気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りの道標(19)古い自己のリセット

2016-08-26 12:13:00 | 人間とは何か
誰も皆、多かれ少なかれ、日常の忙しさにまきこまれている。
アレが必要、これは是非にも、それは務め、...
疲れて寝ることさえ、何かうしろめたく感じる時さえあっただろうか?

生きていくため、飯を食うため、家族のため、
身を粉にしてーーという表現があるが、
生きるために苦しむ?ーーそんな矛盾した生き方をしてきたのかも知れない。
いいや、まだ続けているのかもしれない。

努力の先にある、栄冠、
我慢のおかげの、達成、
オリンピックなど見るにつけ、
そういう、つねに苦しみを克服していくような、
真面目な生き方が、正しい生き方だと思う人達が、
この世界、特に日本には多いものだ。
あなたもそうではなかろうか。

しかしながら、それも終わりにする時がきている。
そう、苦しみが前提の生き方は卒業して、
それをさっさと今終わらせようということだ。

生きること、在ることに、終わりなど無いが、
往々にして、人生の中でも、
何かの克服すべきテーマを、それを「苦しみ」と勘違いしている。

苦しいのは、ーーー保身にからんだ我欲、エゴなのである。
逆に、いのちの本質、魂にとっては、すべてが有り難い経験となる。

自己都合、自我欲望からの判断、ジャッジ、思考が
いわゆる現実という体験事象とのあいだに、割り込んでいるのだ。
それを、心の汚れ、歪みとも言っている。

気付いているだろうか?
こうであればいいのに----嗚呼、全くそうではない!
ーーそのギャップが、即ち、苦痛となっていることを。

それを、当たり前のこころの反応、感情として、野放図にたれ流しているため、
さらに、抗うことの出来ない、どうしようもない苦痛に感じるのである。
「あー!もう、やだーー」あるいは、「ううー、くくっ---、が、がまん我慢ーー」
確かに、喜怒哀楽 、好き嫌いの垂れ流しを良しとする、あどけない時機もあるものの、
それらが生活や人生、社会や世界をワヤにすることに気付く時がくるものだ。

体験を安易にジャッジして、審判してしまうため、
それも、我欲によって良い悪いと判断することで、
それから生まれるのが「苦痛」なのだ。

「嗚呼、どうして彼は、あーなのか?」(怒)
「なんで、俺だけ嫌な目にあうんだ?」(泣)
----
実際のところ、それら全て、そういう「思考」で起きている!

逆に、そういう思考がなければ、「苦痛」などあるわけもない。

気付くべきは、あらゆることは、思考でつくられている事である。
家も車も、高層ビルも、机も、社会も、お金も、人間関係さえも、
それら全て、元は、人間たちの思考で創られているのだ。

そう、苦痛も苦しみも、思考と、その創造実感である感情だ。
楽しさや、よろこびも思考や感情で起きている。

自らの思考、想い、感情により、
知らない間に、多分絶対といっていい、
その大嫌いな?苦痛も造ってしまうのだ。

気付いた人達は、こう言うかも知れない----

「おー、なんてこった!」
「この思考は、いったい全体、誰のもんだ?」
「わたしのものでない思考で、わたしは苦しんでいたとは!」

しかしながら、それに気づくならば、
苦しみの、その意味がわかってしまえば、
もうそれを超えてしまった、という事なのだ。

ただ残っているのは、社会や世間の中で培ってしまった、
こころの癖、低レベルの観念パターン、苦痛や不幸の感情を
再生産しようとする、無意識的「思考」のみであり、
時間が掛かるかもしれないとしても、それを外していかなければならない。
人生は、まさにこのためにあるようなもの。

たとえば、いま幸せを実感したいならば、
いま幸せだ----という思考に集中して、実感まですることなのである。

「えっ?!---」
「そんな馬鹿な!」----と思う、その思考が、古い観念パターン。

ああ、幸せだ!という、その思考を千回、実感してみると分かるだろう。
そうはいっても、慣れない為に苦痛?かもしれないが、
繰り返しは、確実に結果に結びつくものだ。
これは、だれでも知っていること。

思考と実感は、想像から創造へのプロセスを起動する!!

問題なのは、思考そのものでなく、
たとえば、苦痛や不幸を表出させる、
造られた....不本意な、<思考の癖>なのだ。


思考で色々な条件を、わざわざ入れない限り、
金の有る無し、社会的条件の良さ悪さは、
しあわせとは、全くと言って良いほど無関係なのだ。
そうではないか?

