気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

今起きていること (8)物質幻影から脱すべし

2015-06-28 05:45:41 | 地球の一大変容
●事物はすべて仮想現実上の存在<感>
我々を取り巻く物質といわれる物は何かというと、それは3次元的な仮想現実の投影像であるという方が妥当なのである。

それらは単に3次元的立体投影像でありながら、さらに物質投影像同士は、波動の共鳴・干渉・反発などによって、実にリアルな「存在感を有する」のである。

しかし、存在しているのではなく・・「存在感がある」ということを意味しているだけなのだ!

実際に存在・・ではなく、存在感・・があるというだけ。

この世界のマトリクスの仕組み、実に重要な事がらなのだが、気付いていただろうか?

●意識が向くから、そこに「在る」
存在「感」は、つまり重い、固い、大きい、冷たい、熱いという「感覚情報」でしかないのである。

そしてそれらの感覚情報は、あなたの意識が向くからこそ得られるものである。

そうだろう?

例えば花瓶があったとして、「あ、これなに?・・きれいだね、小さいね・・」等という意識を向けなければその物体の感覚は得られない。

何か別のことに熱中して、傍に何かあっても、誰かがいても気付かないことは誰しも経験しているはずである。

要は意識が向いていないから、それに気付かないということだ。

「確かに・・そこに有るのに、それに気づかないことってあるよね」

こういう表現ならば誰でも納得するだろうが、

●意識によって事物は生成・消滅する
意識が向いていないものは、その間は「消滅している・・」といえば、そんな馬鹿なということになるだろう。

あなたが意識を向けていない間は、その物体は「存在していない」ということが言えるのだがピンとくるわけもないだろうが、・・・この事の重大さは理解可能だろうか。

「あなた」が意識を向けない物は、「あなた」の世界ではその物は・・存在しないのである。

ここは、素通りせずにじっくり気付いてほしいところである。

わたしの世界は、わたしの「意識」で投影されている・・という意味はここにある。

わたし達が創造者でありかつ、観察者であると言われる所以である。

・・・で、それに気づいていないというわけだ。

笑える話ではないか。


●物質はそれ・・波動である
物質とは・・何か特別な永遠不滅な実在というモノではない。

それは時間・空間という次元ステージに、現れては消える波動映像のようなもの。

物質は、実にしっかりした感覚を受けるが、あっという間に消えるものである。

悲しいかな、お金があっという間に無くなるのとは少々違うが、同じようなものだ。

●観念の死角・・思い込み
眼を瞑れば、目の前の机や花瓶も消え去るだろう。

いや、そこには有るのだが、単に自分に見えなくなっただけだと思うものだが、

これは実際には「視覚的」に消滅しているのである。

そこに在るのに、見えていないだけだ・・ではなく、視覚的な感覚上では『消滅』したのである。

但し、例えば手を伸ばして触れば、その物がそこに在ることがわかるように、五感の別の感覚ではその存在が認識されるわけである。

「見えないが、触れるじゃん、ちゃんとそこに在るじゃないか」・・ということになる。

しかしながら、五感全ての感覚において、その物を知覚しない場合はどうだろう。




「見ざる・言わざる・聞かざる」ではないが、

見ず、聞かず、触らず、嗅がず、舐めず・・・となれば、その物は存在することにはならない、要は「消滅」したのである。

「いやいや、そこに在るのだが、見えない聞こえないだけだ・・・」ではなく、消滅したということである。

それでも、いやいやそこに在るよ・・としているのは、自分以外の人がそれを見ているからだ。

「俺には見えるよ・・、消えてなんかいない、ここにあるよ」と教えてくれるので、あーそうかという話になる。

あなたが目を瞑り、触らず、聞かず、舐めず、嗅がずにいれば、その物体は消滅したも同然なのだが、

他人がそれを知覚していることを「知る」ことで、そこに物体が存在する事を間接的に「知る」・・というわけだ。

でも、あなたはその物体が見えて、感じていないのだから、存在していることを証明できないのである。

ここは他人の言う事を信用しているだけだ。

それに、その他大勢の他人もそれを知覚しなかったら。どうしてそれがまだ在ると分る?

