気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

生きることの本分

2010-08-29 11:06:21 | 偉大なる先達の言葉

我(われ)事(こと) に於いて 後悔せず

  

(宮本武蔵 「独行道」より) 日本の名言集(リベラル社刊)

私は自分のしたことを後悔しない。

剣聖・宮本武蔵の言葉だけに大変説得力があり、力強い。ここまではっきりと後悔しない、と言い切れる人は現代にあまりいないだろう。後悔は何も生み出さない。失敗や過ちを犯したとき、いつまでもそのことにとらわれているより、改善すべき所は改善して次に進むほうがどれ程生産的だろう。(前掲p18)

  

宮本武蔵は戦国時代の末期の剣豪であるが、その時代の特徴をその形にまとった、偉大な修行者であったと思われる。剣という武器を使って修羅場を潜り抜け、おのれの身体、こころを常に生命の現場の最先端で磨き上げた者である。

身体の鍛錬を通じてこころを磨き、それらを含む大いなる魂の域に到達した存在とっては、後悔や懺悔や執着は、衣服についた汚れ以上のものではない。

  

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 (ウイキペディアより)

 

   

ゆく河の 流れは絶えずして、

 しかも もとの水にあらず

  

(鴨長明『方丈記』より  前掲P20)

 

川の流れは絶えることがなく、しかも流れる水も同じものではない。鴨長明『方丈記』の有名な序文で、世の中も常に移り変ってゆくとういう無常感をのべたもの。

私達は、いつまでもおなじ暮らしが続くという錯覚や前提の中で生きている。そのために見方や考え方が頑固になってしまうこともしばしば。より柔軟な物の見方を身につけたい。(前掲p20)

 

鴨長明は悟りの域に到達した人であったろう。この言葉の中には、常なる変化と不変の真理が述べられていることを、あなたも感じることが出来るだろうか。

 

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世の中に 慈悲も悪事もせぬ人は

 さぞや閻魔も困りたまわん

 

(一休  前掲P23)

世の中で、人に優しくすることもなければ、悪事も働かぬようなような人には、閻魔様も処遇にお困りになるにちがいない。もちろん悪事はよくないことである。

しかし、必死に生きていれば、思わず悪事に手を染めることもある。人に慈悲をかけることもなけらば、悪いこともしないような人に、いったい生きている価値があるのだろうか?という一休からの問いかけだ。良い悪いを問う前に必死で生きてみよう。(前掲p23)

 

一休らしいユーモアと慧眼を感じさせることばである。

 

常識という集合無意識の観念にとらわれて、自ら眠っている人々は、何らかの自らの意志によってそこから脱する行為が必要なときがある。勇気をもって思い切った行動をとる場合には、それが善とか悪とかの評価でもって叩かれ騒がれるが、それを超えなければ何が善で何が悪なのか「実感」することができないのだ。

 

他の人を見て、ああだこうだという者は「頭の観念」に束縛されていることを如実に示しているのだ。 あなたはどうだろうか。

  

 

誤まれるを 改(あらた)むる善の、

これより大きなる無し

 

(慈円『愚管抄』より  (前掲p51)

 

過ちを犯したら、改めることが善であり、それ以上の善はない。簡単なことのようだが、案外できていないことが多い。いろいろと言い訳して正当化したり、たいした問題じゃないと無視したりする。また間違いに気がついても、改め方を間違ってしまうこともある。間違いに向かい合う勇気、その間違いを正しく分析する判断力も必要になる。(前掲p51)

 

慈円のおかれた当時の時代背景と生き様を感じさせる言葉でもある。

道を歩くものは、道に外れる場合もあるが、どれが本道でどれが邪道なのかをその都度フィードバックできる勇気と潔さが必要だ。

世の中の姿態を見るに、己の間違いを潔く公表し、勇気をもって頭をさげるような政治家や指導者が極めて少ないのは、彼らは未だ至らぬ者だということを暗示している。

真に偉い人や優れた人というのは、おのれの至らぬ有り方に気付いている人なのだ。そのような自己を省みる意識を持てる存在は、いわゆる魂顕現のランクが上位の存在である。

 