なぜならばーーー
どう考え、どう捉え、どう感じるかは、
あなた、わたしの意識内面以外にないからだ。

どうしてお金や地位が、至福を感じようか?
どうして外の誰かがあなたに代わって、あなたの幸せを感じ得ようか?

あなたが見て、聞いて、味わって、感じて、思い巡らす、
その世界には、あなたしかいない。
そう、その世界では、あなたが唯一の創造者ということだ。

そこには、シンプルすぎる深遠な真実がある。

また、「それぞれ」---が---皆、神のひとり子----だと言う意味でもある。

この世界に、今生きていること自体、
誰も皆、ひとりの創造主であるとともに、
多次元的無限宇宙の中における、
とんでもないほどの「勇者」である証拠なのだ。

この世界がとんでもないカオスと無知で満ちていた、
そしてそれを、あなたがまざまざと、味わっている事実、
その現実こそが、まごうことなき証拠なのである。
あなたも、また苦痛や苦労を物ともせず、今此処に在る。
魂の猛者、勇者以外に出来る相談では無い。

それに気付いたならば、
自からで、そして、自からに、
おつかれさまと言っていい時である。




本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


悟りの道標 (18)コメント転載版 その2

2016-08-12 07:45:10 | 人間とは何か
---再びコメント転載版です。

・・・・・・・・

ふにゃーっとした中からおりてきたことがあるので、書かせて頂きますね。

自分の思い癖・・・特に あれをしたらあかん、これをしたらあかん

ついついストレスからこんなことを、やってしまう

どうしようもないけど、あいつとつき合わないといけない

云々カンヌン

これら 魂の断片を 手放す時が来たみたいです。

今日たまたま ひがしちわ さん
 
という方のブログの

天使のメッセージの中で

http://ameblo.jp/angels-light/entry-12188324157.html

「同意を破棄する」ってのがあるのですが

まさに今自分実践していることと直結するのですが

自分が自分に特に制限を課していた部分は

それは実は、前世の自分の名残であり、

どこまでもこびりついている思い癖なのであります。


前世を知らなくても つぶさに見ればわかる

魂の一部分を知る 個我・・・と 壮大なる魂の本質との乖離と言いますか・・・

人それぞれに悩ましい部分があるはずです

本当はこれをやりたいんだけど・・・

だけど あれがこうだから なにがそうだから

と誤魔化し続けてきた魂の断片の叫びです

解放の時期です。それが「今」


それがマッチョマンさんの「魂は見えるか?」

にもまさに通底していると思います。

そしてそれは個々人がひっそりと

自分自身に許していくべき事です。


がんじがらめで崩壊寸前の社会で

認知症になってでも苦しみ続けるんだ

と頑張っている 学びの途中の方々に

同意を求める必要は全くありません

大半が魂の18歳未満です。


だから秘密裏に自分に許していくことが

とても大切になっていきます。

密教よりずっと格調の高い「秘密」です(笑)

かつての聖賢がなかなか伝えられなかった

ゴール直前の悟りじゃないかな~

・・・・・・・・・・
以上 転載。


(コメント)
確かに、
人の日常の体験の中から醸し出されくる、様々なニガウリのような思いも、
内面の奥にあるものと、繰り返される現実生活との「ギャップ」から来ています。

誰でも少年、青年時代には、これがに顕著に出てくるわけですが、
多くが、それが何が何だか特定できる意識環境にはなく、

若いから何も知らないのだよ・・と親や世間に一蹴され、
頭を傾げつつ、どこか反抗しつつも、

普通は現実という、なじんだ癖のほう、
皆が歩いている、大きな道のほうを良しとするわけです。
これは今までの「同意」かもしれません。

そうして誰も似たような、繰り返しのような人生が行われます。
いつの時代であっても。
・・・

そうでない場合は、その存在はマスター、聖者などと呼ばれますが、
しかし、その存在も、彼や彼女として、いつかどこかでこれを経験し、

本来の自己たる、大いなる意識とその意図の「発露」「発振」によって、
そういう小さなループのような次元経験を超えてきたわけです。

だからいつでもI am that I AM
どこでも、降りてこられる、降りていける。
どこでも、同じ目線に立つことができる。

それが一体、どういう仕組みなのか、心配する必要なんかない。
心配はエゴ、肉体自我特有のものですから。

そういう存在は、
この世界に在っても、この世界に属していないと言われるように、
世間、世界の「重い思考」に組み敷かれていない。

いわば「古い同意」が破棄された人と言えましょう。

そして、それは誰でも、今できるわけです。

先入観念、支配観念、促し観念、・・つまり、
自分に起きる「思考」そのものを、
それは単なる「思考」であると、
決して、自分自身ではない・・と本当に、見破ることです。
「あー、そうだったんだ、ふーん」

実に「思考」によって、しかも小さく重い思考で縛られているのが、
この世界の特徴でした。

自分は、数十年間ポッと時空に表れる「身体」でもなく、「思考」でもない。
こういう思い、認識に至り、それを人生として表現する人は、
十牛全図でいうところの、牛と戯れる人といって良いでしょう。
・・・
思考は神の遊ぶ大切な道具。
振り回される相手じゃない。

悟りの道標(17) あなたに魂は見えるか?