・・・

●意識によって物質は出現・消滅している

この話、非常にシンプルなのだが、ややこしく感じるのは、

今迄の癖になった物質世界観、現象先行型の世界観の故である。


人にとって、五感の知覚がないものは、実際に存在していない!ということだ。

「俺は、自分の眼で見たものしか信用しない主義でね・・」という、あれである。

これは頑固者という意味ではなく、真実そうなのである。

さらに意識が及ばない事物は、五感にも映じないということである。


言い換えるならば、あなたの意識の向かない事物は、あなたにとってそれは「存在しない」ということ。

意識し、観察しない事象はまさに、それは存在しない・・とも言えるだろう。

存在と非存在の在りようを、自在に、気づかないで、選択しているというわけだ。

あなたも私たちも、まさに創造者なのである。

●物質は3次元スクリーン上の投影像
眼を離したすきに、物質は消滅し、目を向けるとそこに出現する!

わたしの「意識」を向けると物質は出現し、「意識」を外すと物質は消滅する!

これがこの世界が仮想現実、幻想世界、3次元的投影映像の世界だという意味である。

意識する、観察することで物質的幻影が生成・消滅しているということ。

今までは、世界や物質が先に・・厳然とあって、人間は後追いで、それを知覚しているのだと思っていただろう。

それは全く違うのである!

●観ている者=創造者である
物質が先に在って、人間はその中に生れて来て、それを知覚している・・のではなく、

意識が先に在って、それを物質的幻影として投影しているのだ。



そして、大勢の私たちがいるからこそ、共同で創り上げる幻想を、あたかも客観的な「事実のように」認識しているわけだ。

我々という、意識を有する存在は、決して投影された事物、物体ではなく、それを投影する方のものであり、スクリーンである時間空間というものを超えているそれであることに気付く必要がある。

・・・

この世界という3次元的マトリクスワールドを解くには、

かなりつらい意識的作業が必要でもあり、

「そんな馬鹿な・・」という固まった常識観念を超えなければならない。

そうでなければ、古い物質的幻影世界の上演の終了時において、

「そんな馬鹿な・・・」という幻影の渦の中に巻き込まれることになるかも知れない。

目覚めなければならない時に、幻影の夢の中で眠っていてはならないという事だ。







本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

今起きていること(7)意識の進化

2015-06-22 04:55:19 | 地球の一大変容


●多次元世界は想いのシナリオ
この人間世界は一種の幻想世界であるが、その幻想を構成する「諸現象」は、実際には「こころ」で創られていることを知ることが極めて大切なことである。

決して粒子運動を説明するような確率論で出来ているわけではなく、想い・想念で創られているのだ。

ビルも車も家も家具でさえ、人間の抱く「イメージ」の具体化・現象化なのであることは理解できるだろう。

その多くは、イメージや思考が直接そのまま、物質や装置、機械、建物などとして、時空間のなかに沸いてくるわけではなく、そのイメージや思考が種となって、身近な素材を使って実現することを行なっている。

スプーン曲げや念写等の超常といわれる現象は、イメージのその直接の現象化のことである。

●内面とは無限遠をも含んでいる「意識」
思考やイメージ、感情などは、まとめて「マインド」、こころ、想念等と言われている内面の働きのことである。

内面とは、人間の内側、こちら側・・「意識の中」に生じるものであり、

投影された外側の現象のように肉眼、五感で見えるものではないために、

極めて不可思議な事だが、相当におざなりにされてきたわけである。

結果である物的現象、物・銭・金を増産、追い回すことをしてきたのだ。




●自分の世界のシナリオライターは「自己」と言われている
自分の「マインド」、こころが、自己の周囲のあらゆる事象・経験を意味づけ、決定づけていることに気付かない有様は、なんということだろうか!

その理由は、学校や組織の中で、外側で決められる行事、カリキュラム等で方向性を決められ、それに沿った集団行動をすることだけに馴らされてしまったからである。

怒られない様に、言われたことだけを考えて行為することが優秀であり、それを逸脱することは苦痛を招くという体験を重ねてきたというわけだ。

それは羊飼いの調教のままに、集団で生息している羊の群れと同じものだ。

集団の中での調和をもった在り方は重要なことではあるが、その集団のなかで自己のマインドを他者のマインドでいつの間にか置き換えて、便利に代替しているということである。

●自己の想いに、自分で気付くことが意識的自立である
よく言われるように「自分の頭で考えない」で、人の頭で安易に代替しているわけである。

昨今電車の中で、皆が皆というほど・スマホをいじっている様子や、あるいは赤信号みんなで渡れば怖くない・・などと言うちょっと前の流行語もそういう有様を言っているわけである。
・・・
自分のマインド、こころが、自分の周囲の環境や人生の経験を意味づけしていることに、ほとんど気づかない意識状態のことを、洗脳状態と言って良い。

