気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識とは? Part 2

2008-10-26 10:49:20 | 見えないものから見えるものへ

●意識とは無限の自己認識作用そのものである 

我々の身近な「意識」というものが、何であるかということに関しては、問いかけ続けるうちに、それは自分自身である、ということに立ち戻ることになります。あたかも、孫悟空がこことは違う、はるかな地平に飛んでいったところで、そこには巨大な仏の手があるような、そんなものであるのです。

 問いかけ、思い巡らし、調査し、理解する過程、その過程そのものが意識的な作用であると言うことに気づかざるを得ません。自己を認識する作用が意識作用であると言ってもいいでしょう。 五感の知覚作用も、それを知覚する当の主体がなければ知覚できないのですが、そこには多くの場合、無意識というフィルターがあり、その知覚された対象のみを外来情報として捉えてしまうことになるでしょう。例えば、目の前に机があったとして、机のみが視覚を通じて我々の意識に映じますね。自分が認識している・・という自分よりも、その対象物にのみ「意識的」になるという意味です。これは無意識、または感覚への自己喪失と同じで、「自分が」知覚しているというトータルな認識が少なくなっているわけです。「そこに入り込んでいる」状態とも言えるでしょう。 大空に上がったタコが、単独で動き回っているように思われる・・そんな感覚でもあります。自分がいつのまにかタコになりきっているようなものでしょうか。

●意識は五感感覚をも包含している

 これは本を読んでいる場合を例にとっても説明出来ます、読んでいる最中は本の中に記述されている言葉のイメージだけを捉えているようなものです。ある一定時間、断続的ではありますが、自分がそこに入っているような感覚で楽しんでいるわけです。自分が本を読んでいるだけなんだという感覚は、ページをめくったりする指先の五感感覚や、例えば座っているという身体感覚でもたらされます。

 TVや映画でも同じように、その映像や音声の作り出す世界のみを知覚しています。知覚している世界に入り込んでしまう瞬間は断続的ですが、確かにあるものです。どこかに、「これは映画である」と言う感覚があるのは、それを見ている自分の身体感覚が、観客席・こちらにあるからです。

●夢は単に五感の希薄なレベルの意識体験

 夢の場合はどうでしょうか。夢の場合はあちら(夢)とこちら(現実生活)の違いを見分ける感覚、五感の感覚が極めて少ない場合に相当します。その時には身体の五感機能は休止しているからです。従って夢の場合には、自分の属性、年齢や職業、性別、名前、近所の付き合い・・など等は意識に上らず、全くその中に入りきっている事に気づくわけです。五感感覚が無いために、例えば自己の立っている場所、錨・アンカー等が無いため、目の前に展開し、それを意識している状態になりきってしまうことになるのです。

 怖い夢の場面では、それこそ必死の形相ものすごく、助けを求めてはっと目が覚めるということなどは多くの人々が経験しています。身体感覚が戻れば、あちらとこちらの違いがやっとわかるわけです。

●意識しているわたし自体は、いつも有る

 ただ、私がそこにいる・・という自己感覚だけが存在しています。「わたしという認識主体」のみが有るのが理解出来ると思います。

 日常生活でも同じ事で、生活の中では、自分の外側にあると感じている様々な出来事に知覚を集中しています。従って、自分の生存にとって都合が良いかそうでないか?によって一喜一憂しているのが大方の人々の現状ではありませんか。その世界に入り込んでいるのは、今度は、その身体感覚によっています。

●身体、ボディは、その次元認識の為のベースキャンプ

 身体感覚があるがゆえに、この世界の刺激が支配的であり、その刺激を意識し続けることで、完全にこの世界の一部になった感覚で生きているということでしょう。

 身体感覚は、この次元世界での経験・意識作用の為の「ベースキャンプ」ともいうべきものでありそうです。わたしは有る・・という認識主体の意識作用、表現をするための位置、周波数帯を一時的に固定する為のものであると考えてもいいかもしれません。

●内外全ては意識の中に含まれる

 わたしが何かを意識する・・ということは、何か全てにおいて共通の作用であり、個々独自、その世界独自のものではないようです。意識そのものが宇宙、森羅万象に共通のフィールドであると言われる所以です。しかし、それを超えて、どんな場面でもどの様な世界でも、わたしは有ると言う認識が存在するのです。

