誰も皆、多かれ少なかれ、日常の忙しさにまきこまれている。
アレが必要、これは是非にも、それは務め、...
疲れて寝ることさえ、何かうしろめたく感じる時さえあっただろうか?
生きていくため、飯を食うため、家族のため、
身を粉にしてーーという表現があるが、
生きるために苦しむ?ーーそんな矛盾した生き方をしてきたのかも知れない。
いいや、まだ続けているのかもしれない。
努力の先にある、栄冠、
我慢のおかげの、達成、
オリンピックなど見るにつけ、
そういう、つねに苦しみを克服していくような、
真面目な生き方が、正しい生き方だと思う人達が、
この世界、特に日本には多いものだ。
あなたもそうではなかろうか。
しかしながら、それも終わりにする時がきている。
そう、苦しみが前提の生き方は卒業して、
それをさっさと今終わらせようということだ。
生きること、在ることに、終わりなど無いが、
往々にして、人生の中でも、
何かの克服すべきテーマを、それを「苦しみ」と勘違いしている。
苦しいのは、ーーー保身にからんだ我欲、エゴなのである。
逆に、いのちの本質、魂にとっては、すべてが有り難い経験となる。
自己都合、自我欲望からの判断、ジャッジ、思考が
いわゆる現実という体験事象とのあいだに、割り込んでいるのだ。
それを、心の汚れ、歪みとも言っている。
気付いているだろうか?
こうであればいいのに----嗚呼、全くそうではない!
ーーそのギャップが、即ち、苦痛となっていることを。
それを、当たり前のこころの反応、感情として、野放図にたれ流しているため、
さらに、抗うことの出来ない、どうしようもない苦痛に感じるのである。
「あー!もう、やだーー」あるいは、「ううー、くくっ---、が、がまん我慢ーー」
確かに、喜怒哀楽 、好き嫌いの垂れ流しを良しとする、あどけない時機もあるものの、
それらが生活や人生、社会や世界をワヤにすることに気付く時がくるものだ。
体験を安易にジャッジして、審判してしまうため、
それも、我欲によって良い悪いと判断することで、
それから生まれるのが「苦痛」なのだ。
「嗚呼、どうして彼は、あーなのか?」(怒)
「なんで、俺だけ嫌な目にあうんだ?」(泣)
----
実際のところ、それら全て、そういう「思考」で起きている!
逆に、そういう思考がなければ、「苦痛」などあるわけもない。
気付くべきは、あらゆることは、思考でつくられている事である。
家も車も、高層ビルも、机も、社会も、お金も、人間関係さえも、
それら全て、元は、人間たちの思考で創られているのだ。
そう、苦痛も苦しみも、思考と、その創造実感である感情だ。
楽しさや、よろこびも思考や感情で起きている。
自らの思考、想い、感情により、
知らない間に、多分絶対といっていい、
その大嫌いな?苦痛も造ってしまうのだ。
気付いた人達は、こう言うかも知れない----
「おー、なんてこった!」
「この思考は、いったい全体、誰のもんだ?」
「わたしのものでない思考で、わたしは苦しんでいたとは!」
しかしながら、それに気づくならば、
苦しみの、その意味がわかってしまえば、
もうそれを超えてしまった、という事なのだ。
ただ残っているのは、社会や世間の中で培ってしまった、
こころの癖、低レベルの観念パターン、苦痛や不幸の感情を
再生産しようとする、無意識的「思考」のみであり、
時間が掛かるかもしれないとしても、それを外していかなければならない。
人生は、まさにこのためにあるようなもの。
たとえば、いま幸せを実感したいならば、
いま幸せだ----という思考に集中して、実感まですることなのである。
「えっ?!---」
「そんな馬鹿な!」----と思う、その思考が、古い観念パターン。
ああ、幸せだ!という、その思考を千回、実感してみると分かるだろう。
そうはいっても、慣れない為に苦痛?かもしれないが、
繰り返しは、確実に結果に結びつくものだ。
これは、だれでも知っていること。
思考と実感は、想像から創造へのプロセスを起動する!!
問題なのは、思考そのものでなく、
たとえば、苦痛や不幸を表出させる、
造られた....不本意な、<思考の癖>なのだ。
思考で色々な条件を、わざわざ入れない限り、
金の有る無し、社会的条件の良さ悪さは、
しあわせとは、全くと言って良いほど無関係なのだ。
そうではないか?
なぜならばーーー
どう考え、どう捉え、どう感じるかは、
あなた、わたしの意識内面以外にないからだ。
どうしてお金や地位が、至福を感じようか?
どうして外の誰かがあなたに代わって、あなたの幸せを感じ得ようか?
あなたが見て、聞いて、味わって、感じて、思い巡らす、
その世界には、あなたしかいない。
そう、その世界では、あなたが唯一の創造者ということだ。
そこには、シンプルすぎる深遠な真実がある。
また、「それぞれ」---が---皆、神のひとり子----だと言う意味でもある。
この世界に、今生きていること自体、
誰も皆、ひとりの創造主であるとともに、
多次元的無限宇宙の中における、
とんでもないほどの「勇者」である証拠なのだ。
この世界がとんでもないカオスと無知で満ちていた、
そしてそれを、あなたがまざまざと、味わっている事実、
その現実こそが、まごうことなき証拠なのである。
あなたも、また苦痛や苦労を物ともせず、今此処に在る。
魂の猛者、勇者以外に出来る相談では無い。
それに気付いたならば、
自からで、そして、自からに、
おつかれさまと言っていい時である。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。
アレが必要、これは是非にも、それは務め、...
