●事物はすべて仮想現実上の存在<感>
我々を取り巻く物質といわれる物は何かというと、それは3次元的な仮想現実の投影像であるという方が妥当なのである。
それらは単に3次元的立体投影像でありながら、さらに物質投影像同士は、波動の共鳴・干渉・反発などによって、実にリアルな「存在感を有する」のである。
しかし、存在しているのではなく・・「存在感がある」ということを意味しているだけなのだ!
実際に存在・・ではなく、存在感・・があるというだけ。
この世界のマトリクスの仕組み、実に重要な事がらなのだが、気付いていただろうか?
●意識が向くから、そこに「在る」
存在「感」は、つまり重い、固い、大きい、冷たい、熱いという「感覚情報」でしかないのである。
そしてそれらの感覚情報は、あなたの意識が向くからこそ得られるものである。
そうだろう?
例えば花瓶があったとして、「あ、これなに?・・きれいだね、小さいね・・」等という意識を向けなければその物体の感覚は得られない。
何か別のことに熱中して、傍に何かあっても、誰かがいても気付かないことは誰しも経験しているはずである。
要は意識が向いていないから、それに気付かないということだ。
「確かに・・そこに有るのに、それに気づかないことってあるよね」
こういう表現ならば誰でも納得するだろうが、
●意識によって事物は生成・消滅する
意識が向いていないものは、その間は「消滅している・・」といえば、そんな馬鹿なということになるだろう。
あなたが意識を向けていない間は、その物体は「存在していない」ということが言えるのだがピンとくるわけもないだろうが、・・・この事の重大さは理解可能だろうか。
「あなた」が意識を向けない物は、「あなた」の世界ではその物は・・存在しないのである。
ここは、素通りせずにじっくり気付いてほしいところである。
わたしの世界は、わたしの「意識」で投影されている・・という意味はここにある。
わたし達が創造者でありかつ、観察者であると言われる所以である。
・・・で、それに気づいていないというわけだ。
笑える話ではないか。
●物質はそれ・・波動である
物質とは・・何か特別な永遠不滅な実在というモノではない。
それは時間・空間という次元ステージに、現れては消える波動映像のようなもの。
物質は、実にしっかりした感覚を受けるが、あっという間に消えるものである。
悲しいかな、お金があっという間に無くなるのとは少々違うが、同じようなものだ。
●観念の死角・・思い込み
眼を瞑れば、目の前の机や花瓶も消え去るだろう。
いや、そこには有るのだが、単に自分に見えなくなっただけだと思うものだが、
これは実際には「視覚的」に消滅しているのである。
そこに在るのに、見えていないだけだ・・ではなく、視覚的な感覚上では『消滅』したのである。
但し、例えば手を伸ばして触れば、その物がそこに在ることがわかるように、五感の別の感覚ではその存在が認識されるわけである。
「見えないが、触れるじゃん、ちゃんとそこに在るじゃないか」・・ということになる。
しかしながら、五感全ての感覚において、その物を知覚しない場合はどうだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/a8/a292c302d9a2c0a442f228b3d2402859.jpg)
「見ざる・言わざる・聞かざる」ではないが、
見ず、聞かず、触らず、嗅がず、舐めず・・・となれば、その物は存在することにはならない、要は「消滅」したのである。
「いやいや、そこに在るのだが、見えない聞こえないだけだ・・・」ではなく、消滅したということである。
それでも、いやいやそこに在るよ・・としているのは、自分以外の人がそれを見ているからだ。
「俺には見えるよ・・、消えてなんかいない、ここにあるよ」と教えてくれるので、あーそうかという話になる。
あなたが目を瞑り、触らず、聞かず、舐めず、嗅がずにいれば、その物体は消滅したも同然なのだが、
他人がそれを知覚していることを「知る」ことで、そこに物体が存在する事を間接的に「知る」・・というわけだ。
でも、あなたはその物体が見えて、感じていないのだから、存在していることを証明できないのである。
ここは他人の言う事を信用しているだけだ。
それに、その他大勢の他人もそれを知覚しなかったら。どうしてそれがまだ在ると分る?