  

自ら見る、 これを 明という

 

『韓非子』より (中国の名言集 リベラル社p52)

   

自分自身で見る、これが賢明というものである。人から聞いた話やうわさでは、正しい判断は下せない。また人の考えをそのまま鵜呑みにしていては、真実からは遠ざかってしまう。何事も自分で確かめて、しっかりと考えてこそ、本当の姿を把握できる。そのときに初めて物事を正しく判断して、行動に移すことが出来る。(前掲p52)

 

いろいろな情報が氾濫している時代であるが、常に気をつけるべきは、真実を追究しようというこころの姿勢を崩さないことだ。

 

自分に都合のいいことばかりを掴んでいると、迷い道にはまることになる。真実を追究する姿勢・こころの鋳型があれば迷い道もすぐに引き返すことができるのだ。

 

 

 

心(こころ) ここに在らざれば 視れども見えず

 

『礼記」より(前掲p53)

 

これは深い意味がある言葉である。人が人である所以は、こころというものがあるからだ。それが無ければ、単なる機械人形に過ぎない。ロボットのアシモ君にも及ばないだろう。

こころは「マインド」とも呼ばれ、全てを顕しているところの普遍の意識の現れである。それが個人的なエゴで歪になっている状態を正してゆく過程が意識進化というものだろう。つねにマインド、こころを通して世界を見ているのが我々の実情である。

美しい自然や、成長途上にある生命たちの集う場が、1つにはこの地球である。

マインドを調律し、そこにクリアーで輝くばかりの世界と、そこに集う存在達の真の意味を感得するためにこそ人生というものがある。

不浄なものは、あくまでもそれを見るところの、あなたの『こころの曇り』に過ぎないのだ。

あなたのこころは、いつも『何処に』 在るだろうか。

生活か、お金か、性欲か、名誉の維持か、食欲か?

多分、

多くの人の『こころ』は 「身体」に在るのかもしれない。

 

身体は、しかしそれはあくまでも一時の「借り物」なのだ。それを基(もとい)にして、この世界の多くを学ぶことが出来る、仮の『器』に過ぎない事を忘れないことである。

 

こころ

 ここに 在らざれば、

視れども

  見えず・・

 

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ただ当たり前であること

2010-08-22 10:10:38 | 今大切な禅の言葉

いのちを惜しむことなかれ

いのちを惜しまざることなかれ

   (道元「正法眼蔵随聞記」より  日本の名言集:リベラル社刊)

  

命を惜しんではいけない。また命を惜しまないことがあってもならない。

命を後生大事にするような生き方では、何事にも積極的になれず、中途半端な人生を送ってしまう。

その一方で、命を簡単に投げ捨てるような考え方では、つまらぬことで本当に命を失ってしまう。

限度を超えない程度に、必死になって物事に当たらなければならない。(前出書p24)

   

  

家は洩らぬほど、

食事は飢えぬほどににて足ることなりけり

  (千利休 )

  

家は雨露をしのげる程度、食事は飢えない程度にあれば、十分である。

必要もないのに豪華な家に住んだり、食べきれないほどの食事を楽しむことは、

本当はむなしいことなのかもしれない。

もちろん家や食事に限ったことではない。

見栄や欲から必要もないものを求めていてはキリがなくなり、永遠に欲求不満のまま過ごさなくてはならない。  (前出p26)

 

 

貴となく、賎となく、労となく、少となく、

悟りても死、迷うても死

   山本常朝 『葉隠』 より

身分の高い人であろうと、低い人であろうと、老いた者も若い者も、悟りを開いていても、

迷っていても結局は死を迎える。

死は誰にでも平等に、そしてどんなタイミングでも訪れるもの。

そのことを考えれば、自然に自分がどう生きるべきか、どう日々を過ごすべきかが定まってくる。

死ぬ間際には、充実した人生だったと思えるようにしたい。(前出p27)