自分のこころで投影している内容そのもの、「想い」の、その現象化である諸経験の質がどういう意味を持っているのか、とんと不明であるがゆえに、

何か不都合なことがあれば、その原因を外の誰か何かのせいにしてしまうわけで、

それはまるで目の前に展開している映像、自己の投影するシナリオ上演のそのスクリーンに向けて悪態をついているようなものである。

これらを集団で操作されることで戦争や争いが起きることはもう理解可能だろう。

当然ながら、起きてしまったスクリーン映像側(外側)をいくらいじってもダメであって、それを投影しているシナリオ、フィルムの方をいじらなければならないのは、火を見るより明らかであるが、

こころが経験や体験という外側に投影され、そのフィードバックによって、更に、こころの変化を意識的に促がすという、外と内の進化的仕組みに気付けるかどうか。

●自己観察によって・・自分が変わる
そのためには、自分の内面を、こころの動きを、感情の流れを「観る」ことが絶対的に必要である。

これは物理学上のテーマにつながっており、

素粒子が観察、観測によってその有様を変化させることと符合して、

非常に重要な、ホログラム構成の為の要素なのである。

気付いただろうか?

自分のこころの内容を何か好ましいものに置き換えることも、嬉しい楽しいものに置き換えることも、外側の投影映像を変える手段としては有効であるが、

まず心の動きがどのようなものであるかという、内面の非常に込み入った動きを自らで観察する「行為」が第一に大切なことである。

外側の非常に華やかで激しい世界を五感で感じるように、自らの内面といわれる微細、精細な意識フィールドを感じる必要があるのだ。

肉眼で見えないものは何もない・・という観念で閉じたマインド、こころをおざなりにした意識では、常に何が何だかわからない世界で終始、生死することになる。

今回はそうだったろうか。

しかしながら、それはもう十分ではないのか?

●最期に出てくるのが集合意識のカルマ的現象
特に今起きている異常とも言える諸現象、外の世界の様々なイレギュラーな現象がなぜ起きているのか、人類の無意識的マインドの行き着く先はどんなものであるのか、薄々とながら気付ける意識レベルになることだ。

そのために、自己・の・こころを観察する行為によって、自分に何が起きるかを調べなければならない。

物質・肉体レベルだけで右往左往する意識レベルから、それ、現象を見ているところのマインド「こころ」自体に気付けるようになると、

さらにその「こころ」を観ている・・・何かに気付けるようになるのだ!

肉体や外の現象を見ているのは、五感と一体になった「こころ」であり、

さらにその「こころ」を観ている・・のが魂・意識である。

こころ、マインド、言わば個性化、個人の「意識」の働きを、

更に観ている方向が普遍的意識あるいは神意識、宇宙意識といわれる、

あらゆる全てを「わたし」と意識しているそれである。

意識進化とか言われる方向は、古来から「道」と言われてきたもの。

●何もかも皆、無限の意識の表現型である
例えば、地球の磁場、磁力線が中心から発し、無限遠にまでその力線を伸ばして、再び地球のコアに帰還しているように、

意識ある存在は、小さな自我という点から発し、無限の方向に進化しつつ、結局は自らに帰還しているそのプロセスにある。

それが意識進化、深化であって、なぜならばといえば、それが楽しいからである。

我々は、そして何もかも、宇宙意識・・・なのだということを忘れないでおこう。

・・・

●心的な嵐に巻き込まれるか否か・・それが問題だ
世界がどうなるかという知的不安や物的心配よりも、

またぞろ、その外側の世界に振り回される愚かさに判然と気づき、それを越え、

世界がどうあろうと、どうなろうと、あなたのマインドを楽しいシナリオで振動させることがまず何をおいても大切なのである。

景気が良いとか悪いとか、金が有るとか少ないとか、誰かが自分を誤解しているとか信頼しているとか、戦争があるとか、悪くなるとか・・・創られた怖れや欲望を増幅して加勢しないことである。

そういうマインドを観察しつつ、それはそれ、だからどうしたのか?

