気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

体とこころと魂と (2)こころに 道あり

2012-09-30 10:26:07 | 覚醒意識

こころとは人間の主観的な働きと理解されている。

 

こころ、それは思考であり感情、そしてその記憶であると言えようか。

 

思考は内的イメージであり、例えば記号や数式や言語を使った論理的な思考と言われるものも、すでに良く知った固定イメージを組み合わせて行われる「想像」あるいは内的イメージと考えても良いだろう。

 

思考とは、言わばイメージ及びその組み合わせの事であり、よく知っている組み合わせを既知の概念と言い、古い記憶に無いものを未知の概念という。

 

思考は、いわゆる「頭に浮かぶイメージ」のことであろう。

 

人が「今何かを考えている・・・」という時には、何か有効なイメージを探していることを示している、そうしてふと、腑に落ちるようなイメージがやってくると、理解したとか、あるいは何かを決めることが出来る意識状態になったとか思うのである。

 

また「感情」は体の五感を中心とした<思考への反応>である。

 

<好き・嫌い>は自己にとって都合が良いとか悪いとかいう反応であり、

<恐れ>はその中で明らかに自己にとって都合が悪いと感じる強い反応である。

 

自己にとって都合が良いとか悪いとかの反応は、自己の存続と維持にとって都合が良いとか悪いという肉体レベでの反応基準と、

 

所定の概念、既成の観念の存続と維持にとって都合が良いとか悪いとかという思考レベルでの反応基準があるだろう。

 

感情・・・、それは即ち、身体機能の存続と維持、あるいは既成の概念、観念の存続と維持からくる心的反応とも言えるかもしれない。

 

人々の多くの感情は、このような自己の不都合・好都合をベースにした無意識的な反応によっているはずである。

 

宗教や国同士の争いも、自己存続、教義や信条での好都合・不都合から起きるものであり、言わば「感情」の問題であることがわかるはずだ。

 

それらは暴走した幼児的な「感情」なのである。

 

なるほど、<感情>は論理的に順次生起するものではない。

 

つまり感情は、思考、イメージの組み合わせによって起きる心的直接「反応」と考えるべきなのだ。

 

例えば、「怒り」・・・は思考でなく、思考によって起きる・・・つまりそう・・「感情」である。

・・・

ひるがえって、

人間の最も重要なテーマは何だと言えば、

 

あなたもわたし達も、誰も皆例外なく、

 

この思考と感情・・つまり「こころ」を自己制御することなのである。

 

その為の大勢の人が世界にいるし、あるいはまた社会というものがあるのだ。

 

短絡的に考えるような、金もうけや立身出世や支配や権威の生成の為ではない。

 

・・・

思考と感情というものがしっかり制御されないならば、様々な人間関係のトラブルや不都合が起きることは誰でも理解できるだろうし、

 

それらによって不幸や障害が起きてくるのは誰でもわかるはずではないか。

 

それぞれのこころが自らで制御出来ずして、外のシステムによって自己が自己を制御出来るわけもない。

 

外のシステムによる制御を、すなわち支配と呼ぶ。

 

仕組みが悪い、世間が悪いと叫んでいる者も常にいるのが世の中の常であるが、・・・・外が変われば自分も変わるなど、それはまるで、籠の中に閉じ込められて自転する輪を回し続けるはつかネズミを、可哀そうだと言って快適な住居に無理やり住まわせるようなものである。

 

ネズミがネズミであれば、どこに住もうと何も変わりはしない。

 

人間がオウム返しのような感情の反応に従うこと、条件づけされた機械的反応しかできない「パブロフの犬」のようであるならば、

 

それは自らが人間の「自由意思」を放棄したも同然であり、結局は外的刺激の奴隷になって右往左往することになるのは、火を見るよりも明らかである。

 

・・・・ 

実に、今までの人類の歴史はまさに<こころ>によって、気付かぬ間にもてあそばれるようなものであったと言えるだろう。

 

こころを制御できないために、争いが絶えず、

 

こころを制御できないがために、人心に安寧が訪れない。

 

それは決して金や食物や公的サービスが足りないためではないし、

 

法的システムが不備だからではない。

 

あるいは不特定の他者が極悪だからでもないのだ。

・・・

こころが認識しそれを認めなければ、認識の対象となる存在などあり得るわけもないのであるが、

 

どうしても自分以外に自己の不幸や幸福の原因を求める風潮が絶えないようである。

 

こころはマインドとも呼ばれ、人間の思考や感情、行動、表現の根幹にあるものであり、

 

人々の「こころ」が自分勝手に反応し、行動を指示している・・ことに終始している有様に気付くことが、人類の次へのステップにとって絶対避けて通れないテーマである。

 

なぜならば、こころという創造エネルギーを理解せずして、より良き環境は造れるはずもないからだ。

 

現象を切り貼りするような物的機械、ブルドーザや重機、爆撃機などで創れるはずもないではないか。

・・・

 

古来からある内観、内省、あるいは瞑想はその為の・・・、魂の眼ざめあるいは霊的覚醒の為の、宇宙的、あるいは普遍的ともいえる修練の1つなのである。

 

またその修練を通じてこそ、外界という鏡を見つつも、それを映し出す原因であるところの自己意識の有り方を習熟してゆくことが出来るのだ。

 