 

 

身をやぶるよりも、

心を傷ましむるは、人を害う事 なお甚だし (はなはだしい)

   吉田兼好『徒然草』 より

 

身体を傷つけるよりも、こころを傷つけるほうが、人にとってよっぽど害が大きい。

心に負った傷は容易には癒すことができない。

そのことをわたしたち自身がわかっているようで、わかっていないことが多い。

ひとの心に与える傷の大きさに気がつかないばかりか、

自分が受けた傷の大きさに気付かないこともある。(前出書 p29)

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悟ってみれば、

仏も下駄も同じ木の片である

   (一休)

仏像も下駄も同じようなただの木片にすぎない。仏像は人にあがめられるが、下駄は人の足の下に敷かれる。

しかし、元を正せばどちらもただの木にすぎない。

物事の本質をとらえれば、つまらない事にこだわらずに生きていくことができる。

そうすれば本当に大切なことが見えてくるに違いない。少しずつでも、つまらないこだわりを捨てていきたいもの。(前出 p30)

 

・・・・・・・・・・・・

いつも気をつけるべきは、世界の諸悪のことではなく、

それを観て、感じているあなたのこころのほうである。

 

各人が行なうべきことは、無際限に広がる果てし無い世界の浄化ではなく、

あなた自身の魂の、道具であり、レンズであり、世界の窓であるところの

あなたのこころ以外にないのだ。

 

自分の内面から発することで、

身の周りの対象への感謝の言葉を投げかけることが出来るようになり、

それが次第に広がれば、嫌でもあなたの知覚する世界は浄化されるのだ。

 

人それぞれに共通の、大切な修養とは、

知識の増大でもなく、地位や名誉の獲得でもなく、ましては銭金を蓄えることでもなく、

ましてや修養も何もにせずに、単に肉体を生き長らえることでもない。

   

眼を見張り、こころに振り回されずに、

只、(ただ)

今この瞬間に生きていることに、心底気付けるならば、

感謝など無理せずとも沸々と、嫌がおうでも、

あなたを通して現れて来ざるをえないのだ。

 

もしそこに、感謝の涙があるならば、

それは多くのこころをきれいに洗い流す聖水となる。

 

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縁(えにし)

2010-08-15 10:09:55 | 見えないものから見えるものへ

●人の縁(えにし)

例えば、誰にもある家族は、それぞれの『魂』とも呼ぶべき、『無限意識の個々の個別の顕現形態』が、その無限の自己自身への学びを行うべくリンクされた関係といえるものだ。

 

夫婦はそれぞれの意図や不可思議な『縁』(えにし)によって結合し、その結合間に生まれる子供たちは、また『縁』によって時空を超えてやってくる。

 

いわゆる芸能界によくあるような、好いた惚れたで繋がり分かれるカップル等は、ほとんど他者の影響によって動かされた結果である場合もあり、それだけの『縁』といえなくも無い。

  

●『縁』には悪も善もない

『縁』は、良し悪しで片がつくようなものではなく、その人間の狭い価値判断を超えたところの『魂』同士の協調である。

『縁』(えにし)は、良縁・悪縁といって、片方を待望しあるいは片方を排斥するようなものではなく、その全てにおいて「魂」の学習の為のものである。

それは『こなすべき』ものでこそあれ、憎んだり、追い求めたりすべきものではないのだ。

物質原子が核力やクーロン力などで形容される『力』の作用で結合しているように、意識体である人間は、『有意の意識』の作用によって結合・離散を行なっていると言っていいかもしれない。

 

『縁』とは数限りなくある、『無限意識の個々の顕現』 (魂) 同士の『協調関係』と言えるだろう。

 

あなたの身近な家族や関係者も、それなりの縁によってこそ、あなたの知覚世界に現れて来ている。

しかしそれを『縁』(えにし)と知る機会は少ないかも知れない。

 

