●意識とは無限の自己認識作用そのものである
我々の身近な「意識」というものが、何であるかということに関しては、問いかけ続けるうちに、それは自分自身である、ということに立ち戻ることになります。あたかも、孫悟空がこことは違う、はるかな地平に飛んでいったところで、そこには巨大な仏の手があるような、そんなものであるのです。
問いかけ、思い巡らし、調査し、理解する過程、その過程そのものが意識的な作用であると言うことに気づかざるを得ません。自己を認識する作用が意識作用であると言ってもいいでしょう。 五感の知覚作用も、それを知覚する当の主体がなければ知覚できないのですが、そこには多くの場合、無意識というフィルターがあり、その知覚された対象のみを外来情報として捉えてしまうことになるでしょう。例えば、目の前に机があったとして、机のみが視覚を通じて我々の意識に映じますね。自分が認識している・・という自分よりも、その対象物にのみ「意識的」になるという意味です。これは無意識、または感覚への自己喪失と同じで、「自分が」知覚しているというトータルな認識が少なくなっているわけです。「そこに入り込んでいる」状態とも言えるでしょう。 大空に上がったタコが、単独で動き回っているように思われる・・そんな感覚でもあります。自分がいつのまにかタコになりきっているようなものでしょうか。
●意識は五感感覚をも包含している
これは本を読んでいる場合を例にとっても説明出来ます、読んでいる最中は本の中に記述されている言葉のイメージだけを捉えているようなものです。ある一定時間、断続的ではありますが、自分がそこに入っているような感覚で楽しんでいるわけです。自分が本を読んでいるだけなんだという感覚は、ページをめくったりする指先の五感感覚や、例えば座っているという身体感覚でもたらされます。
TVや映画でも同じように、その映像や音声の作り出す世界のみを知覚しています。知覚している世界に入り込んでしまう瞬間は断続的ですが、確かにあるものです。どこかに、「これは映画である」と言う感覚があるのは、それを見ている自分の身体感覚が、観客席・こちらにあるからです。
●夢は単に五感の希薄なレベルの意識体験
夢の場合はどうでしょうか。夢の場合はあちら(夢)とこちら(現実生活)の違いを見分ける感覚、五感の感覚が極めて少ない場合に相当します。その時には身体の五感機能は休止しているからです。従って夢の場合には、自分の属性、年齢や職業、性別、名前、近所の付き合い・・など等は意識に上らず、全くその中に入りきっている事に気づくわけです。五感感覚が無いために、例えば自己の立っている場所、錨・アンカー等が無いため、目の前に展開し、それを意識している状態になりきってしまうことになるのです。
怖い夢の場面では、それこそ必死の形相ものすごく、助けを求めてはっと目が覚めるということなどは多くの人々が経験しています。身体感覚が戻れば、あちらとこちらの違いがやっとわかるわけです。
●意識しているわたし自体は、いつも有る
ただ、私がそこにいる・・という自己感覚だけが存在しています。「わたしという認識主体」のみが有るのが理解出来ると思います。
日常生活でも同じ事で、生活の中では、自分の外側にあると感じている様々な出来事に知覚を集中しています。従って、自分の生存にとって都合が良いかそうでないか?によって一喜一憂しているのが大方の人々の現状ではありませんか。その世界に入り込んでいるのは、今度は、その身体感覚によっています。
●身体、ボディは、その次元認識の為のベースキャンプ
身体感覚があるがゆえに、この世界の刺激が支配的であり、その刺激を意識し続けることで、完全にこの世界の一部になった感覚で生きているということでしょう。
身体感覚は、この次元世界での経験・意識作用の為の「ベースキャンプ」ともいうべきものでありそうです。わたしは有る・・という認識主体の意識作用、表現をするための位置、周波数帯を一時的に固定する為のものであると考えてもいいかもしれません。
●内外全ては意識の中に含まれる
わたしが何かを意識する・・ということは、何か全てにおいて共通の作用であり、個々独自、その世界独自のものではないようです。意識そのものが宇宙、森羅万象に共通のフィールドであると言われる所以です。しかし、それを超えて、どんな場面でもどの様な世界でも、わたしは有ると言う認識が存在するのです。
同じように「あなた」にも全く同じものがあるわけであり、その意味では、あなたは私とは全く違う、わたしであるという事が出来るでしょう。
あなたは、私とは全く違う 「わたし自身」である。一は即、多とも言われています。
あらゆる異なる全てが「わたし」であれば、「至高なる愛」が中心であるのは、至極当然のことなのではないでしょうか。