・・・で、一体わたしは、魂レベルで何が楽しいのか?それを決める時が来ているのである。


外側の何かが「わたし」を投影しているのではなく、

「わたし」が私を通して、自己周囲の時空間事象、外側が投影されていること。

これを調べ、理解し、腑に落ち、そしてそれで在ること。

またそれほど、今までの古い世界の残り時間はないと心得るべし・・である。

例えて言えば、我々は小学6年生の初春、

卒業前の一時の不安定な時期にいるようなものである。





今起きていること(6)世界はホログラム改変期にある

2015-06-14 05:00:41 | 地球の一大変容


●信念が現実となるフィールドを「世界」という
今我々がいる世界は「地球」と言われている。

またこの世界は「物質」で出来ており、あらゆるものがその物質という何か固くてどうすることも出来ない代物で出来ていて、

それらが自分達とは独立した、客観的な物体であるとしているだろうが、

実はまったくそうではない。

それは、全ての物が客観的な存在・・等という「幻想」を信じ込んでいるということだ。


だって現実そうだろう・・と言いたいが、

そういう「信念」による体験のことを『現実』だということに気付けるだろうか?

一般には、しっかりした経験・現実から信念が生まれると思っているわけだが、

大きく深いレベルの仕組みでは、信念が現実になるということだ。

●信念は、それに気付かねば改定されない
さらに、信じ込んでいること自体に・・・気づいていない・・・ということ。

自己観察、こころの観察等がなければ、この事実に気付かない。

観察者効果といわれるものは、何も原子レベルに限らない。

自分はいったい何を信じているのか?それはなぜ?という事等、全く考えることなく、その他大勢の見識を採用してしまっているのである。

これは俗に言う洗脳状態あるいは催眠状態のことだ。

洗脳状態は一般大衆のことではなく、自分自身のことなのである。

自分はいったい何を信じているのか?  それはなぜ?

●自己の意識抜きの世界が唯物となるのは必定
これは人間が外の世界ばかりを論じつつ、意識的な深化、内面といわれる方向の探究を怠っていた事と符合している。

特に西洋的唯物論で代表される唯物思考では、権威や権力、便利さ安楽さ、爆発的威力の獲得等のような物的欲望が主流となってしまったのは当然であろう。

周囲の人々、親や先祖等を通じてその信念を教わり、それがそうだと思い込んできたというのが、いわゆる歴史的認識ならぬ、数千年に及ぶ3次元的信念体系というべきものなのだ。

外側の物ばかりを夢中で追い掛け回し、それを経験している・・当該者・・自分がおろそかになっていたということだ。

・・・
●この世は宇宙の中の壮大な立体映画館ごときもの・・
人々がこの世界にいるというのは、集団で夢を見ているというか、集団で同じ映画を観ているようなもの。



人類は、1つの壮大な映画館で、同じ映画を観ているお隣さん同士のようなものである。

そう、我々は地球という壮大な「ホログラム」の中にいる。

ホログラム、映画といっても、よく見る2次元的なスクリーンや液晶画面に展開される2次元的レベルの映像を視覚・聴覚で感じているだけではなく、

視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚という五感体感レベルで観ている・・・3次元的、立体的な体験劇場というわけだ。

あなたは今、壮大なホログラムを観ているようなものなのだ。

かつ、自分自身が・・・その真っただ中に「自己投入」している、そんな自己参入型多次元的体験映画ということだ。

その中で、その自分が入り込んだストーリーの中で、嘆き・悲しみ・陰謀を巡らし、快楽をむさぼり、苦痛で顔をゆがめ、必死になって嘘をつきまくる、

幸福を外に追い求め、いつも他人に期待をし、物資を集める銭儲けに邁進し、あるいは他人を生きるための生存競争に追いやり、

凄惨をなめ、感情に毒釘を差し、真実の愛のかけらを素通りし、そういう浮き沈みを繰り返すような、

そんな事が沢山、繰り返して出来るところの「体験映画館」であったとも言えようか。

ご理解可能だろうか?



●魂の次元上昇・次元降下
魂は多次元体であるがゆえに、どういう次元にも自己投入することが出来るのだ。

よく主人公が物語の中に入り込む設定の小説があるが、

実際に、そのような「仮想現実」の世界に「自己投入」しているということだ。

この世は実は体験用の「仮想現実」であること、それこそが本来の「現実」というわけだが、こんな話、頭でチョットは想像できても、

馬鹿な、そんなわけはない・・という想いに引き戻されるだろう。

しかしながら、『事実は小説よりも奇なり』・・・ということも知っているだろう。

・・・・

我々は宇宙の中の、地球の、その中の、国の、地域の、ある時空の中にオギャーと生まれ、そしてその中で一定期間あれやこれや、なんだかんだと毎日を送り、そして死んでゆく。