 同じように「あなた」にも全く同じものがあるわけであり、その意味では、あなたは私とは全く違う、わたしであるという事が出来るでしょう。

あなたは、私とは全く違う 「わたし自身」である。一は即、多とも言われています。

あらゆる異なる全てが「わたし」であれば、「至高なる愛」が中心であるのは、至極当然のことなのではないでしょうか。

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医学博士、デビッド・R・ホーキンズの「パワーかフォースか」という書物の一説をご紹介します。スターウオーズとは関係ありません。(笑) 本の題名は誤解されそうですが、大変高度な意識科学の一端を見せてくれるものだと思っています。この人は幼少時に奇跡的ともいえる意識体験をされたようです。

(334-336頁参照) 「意識そのものの研究」・・より

『 ・・そうであれば、どのように人は自分の肉体の存在を知ることができるのか、という質問もしてよいと思います。肉体の存在感というものは、観察からいえば感覚器によって認識されているといえます。では、何が感覚器を認識するのか、という質問がこれに続きます。五感によって告げられることを、私たちはどの様に経験するのでしょうか?肉体異常のもっと多くのものが含まれている、もっと偉大な何かがあり、それが、それより小さいものを経験するために存在しなければなりません。

 その何かとは、もちろん「こころ」です。人間は自分の体を経験する心があるから、自分の肉体を同一視するのです。体の大部分を失っている患者さんは、死にそうになっても自分に対する意識は消えないで残っていると報告しています。その患者さんは、「今までどおりの自分のように、今もまったく同じく存在する」というに違いありません。

 それから、次の質問も浮かびます。人間は心で経験することをどの様に知ることができるのでしょうか?人間は内なる観察、いわゆる内観によって、心のなかには様々な「考え」が浮かんでいるのを見ることができるのですが、しかし、心の中に浮いている「考え」それ自体は、自らの存在を経験する能力はまったくないということが確認されています。

 しかし、思考の連鎖を経験する思考そのものをさらに超越しながらも、もっとベーシックな「何か」が存在するのです。そして、その何かであるアイデンティティに対する感覚は、思考の内容によって変るものではありません。

 「観察している何か」とは、何でしょう? それは人生という現象において、主観性と客観性の全てを認識できる何かなのですが、いったいそれは何でしょうか?

 認識と経験の両方を同時に共鳴させるようにできるのは「意識」そのものであり、そしてその両方は完全たる主観なのです。

 意識そのものはその中身(思考)によって決定されません。

その意識へと流れ込む思考を、海に泳ぐ魚に例えることができます。海そのものの存在は、魚とは独立しているものです。海は、水そのものの性質を決定しません。色のない光線のように、意識は目撃されているものを、ただ照らすものです。ですから、それは世界のあらゆるアナウンスの中で「光」として表現され、伝統的に意識を光と結びつけて説明されることが多いのです。

「制限ある自己」を経験することは、ただ、「意識の中身」と同一視してしまうことが理由です。それとは対照的に、「意識そのもの」を同一視すると、自己は実に制限の無いものであるということがわかります。自分という感覚は、意識その者であると認識できるのですが、そのような限界内の自己への認識を超越すると、わたし達は「覚醒する」ようになります。

・・・・・・

「意識そのもの」の経験の1つの特徴は、永遠の(または永遠と感じる)知覚です。意識は全ての形と時間を超越して経験されるので、あらゆるところに平等に存在しているように感じます。それは”Is-ness”、”being-ness”と呼ばれたり、また、スピリチュアルな書物には”I-am-ness”と表されたりしています。

 意識は、知覚の制限として生じる分離を認識しません。覚醒した状態は、部分部分に分けるような分離は存在しない「ワンネス」(ひとつの統合された)の状態です。そのような分離は、局所的な知覚から生じているだけです。単なる見方のずれにすぎません。  』 

・・・以上抜粋

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 自己をどう見るか・・という「観の転換」努力は、俗に言う、高次元の認識と大いに関わっているといっても良いでしょう。それは外にではなく、自分自身の中にあるものです。自分自身は、実は全ての外につながっており、したがって、認識すべきは自分自身であるのは明解であろうと思います。