表面的な常識に染まった顕在意識ではなかなか理解が出来ないだろう。

なぜなら、現状での人類の集合意識にとっては、未だ悠久の生命の転換作用、すなわち『転生』などについての充分な理解が得られていないからだ。

 

●縁を知る人は悠久の命も知る 

1度だけの偶然の命などという、これ以上は分割できない程の分離観念を、知らず知らず取り込み、またそれらの刷り込みを「常識」「真実」ととらえている間は、まさに「信じるごとくになる」という意識の法則によって、無知のフィールドに自らを閉じ込めていることになる。

 

あるいは、また、知らず知らず閉じ込めた、自らの狭い観念フィールドから救い出してくれような何か架空の神を信奉してしまうのも無理からぬことかも知れない。

 

ここまで下ってきた世界の有様での普通のあり方、誰も信じることは出来ないようなイレギュラーな精神状態を維持する為には、唯一それを越えた存在を夢に見て、かつこの世界のどこかに居るとする救い主を求めてしまうのだろう。

 

いつもどこかに、だれかに救いを求めているのかもしれない。

  

あなたはどうだろうか、いつも何かを待っている人もいるのではないだろうか。

 

それは、男なのか、女なのか、教師なのか、親なのか、救世主なのか、金持ちの足長おじさんなのか、ソウルメイトなのか、天から飛来する人の子なのか、あるいは全てをチャラにしてくれるような大災害なのか、人類が罪を受けるところの世界大戦争なのか?

 

いいや、決してそうではないのだ。

 

待ち続けるこころには、決してそれが訪れることはない。

なぜならいつも『待っているからだ。

それは他者依存と毛頭変わりがない「こころの有り方」であることに、気付けるだろう。 他者依存と他者批判はまったく同列のこころの有り方である。

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●救いの蜘蛛の糸

救いを求めて何かを待ち続ける人たち、多分そういう人は、多分芥川龍之介の小説である「蜘蛛の糸」の主人公である「カンダタ」の様な人かも知れない。あらすじはこういう内容である。

・・・・・・・・・・・・・・・

盗賊であったカンダタは、生きてる間に生活の為と称して、人々から数限りなく金品を奪うような極悪人であったが、生前1つだけ善いことをした。盗賊に入った屋根裏に巣を張っていた女郎蜘蛛を殺さずに助けたのだ。

 

カンダタの死後は当然ながら地獄に行くことになったのだが、あるとき天上からするすると何かの紐が降りて来て、お釈迦様の声が聞こえた。その声はこういった。

 

『おまえは悪さばかりをしてきたが、ただ1つ蜘蛛を殺さずに生かしてやった。だからお前は助かる『縁』をもらったのだ。・・・』

 

・・天から降りてきたのは、「蜘蛛の糸」であった。

 

カンダタはこれは有りがたいと涙を流し、その糸をするすると登り始めたのだが・・・、

途中まで登ってふと下を覗くきこむと、なんと大勢の地獄の亡者達も下から下から登ってくるではないか。

 

「げっ、やつらが登れば、こ、この糸は切れてしまうかもしれない!」と思ったカンダタは、思わずこう言ってしまったのだ。

『こ、この糸は俺のために降ろしてもらったものだ。お前達とは関係が無い・・、い、糸が切れるから、お、おまえらは登ってくるな~!!』

 

・・・といった瞬間に、天から降りて来た糸は「ぷっつり」と切れてしまった。

カンダタも亡者たち、ももろともに真っ逆さまに落ちていったのだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

 

これは芥川龍之介の有名な小説なのだが、この天才といわれる作者の意図には深い意味があるようだ。

 

●悪は『こころ』で作る幻想 

例えば、多くの人々は自分をカンダタのような極端な盗賊などとは思っていないだろうし、今と時代も違うと考えるかもしれない。

しかしながら、

 

我々が毎日垂れ流している『想念』は美しいだろうか?