気付かず知らずではあったかもしれないが、そういう魂の学びの体系の中にあって、昨今急増しているように見える外の世界、国々、社会、人々の混乱状況は、

 

確かにそういう魂にとっての学びの1つの卒業ポイントなのだ。

 

我々は、それを越えることが可能な自己、それぞれの本来の自己自身を思いだす、あるいはより高い自己を認識する必要があるのだ。

 

外の世界の動きや騒ぎに決してこころ奪われず、

 

あるいは血縁の関係、子供や親や親類などの過ぎたる執着を解き、

 

物欲や権力欲、過ぎたる性欲や自己生存欲に振り回されず、

 

それぞれがここに生きてあることの原点に、戻らなければならないはずだ。

 

それは確かに、いつでもどこでも可能であったことである。

・・・・

自らの意識の焦点を、自らに向けることである。

 

与えられた日々の時間・空間を使って、

 

自分のこころを観る修練をしなけらばならない。

 

観るのは・・・・

 

他人のこころに従った他人の言動や外の世界の方ではなく、

 

それに反応する自分の<こころ>であり、

 

その内面反応やイメージの様々に湧き出す様を、

そのまま観ることが重要なのだ。

 

つまり意識の働き自体に 気づいているということ である。

 

静かに一定の時間を瞑目しても良いし、普段の生活の中であっても、

 

自分のこころの反応を、それに没入して終わらせず、その反応自体を、それをそれとして観るということである。

 

例えば、ある怒りが湧き起るような状況であれば、怒っている自分のこころに気づいている・・ということだ。

 

悲しみに沈んでいるとしたら、その悲しみに震えている有様に・・・、気づいているスタンスを持つことである。

 

こころの動きに自己投入してしまえば、そこは闇となり、

 

逆に、自己投入している有様・・そのものを観ることが出来るならば、

 

それは・・・高次の自己の眼ざめ、あるいは本来の自己を思いだすことを意味するのである。

 

それは日常の生活における自己観察でも、あるいは身体が休息している間の<夢>や、あるいはそれを越えた意識レベルでの体験でも同じことである。

 

夢も・・・膨大な意識からの有意味な情報の取得等をも表しており、夢夢おろそかにしてはならない。

 

夢が夢であることに気付けるような、いわゆる明晰夢と言われるものも、様々な内面の情報に意識的に気付けることを示しており、

 

さらに大きな本来の意識的自己に拡大つつあることを示している。

・・・

要は出来得る限り 「意識的であること」 である。

 

没我・・とは、わたし・・が・・何かに自己投入し我を忘れている無意識的・意識であり、またそれはこの地球の人類の平均的な意識レベルでもあったと言えようか。

 

・・・・・

無意識や条件反応に陥らず、

 

最も身近である意味困難とも言えるところの、自分自身のこころの観察が出来るならば、

 

こころの中にある様々な歪み、あるいは今生だけでなく、他生に渡って蓄積された記憶の中にある、カルマという歪みも観ることになるはずだ。

 

カルマという歪みも、それらを対象として認識し、それを昇華することで、無意識の中にある「解かれるべき歪み」は解消されることになる。

 

自らのこころを観る修練は、それが修練というのが適当かどうかは別にしても、意識の拡大過程にある魂にとって、宇宙的・普遍的な<道>のようなものである。

 

いまはある種の大きな学習サイクルのターニングポイントのステージであり、

 

その魂の謂わば学習の道が2つに分かれつつあり、

 

再び迷宮の時空につながる、幻想で出来た自己制御不能の迷い道に入り込んで惰眠をさらに貪るか、

 

あるいは、「こころ」という制御された馬車に自ら乗ることによって、時空を駆け抜けるようなより自由度の大きい<大道>を歩くか、

 

何がどうというわけでもないけれども、

 

それはそれぞれの魂の目覚めとその程度に従った<選択>と、

 

そして意識的な行動、探求と修練によるのである。

 

その為にこそ、どうということも無い、<今>という当たり前の日々がある。

 

感謝すべきこと、あるいは

  

こころすべきは・・・それである。

 

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体と心と魂と (1)肉体はミクロコスモス

2012-09-27 08:24:37 | 覚醒意識

人間には体がある。

 

誰にとっても間違いないことだろう。

 

3次元的な身体を肉体とも呼んで良いだろう。

 

それは多分・・普段人々が今「自分である」と感じているものである。

 

その肉体に備わる眼、耳、舌、鼻、そして皮膚上の感覚によって外の世界というものを感じている。

 

なるほど、肉体が無ければこの世界は味わうことが出来ない。

 

またその肉体は、様々な内臓器官、神経組織、骨格、筋肉等で出来ており、それ自体は完全なる調和で維持されている。

 

あなたやわたしが普通に元気であるということは、あるいはどこにも苦痛が無いということは、肉体の機関が本来の「素のままの調和」にあるということである。

 

しかしながらその調和を具現している肉体は、数十兆の細胞で構成されており、またその細胞は数えきれないほどの分子で構成されている。

 

その分子はさらにミクロの原子で構成されており、それらを数え合わせると、・・いや数えること等出来るわけもない。

 

このように肉体を構成する微小要素の数も、それは有限のようにも感じるが、しかし決して数えることなど出来るものではないだろう。

 

それらは有限にして無限、無限にして有限・・とでも言うほかなく、それはまるで我々の眼前に展開してその姿を見せている・・大宇宙のようである。

 