Flower1001

例えば野に咲く花、 これは大いなる意識の現われである・・と感じることは、認識による新たな創造でもあり、またすでにある普遍的な法則に感応する作用と言えるでしょう。意味なく見逃すことが、どんなに多いことか、ただただ気づいて感謝することしか出来ないことも多いです。

今日も拙い文章をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。


意識とは? Part 1

2008-10-19 10:04:48 | 見えないものから見えるものへ

●内面を見るとは、自己の意識作用に気づくこと

 わたし達の内面といえば、それは「意識」のことであると理解できるでしょう。「意識」とはなんでしょうか。それは人間にとっては、「思い」「感情」「想念」であることも当然と感じます。我々の内面には、肉眼視できないけれどもこの「意識の働き」があります。

●全てにいわゆる意識がある

 人間の想念・感情などの、一般に言う「こころの働き」は、総合的な意味で言えば「意識作用」に含まれます。動物にもそれなりの「意識」があり、常識では表立ってアナウンスされていませんが、植物にも「意識」があり、鉱物にもそれがあると言われています。

●石ころにもある意識

 鉱物に意識がある?のは少し理解が遠いかもしれません。それを理解する為には、人間のこころと同じものと考えないほうが良いでしょう。鉱物に人間のこころの働きと同じ作用があることではないのです。当然ながら人間のような目も顔もありません。

●水晶は人間の想念と同調する波動帯をもつ

 鉱物も実際にこの世界に存在しており、秩序ある分子組織を持ち、エネルギーを持っています。外部からの熱やエネルギーには各鉱物・物質レベルの独特な反応をします。水晶などは特別な振動機能があるため、電子回路でも使われており、またスピリチュアルな世界では、古くから人間の心の作用に共鳴しやすいものであると言われています。人間の念がそこに振動波として記憶され、想念の波動帯での意志伝達や微細なレベルのエネルギー伝達・増幅が可能なものでもあります。

 鉱物も我々のこの時空認識のなかに登場している存在であり、人間と同じくそこに有るという実感を顕示しています。そうであればこそ、これら全ての存在も意識を有すると考えるのが自然です。個別意識をもっていて「私は石だよ!」というわけではありませんが、そこに存在していること、表現していることが、その因たる意識の現れであると考えてしかるべきなのです。

全ての存在を表す作用とも言うべき「意識」とは、どのようなことを言うのでしょうか?

●意識とは森羅万象の根源波動である

 1つの卑近の例で言えば、電波の「搬送波」のようなものであるといえるかも知れません。我々の見るTVは電波で構成され、発信源から全方向に伝播しており、それに同調する事でTV画像として再現されます。搬送波とはきめの細かい一定のベース波長であり、その搬送波に変調を掛けて、様々な信号に加工します。そのような全ての電波信号の元になる、一段と細かい波動のことと言えるでしょう。TVで見えるアイドルのスマップの歌う姿も、笑い声もこの一定の搬送波が変調されたものなのです。

 基本となる「搬送波」と、それを様々に変調して、画像や音声はたまた振動などの物理的な現象を表す作用は、電磁波の世界だけでなく、同じく波動で構成されている我々のこの次元世界にも適用できる仕組みだと思われます。

●人間を通して現われる宇宙意識

我々の存在世界の全ては、意識という波動の中の様々な変調で構成されていると言うことも出来るでしょう。また広大な海の中の様々な「さざ波」ということも可能かもしれません。基本となるベース波動の中にあればこそ、どのような波動も無限に形作ることが出来るわけです。全てのなかの全ての物事は、その意識というベースがあって生起するものと言えるでしょう。

 その全ての根源にある意識を、人間が自分自身として自覚・同調する瞬間のことを「宇宙意識」の体現と言って良いでしょう。

●磨くべきは人間の心の窓

 現代の物質文明では、人間のこころは肉体、頭脳によって発生するものだという観念で片付けてしまっているようです。従って目に見えない「こころ」など、生活に役立つ物質・エネルギーに比べれば、何かついでの気休め、お飾りに過ぎない等と漠然と思っています。そうではない、という人々もいるかもしれませんが、そのわりには内面のこころの観察など真剣に行なっている風にも見えないのです。価値あるものであれば、それに意識を注ぎ、それが何であるか観察しようとするはずですが、本当に価値あるものだと十分認識していないからこそ、自分の心や想念の観察などすぐに忘れてしまい、つい、外の世界に意識を向けていると考えてもいたしかたないと思います。

