

 

嗚呼、

 

赤ん坊の「オギャー!」という声の、なんと意味深いことだろうか。

 

あなたはその泣き声に、その深い意味・・、それに気づいただろうか?

 

あなたも子たちも、親たちも、そうやってこの世界に転移してきたのである。

 

本来は嬉し、楽しの魂の修行のためなのである。

 

 

 

魂・意識は、本来自由自在、融通無碍である。

 

それは無限の自己である宇宙遍満意識の、無数の咲き分け、分け御霊なのだ。

 

どんな経験も、どんな在り方も、どんな思考も、自由自在なのである。

 

たとえば、

 

自由自在の魂であればこそ不自由、不自在である肉体も、

 

あるいはそれより自由度の拡大した上層の霊的身体をも纏うことが出来るのである。

 

山に行くのは登山服、海ではふんどし1丁、海への潜水は潜水服、それとあまり変わらない。

 

そう、肉体、身体とはそれぞれの経験、体験世界に用意された乗り物なのである。

 

 

・・・・

 

この世界は言わば次元世界の辺境の地、

 

分けのわからない種々雑多な観念の生い茂る、

 

多次元宇宙のなかの1つのフロンティアといえるだろう。

 

そう、ここはフロンティア、辺境の地、

 

存在宇宙あまねく無数に輝く魂達にとっての、前人未到の地のようなものであった。

 

・・・・

 

それは、

 

前人未到の野蛮で、野卑で、そして藪(やぶ)だらけの、精神の不毛の地であったとも言えるかもしれない。

 

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物や形など、すぐにも壊れてしまうようなものをかき集めてそれを摩天楼に形づくり、

 

気付けば、時代を経て窮屈になるばかりの人生で、

 

自らの生き残りを至上命題とする、小さい自己達の、

 

逆に、大きく大きく成長するためのフロンティアであったとも言えようか。

 

 

しかし時は過ぎ、飽和し、溢れる想いと記憶がその肥やしとなり、

 

これから大きな大輪が花咲く時節が到来したのだ。

 

それは、

 

光に満ちた宇宙の根源から巡り巡って、この世界に勇躍降り来ったあなたやわたし達、

 

全ての魂達の・・・・おかげなのだ。

 

そう・・・・お互い様、おかげさま、本当に有難いことなのだ。

 

Ohkawa


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


多次元を理解するために

2013-10-06 10:39:13 | 意識の拡大

今はもう、宇宙は多次元構造であるということが次第に認識される時代になった。

 

 

リサ・ランドール博士(女史)の五次元理論も、あるいは物理学で出てくる「ひも理論」での多次元説明も、それが<物理的>に立証されるかどうかは別として、存在世界そのものが実は多次元構造であるという事を探究する試みであろう。

 

いわゆる3次元的世界で生活している我々一般人には、そんな概念すらもないかもしれないが、人々がそういう観念ルートで、即ち知力でもって理解しているかどうかではなく、実際に我々の存在そのものが多次元的経験をしていることに気が付くだろうか。

 

要するに、あなたは今までも「多次元的存在」であったのだが、それに全く気付かない、あるいは認識しないそんな状態の文化文明にいたということである。

 

 

「え?マジ・・どこが多次元なの? 何言ってんのーー?」という感じだろうが、

 

これはどういう事かというと、 

 

地球上の人々の中の一部の存在を除いて、一般大衆レベルでは、例えば人が生まれる前だとか、死んだ後だとか、そういう生命・魂の持続性に関してほとんど無知の状態にあったという事でもある。

 

何故ならば、人がこの世界に生まれるということは、すなわち「魂」が次元を超えて、新たに形態出現するということに等しいし、また人が死ぬという事は、すなわちこの次元から別の次元への「魂」の転移・展開であるということだ。

 

また、毎日の夢見もしかり、それは多次元世界の一瞥と、そのかすかな記憶とも言えるケースの場合もあるのだ。

 

夢見は肉体の休止の間の、意識体の無自覚的な次元転移の場合があるということ。

 

 

自分が火星や太陽に行ったという、一般的にはトンデモというような、あるいはあり得ない~!というような意識上の経験をしたものから云えば、こういう多次元世界の仕組みについては実に良く理解できるのである。

 

また次元というとすぐにSF的なワープ航行だとか、テレポーテーションだとか考える場合もあるのだが、

 

今の我々の認識しているこの物理的な時間空間が多次元構造をしているということでなく、

 

例えばこの地球の今の3次元的世界が、多次元構造の中の1つの層であるということを示している。 

 

 

 

つまり我々が物理的世界、物質的世界等と認識しているこの時間・空間は、

 

多次元構造体としての地球の、そして宇宙の1つの層に過ぎないという事である。 

 

例えば、ハッブル望遠鏡等を使って、人類が壮大で無限の宇宙を観測しているとしても、

 

観察されるそれは単に、我々の認識する次元層の認識枠から見える事象の話であって、

 

当然ながら目に見える宇宙がその全ての姿を見せているわけではないということである。

 

 

また例えば、NASAなどが暗に言っているような、他の近隣星には人類のような存在がいないという事は、要するに3次元的な周波数帯域では観測されないという事である。

 

それは3チャンネルの教育テレビだけでは、8チャンネルで放映される時代劇番組を見ることが出来ないということと等しいのである。

 

Th 3次元的窓から見たアンドロメダ銀河


まるで目がくらみそうなことであるが、原子の周囲の電子がとびとびの軌道を持つように、これはある意味で窮極の微粒子の振動数の幅、一定の周波数帯域が、広大な周波数領域のなかでの飛び飛びの階層構造をしているようなものである。