 

言うならば、あなたやわたし達の今纏っている肉体そのものも、ミクロの方向における「無限」を顕しているのだ。

 

身体がミクロコスモスとも言われるのは、何も例えや詩の世界の言い方ではなく、まさしく実体そのものなのだと言えようか。

 

無限とは何も容積、大きさだけの話ではない。

 

我々は、まさに眼前に展開せる宇宙と同じく、無限という名の身体を持っているのである。

 

その無限の構成要素からなる身体自体も、我々の意図や手で汗水流して、意識して造り上げているわけではなく、大自然の摂理の中において、人間の営みの中で、ある意味でオートマチックに精妙で複雑な生体機構として出現してくるわけである。

 

生れてくる赤子も、それは人間が意図してその身体を造るわけもないことは母体の経験者ならば頭で考えずとも理解できるはずである。

 

 

あなたの肉体そのものも、無限数の分子、原子、クオーク等と呼ばれるもので完全なる調和によって維持されている。

 

そして、その完全なる調和は・・・意図せず、計らず、欲せずとも、そこにあるがままなのだ。

 

・・・

我々は、生かされていながら、生きている・・・・こと、

 

有限とも見える・・実は無限の中にいる・・・こと、

 

・・・・に気付けるはずである。

 

問題は、

 

我々の表面の「こころ」がそのようなことに何も気付かず、肉体表面のことや重さや調子の良い悪い、あるいは見てくれが良いとか悪いとか、ごく薄っぺらの観察のみに終始していることである。

 

また多くの人々が、肉体に必要とされる食物を確保するために、あるいは肉体そのものを安楽に維持するためだけにその意識を向けており、あるいは向けさせられており、

 

その肉体自体が、大自然の摂理の中で、無限数の構成要素の完全なる調和で維持されていることの「本質」のほうに気付かないことなのである。

 

自分だけで生きているという観念、分離した有機的物体であるとする自己感、目先の範囲だけに特化した狭い自画像のことを「エゴ」という。

 

そのエゴを個人の尊厳と結びつけ、個人の尊厳をことさら主張しなければ生きてゆけないとする思想は、一体どこから来たのだろうか?

 

あまつさえ他人の物もあわよくば競争で手に入れることをしなければ生きてゆけないとする思いこみは、一体どこから来たのだろうか?

 

いいや、その根拠はどこにもあるわけも無く、

 

ただ単に、自己による思慮と研鑽を経ずして、他者の浮ついた思考、観念に流されているということ、そのものでしかない。

 

確かに、大勢がそのようなエゴでうごめいている流れの中にあって、その中で生きてゆくことは、ひと工夫もふた工夫も必要なわけであるが、それも魂にとって必要な学びであることが解るはずである。

 

その流れを超克する道が修養、研鑽、あるいは意識進化の道である。 

 

いずれにしても、生かされているということ自体に気付かず、我欲で生きていると考えている集団に終始するならば、

 

我欲で生きていると信じている者たち同士が衝突し、破裂し、挙句は崩壊してゆくことは、なにも黙示録の預言者ならずとも予見が出来るであろう。

 

・・・

我々がそれを多分自分だと・・いつのころからか思っているところの肉体・・、

 

またその肉体は、我々の「こころ」の在り方をも反映させるように働いており、

 

どのようなこころが調和に沿ったものか、あるいはどのような想いが不調和を生じて病をもたらすかの、謂わば学習教材にもなっていることに気付けるだろうか。

 

健康であった人が何らかの病にかかってしまう場合は、何らかのこころの歪みが根底にあることを示しているし、またその歪みを解放するように促しているのである。

 

あらゆる病気が外来の何らかの物質による反応によって生じるものだと考えること自体、肉体とこころの相関関係に気付いていないことを示している。

 

肉体は、すなわちこの世界における五感を中心とした基点あるいは体験ベースでありながら、こころを反映させ、それによりフィードバックを掛けて本来持続して有るべき姿を維持しようとする機能を有している。

 

それが本来の自己保存本能、自己保存機能であり、この世界の肉体の役目なのだ。

 

そうして、その肉体に宿るところの魂という実体の、十分なる経験・体験をサポートしているのである。

 

その肉体自体も我々の意識しないところで、その複雑で精妙な構造を生みだし維持していることに想いを向ける必要があるし、

 

本当にそれに気付くならば、それに感謝する想いが湧いてくるはずである。

 

身体はあなたやわたし達の無意識のこころの歪みを受けながらも、言わばもっとも身近な盟友として、荒い世界の人生行路において、終始あなたやわたし達を支え続けているのである。

 

個人だけという観念、個人我というイメージは造られて流布された低次の自己観念である。

 

そんなことよりも何よりも、

 

人の本当の意味での現実、あなたとあなたの「肉体」、あなたの「こころ」に気づき、これを深く意識する必要があるのだ。

 

我々がこの世界で生きていることは、

 

あらゆるもの全てがあってこそ出来ることなのである。

 

そしてあらゆるものは、今までも、これからも、そして今も、

 

ダイナミックで無限にして完全なる調和そのものなのである。

 

それをそうと観るまでに至らない人類の歪んだ集合的、近視眼的観念こそが、

 

1人1人で克服されるべき唯一の幻想である。

 