2016-08-10 13:31:29 | 人間とは何か
●誰でも知っている魂という概念

魂という言葉はほぼ誰でも知っている。

英語ではソウルとかスピリットとか呼んでいるそれだ。

魂は、人が生まれ変わる、その根本の部分だとか、永遠不変の命の部分だとか、

そういうイメージだと思われるが、一般的にはそこで止まっているかも知れない。

あるいは魂など、宗教の上の話だとか、あり得るが架空のものだとか、そんなイメージ上のものでしかないと思っている訳知り顔の人も多いだろう。

しかしながら、それは率先して探究すべきものを、集団で怠っていると言わねばならない。

●転生は、魂・本質に気付くトレーニング

あの人も、この人も魂の少しでも知らないような、そんな集団だから、

まあそれで良いと、つい思ってしまいがちであり、

そういう場合、人生において目先の状況対応以外は全く気にせずに、

他人の動きばかりに合わせて人生を素通りし、そして時間切れで行ってしまいがちである。

そうではないか?

そしてまた再び、自己とは何か?のテーマを持って、

多くはこの世界のどこかの時空点で生まれ変わることになるものだ。

そう、「わたしはだれ?ここはどこ?」から始まるのである。


別にそれもまた貴重な経験なのだが、余計なお世話かもしれないが、

いま、多くの人がそういう訳で、この世界に生まれてきているのかもしれない。


繰り返しの螺旋の輪のような進化は、生まれ変わりと言われているが、

それは親神様が願った魂の成長プロセス、自己の本質に気付くトレーニングなのである。

しかしながら、これから先は今までとは同じことは出来ない相談である。

なぜならば、

これから、ここでは、目覚め始めた者だけが、生まれてくる世界になりつつある。

揺りかごから墓場までならぬ、揺りかごから一人歩きの出来る、魂の体験場になっている。

いわゆるスピリチュアリズムの興隆も単なる偶然ではない。
・・・

今、世界で様々な生物種が死滅し、また現役の生物達の突然の大量死が起きているのは、

人類の多くが、自我欲のままに文明を創り上げる過程で、地球という生命体系がほとんど尊重されず、汚染されるにまかせたという理由だけではなく、

この地球という次元での魂の修行の進展と合わせて、

人類に奉仕するべくやってきていた様々な進化途上の命たちも、

その役目を終えつつ、種族及び魂のグループ単位で、高次元に帰還しているからである。


動物たちの多くが人間の食物とされているように、そういう無条件に奉仕するタイプの生物達が、今はもう去りつつあるということに気付かねばならない。

進化や成長を無視した者、いつまでも物質繁栄のみを追いかける者は、

別に悪いわけではないけれども、そろそろどこか別の時空間での経験をするようになる

その前触れだと考えてもおかしくはない。

何万何千年という、切なる時間の提供の中で、

いつまで幼稚園で遊んでいるのか?

そんな大きな声が天空から聞こえてきそうではないか。


そう、

生命には目的が何もないのだろうか?

人生も何も、偶然だと思うだろうか?

目先が刺激的で、うすら楽しければ良いのだろうか?



あなたは今・・存在している・・ことに気付いている・・が、

自分で自分に気付いていることが、どんなに驚異的なことか!

わたしは・・在る・・ことが、どんなに奇跡的なことなのか、

気付いているのか?

それとも、あらゆる全てが、偶然だろうか?

どう感じるだろうか?

・・・
●魂は現象を生み出す多次元エネルギー

魂、スピリットは、肉眼で客観視出来ないために、

そんなもの存在しないと思っている、いわゆる科学的な解釈人も多いかもしれない。

でもどこにもその責任者はいない(笑)。それともアメリカにでもいると思うのか。

プラグマティズム、功利主義、現実主義、唯物主義、はては、新自由主義?、

嗚呼、なんと愚かで激しい想いだろうか・・・、



目に見えないもの、触れないものは、存在していない・・。

えー、それは、本当か?