いや、美しくなくてもいい、それでも他人をどこか、さげすみ、追いやり、排斥するようなものはないだろうか?

・・・・なるほど美しくもないし、人にも優しくないかもしれない・・・。

 

我々が毎日、無意識に発する思いに、「晴れやかさ」や「明るさ」はあるだろうか?

いや、明るくなくてもいい、それでも他人に暗さや不安を与えるようなものは無いだろうか?

・・・・なるほど、つらく暗い思いを与えてしまうこともある・・・。

 

一期一会、他生の縁も、ひょっとしてそんなことも何も分からず、単に自己存続の主張に明け暮れているかもしれない。

 

たしかに言えることは、家族も、周りの人々も、ひいてはこの世界に同時に住まう人々も、今ここに同時に生きているという明確な『縁』(えにし)で今ここにいる。

たとえ全てその目で見ることのかなわない人類60億といえども、今ここに在る『縁』(えにし)には違いはない。

 

人類の同時共生も、他生の縁あればこその、今生の顕現である。

 

大勢の人々が、「我(われ)を忘れる」この世界において生じる様々な想いや行為は、すべてこの世界次元における『学び』のためである。

 

●こころのゴミは自分で始末が原則

我々は自然をいつからか汚してきた。自然という相手のことはなぜか度外視であった。

それと同じように、

 

もし仮に、あなたが家族や周囲の縁ある人々を、どこか憎んでいるのであれば、それはこの世界におけるあなたの『学び』の程度を示しているといえよう。

 

憎しみをオブラートに包み込み、思慮深そうな批判に仕上ていようと、それは憎しみであり憤りではないのか。

 

あるときの憎しみの対象は、余裕の無い親たちであり、悪知恵のはたらく金貸しであり、イザという時に冷たい態度をする同僚であり、あるいは机越しに足蹴りをするお友達なのかもしれない。あるいは世界を裏から操る権力の亡者かもしれない。

 

どう考えても、やつは、また、奴らは、あるいは彼は、彼女は絶対に悪い。

どう考えても、自分は悪くない。悪いのはやつだ。・・・と考えるだろう。

世界がこうなのは、俺ではなく、どこかの悪人のせいだ・・・と。

 

しかしながら、実のところは、

 

悪いのは、人の迷惑も、こころも見分けのつかない段階の、分けのわからぬ子供のような他者ではなく、それを『真実』の行為であると錯覚するところの、あなたやわたしたちの『無知』と言えなくもないのだ。

 

万事において言える事は、

現れた現象を、どう感じ、どう捉えるか?

すべて人の『こころ』次第なのである。

ピカソやダリの絵を見て、それを邪ととるか、

芸術と捉えるかは、

あなたのこころの磨き方次第なのだ。

 

 

●あなたの意識の視界は広いか? 

意識の視界が広ければ、諍いも争いも小さなにシミに見えるものだ。

逆に視界がせまく目線が低ければ、あなたが当事者であり、にっちもさっちも行かないこころの場所にいるだろうし、それらを目の前の災いと信じ込み、慌て怖れることにもなる。

あなたやわたし達が刹那の「肉の子」と信じていれば、その肉が、物質形態が、傷つけられ、損なわれ、失われることに「恐怖」するのも仕方がない。

しかしながら、問題なのはその「恐怖」自体にあるのだ。

傷つき、損ない、失うことを顕すシナリオは「恐怖」が創作するものであることに気付く必要があるのだ。

 

恐怖も怒りも、こころの反応であり、その反応が言葉や行為となって世界に現れる。

 

●自分のススで汚れた『こころ』を笑ってしまおう

それらに怒り、怖れや憤りをもつ人々は、自らを怒り、怖れ、憤りをもっていることの滑稽さに心底気付いても良いだろう。

 