自らが依って立ち、それを考え、その体験や経験自体をすることのできる、

 

我々のもっとも身近な身体は、

 

本来それをどうのこうのとする必要もない、

 

象徴的に言われるところの、しかしながら現実の・・「神の宮」なのである。

 

それぞれの人達が、それぞれで自らを深く省みれば、それがわかるはずなのだ。

 

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カタストロフィーの時代

2012-09-22 09:46:17 | 新たなる地平線

多分今はC(カタストロフィー)の時代に入っているようである。

 

Cとはカタストロフィー、すなわち急激な変化あるいは旧態の崩壊の時代のことである。

 

昔ルネ・トムという数学者がトポロジーなる数学分野において、急激な相変化、あるいは破局の現象をカタストロフィー理論として発表したことがあると記憶している。

 

カタストロフィーとは一般に破局とも翻訳されているが、破局と言えば何かネガティブな破滅、破壊の印象があるかもしれないが、そういう感情論的な現象理解ではなく、急激な形態変化あるいは相転換に類する現象と考えるべきである。

 

例えて言えば、ゴムひもをゆっくり伸ばし続ければ、次第に歪みが増大し、ある時点を境にゴムが切れてしまうような一瞬の形態変化であり、

 

また風船を膨らまし続ければ、ある一定の限度を超えた途端に破裂してしまうことであり、

 

また、コップの中に水を入れ続ければ、ある時点で溢れだしてしまうような特異点のようなものである。

 

また机の上にある重り物体にひもをつけ、ゆっくりと引っ張り続ければ、ある時点で摩擦と引っ張りの均衡点を超えてしまい、物体が静止から急に動き始めるような動作変化点を通過するようなものである。

 

また地震や火山の爆発なども、たまりにたまった地殻やマグマの歪みが一気に急激に解放されるために、それもカタストロフィー現象と言って良いだろう。

  

総体的に言えば、歪みが一定の段階になった時に、ある飽和点、均衡点を越えてしまった時点で、その歪みの解消が一気に現象化・表面化するようなものでもある。

 

要は、変化が終始ジワリジワリと緩やかに推移して安定点に至ることではなく、その変化によってそのシステムのエネルギーがある「一定の水準」になった途端に、一気に急激なエネルギーの解放とその結果である形態転換を起こすようなものである。

 

カタストロフィー現象とはそういうものであるといって良いだろう。

 

しかしながら、このような物理的な形態の急激なパルス状の変化は膨大なエネルギーの短時間の解放が伴うために、物理的世界の住人にとっては決して歓迎されるものではないことになる。

 

ある意味で原子核爆弾も、その原子核崩壊プロセスを低レベルで持続させる中性子の衝突を利用した原子力発電も、同じく原子レベルでのカタストロフィーのエネルギーを利用しているである。

 

人々が恐れる地震も、雷も、そして親父の怒りも(笑)・・・・堰を切った時点で気付かぬ間に急激に起きる現象である。

 

カタストロフィーが破局と解釈され、どこかネガティブな感じを持つ理由もそこにある。

 

また急激な変化に関しては何も物理的な現象だけにとどまらす、「こころ」に関しても存在することは理解可能であろう。

 

誰にも経験があるはずだが、

 

例えば、人間関係において表面は取り繕いつつも、裏で重ねていた我慢に限界が生じて、急に激しく怒りだしたりすることもあるし、

 

誰かの何かのふとした小さな言葉によって、人間関係が破局を迎えたりすることもある。

 

要は、限界近くになった何らかの「歪み」が、ほんのひと押しで一気に解放に向かうことでなのである。

 

昨今の世相は、そのような精神的、あるいは物理的なエネルギーの歪みがあちらこちらで急に解放されているような様相を呈していないだろうか。

 

ここ日本においては地震の発生と原発の一大事故があり、その物的・心的影響が地球大に拡散してしまったことは記憶に新しいし、

 

それにまつわる様々な利権の構造やお粗末な体制、あるいは国民の生活や権利を無視したような政治主導、あるいは外の勢力の狡猾で陰にこもった支配や搾取等がいよいよ明らかになってしまったわけである。

  

それによって今まで知らなかった多くの人々が「知って」しまったのだ。

 

美しく装ったところの・・・実は醜悪なエゴが、政治や国家システム、経済システムにおいて顕著に露呈されてしまったのだ。

 

このことについても、正義と信義で装丁された日本人のこころの内部に積み重なった無知や依存、あるいはそれをだましだまし利用してきた咎、あるいは歪みが解放されつつあることを意味している。

 

混乱や苦しみはそのカルマが故のことである。

 

実のところ、歪みは苦しくともその『エネルギー』は『現象』として開放されるべきであり、それはいわゆるカルマの解消に繋がるのである。 

 

知るという行為は、意識レベルの要因であり、エネルギーや現象に先立つことであるからには、知るという行為を通して現象を変えることが可能になるわけである。

 

多くの人々は、本当に知ったということであれば、考え方や行為を変えざるを得ないはずだし、そこで流され自分自身の有りようを変えなければ、更なる歪みが加わることになる・・・今はそんな重大な分岐点にあるということだ。

 

・・・気付いているだろうか。

 