例えばその科学によって、様々な運動や現象は、

エネルギーによって生じるとされているのだが、

その「エネルギー自体」は科学的な数値で換算できても、目には見えないのである。

ビリビリと流れる電気で、それがあることがわかり、

運動する事物を見て、それがあることがわかる。


でも、<エネルギー自体>は見ることも触ることも出来ないのである。

あらゆる存在の背後には、原因としてのエネルギーがあるのは、逆にいわゆる科学的な常識。

原因無くして結果無し・・これも全うな常識であろう。

・・・
●魂の存在証拠?

人間として今・・生きている自分も、

その因としての”エネルギー的なもの”があるのは、

それも全く当たり前の見解と言えるのだ。

魂のあることの・・物的証拠?、

・・それはまず、あなたの身体である。

さらに、物的ではないが、あなたの思考や感情もその証拠である。

それらが起きている背後には、見えないエネルギーがある。

生命エネルギーとも言われる<それ自体>は目には見えない。

が、

存在している・・という事実こそが、それを生起せしめているところの、

魂、あるいは生命エネルギーの明確な証拠なのである。


人間の場合は、魂と言って良いそれの存在する証拠が、

今あなたが・・生きて・・今・・在る・・事なのである。


「あら・・、そうなんだ?」・・という程度に、

身近すぎて、簡単すぎて、逆に目くらましとなっているわけだ。

そんなの刺激も何も無いではないか・・、

値段は?、重さは?、大きさは?・・という物量観念ばかりであれば、

なかなか、本質の反映形も見えるわけもない。



しかし魂は、「観る」ことが出来る、つまり観察である。

今あなたが・・生きて・・今・・在る・・事をよく観ることなのである。

人生を味わう・・とは、様々な快楽や刺激を味わう・・ということではなく、

自分自身の在り様、行為、思考、感情を観て・・味わうということだ。


●在ることを観る

人間として・・今在る・・ことを観ること・・で、

その背後の原因としての「エネルギー的なもの」を確認するのだ。

あるいは内面の意識的なもの、意識エネルギーと言って良いそれを観察する、

気づくことでその背後にあるものを確認してゆくことなのだ。

これは実際、科学的なやり方であって、

わけのわからない思考を鵜呑みにする下手な宗教等ではない。


●肉眼ではなく、意識で観る

ことは意識の領域とは言え、これも科学的な観察行為なのだ。

エネルギー自体は観ることが出来ないが、

その動き、現象は観察することが出来るわけで、

内面の意識的な動き、つまり「意識エネルギーの動き」は観ることが出来る。


それは、マインド:こころを観ると言うのと同じこと。

つまり自己観想、瞑想、こころを、想念を、観ることに他ならない!


そして、それを観ているものは・・・誰なのか?

それに気づいてゆくのだ。

●高次のものは、低次を観ることが出来る

低次の物質身体を見ており、

さらには、より高次の思考やイメージをも観ている者は、

その視座にいるものは・・一体誰か?・・・?


月光仮面は誰でしょう(^^♪ ♪・ ではないけれど(笑)、

身体つまり、物質波動域を観察する者、

さらに高次(高波動域)の思考を観察する者・・

それが物質もマインドも超えている・・「魂」と言える。


●人は肉体にあらず

人は皆、魂・こころ・肉体の複合体なのである。

こころに気付き、さらには魂まで気付くということだ。

そうすれば当たり前だが、

死んだら終わりの肉体人間経験は、もう卒業となろう。

アセンションとはそれ。


●魂は普遍的観察者とも言える

魂、確かにそれは、「見えるもの」ではない、つまり客体ではない。

そうではなくて、客体ではなく、言わば・・主体というわけだ、

見る者・・観る者・・なのである。


魂とは、観照するもの・・・観照それ自体・・気付き自体・・

それが・・本質側の・・<わたし>・・だ。

そして、

あらゆる全てを観ている、あらゆる全てに気づいているものが・・< 神 >。

わたしは・・神に含まれ、またそのもの一体でもある所以だ。

どれだけ気付いているか・・その違いだけなのだ。

いまはあなたもわたし達も、程遠いかもしれないが、

はるか彼方ではあっても、神とは・・しっかり見える遠くの山脈のようなものである。

魂の進化のプロセスは、まるで山登りのようなものであり、

登るまではその山の頂を見上げつつも、その山の頂に登れば、

そこからは全てを眼下に一望できることになる。



魂は見えるものではなく、すべてを観る者だ。

また、あなたの世界には「あなた」しかいない、

意識する主体としての魂というか、あなたの見はるかす世界の中で、

意識の中心は・・誰でもなく、あなた以外にないということである。

これもまた、最も身近極まりない、見過ごし続けてきたかもしれない

驚天動地の真実なのである。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


悟りの道標(16) コメント転載版

2016-08-09 05:38:28 | 人間とは何か
勝手ながら、
以下は古くて新しい、魂の朋友ともいえる方からのコメントの転載です。
途中途中で会話を挿入する形にしました。
Pさん、どうかご了承を・・・。