そうすればこころの底から笑いがこみ上げてくることだろう。

こころから大笑いに笑うことで、結果あなたのこころは綺麗に浄化されるのだ。

世界の諸悪は、あなたのこころのレンズについた染みであったとわかるだろう。

これを、頭を掻き掻き、笑わないでどうしようか。

・・・

そうであっても、あくまでも現象を、動かしようのない事実ととらえることに固執する場合は、現象は現れ出でた結果にすぎないことに理解が至らない場合は、

現象の中の怒涛の流れに、自らを投じるだけの木の葉であると自己を任じているわけであり、その思うがごとくに自らになることを楽しんでいるのだろう。

 

不安や怖れをどこか楽しんでいるのだ。

なるほど、またそれも体験学習には違いが無い。

 

しかしながら、 

『身体や衣服』を洗わなければ、それこそ異臭を放つように、

『こころ』も洗わなければ、体験・生活というスクリーンも異臭を放つことになる。

それにしても、是非とも洗うべきなのは・・・、

どこかの他者や憎むべき相手の衣服やこころではなく、

あなたやわたしたち自身の「こころ」である。

 

「縁」(えにし)とは、その『こころ』を洗うためのフィールドを提供しているのだ。

これをご覧のあなたには、もうご理解頂けることだろう。

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輪廻は手持ちの「風車(かざぐるま)」のよう

2010-08-08 09:15:33 | 覚醒意識

生徒

なるほど、でも、あなたの言っていることがどうもよくわかりません。

あなたは、人生というものは輪の中をグルグルまわっているようなものだ、というふうに言っているように思えます。

その繰り返しの輪に終わりはないのですか?

 

ラムサ

マスターよ、生きることはひとつの輪の中をまわり続けることではないし、同じことの繰り返しでもない。

生命はつねに変化しており、しかもそれは、絶え間なく続いていくためにあらゆる瞬間ごとに進化しているのだ。

 

生命はすべてを内包しており、それ自身が存在することによって、つまり、それ自身の「在ること」によって、次の瞬間を創り出しているのである。

 

それは、それぞれの存在が持つ態度に応じて、それぞれの存在によって瞬間ごとに創造されている。

 

変化のサイクルが繰り返しに見えてしまうのは、生きることに対する態度のためなのだ。

 

輪廻転生というものは確かにひとつの真実だ。

だが、それは単に、その人間の態度が体の死を許したために、ひとつの体を置いていき、

ここか、あるいは物質の天界にあるどこかほかのところで、もうひとつの体を身につけるだけのことなのだ。

 

人はなぜここに戻ってくるのだろうか?

 

それは戻って来たいからだ。

あなたは自分がここに「戻される」のだと思っているのだろうか。

 

苦労して産道を通り、まわりの人々の自我(エゴ)に完全に依存するだけのために、 自分がいたどこかの天界から追い出されて、化身の中に戻されるのだと思っているのだろうか?

 

マスターよ、あなたをここに戻らせた宣告など存在しないのだ。

 

なぜなら、あなたの意志に反して、あなたに何かをさせることができる者など誰もいないからだ。

 

あなた自身が、ここに戻ってくることを決意したのだ。

あなた自身がもう一度この天界で表現することを望んだのだ。

 

だから、もしあなたが自分の苦しみを誰かのせいにしたいならば、あなたは自分自身をしっかり見つめてみる必要がある。

 

あなたの美しさやあなたの在り方、そして人生が悲しいものになるか、すばらしいものになるかは、まったくあなた次第なのである。

 

そして、あなた方はそろそろこのことを知るべきである。

 

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この天界での輪廻転生を強制される存在などひとりもいない。

 

だが、この場所に永遠とも言えるほど長い間生きていると、人間はこの場所しかないと思い始めてしまうのだ。

そして、人間が自分の体を失い、自分が感情内に執着していたものたちや、ここにあるさまざまなおもちゃから離れてしまうと、この場所に急いで戻りたいというふうに、すぐにでも思い始めるのだ。

 