身近にあるこころの作用の中にこそ、神なる宇宙意識の窓があることが理解出来るのではないでしょうか。心の作用に意志を発することで、どの様なものにも同調できる魔法の鏡と言ってもいいかもしれません。磨くべきは誰にでも等しく有る、自分の心なのです。

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Img_0831 小田原城址公園の象の花子(梅子)です。私どもより古くから生きています。

その時は、小屋の中にいたのですが、試しに発した「こんにちわ」という私の内面の声に答えてくれて、それに2度も繰り返して出てきてくれました。これには自分でも驚いてしまいました。

本日も拙い文章をご覧頂き、誠にありがとうございました。


5次元への移行とは? (Part 2)

2008-10-12 10:56:06 | 見えないものから見えるものへ

<新たな次元要素とは>

●すでに見えている新しい存在軸

  わたし達は何かの折に時々、第六感などという言葉を使うことがあります。直感や不思議な情報取得、、テレパシー、念動、などのESP含めて一般的に、第六感といいます。五感を超えた知覚、すなわち超感覚的知覚のことです。

 これらは古くからあるのですが、現在の唯物論科学手法では説明が出来ないために、常識の圏外に置かれています。つまり今の正統と言われる科学では表立って取り上げられず、宗教では何か悪魔的な諸行として禁止または無視されているような感があります。

 この第六感、虫の知らせ、以心伝心、正夢のような不可思議ではあるが、的を得た情報収集のような現象は、現在の時間空間認識では説明できないと言うことです。またアインシュタインの相対性理論では、光速を超えるものは存在しないという仮定があり、テレパシーのような同時のコミュニケーションなどは説明できないのです。

 前世紀に行なわれた旧ソ連での地上と潜水艦とのテレパシー実験は有名で、被験者双方の間のイメージ伝達がほぼ瞬時に届いているという結果が出たようで、情報伝達速度が光速を超えているとしか考えられないとされています。また正夢などは、物事が生起する前に予め知るようなものであり、過去から未来に整然と流れるとされる事象に反するようです。未来に起きることをどうして事前に知ることができるのか、単純な時系列に沿った因果関係ではなかなか説明できないわけです。

●新しい存在軸は人間の意識作用に関わる

 これらの人間に関わる「意識作用」は、時空を超えていると考えられる現象を生起する原因であり、つまり3次元空間+時間、の4次元認識を「超えるもの」です。この方向に新しい存在軸があると思われます。つまり、テレパシーや予知などの超感覚的知覚作用は、4次元時空(3次元)の認識では理解する事ができない別の存在軸と考えられるのです。

もう一度わかりやすい今までの次元拡張のイメージを示すと、

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○ 空(くう)に無限小点がありました。

① 点が繋がって線・1次元になりました。(点は線に含まれます)

② 線が回転すると、面・2次元になりました。(線も点も、面に含まれます)

③ 面が回転して、立体・3次元になりました。(面も線も点も、立体に含まれます)

④ 立体がその存在軸のあらゆる方向に動き回った結果、物理的時間が生まれました。(立体も面も線も点も動き回れば、その変化率:時間が生まれます)

⑤ 0~4を超え、それらを内包している次元(五次元?)

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 現在の我々の五感の知覚する物理空間なるものは、周りの景色や他人の顔、宇宙の星星まで全てこの時空認識で出来ているのです。原子や素粒子といえども、ある立体的な物質領域とエネルギーの相互変換に基づいて動き回っていると考えているのです。なお、極微の素粒子の世界では何らかの波動の存在確率や・エネルギーの塊のような考えでなければ理解出来ない分けですが、いずれにしてもそこには何かの存在があり、それが運動をしているという事なのでしょう。

●今の世界、今の次元認識

  このように物質で構成された世界と認識している状態は、明らかに3次元+時間1次元の4次元と考えて差し支えないでしょう。我々の存在している世界は、3次元空間において物質が動き回っている世界であると考えているのです。