以下、転載。
ーーーーーーーーーーーーーー

今から話すことは18禁です。

魂のレベルがほどほどの人は

自己責任にて読んでください。

当方責任は持ちません(笑)

   
   (18禁って懐かしいですね。当時はポルノ、遊戯店、やくざ映画だったか・・。
   「ありゃいかん」・・といって、逆に気にさせるようなもの(笑)。)


最近思うに・・・

人間とは随分自分自身に制限をかけて

がんじがらめになってきた そういう存在に

なってしまっていると思いますね~。

   (そして、それに気づいていないってことです。自分の思考で制限をかけているのに、
    何か社会や世界のせいだとしている・気付かず、漠然と。)


禁欲・離欲と言いますが、

確かに欲望に制限が無くて危険と見る見方も

一つありますが、じゃあ何で散々

生まれ変わってきているの という問題があります。

存念・・・故に生まれ変わっているのではないでしょうか

あれが本当はしたかった

こういう経験を本当はしたかった etc etc

   (確かに、存念、残念・・満たされない「想い」、
  何が強烈といって、人間の想いほどパワーのあるものはありません。
  どういう形に、時代に、家庭に、環境に、自らを「押し出す」かも、
  完璧にセッティングされていますね。魂は時空間を超えた存在ですから、
  時空間の設定は、図画工作のようなものでしょう。)


例をあげるなら イチロー

恐らくシスラーというメジャーリーグの選手の

転生者ですが、亡くなった年に産まれる・・・

時空間的に矛盾なし!!!

前世でもメジャーリーグでヒットを打ちまくっていたから

日米で活躍するのは造作のないこと

それでもなお、もっと打ちたいと生まれ変わってきた

のでしょう。彼の中の承認欲求・・・

これだけの実績を禁欲的に達成したのだから

人々の尊敬を集めたい

これを満たしにやってきている。




 (彼は多分、満たしましたね。昨日のイチローの記者会見での涙はそれです。
  わたしもハートからグっと目頭までこみ上げてきました。
  イチローの場合は彼の親父さんの魂とのコラボだったと思います。


随分とまぁ入り組んだ欲求ですが

彼と言う神の進化発展なのでしょうね。 

他に満たされたいと思っているどんな欲求

それらも全て、満たされなければ

手放せない。誤魔化しはきかないんですね。


  (人間の表面思考は、「あーでもない、こーでもない」という誤魔化しが、
   大いに効きますが、魂の想念発露はダイレクトですので最強です。
   「これだ、これしかない!」という高次の思考です。



私は、ある師匠から聞きました

やり尽くさないと どのみち 手放せないと・・・(笑)

もちろんカルマの法則があるので

自分のしたことの行為と結果

相手のマインドに経験させたことは、ブーメランで

帰ってくるのですが、


 (人生とはそういう側面がありますね。
  カルマとは自分の想いと感情、行為が、他者のそれと全く鏡像関係にあることでしょう。
  そして、カルマの収穫によって昇華が起きます。アセンションなどと言われてますが、
  今は集合意識的な意味でもその時期と言えます。)



責任さえとれたら あるいは 最低限の影響下で

自分の欲求をかなえて

その欲求の本筋を見極める

これは人間存在に許された最大の悦びでは

ないでしょうか?


  (そう、湧き上がる無条件の「感動」によってその悦びを知るわけです。)



最近そんなことを感じています。

やっと理趣経が理解できたかな~(笑)

大義とは何か?自他に悦びを認める

これが満たされていれば全てOK!!!


 
 (「理趣経」とは空海の時代の、不空の経典ですか。



  <義真像>

  色即是空、空即是色、しかして、空のみにあらず・・不空。

  色は様々な移り変わる諸現象、人間の思考、欲望等をも含めてですが、
  色ごと、この世の楽しみ・・とだけ解釈すると、
  往々にしてカルマの増産に寄与して、一時困ったことになります。

  当時の人は、何もそうまで回りくどく、
  この時空に生まれ変わる必要もなかろうと、色々思い巡らしていたようですが、
  結局、「やりつくさないと、手放さない」・・魂の進化プロセスのため、
  それがまた、まさに今の、現代機械文明を創り上げてきました。
  しかしながら、
  陰極まれば、陽となる。
  これも、また「真」なり。






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。