なぜなら人間は、天国とはここしかないと思っているからだ。

 

そして、そう思う存在にとっては、実際にそうなのである。

 

あなたがここにいるただひとつの理由は、

あなたがここにいたいからであり、あなたの存在の内側に、ここで満たすべき何らかの必要性があるからだ。

 

そして、その必要性とは、この「幻の天界」で体験したい喜びや悲しみ、憐憫や怒りや苦痛といったものを表現することであり、それらを好きなだけ体験することだ。

 

そして、それが嫌になったり、うんざりしたときには、あなたは自分の態度を変えて、何か別の感情を体験することができるのである。

  

それほど単純なものなのだ。

・・・・・・・・・・・

『ラムサ ホワイトブック』(P317-319)

・・・・・・・・・・・

  

  

ここでいう「この天界」とは、地球の生命圏であり、地上という物質生命圏を含む『多層の隣接する存在周波数帯』ととらえるべきだろう。

 

すなわち地上界、霊界、天界といわれる、我々の意識生命体の『輪廻体験』が可能な、ある意味降下・上昇のための上下の幅のあるステージである。

 

ここに戻る・・とは、この人間社会に生れるということであり、

輪廻転生とは、人間社会での、自己の不足と思える部分の体験知の補充のために、地上・霊・天を行き来することだ。

もっとも天まで行く存在は、それはこの地球体験ワールドをそれなりに堪能し学習した存在といえるだろう。

 

この天界 (地球という次元世界とその隣接周波数帯) においては我々は、

物質次元の人生をはじめるに当たり、すっかりそれまでの記憶を忘れるような仕組みがある。

本来保持する他生にわたる生命体験の記憶を、敢えて思い出す意識に目ざめなければ、いつまでたってもテンポラリー、その都度のスパンの限られた人生を生きている偶然の生き物・・としか自己が認識が出来ないかもしれない。

 

多くの人は、何も分からずにこの物質偏重世界に生れ、人生の紆余曲折をへて、何も分からずに死んでいく体験を、ある時期まで繰り返すようだ。

 

そして肉体死をとおして上位の世界に戻り、本来の魂の位置、あるいは意識レベルに戻ったことで、我に返り、再びそれまでの他生の体験を持つ高次の『自己』を思い出すことになる。

 

そして、高次のエリアでの親身なケアと指導を経て、再びどこかの場所、どこかの時空に生れることを希望する。

そしてまたここにおける忘却の生から始める機会がくるのだ。

その多くが、いつもながらの、「私は誰?ここはどこ?」からのスタートだ。

 

・・・しかし、本然の自己を、自らで思い出そうという『意識レベル』までたどり着かなければ、再び忘却の状態のままで人生を生きることになる。

そうであれば、そこには繰り返しが必須となることも理解ができるだろう。

これが『輪廻転生』といわれているものではないのか。

 

人生のすべては、『あなた』という、無限なる者のそれぞれ個性化である『自己』たちの、その自らの選択による生の体験学習であるのだ。

そこに、誰か、何かのせいによるものなどどこにもないと悟るまでは、

後から後からやってくる、眠れる体験をしたい人々の作り上げる、様々な車輪の轍のなかで感情の紆余と曲折を体験することになる。

 

本来はあるがままの、いわば神なる者の子であるが、それに決して似つかわしくない想念の体験、・・  不幸だ、不公平だ、不浄だ・・・という訴えも騒ぎも、

例えば憎しみや恨みや執着も、それ自体を自ら体験したいから行なっていることである。

そのためには本来の高次の自己であることを一端忘れる必要があるのだ。

・・

なるほどと思わせる、なかなか気付かない「遠大な仕組み」ではないか。

今、あなたもひょっとして、目先の知覚体験以外の、更に大きな大きな慈愛と許容の仕組みを感じないだろうか。

 