しかしながら、例え、どのように世界が現実的に見えていても、

どのように感触が確かでも、皆がそうだそうだと言っていても、

言い方が冷やっこいが、それらは単に、いわゆる「情報」でしかないのである。

そう、この世界は壮大な「幻想」あるいは「ホログラム体験世界」と言う方が適当なのだ。


そういう風に言えば、逆に「そりゃ違うよ」という想いが聞こえてきそうだ。

●物とは・・空(くう)という無限の多次元スクリーンの投影像
物質は原子で出来ており、陽子・中性子・電子等の素粒子、更にクオーク等と呼ばれるもので出来ている。

なので、しっかり物質があるじゃないか。どこがホログラムなのか・・と。

石や鉄の塊は重いし、体が何かにぶつかれば痛いし、火に触れば熱いし、火傷だってするじゃないか、

そのどこが幻想や、ホログラミックな現象だというんだ?・・と、そういう風に言われるだろうが、実はそれこそがホログラムの所以なのである。

宇宙の無限意識が、無限なるスクリーンである空(くう)に投影されたものが、エネルギー・物質であり、

そして本質は同じ意識を有する人間存在もまた、それであるわけであるからして、

我々は自己意識の観る映像を・・・空(くう)に投影しているのだ。

つまり体験している・・生きて在る・・ということ。

●物質は原子・クオークという微細エネルギー振動波
あらゆるものが固くて重い、どうしようもない代物と感じているのは、人体の体感レベルで全てを想像しているからなのだ。

そして、その想像が創造となって現実化しているということである。

集団的な観念が、いわゆるリアルで現実的な・・・といわれる世界を創っている。

そして、この集合意識上の固定観念が、すわなち「固定化」しているということである。



1例だが、スプーン曲げ等出来るのは、出来ないものだという固定観念がない子供に多いのもそういう理由からである。

人々が、その集団観念の中に、集合無意識的「信念」とともにある限りは、決してそれを見破ることが出来ないという仕組みである。

「井の中の蛙(かわず)、大海を知らず」・・・とは、閉塞された小さな観念世界では更に大きな世界は見えないという話だろう。

●見破り、そして解き放せ
昔から「悟り」等といわれるものは、この世が仮想現実であると見破った段階のことであり、

そういう意識レベルに在るならば、

一体何に、どういう理由で必死になる必要があるだろうか。

仮想映画の中の、誰かのいうセリフにおののき、体を壊してまで一喜一憂してどうなるのだろうか。

誰かのせいで、悲惨な思いに沈む律儀な自分の・・どこが、どれだけ楽しいのだろうか。

お金や地位が有るとか無いとか、必要以上のどこに価値があるだろうか。

肉体だけが自己と思い込み、安楽・安全・便利ばかり気に病むことで誰が喜ぶのか。

・・・

今、古い人類映画は終わりを迎えている。

それに自己投入し、はまり込んでいる状態は過ぎ去ったのである。

今我々の周囲環境、スクリーン現実が大きく変わってきているのは、そういう事なのだ。

火山噴火や地震というような大きな事変・現象に恐怖する必要もない。

地球という3次元的体験劇場システムが、

「あの、もうこの映画はそろそろ終わるんですけど・・・未だ観客席で寝ているの?」

というような、そんな、メッセージを出しているようなものではないか。



今起きていること (5)魂の解放

2015-06-07 06:51:39 | 地球の一大変容
●魂は時空を超えた意識表現体
様々な人生を体験する主体としての魂は、言わば「多次元意識体」というべきものだ。

あなたも私たちも本質は無限に自由度をもった「多次元的魂・意識」そのものであるが、この地球のような、小さく閉塞された観念世界の中に生まれてくることで、この世界特有の3次元的で不自由な肉体をもった自分・・・という認識で生きてきたということだ。

ところで、赤ん坊が「オギャー」と泣くのは、始めて息をし出す瞬間、この閉塞した世界に敢えて出てきた気概と度胸と、さらにどこか悲しみの想いを、その無力で無防備の状態での最大限に発していることだと思えないか。

●次元とは意識・想念の展開様式である
よく3次元とか高次元とか言うわけだが、宇宙において多次元と言うのは、何か空間・物質的な組成のようなものと捉えるのは大きな誤解であり、