天候は今までよりも荒々しくなっていないだろうか。

地震は明らかに頻発してきていないだろうか。

政治や経済がめまぐるしく変化してきていないだろうか。

経済的な負債が現実レベルを超えていないだろうか。

指導者と称する者達の欺瞞が赤裸々になってきてはいないだろうか。

国際関係は国益と称するエゴがむき出しになって来てはいないだろうか。

人々の叫びや集団行動が過激になって来てはいないだろうか。

地球規模の気象異変が急増してはいないだろうか。

古くからいた多くの生物種が消えて行っていないだろうか。

 

・・・

自然界の微妙な変化や人心の微妙な変化を観察出来る人々にとっては、現象界も何かが確かに変わって来ていると感じられるはずである。

 

地震の巨大化、地殻の変動、火山の活発化、民衆の暴動、政治体制の短時間の転覆、気象の急激な変化等を見てとれば、前世期に比べて急速に発生頻度が増大していることがわかるだろうし、

 

またそれらも次第に身近になって来ていることも感じとることが出来るはずである。

 

しかしながらそれらの急変の全てを陰の謀事や扇動、あるいは人為的な気象操作やマインド制御等に帰結するという解釈は誤りであろう。

 

地球の物理次元においての急激な変化は、大きな枠での地球という生命圏の、

いわゆる多次元に渡るエネルギーの増大や質的変化によって生起していると考えられ、

そのフィールド中に存在する人間の「こころ」にも大きな変化が起きているということなのだ。

 

人間は意図によって意識的・無意識的に動くものであり、ガイアと言われる地球も意識体であるからにはある種の意図によって変化しつつあると考えられるはずである。

 

意識~(こころ)~エネルギー~現象(物質)という顕現はどこにおいても、惑星、恒星においても、そして人においてもフラクタルに適応されるのだ。

 

現在の物理的な観測手法では、エネルギー~現象(物質)のリンクしか定量化出来ないわけであるが、その元にあるものは大自然・宇宙の「意識」であり、また人間界にあっては人の「こころ」が様々な現象を生起させることは理解出来るはずである。

 

言葉を変えれば、

 

意識に生じる特定の意図は潜在的なエネルギーとなり、その青写真あるいは鋳型を通じて形態化・現象化するということである。

 

今様々な変化が現象界にも現われてきたということは、とりもなおさず何らかのエネルギーの増大と、その因たる次元の「意識」に質的な変化が起きているということを意味するのである。

 

それらの大きなフィールドでの重大な変化に明確に気付くためには、どうしても人的世界の雛型であるところの自分というもの、そしてそのこころ模様、またそこから展開するところの自分の周囲での現象化について十分な気付きを得る必要があるはずである。

 

単なる外の世界の刺激に満ちたイレギュラー情報の収集の段階を越え、

 

それぞれの人間の意識・こころ・身体、現象生活の有り方の・・・首尾一貫した因果関係を心底で理解し会得しなければならないはずなのだ。

 

そうでなければ、今訪れているカタストロフィーの時代、それは別の意味で大いなる変容の時代にあって、怖れと不安で右往左往するか、あるいはそれに気付くことで内面のカルマを解放することをしないならば、その理由も何も解らずに、あっという間に外面の時空の濁流に流されることになるかもしれない。

 

今はもう意識の眼(まなこ)を覚ましていなければならない時ではなかろうか。

 

全ての魂存在達は、そのために自らで選んでここにいるのではなかったか。

 

輝かしき夜明けの為の生みの苦しみから決して逃げてはいけないはずであろう。

 

・・・そう、今から、ここが肝心かなめの、胸突き八町である。

 

それは外の世界だけとは言わず、実に、あなたやわたし達自身の魂レベルの変容と拡大の為の必要なプロセスのことなのである。

 

 

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選択は常に<われ>にあり

2012-09-17 09:25:00 | 覚醒意識

人間の意識の進化拡大においてどうしても通過しなければならないことは、自らの「想念」のパワーへの気付きである。

 

想念がパワーと言ったのは、それは文字通り「力」となり、すなわち現象化の原動力、エネルギーに転換されるということである。

 

この人間の「想念」、心の中のイメージや感情そのものが眼には見えないからといって、何でもない情報のようなものであるという短絡的な「思考」こそが、長い間の人類の「足かせ」になってきたのである。

 

今までの人類の不幸や悲惨さは社会制度や富の不足にあるわけではない。

 

ただひとつ・・・・あなたやわたし達の「想い」の中にあるイメージ、それを青写真やプログラムあるいは形を現わす雛型といっても良いだろうものが、

 

あなたやわたし達の「今の状況」をそのまま反映させているのだということを悟る必要があるのだ。

 

「それはまあ、そういうこともあるかも・・・」というようなもの、あるいはたまにあるような事などではなく、すべてがそうであるということである。

 

人は往々にして自分の人生や環境に不満や不安等があれば、ことさらそれを無視しつつ、何か何処かの他者や社会や、あるいはこの世界の制度などに責任を転嫁しようとする傾向があるものだ。

 

常に原因となる創造者としての自分自身が・・・そこにいないありさまは、

 

それはまさに自分自身では未だ歩けないような霊的幼児性を示していると言えるのではないか。

 

なるほど、今はそういう段階を経験している魂存在達が増えてきており、かつまたそれを巧妙に煽る政治屋、かわら版屋達も増えているようである。実は彼らもおなじ役どころに従っているのだ。

 