 

我々が3次元世界に住んでいる、あるいはいた・・・ということは、「魂・意識」が3次元的な周波数帯域に<同調>している、あるいは同調していた・・・という事なのだ。

 

同調するというのは、様々な電磁波機器、テレビ、ラジオ、携帯電話、スマホなどで普通に使っているように、共鳴する、あるいは振動数を合わせるということである。

 

情報通信工学的に言えば、それらの機器の違いは電磁波の周波数帯域、あるいは変調方式の違いだけなのだ。

 

 

これはあらゆる波動レベルでの基本法則のようなものである。

 

世界のあらゆるものが窮極には波動形態であることが理解できるならば、これは自明のことなのではないだろうか。

 

また人間の意識の働きに関しても、この波動的法則が適用されるということである。

 

同調、変調、発信、受信という波動の表現形態は同じであるということだ。

 

電波も波動であり、それ自体は目に見えるものではないが、受像機で同調すればそれが目に見えるようになるわけで、同様に意識の働き、精神の働き、イメージなども波動であって、それに人間の意識が同調すれば・・・それが知覚されるという事である。

 

しかし同じ波動法則上にあるといっても、「電波」の波動と「意識」の波動では、その両者は全く層の異なるもの、いわば次元の異なるものであって、それそのものが同調、共鳴したり混ざり合う事はないのである。

物事、現象の生起は、何度も言うように、

 

意識→意図(想念)→エネルギー→現象(物質顕現形態)というプロセスを経ると言えるのだが、

 

世界で使われている電磁波は<エネルギー→現象(物質)>のレベルの波動であり、

 

精神の波動は、その上位の<意識→意図(想念)>のレベルの波動といえるのだ。

 

それらは異なった波動の周波数帯域にあり、また異なった周波数帯域はそのままでは同調出来ないわけであるが、その精神レベルの波動は原因側、あるいは階層の上位にあるがゆえに、それは電磁波動をも生起することが可能という事になる。

 

精神波動が電磁波的波動に変換されて放射している良い例は、

 

人間の周囲に生成されているが肉眼では見えていないところの、

 

いわゆる<オーラフィールド>であろう。

 

 

Cnt2003041


オーラフィールドは、上図で云えば肉体とアストラル体の間の、エーテル体の波動帯域とも考えられる。

 

・・・・・・・

 

オーラフィールドは電磁波動的要素があるために、特殊な電気ポテンシャルの中ではそれを可視化することが出来るのだ。

 

世間にはオーラ写真機のようなものが既に売り出されており、あなたと私・・・にっこり笑って2ショット・・・などかどうかは知らないが、

 

基本的には人体周囲に所定の電場、磁場をかけることによって、それを人体周囲のオーラフィールドの電磁場要素に作用させて、目視可能な写真に出来るということである。

 

オーラはその人の想いや意識の状態によってその色彩や大きさが変化するエネルギー体と云われている。

 

そう、オーラにはあなたの想いやコダワリ、こころの状態がダイレクトに出ているのである。

・・・・

前世紀に東欧で発明された、生体エネルギー場を映し出すという「キルリアン写真」はその先駆けであろう。

 

Photo  Photo_3
指の周囲の生体エネルギー     葉っぱの周囲の生体エネルギー

 

Photo_4     Photo_5

少年のオーラ(生体エネルギー場)     切断された部分に残っている生体エネルギー

 

83afa9f6159d3c608f86fc3d148a74c03_2(日本や世界や宇宙の動向サイトさんから参照)

肉体からの魂(意識体)の転移の瞬間をとらえたキルリアン写真。

最近ロシアの科学者が撮影したと言われるもの。

・・・・・

 

一番下の写真は、あーここまで進んだか!という感じがしたものであるが、これを見る限り、ロシア・東欧ではキルリアン写真も技術的に相当進んでいる模様であるし、アメリカと違って比較的オープンにそれを公開しているようである。

 

これらの写真は、古くから云われてきたオーラの存在や、あるいは臨死体験者や幽体離脱体験者が言っている意識の体脱のような話が、

 

実は嘘でもなんでもなく、まぎれもない事実であるという事の証左となるだろうが、

 

しかしながら残念だが、それでも未だ理解も推測も出来ない人々もいるようである。 

 

・・・

 

これらを見るにつけても、人類は目に見える形ばかり、銭、金、物、一時的快楽等を追いまわすような、あるいは物質的な自己存続だけに固執するような、そんな幼い意識レベルから、今はもう確実にステップアップする時期にあると言えるだろう。

 

また、その全貌は未だうかがい知ることは出来ないものの、人間を含めてあらゆるものが単なる物質形態であるわけでなく、いわば魂・意識として個別化した、元は普遍的意識であることを理解すべき時なのである。

 

また、この先の時代では、

 

いわば生命とは、無限の可能性を内在するところの、多次元的な存在表現体であるということを知ることになるのである。

 

そう、事実は小説よりも奇なり、なのだ。

 

またその奇とは・・・好奇心の奇でもある。

 

この世界、存在諸世界は、そして宇宙は・・・実に面白くできているのだ。

 

少なくとも、言えることは・・・・・・・

 

小さく固まって、泣いたり、騒いだり、隠れたり、攻撃したりするような、

 

いわば霊的薄暗闇の世界は、既に飽和したということだし、

 

それは当然ながら崩壊してゆく定めにあるし、

 

もうその古い意識レベルの構造体が崩壊している音が聞こえているではないか。

・・・・

 

そう、

 

さらに大きな<わたし>への気付きと意識的飛躍の時が、

 

今この瞬間に・・・来ているということなのだ!

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。