 我々はこの宇宙の中で、様々な天体の動きや、地球上の現象、社会の動き、他人との関わりを五感を通じて感知しています。物質と称する様々な構成物の極微から極大までの運動を見ていると言うことも出来ます。星が流れるのを見、雲が行くのを眺め、空気を風で知り、言葉で意志を伝え合うことをしています。

 人間はこの大きな空間と時間の中の、1個の、考える有機物質とも言える自己認識をもっています。現状では大多数の人類の無意識の自己認識であるわけです。その巨大な大自然の中の、か弱い生物である人間は、生きる為に知恵を使い、知識として集積し、その学んだ効果を使って周りの環境を変えてきたのが今までの歴史でしょう。今回の人類の孤軍奮闘は、実に数千年を費やしたともいえるでしょう。

 物質世界に含まれている、か弱い人間存在という自己認識であるからこそ、周りを必死の思いで変化させてきたのです。自然は征服すべきもの・・であったのでしょう。

●新しい次元認識のカギ

 SF的と考えることも自由ですが、臨死体験、前世記憶、予知やテレパシー、念動や更にはテレポーテーション等といわれる、物理的時間と空間を超えた現象、超感覚的知覚現象は確かに存在しているのです。それらを体験したり、あるいは書物で接したりしている人間も相当数に上っているはずです。

 これらの時空を超えた現象が存在しているか、あるいは存在しないかという、人間各自の認識が非常に重要なキーを握っていると考えられます。またこれらは自己の経験や他者の報告などに対する真摯な理解なくして判断する事は出来ない代物です。単に鵜呑みにしたり信じたり、信じなかったりするような博打感覚では、まさに甘い宗教観念に留まるかも知れません。

 実は、人間の意識作用自体が新しい存在軸を発見する為のカギであるということではないかと思われます。いわゆる五次元は、人間の意識作用の高度化、深化の方向に現われてくるものであるということだろうと考えられます。そのような存在世界へのインターフェースが可能になるという表現も出来るでしょう。我々は常に自分の超意識・潜在意識・顕在意識を「統合した意識パターン」に相応しい世界に存在すると言っても良いでしょうか。今の特殊なこの時期は、この地球舞台自身もその意図で大きく動いている時期であると考えられます。

 ついつい何か物理的なイメージで新しい次元を想起しがちですが、存在次元の拡張は数学の世界とは異なるようです。数学は世界認識の為の1つの想定ツールとして発明されたものであり、実際の存在世界とは異なるものだということを忘れてはならないと思います。尚、相対論で、我々の認識を3次元から4次元に拡張した独立要素である「時間」は、そのもの自体は眼に見えず、1-2-3次元の動き・回転・変化によって必然的に現われざるを得ない要素であり、物理数学では「虚数 i」 で表されます。実数でないところが実に面白いと言えます。

前記事(Part1)での特殊相対論での式 

 x2+y2+z2-(ct)2=0 は

 x2+y2+z2+(ict)2=0 と同義です。(i=虚数)

●五次元軸は意識作用で現われる

 物質が動き回る3次元(4次元)は、今我々の認識しているこの時間空間ということであり、当然その膨大な時間空間の中の我々肉体人間は非力に感じて当然です。宇宙に存在する1小片にも満たない「考える肉片」のようなものと感じるでしょうか。それは我々が認識しているこの時間空間に、1小片として捕らえられているようなものです。自己認識によって、あえて絵の中のはめ絵パズルになりきっており、にっちもさっちもいかずにいるでしょう。たとえ人類の英知を結集した太陽系の探索であっても、実に膨大なエネルギーと時間を要してしまいます。

 ところが、実は我々が時間と空間を越えている存在であれば、どうでしょうか?