表現はよろしくないが、そういう扇動的なお為ごかしの政治主導は、未だわけのわからぬ他者依存の子羊達の集団をまことしやかな宣伝やイメージで操り、別の子羊集団に問題点をけし掛けつつ、そこで生じるところの、無理解と無知が故の歪んだエネルギーの衝突と軋轢を自らの利益に転嫁しようとする行為なのである。

 

今世界中で騒ぎが増大していると見える現象の元は、20世紀に蓄積された世界的経済的富が、リーマンショックを象徴とするデリバティブやハイリスクな金融博打の崩壊によって失われた為の金欠症状が故だけではなく、

 

あるいは商品市場の価格上昇による食糧・エネルギーの入手性の棄損と飢えへの恐怖感の為だけでなく、

 

それはある意味で、金銭・貨幣を象徴とする物質的繁栄への飽くなき歪んだ欲望のはけ口が、今まではそれを生みだしてきた大多数の民衆自体の、なけなしの富の奪取にとうとう向かってきたということなのだ。

 

いつの間にか国家経済の収支そのものが債権によって売り買いされる現状も、あるいはそれに対処すると称される民衆からの徴収増加も、あるいは中東地域の革命による秩序や倫理の荒廃も、お金の為に兵器と人々の命を変換するようなおバカ極まりない戦争も、

 

その全てが、自由と民主的であるはずの、一般大衆の為だと・・・称しているではないか。

 

呆れてものが言えないほど、我々という民衆はおバカにされていたということでもある。

 

実にそれは想念レベルでの他者依存が故なのだ。

 

・・・・違うだろうか?

 

要は、あなたの為に何か良きことをしてくれる・・・そんな、星の王子様やあしながおじさんは、どこにもいなかったということである。

 

なぜならば、・・・・

 

それぞれの・・・あなたやわたし達が「それ」なのだから。

 

 

・・・・

昨今急に世界で拡大した民衆のデモや革命騒ぎ、宗教間の血なまぐさい争いを、単純に世界が良くなる為の改革だと感じている人々は、未だその裏にある「想念」の歪みを知らないのかもしれない。

 

外に革命や改革を起こさなければならないという政治屋プロパガンダは、民衆の無知をそのままにしつつ、それを票に結びつける為の操作手段なのである。

 

「そうそう、悪いのはあなたではなく、制度や他の国やあるいは極悪の支配層なのだ。この問題が消えなければあなたは幸せにならない、・・わたしがそれを何とかしようではないか。・・・・・」

 

大衆の無責任転嫁を機敏に感じとって、そういう風に思いこんでいる人々の代弁をしているのである。

・・・

 

この世界での経験において、外の世界と自分の内面のギャップを目の当たりにした段階に来た時に、

 

往々にして、決して自分は悪くない、悪いのは他人のほうである・・・というような、認識をいつもすり抜けるところの他者への責任転嫁で終わってしまうことが多いのではないだろうか。

 

そうした場合には結果的に、さらに大きな問題点となって還ってくることになるだろう。

 

想念とは思考や感情であり、それが人間世界の創造の唯一のまた無限の力となっているからには、あなたやわたし達はその自覚の程度に応じた創造者なのである。

 

意識的か無意識的かに関わらず、認識によりまず知的なイメージ体を造り上げ、それを固持することで時間を通じて現象化させているのだ。

 

人の人生や生活あるいは人格、性格等が社会、親や世間や上司や管理者や、あるいはどこかの支配者等が決めているなどという「観念」に染まっているならば、未だ自らの創造者としての自覚が無い段階と言えるだろう。

 

何を偉そうに・・と感じるかもしれないが、

  

たとえどのような環境、状況においても、結局は 「全て」は 自分で決めているということを理解している人は、いわゆる意識進化の階段を1つ登った人だと言えるのである。

 

自己創造は、それが、たとえどのような環境、シチュエーションにおいても適応されるのである。

 

その人の意識はその人にしかないわけであり、何をどう思い、どう自覚し、どう表現し、どう行動するかの最終決定者は、常に「自分」なのである。

 

人が言うから、親が言うから、多くの前例があるから、世間の人がそういう風にしているから・・・・等というのは単なる自己の観察情報であり、

 

故に 「それ」 が、あなたの行動、思考を<決定している>わけではないのだ。

 

選んでいるのは全て、最終決定は全て<自分>であることが理解出来るだろうか。

 

そう、・・・全ては、それぞれの<わたし>が決定をしているのである。

 

無意識的に決めている人は、往々にして外の世界の思考の流れに染まって流され、逆に意識的に決めている人は流れを自在に泳ぎつつ、場合によって生じるところの汚濁の奔流にも流されることはない。

 

今までの世界では、物質的な富や繁栄が自らの幸せに結びつくとというような観念が世界に支配的になり、それが故にその物質の元である地球という資源が貪られてきたのだが、

 

それが限度であることを、こころある者は以前から気付いていたはずだし、

 

加速された世界の物質獲得競争の慣性によって、今はとうに限度が超えてしまったのが現状なのだ。

 

今はもうその時を過ぎていることにあなたは気付くだろうか。

 

そういう意味では、人類意識の卒業時期に入っているともいえるだろう。

 

しかしながら、あなたはもう準備していることだろう。

 