・・・
●意識によって物質は出現・消滅している
この話、非常にシンプルなのだが、ややこしく感じるのは、
今迄の癖になった物質世界観、現象先行型の世界観の故である。
人にとって、五感の知覚がないものは、実際に存在していない!ということだ。
「俺は、自分の眼で見たものしか信用しない主義でね・・」という、あれである。
これは頑固者という意味ではなく、真実そうなのである。
さらに意識が及ばない事物は、五感にも映じないということである。
言い換えるならば、あなたの意識の向かない事物は、あなたにとってそれは「存在しない」ということ。
意識し、観察しない事象はまさに、それは存在しない・・とも言えるだろう。
存在と非存在の在りようを、自在に、気づかないで、選択しているというわけだ。
あなたも私たちも、まさに創造者なのである。
●物質は3次元スクリーン上の投影像
眼を離したすきに、物質は消滅し、目を向けるとそこに出現する!
わたしの「意識」を向けると物質は出現し、「意識」を外すと物質は消滅する!
これがこの世界が仮想現実、幻想世界、3次元的投影映像の世界だという意味である。
意識する、観察することで物質的幻影が生成・消滅しているということ。
今までは、世界や物質が先に・・厳然とあって、人間は後追いで、それを知覚しているのだと思っていただろう。
それは全く違うのである!
●観ている者=創造者である
物質が先に在って、人間はその中に生れて来て、それを知覚している・・のではなく、
意識が先に在って、それを物質的幻影として投影しているのだ。
そして、大勢の私たちがいるからこそ、共同で創り上げる幻想を、あたかも客観的な「事実のように」認識しているわけだ。
我々という、意識を有する存在は、決して投影された事物、物体ではなく、それを投影する方のものであり、スクリーンである時間空間というものを超えているそれであることに気付く必要がある。
・・・
この世界という3次元的マトリクスワールドを解くには、
かなりつらい意識的作業が必要でもあり、
「そんな馬鹿な・・」という固まった常識観念を超えなければならない。
そうでなければ、古い物質的幻影世界の上演の終了時において、
「そんな馬鹿な・・・」という幻影の渦の中に巻き込まれることになるかも知れない。
目覚めなければならない時に、幻影の夢の中で眠っていてはならないという事だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/6c/2072da7e9acc6e12a77f6b68c8b9efa5.jpg)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
我々を取り巻く物質といわれる物は何かというと、それは3次元的な仮想現実の投影像であるという方が妥当なのである。
それらは単に3次元的立体投影像でありながら、さらに物質投影像同士は、波動の共鳴・干渉・反発などによって、実にリアルな「存在感を有する」のである。
しかし、存在しているのではなく・・「存在感がある」ということを意味しているだけなのだ!
実際に存在・・ではなく、存在感・・があるというだけ。
この世界のマトリクスの仕組み、実に重要な事がらなのだが、気付いていただろうか?
●意識が向くから、そこに「在る」
存在「感」は、つまり重い、固い、大きい、冷たい、熱いという「感覚情報」でしかないのである。
そしてそれらの感覚情報は、あなたの意識が向くからこそ得られるものである。
そうだろう?
例えば花瓶があったとして、「あ、これなに?・・きれいだね、小さいね・・」等という意識を向けなければその物体の感覚は得られない。
何か別のことに熱中して、傍に何かあっても、誰かがいても気付かないことは誰しも経験しているはずである。
要は意識が向いていないから、それに気付かないということだ。
「確かに・・そこに有るのに、それに気づかないことってあるよね」
こういう表現ならば誰でも納得するだろうが、
●意識によって事物は生成・消滅する
意識が向いていないものは、その間は「消滅している・・」といえば、そんな馬鹿なということになるだろう。
あなたが意識を向けていない間は、その物体は「存在していない」ということが言えるのだがピンとくるわけもないだろうが、・・・この事の重大さは理解可能だろうか。
「あなた」が意識を向けない物は、「あなた」の世界ではその物は・・存在しないのである。
ここは、素通りせずにじっくり気付いてほしいところである。
わたしの世界は、わたしの「意識」で投影されている・・という意味はここにある。
わたし達が創造者でありかつ、観察者であると言われる所以である。
・・・で、それに気づいていないというわけだ。
笑える話ではないか。
●物質はそれ・・波動である
物質とは・・何か特別な永遠不滅な実在というモノではない。