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医学博士、デビッド・R・ホーキンズの「パワーかフォースか」という書物の一説をご紹介します。スターウオーズとは関係ありません。(笑) 本の題名は誤解されそうですが、大変高度な意識科学の一端を見せてくれるものだと思っています。この人は幼少時に奇跡的ともいえる意識体験をされたようです。
(334-336頁参照) 「意識そのものの研究」・・より
『 ・・そうであれば、どのように人は自分の肉体の存在を知ることができるのか、という質問もしてよいと思います。肉体の存在感というものは、観察からいえば感覚器によって認識されているといえます。では、何が感覚器を認識するのか、という質問がこれに続きます。五感によって告げられることを、私たちはどの様に経験するのでしょうか?肉体異常のもっと多くのものが含まれている、もっと偉大な何かがあり、それが、それより小さいものを経験するために存在しなければなりません。
その何かとは、もちろん「こころ」です。人間は自分の体を経験する心があるから、自分の肉体を同一視するのです。体の大部分を失っている患者さんは、死にそうになっても自分に対する意識は消えないで残っていると報告しています。その患者さんは、「今までどおりの自分のように、今もまったく同じく存在する」というに違いありません。
それから、次の質問も浮かびます。人間は心で経験することをどの様に知ることができるのでしょうか?人間は内なる観察、いわゆる内観によって、心のなかには様々な「考え」が浮かんでいるのを見ることができるのですが、しかし、心の中に浮いている「考え」それ自体は、自らの存在を経験する能力はまったくないということが確認されています。
しかし、思考の連鎖を経験する思考そのものをさらに超越しながらも、もっとベーシックな「何か」が存在するのです。そして、その何かであるアイデンティティに対する感覚は、思考の内容によって変るものではありません。
「観察している何か」とは、何でしょう? それは人生という現象において、主観性と客観性の全てを認識できる何かなのですが、いったいそれは何でしょうか?
認識と経験の両方を同時に共鳴させるようにできるのは「意識」そのものであり、そしてその両方は完全たる主観なのです。
意識そのものはその中身(思考)によって決定されません。
その意識へと流れ込む思考を、海に泳ぐ魚に例えることができます。海そのものの存在は、魚とは独立しているものです。海は、水そのものの性質を決定しません。色のない光線のように、意識は目撃されているものを、ただ照らすものです。ですから、それは世界のあらゆるアナウンスの中で「光」として表現され、伝統的に意識を光と結びつけて説明されることが多いのです。
「制限ある自己」を経験することは、ただ、「意識の中身」と同一視してしまうことが理由です。それとは対照的に、「意識そのもの」を同一視すると、自己は実に制限の無いものであるということがわかります。自分という感覚は、意識その者であると認識できるのですが、そのような限界内の自己への認識を超越すると、わたし達は「覚醒する」ようになります。
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「意識そのもの」の経験の1つの特徴は、永遠の(または永遠と感じる)知覚です。意識は全ての形と時間を超越して経験されるので、あらゆるところに平等に存在しているように感じます。それは”Is-ness”、”being-ness”と呼ばれたり、また、スピリチュアルな書物には”I-am-ness”と表されたりしています。
意識は、知覚の制限として生じる分離を認識しません。覚醒した状態は、部分部分に分けるような分離は存在しない「ワンネス」(ひとつの統合された)の状態です。そのような分離は、局所的な知覚から生じているだけです。単なる見方のずれにすぎません。 』
・・・以上抜粋
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自己をどう見るか・・という「観の転換」努力は、俗に言う、高次元の認識と大いに関わっているといっても良いでしょう。それは外にではなく、自分自身の中にあるものです。自分自身は、実は全ての外につながっており、したがって、認識すべきは自分自身であるのは明解であろうと思います。
例えば野に咲く花、 これは大いなる意識の現われである・・と感じることは、認識による新たな創造でもあり、またすでにある普遍的な法則に感応する作用と言えるでしょう。意味なく見逃すことが、どんなに多いことか、ただただ気づいて感謝することしか出来ないことも多いです。
今日も拙い文章をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。