より高次元とは、

意識の表現様式が、より精緻で多彩な在り方、

宇宙の存立原理のより深い理解とその表現が可能な在り方をいうもの・・・と心得るべきである。


宇宙・大自然は、空間や物質が勝手に、ランダムに展開しているのではなく、

意識~⇒意図~(想念)~⇒エネルギー~⇒物質・現象、というプロセスによっている。

そして、エネルギーがそうであるように、次元には周波数的な要素、粗密の要素、波動的な異なりである、諸相の周波数帯域が生じるために、それを称して「何次元」とか言われているわけだ。

●今は次元上昇の分岐点
よくスピリチュアル系で、地球が1つ高い次元に移行するという意味は、例えばチャンネルの周波数帯域の移行と考えてよいだろう。

今それが起きているということなのだ。

チャンネルを替えるという意図がなければ変わらないのはTVチャンネルと同様だし、また周波数が異なるからには、そこに表現される情報の質自体も一新されざるを得ないのである。

そう、現象において、結局古い世界映像は跡形もなく消えてしまうだろう。

周波数移行が徐々に進む場合であっても、ある時点で「分岐点」、「峠」を迎えることになるために、

その時には、気付ける者にとっては、明らかに何か以前と異なった状態に気づけるものである。

実に今がその時にあることに、あなたは気付けるだろうか。

・・・
意識~⇒意図~(想念)~⇒エネルギー~⇒物質・現象、

どんなことにも、この宇宙の自己展開プロセスがあるし、人間においてもそうであることがあなたも、自分の生活、人生を通して理解できるだろう。

意識のないものは、大自然・宇宙においてどこにも無いということだ。

山川草木、国土悉皆成仏・・・、これは空念仏ではなく、事実を言っている。

全ては<ひとつ>の「意識」の、個別化、自己表現であるために、全てはひとつと言っているのだ。

・・・
●世界とは物理世界ではなく、信念体系世界のこと
様々な当たり前のような社会通念、常識観念つまり大多数の人間の思考・想念が、社会・国家・世界を創り上げている。

観念、想い、信念という、固まった意識で出来上がった世界観が、いわゆるマトリクスというべきもの。

この地球上に文化・文明は、想念を発する存在、大勢の意識体達、つまり人間であるが、その人間達が「そうである・・」と思うことで、共同で創り上げてきた1つの体験世界である。

しかしながら、その思考と想いの質が、肉体自己の生存と存続を中心にしていたものである為に、その自己同士の闘いや争いになることで、悲しみや不幸の大きく含まれる歴史絵巻を創ってきたのだ。

●出始めている、この次元の理解の為の「解答」
これから、そして今起きている古い世界の飽和と崩壊は必然のことであり、何も嘆くことも悲しむこともない。

つまり世界経済の飽和と崩壊、政治や支配構造の隠された仕組みの暴露、宇宙情報に関する隠ぺいの漏洩等は、古い世界を理解する為の、その「解答」が出始めた段階に来ていることを示している。

とはいえ、別に、陰謀や洗脳による支配などに気づくかどうかは実は問題ではなく、

自己とは何か・・・という根本的な命題を・・どの程度把握しているかということである。

自己が、偶然に出来た生物、猿の深化した肉体存在でしかないという認識は、未だこの世界の3次元物理的マトリクス体系に甘んじることを意図することになり、

必然的に、その古いマトリクス体系の崩壊を共にすることになるかも知れないし、また何が起きているのか・・それさえも気づけないかもしれない。

人々が、無意識的、盲目的であり続けるならば、これからの最終的な混乱と崩壊、そういうフィナーレの演目の部分に巻き込まれるかも知れないし、しかしまたそれはそれであるとも言えるけれど、

混乱と崩壊の中で、人間が単なる醜い動物であるという、馬鹿バカしい姿態演技に流されるのは、実に全く面白くないと思わないだろうか。

・・・
●赤ん坊のような無垢なこころと知恵があるか
ところで、赤ん坊が「オギャー」と泣くのは、始めて息をし出す瞬間、この閉塞した世界に敢えて出てきた気概と度胸と、さらにどこか悲しみの想いを、その無力で無防備の状態での最大限に発していることだと思えないか。

そして今あなたには、赤ん坊の時のような無垢で純粋な意識と、調和と愛をもとにした、大人の知恵があるだろう。

我々は、無意識的な存在から意識的な存在へ進化するべく、何回も何回も生まれてきたこの世界が、晴れてその役目を終え、喜々として更に美しく愛深い世界になることに、

深い思いやりと感謝を捧げる時が来ているのである。

そのようなあらゆるものにたいする「無条件の愛と感謝」の想いこそが、魂の解放の為のキーワードである。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。