次第に大きくなった気象異変や地殻の動きの増大あるいは前代未聞の地震等も、あなたやわたし達人類に仕返しをしようとしているのではなく、

 

盲目的な物質繁栄追求だけの遊びはもう終わりだと告げているのである。

 

やけくそになって原子核でこの3次元舞台を全て壊してしまうこともあり得ないし、

 

地球という「多次元世界」は完全調和の意識体であり、それは決して崩壊することを選択しない。

 

物質表面次元だけに意識を向けて、そこでの肉体生存だけの為にあくせくして来た人類の想念形態はもうすでに時空で飽和してしまい、ある意味で相転換をしているとも言えるだろう。

 

そう、今はもう人間社会の原型である人々の想念を、それぞれで入れ替える時期にあるということだ。

 

人の人たる所以は、その想念にある。

 

また人のゆく道は自らが提示するところの想念が造るのだ。

 

どのような時、どのような場所、どのような時代、どのような集団の中にあろうとも、

 

全において、何をどう考え、どういう状況を得るのか、

 

すべて、選択するは・・・・<われ>にあり。

 

・・・・

 

いままで何度も陥ってしまった・・「それは理想だよ、現実は違う・・・」等という、尤もらしい常識の隠れ蓑を装った、投網のような想念の形にもう捉われてはならない。

 

あなたやわたしが見ている、経験している世界の中には、

 

それぞれのあなたや、わたしが  それぞれ ひとり  いるだけなのだ。

 

意識を持ったわたし・・・これは誰でも気付ける・・・根本的なことである。

 

今・・・内面から生じるところの本来の静謐、安心、平安、豊かさを、

 

明確に、それぞれのこころの中に掲げ続けるのだ。

 

新しき想念を掲げること、その信念の持続は力となって、それぞれの一人一人のあなたの回りに生じてくる。

 

それぞれのあなたの回りが、次第に集合して本当の新しき大きな舞台が現われずにはおれない、

 

それが法則なのである。

 

気付いて、認識して、認めてそれを自らに表現することでしか、

 

・・・・それは顕れない。

 

いばら道も花道も、決めるのは常に・・・<われ>にあり。

 

この世界での舞台演技は、すべて自分で決める者達によって創出されており、まさにそれを知ることにこそ意義がある。

 

あなたのことを・・・一体だれが決めてくれるというのだろうか?

 

自らの撒いた種は自らが刈り取るのである。

 

決して他者ではない。

 

そしてまた、自己の有り方を決めてゆくあなた自身の「想い」を観ることを経ずして、その自らの想いを制御できるだろうか。

 

いいや、それは決して出来ない相談だろう。

 

それは絶対的に必要な魂意識の、いわゆるところの進化・拡大のステップなのである。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


人と人の間、あなた=わたし?

2012-09-09 11:35:09 | 新たなる地平線

人間の最も大切な「行い」あるいは「行為」は何だろうか。

 

それは他に対して善意を施すことだろうか。

 

昔から人間関係の黄金律と言われる、

 

「自分の欲しないことを人に行わないこと」、

 

あるいは「自己の欲することを人に行うこと」という、気付けば誰にも合点のいく言葉があるが、

 

それは要するに、自己と他者をあたかも同じように観る・・ということである。

 

卑近な例で言えば、

  

現状での欧米流?の個人主義は、バラバラの個人や個性を重視する思想であるが、

 

個々の多様性から生じる思考と行動の多様性だけに価値を認める考え方であれば、

 

ある意味で個々別々の異分子の活動によってエントロピーの無制限な増大をもたらすことになり、

 

その為のタガとしての他者「支配」が必要とされることになるだろう。

 

めいめい勝手な行動をする幼児達?を先導しなければならない?ことになり、

 

あるいは、めいめい勝手に動き回る子羊達を囲わなければならないという話にもなる。

 

陰謀論で良くいわれるところの支配とは、映画で良くあるように鞭を打って人に何かの作業を無理強いする様な事ではなく、

 

知らない間に無知のままにおかれつつ、そこからある意味でエネルギーを吸い取られるようなものである。

 

支配されている者達とは、・・気付かぬ間に他者に奉仕している者達のことなのだが、・・・それが自己の意図でなく、他者からの洗脳と騙しによっているところが問題なのだ。

 

それは、他者に自発的に善意や慈悲を施すこと、つまり他者奉仕という自己研鑽の手順を未だ知らない段階での、無意識の他者奉仕とも言えるだろう。

・・・ 

 

気付けば実におバカなことではあるが、現状の特に先進国と言われるところの政治経済は、どこかそういうことになっていることに気付かないだろうか。

 

特に政治と言われる範疇の人々の主張や行動の明らかな愚かさは、今では相当に馬鹿馬鹿しくも、可笑しくも、ある意味で悲しくもある。

 

既に、あなたも多分昨今の世界情勢の同時急変等に気付いていることだろう。

 

また現状で、何処かの世界一自由で民主的なと言われた国家がボロボロになりつつあることと合わせて、それでも虚勢を何とか維持しつつ、内部では中央集権的な支配が強まってはいないだろうか。

 

・・・

 

要するに、他者と自己をバラバラと認識している限り、何時まで経っても個人の自由と、その反対の、他者への強制的支配はついて回るのである。

 

それが今までのような、自己を肉体個人とするような自己認識の結果なのだ。

 

言葉を変えれば、

 