 テレパシーや予知、幽体離脱などは、明らかに時間と空間に束縛されていない現象です。人間の本質までは今は理解出来なくとも、少なくとも五感を超えた能力、存在形態を備えている言うのは理解可能ではないでしょうか。真摯に人間という存在を見つめ、思い巡らし、探索し、体験を吟味するという自己認識が行なわれれば、その中にある無限の可能性に驚くことになるのです。

●五次元は物質世界を超えた次元

 五次元というのは今の時間空間を越えているのは当然であり、4次元までを含んだ形でさらに1つの次元が加わって存在するものです。その五次元は、時間空間を越えた人間の意識作用に気づき、縦横無人に活性化された存在形態であるともいえるでしょう。

 今までの物質次元、それをその懐に含みながらも、それに囚われず、それを1つ超えて存在している世界はすなわち、1つステップアップした次元の世界であろうと考えられます。それは人間の自己認識の中にある無限性の1つの発見に基づくものでありそうです。時間空間という無機的ともいえる存在の中に、「われ」という実在意識が現われた世界だと言っても良いかも知れません。それらを現す存在は、当然ながら時間空間を越えた者です。

 悟りや覚醒もこの方向に沿ったものであるようです。

 「I am that I am」 私は在る (マハラジ)

●今ここに次元の窓がある

 五次元といわれる世界に居る人間は、意図次第で、時間・空間に束縛されない様々な表現が可能でしょう。希望する場所・時空には、瞬間的ともいわれる寡少時間で行くことも可能になり、人間存在間相互のコミュニケーションも、いわゆるテレパシーなどでダイレクトに行なわれ、ウソやごまかしが通用しないため、当たり前のごとく人類相互にも一体感が増加します。植物・動物などの人間形態以外の存在との、各レベルでの波動感受も自然となるでしょう。  

 現時点では、高く掲げなければならない「愛」というものが、もう、どうしようもないくらいに、また自然に満ちていることになるでしょう。この地球も多分に、今からはそのような世界で有りたいと意識しているのではないでしょうか。多分あなたもわたしも多くの人々もそう思っているかも知れません。我々の呼吸より身近にある「こころ」は、宇宙創造者である事に気付いている必要性は言うまでもありません。「こころ」は五感を超えていることを実感すべき時なのではないでしょうか。

  全てがそれぞれの存在に与えられた自己認識作用の、進化の途上で現われる自己顕現現象でしかないのでしょう。宇宙の中の1小片は全ての可能性の窓であり、その窓を開け放してゆくのは、各自に与えられた楽しい責務とも言うべきものであり、それこそが全ての中に全てがあるという真理を体現することになるのではないでしょうか。

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 簡単な例で言えば、江戸時代から明治への変革は、当時としてもとんでもない価値観の変遷を経なければならなかったわけです。今の時代から見れば当たり前のようでも、その当時の存在にとってはまさに驚天動地であったはずです。五次元などというような、今は夢のようなとてつもない変化が起きるとすれば、やはり大きな意識変革が起きるのが自然です。今から起きるであろう時代の変革は、例えの明治維新の比ではないことだけは察しがつくかもしれません。原子構造がそうであるように、変化は次第に潜在的に高まり、あるとき突然ジャンプするように現象化に移行すると考えられます。

人間の時空に起きるものは、全て人間の蓄積された意識作用に基づいているという考えは、決して突飛なものではないと思われるのです。

   Flower1011

   本日も本当に拙い記事をご覧頂き、誠にありがとうございました。


5次元への移行とは?(Part 1)

2008-10-05 10:21:15 | 見えないものから見えるものへ

 スピリチュアルな世界の話題として、5次元への上昇・移行という言葉が沢山出るようになりました。5次元・・・これは一体なんでしょうか? 前世紀にはあまり聞かなかった言葉のようです。

 今回の記事では「5次元への移行」について考えて見たいと思います。例によって自分の情報収集・思索・変性意識レベルの体験を通じた1つの仮説解説として参考にして頂ければと思います。

 これらはまた、科学世界のアンダーグラウンドで盛んに言われている「フリーエネルギー」とも密接に関連しているようであり、次元の問題は単なる認識の問題だけではなく、その次元の存在表現である形態パターン(物質含む)とエネルギーにも関連しているからです。あらたな存在次元ではそれに相応しい物質形態やエネルギーがあるのは当然のことのようにも思われます。尚この部分に関しては、別の記事でもご紹介しようと思います。

●次元の考えかた

 0次元は点、1次元は線、2次元は平面、3次元は立体、4次元は3次元+時間という認識は、科学的な見解としても違和感をもたれていないでしょう。4次元は物理学で言えば空間と時間のことです。相対性理論はこれらの空間・時間が相互に関連しており、各々独立した単独の無関係な別個の要素ではないと言う理論です。アインシュタインの特殊相対性理論では、

  x2+y2+z2-(ct)2=0  

   (x、y、zは3方向:空間量、tは時間量、cは光の速度。尚 x2は xの2乗を示します。)