それは時間・空間という次元ステージに、現れては消える波動映像のようなもの。
物質は、実にしっかりした感覚を受けるが、あっという間に消えるものである。
悲しいかな、お金があっという間に無くなるのとは少々違うが、同じようなものだ。
●観念の死角・・思い込み
眼を瞑れば、目の前の机や花瓶も消え去るだろう。
いや、そこには有るのだが、単に自分に見えなくなっただけだと思うものだが、
これは実際には「視覚的」に消滅しているのである。
そこに在るのに、見えていないだけだ・・ではなく、視覚的な感覚上では『消滅』したのである。
但し、例えば手を伸ばして触れば、その物がそこに在ることがわかるように、五感の別の感覚ではその存在が認識されるわけである。
「見えないが、触れるじゃん、ちゃんとそこに在るじゃないか」・・ということになる。
しかしながら、五感全ての感覚において、その物を知覚しない場合はどうだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/a8/a292c302d9a2c0a442f228b3d2402859.jpg)
「見ざる・言わざる・聞かざる」ではないが、
見ず、聞かず、触らず、嗅がず、舐めず・・・となれば、その物は存在することにはならない、要は「消滅」したのである。
「いやいや、そこに在るのだが、見えない聞こえないだけだ・・・」ではなく、消滅したということである。
それでも、いやいやそこに在るよ・・としているのは、自分以外の人がそれを見ているからだ。
「俺には見えるよ・・、消えてなんかいない、ここにあるよ」と教えてくれるので、あーそうかという話になる。
あなたが目を瞑り、触らず、聞かず、舐めず、嗅がずにいれば、その物体は消滅したも同然なのだが、
他人がそれを知覚していることを「知る」ことで、そこに物体が存在する事を間接的に「知る」・・というわけだ。
でも、あなたはその物体が見えて、感じていないのだから、存在していることを証明できないのである。
ここは他人の言う事を信用しているだけだ。
それに、その他大勢の他人もそれを知覚しなかったら。どうしてそれがまだ在ると分る?
・・・
●意識によって物質は出現・消滅している
この話、非常にシンプルなのだが、ややこしく感じるのは、
今迄の癖になった物質世界観、現象先行型の世界観の故である。
人にとって、五感の知覚がないものは、実際に存在していない!ということだ。
「俺は、自分の眼で見たものしか信用しない主義でね・・」という、あれである。
これは頑固者という意味ではなく、真実そうなのである。
さらに意識が及ばない事物は、五感にも映じないということである。
言い換えるならば、あなたの意識の向かない事物は、あなたにとってそれは「存在しない」ということ。
意識し、観察しない事象はまさに、それは存在しない・・とも言えるだろう。
存在と非存在の在りようを、自在に、気づかないで、選択しているというわけだ。
あなたも私たちも、まさに創造者なのである。
●物質は3次元スクリーン上の投影像
眼を離したすきに、物質は消滅し、目を向けるとそこに出現する!
わたしの「意識」を向けると物質は出現し、「意識」を外すと物質は消滅する!
これがこの世界が仮想現実、幻想世界、3次元的投影映像の世界だという意味である。
意識する、観察することで物質的幻影が生成・消滅しているということ。
今までは、世界や物質が先に・・厳然とあって、人間は後追いで、それを知覚しているのだと思っていただろう。
それは全く違うのである!
●観ている者=創造者である
物質が先に在って、人間はその中に生れて来て、それを知覚している・・のではなく、
意識が先に在って、それを物質的幻影として投影しているのだ。
そして、大勢の私たちがいるからこそ、共同で創り上げる幻想を、あたかも客観的な「事実のように」認識しているわけだ。
我々という、意識を有する存在は、決して投影された事物、物体ではなく、それを投影する方のものであり、スクリーンである時間空間というものを超えているそれであることに気付く必要がある。
・・・
この世界という3次元的マトリクスワールドを解くには、
かなりつらい意識的作業が必要でもあり、
「そんな馬鹿な・・」という固まった常識観念を超えなければならない。
そうでなければ、古い物質的幻影世界の上演の終了時において、
「そんな馬鹿な・・・」という幻影の渦の中に巻き込まれることになるかも知れない。
目覚めなければならない時に、幻影の夢の中で眠っていてはならないという事だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/6c/2072da7e9acc6e12a77f6b68c8b9efa5.jpg)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。