疲れて寝ることさえ、何かうしろめたく感じる時さえあっただろうか?
生きていくため、飯を食うため、家族のため、
身を粉にしてーーという表現があるが、
生きるために苦しむ?ーーそんな矛盾した生き方をしてきたのかも知れない。
いいや、まだ続けているのかもしれない。
努力の先にある、栄冠、
我慢のおかげの、達成、
オリンピックなど見るにつけ、
そういう、つねに苦しみを克服していくような、
真面目な生き方が、正しい生き方だと思う人達が、
この世界、特に日本には多いものだ。
あなたもそうではなかろうか。
しかしながら、それも終わりにする時がきている。
そう、苦しみが前提の生き方は卒業して、
それをさっさと今終わらせようということだ。
生きること、在ることに、終わりなど無いが、
往々にして、人生の中でも、
何かの克服すべきテーマを、それを「苦しみ」と勘違いしている。
苦しいのは、ーーー保身にからんだ我欲、エゴなのである。
逆に、いのちの本質、魂にとっては、すべてが有り難い経験となる。
自己都合、自我欲望からの判断、ジャッジ、思考が
いわゆる現実という体験事象とのあいだに、割り込んでいるのだ。
それを、心の汚れ、歪みとも言っている。
気付いているだろうか?
こうであればいいのに----嗚呼、全くそうではない!
ーーそのギャップが、即ち、苦痛となっていることを。
それを、当たり前のこころの反応、感情として、野放図にたれ流しているため、
さらに、抗うことの出来ない、どうしようもない苦痛に感じるのである。
「あー!もう、やだーー」あるいは、「ううー、くくっ---、が、がまん我慢ーー」
確かに、喜怒哀楽 、好き嫌いの垂れ流しを良しとする、あどけない時機もあるものの、
それらが生活や人生、社会や世界をワヤにすることに気付く時がくるものだ。
体験を安易にジャッジして、審判してしまうため、
それも、我欲によって良い悪いと判断することで、
それから生まれるのが「苦痛」なのだ。
「嗚呼、どうして彼は、あーなのか?」(怒)
「なんで、俺だけ嫌な目にあうんだ?」(泣)
----
実際のところ、それら全て、そういう「思考」で起きている!
逆に、そういう思考がなければ、「苦痛」などあるわけもない。
気付くべきは、あらゆることは、思考でつくられている事である。
家も車も、高層ビルも、机も、社会も、お金も、人間関係さえも、
それら全て、元は、人間たちの思考で創られているのだ。
そう、苦痛も苦しみも、思考と、その創造実感である感情だ。
楽しさや、よろこびも思考や感情で起きている。
自らの思考、想い、感情により、
知らない間に、多分絶対といっていい、
その大嫌いな?苦痛も造ってしまうのだ。
気付いた人達は、こう言うかも知れない----
「おー、なんてこった!」
「この思考は、いったい全体、誰のもんだ?」
「わたしのものでない思考で、わたしは苦しんでいたとは!」
しかしながら、それに気づくならば、
苦しみの、その意味がわかってしまえば、
もうそれを超えてしまった、という事なのだ。
ただ残っているのは、社会や世間の中で培ってしまった、
こころの癖、低レベルの観念パターン、苦痛や不幸の感情を
再生産しようとする、無意識的「思考」のみであり、
時間が掛かるかもしれないとしても、それを外していかなければならない。
人生は、まさにこのためにあるようなもの。
たとえば、いま幸せを実感したいならば、
いま幸せだ----という思考に集中して、実感まですることなのである。
「えっ?!---」
「そんな馬鹿な!」----と思う、その思考が、古い観念パターン。
ああ、幸せだ!という、その思考を千回、実感してみると分かるだろう。
そうはいっても、慣れない為に苦痛?かもしれないが、
繰り返しは、確実に結果に結びつくものだ。
これは、だれでも知っていること。
思考と実感は、想像から創造へのプロセスを起動する!!
問題なのは、思考そのものでなく、
たとえば、苦痛や不幸を表出させる、
造られた....不本意な、<思考の癖>なのだ。
思考で色々な条件を、わざわざ入れない限り、
金の有る無し、社会的条件の良さ悪さは、
しあわせとは、全くと言って良いほど無関係なのだ。
そうではないか?
なぜならばーーー
どう考え、どう捉え、どう感じるかは、
あなた、わたしの意識内面以外にないからだ。
どうしてお金や地位が、至福を感じようか?
どうして外の誰かがあなたに代わって、あなたの幸せを感じ得ようか?
あなたが見て、聞いて、味わって、感じて、思い巡らす、
その世界には、あなたしかいない。
そう、その世界では、あなたが唯一の創造者ということだ。
そこには、シンプルすぎる深遠な真実がある。
また、「それぞれ」---が---皆、神のひとり子----だと言う意味でもある。
この世界に、今生きていること自体、
誰も皆、ひとりの創造主であるとともに、
多次元的無限宇宙の中における、
とんでもないほどの「勇者」である証拠なのだ。
この世界がとんでもないカオスと無知で満ちていた、
そしてそれを、あなたがまざまざと、味わっている事実、
その現実こそが、まごうことなき証拠なのである。
あなたも、また苦痛や苦労を物ともせず、今此処に在る。
魂の猛者、勇者以外に出来る相談では無い。
それに気付いたならば、
自からで、そして、自からに、
おつかれさまと言っていい時である。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。