個人個人が、例えば何cm、何kgであらわされるような<肉体存在>でしかなく、そうであればこそ、その中でも出来得る限りの権利と自由を獲得しつつ、肉体的な安楽さと快適さを追求してきたのが、いわゆる欧米流の歴史であったということである。

 

そうしたバラバラの個人の<生存欲求を満たす>ために資本主義やら何とか主義やらという観念の括(くく)りを造り、その観念の中での物質多様性と蓄積を追求してきたというわけである。

 

そうして結局のところは、内面での真の安心、安楽、快適さを得られるどころかそれを棄損し続けてきたのだ。

 

 

そういう肉体人間の集合としての観念の括りの中で、経済成長神話に知らず知らず犯されつつ、

 

それこそ生き残りのためと称して産業活動に邁進し、必死になって地球の資源を無制限に伐採しながら、後は野となれ山となっては、当然のことながら地球の自然環境が異変を来たすのは火を見るより明らかなのである。

 

しかしながら、そのような地球のバランスを取り戻すための一大変化自体にも気付かない人間にとってみれば、今起きている様々な地球大の現象はまさしく異変であるわけだが、逆に、地球自身にとっては大いなる変容と言えるだろう。

 

なぜならば、

 

ここまで汚れてしまえばあきらめもつくし、きれいさっぱり洗浄しても「誰も」文句は言わないだろうし、またその浄化そのものが次なる進化のプロセスともなるからだ。

 

我々だって、体や心が汚れたら洗浄や洗心をしなけらばならないはずではないか。

 

地球も人間や動物等と同じく、間違うことなく「意識体」なのであり、常に変化と進化を旨としているからだ。

 

しかしながら、

 

今明確になりつつある自然と人類の一大変容は、それが決してダメなのでやり変えるのではなく、

 

ある意味で、ここまで泥んこになった経験と知恵を元にしてこそ、新たなレベルに拡大出来るということなのである。

 

それは人も動物も、植物も鉱物も、それらを包む大きな意識体としての地球も同じことなのだ。

 

例えば今はもう、何かの大きな変化が起きていることには誰しも気付いてきたことだろう。

 

今地球レベルの意識集合体は、古い認識レベルからの「卒業」時期にあるし、またその中で体験学習をしている人間達や動物達の意識体も、そのレベルは違えどもまったく同様なのである。

 

しかしながら、 

 

この変容・シフト自体、アイも変わらず古い観念で終始する者達にとっては、とんでもハプンの一大事のようなものに見えるはずである。

 

例えば舞台演劇において、それと知りつつ回り舞台で演技している役者達は、終幕によって舞台が回転していることに気付いていれば転ぶことはないけれども、

 

それと知らない者達は、舞台の転回に気付かず準備できずに自分が転んでしまうことになるようなものである。

 

益々増えてきた国同士あるいは国内外のおバカな非難合戦、大自然の突飛な移り変わり、水、気、熱、土地のアンバランスな現象表出は、

 

古いレベルでの時間が少なくなってきたことの焦りを示しており、

 

別の言葉で言えば、今はもう、

 

古い3次元的あるいは個人我の認識レベルからの卒業時期を示しているのだ。

 

個人個人バラバラ別個の間の利害の衝突とその調整に明け暮れた古き歴史の終わりである。

 

大ざっぱな表現で言えば、西洋風な個人我の欲望の追究から、一段高いレベルでの東洋風な自然との調和への回帰と言えるだろう。

 

一段高いレベル、より広く見渡せる次元での自己認識とは、

 

自他があるいは人間と大地が、本質的にひとつでありながら、ひとつの全く違う側面の表現形であることを自覚していることなのである。

 

それを象徴的に言えば、

 

すべては「ひとつ」である・・・ということであり、

 

また「ひとつ」であるがゆえにこそ、様々な側面を演じ分けているのだ。

 

それを言うならば、こういうことになる。

 

実のところ・・・・あなた は わたし、 わたし は あなたである。

・・・

 

あなたの意識は「われ」という気付きによって自己を認識しており、

 

わたしの意識も同じく「われ」という気付きによって、自己を自己として認識している。

 

動物も植物も、レベルが違えどもそこに生命表現、存在現象があるからには、

 

それら全ての根本に「意識」があるのである。

 

あなたを見る動物やペットの眼にも「それ」を感じることが出来るだろう。

 

あなたの視界の中にたたずむ花の姿にも「それを感じることが出来るはずなのだ。

 

それを・・覚知しつつ、想念で、言葉で、それを明らかに表現できる者が・・・・人間なのではないだろうか。

 

それこそが「人間」を演じている魂意識の本来の役目というものである。

 

そして、今はもうそれを再び思いだす時期に来たのだということである!

 

大いなるひとつの普遍意識、根源意識に気付くことによって

 

あるいは「意識」という全ての存在のベースバンドアクセスを通じて、

 

昔は奇跡だと言われた現象も当たり前のことになるだろうし、

 

人と人の間のダイレクトな意志疎通も当たり前となり、否応なく嘘も・隠しも・騙しも存在出来ない世界になってゆくのだ。 

 

人間とは  人と人の間・・・・という意味であり、

 

その<間>、あるいはギャップを次第に無していくことこそが、

 

人間を演じている魂意識の大いなる学びなのだと言えるだろう。

 

 

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 本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。