  空間の要素は時間と光の速度の要素にも変換される、とも言えます。

このように空間と時間は、光速というものを通じて相互に一体であると考えられ、すなわち我々の公式の存在エリアは、空間(3次元)、時間(1次元)で4次元という事が出来るわけです。

●現状の認識世界は4次元物質世界

3次元空間は物質の量や配置位置や広がり等を含め、視覚や聴覚などの5感で直接感じること出来ます。見える、見えない、遠い、近い、重い、軽い・・など。

時間そのものは視覚化など出来ない分けですが、物質が変化をすることで、そのプロセスとして感じることが出来るものです。変化が無ければ時間は無いも同じです。

したがって、今常識的に認識しているの我々の世界は、様々な物質が動くことで色々な表現がされている、そんな世界ということも出来ます。生命現象は単なる物質作用ではないのですが、表現上高度な細胞組織で構成されており、五感で感じる限りは、何らかの物質形態、肉体ボディとして知覚しているわけです。

眼に見えて、触れられるものが当然最も簡単に知覚出来るわけであり、与えられている五感だけを駆使すれば、当然その範囲でのみ認識することになるのです。 我々が肉体、物質存在であるという感覚を持ち勝ちなのはこのような理由からです。

次元は階層構造

 3次元と4次元は、このように常識範囲でも理解可能でしょう。それでは5次元とはどういう次元なんでしょうか。

 その前に、1,2,3,4次元の拡張過程を見てみると、その次元に何か別の要素が加わってきていることに気づきます。空→点(0) x(1)、y(2)、z(3)、t(4:時間) など相互に関連しているが、各々独立した要素というか存在軸・次元というものが、加わっています。

 5次元なるものも、今のいわば存在次元に新たな何かが加わった次元であると考えられるでしょう。新たに「何か」が加わって、それらが総合して全く別の次元形態になるような、そんなプロセスではないかと考えられないでしょうか。物事を単純化して考えれば、今の4次元世界に何かの別の独立要素を発見することで、5次元なるものも理解出来ると思うわけです。

 また、その新たな独立要素は、今もここに存在しているものであり、その認識が無いだけであるとも考えられます。

 単純な比喩ですが、通常のビル建築でも4階と5階は全く別のフロアーであり、4階の住人が5階を見ようとしても見えません。ましてや5階があることを知らない場合もあるでしょう。テナントが違えば事務所や企業形態も違うわけであり、関心もなければ、その存在すら気にしていないのと同じようなものです。同じ建物にあるにも関わらず。

 そこにあるのに気がつかず、関心もあまりない、しかしとんでもなく大きな要素が隠れていそうです。その新たな次元要素が理解可能であれば、5次元の認識も深まるのではないでしょうか。

●現状での世界認識

ゼロ(点)から線になって広がり、

それが回転して平面になりました。

またそれが回転して球(3次元立体)になりました。球は粒子:物質ともいえます。

それがあらゆる方向に動いて、時間が必然的に現われました。

今の我々が、「常識」として知覚している世界:4次元になりました。

ここまでが今までの次元に対する認識の拡大プロセスと考えて良いでしょう。

●新たな次元要素とは

  わたし達は何かの折に時々、第六感などという言葉を使うことがあります。直感や不思議な情報取得、、テレパシー、念動、などのESP含めて一般的に、第六感といいます。五感を超えた知覚、すなわち超感覚的知覚のことです。

(つづく)


愛と理解の約束

2008-10-04 18:53:07 | 宇宙的気付き

今日は他のサイトですが、わたしの親愛なる方が思い起こしてくれた映像と詩をご紹介します。

http://jp.youtube.com/watch?v=jIpqcWVZUGs

ご覧になっている方もおられましょうが、より大きな世界から自分を見ることができるかも知れません。大きな観点に立つ自分こそが、本当の自分であることを自覚されることを願ってやみません。

まず地球を俯瞰するような大きな観点から見れば、今の世相の出来事や自分の内面のテーマも解ってくるのではないかと思っています。

Flower1007

 

 

  本日もご覧頂き誠にありがとうございました。