しかしながら、我々の在るこの世界、今までの「忘却の天国」は、その周波数帯が変わりつつあるということにも気付かなければならない。

われわれが輪廻転生を通じて、忘却の生の体験を通して進化したように、

その広いステージを提供してきた「地球生命圏」自体もまた、巨大な意識体であり、同じく進化を遂げてきたからだ。

 

地球は何度も何度も繰り返してきた人類の不浄や汚染を、今回も再び吸収し、それを肥やしにして再び新たなステージを当然ながらイメージしているだろう。

蓮の花は泥から咲くというのは単なる逸話でもない。

地球というある意味で不屈の生命体は、さらに一段進化した有様としての自己を造り上げてゆくはずだ。

 

我々幼児のような人類に、そのステージを提供し続けている、太陽、大地、大気、水、土、そして火は、我々のそして地球という生命体の静かな盟友のようなものである。

すべて偶然、当たり前などというものはどこにもないのだ。

 

愛といえば面映いが、今ここ、この瞬間にも、全ての存在全体からの『慈愛』というものを無条件に受けている。またそれが無ければ、この地上などもあったものではないのだと気付けるだろうか。

昨今流行の「アセンション」?という象徴的な言葉は、進化の一大エポックを意味しているのだろう。そこには恐怖も期待も、逃避も、お祭り騒ぎも必要はない。世界を統一する必要も、せっかくの砂場を自ら壊して泣き崩れる必要もない。

 

それは、生命の進化・成長の1つのターニングポイントのことであり、ある意味では祝うべき卒業であり、そこでは『感謝』の涙以外はふさわしくない。

それには執着の涙は決して相応しくないのだ・・という事だけは忘れてはならないだろう。

 

そう、不浄な想いや執着は、こと・ここに及んでは相応しくないのだ。

 

『不幸』や『不安』や『恐怖』という面白い遊びのオモチャはもう充分だと、潔く投げ捨てなければならないということである。

もっともらしい恐怖や不安という、感情を刺激するオモチャを、お友達に手渡しして遊ぶゲームももう充分ではないか?

 

悟りも解脱も、古きものへの執着から決別する方向にターンする、潔い意識的有様のことである。

多くの先達の示してきた道は、今では、実に大きな道となっているのだ。

 

潔さ(いさぎよさ)・・確かに、それは最も大切な魂の宝の1つである。

例えば、この日本には、それが色々な形であっても、今も尚生きているのだ。

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。


あなた:幸せの湧出点(2)

2010-08-02 08:20:00 | 覚醒意識

幸せは各人各様で異なるものだという事を聞いたことがあるかもしれない。

確かに誰にも一律な幸せがあるとも思わないけれども、幸せというものを、仮に『人として共通の本来の満足のゆく有り方』 と定義すれば、幸せとは、簡単にいえば『こころの平安』ともいえるものかもしれない。

幸せを言うならば、

 

人がゆったりとして安心のできる有り方。

常に余裕のある生き方。

生きがいを常に感じられる楽しい有様。

そのようなものが『幸せ』といえるかも知れない。

確かに、誰しもそうありたいと思うだろう。

  

つらつら想うに、本来は政治も宗教もそれが目的ではなかったのか。いつからか、人が集まりお金を落し、物資が豊富になることが目的になったのだろうか。

  

●不幸せ芝居に幕を下ろせ

しあわせとは物質的享楽でも、プライドが満足する立場に成り上がるわけでもないのは誰でもウスウス感じている。大概において、それらでは常住の『こころの平安』は得られないからだ。

地位や名誉が得られた瞬間には喜びを感じるものだが、そのとき感じる心の平安とは、ほんの一瞬の単なる達成感でしかないことに気付くだろう。

地位や名誉等は、努力して勝ち取って得られるものであればこそ、それを維持するためには更なる働きをしなけらばならないようになっているわけだ。

富もしかり、『豊かさを得ること』が信条であれば、ある程度の豊かさでは満足が出来ないことは自明の理であろう。 さらにもっと・・でなければ不安なのだ。 なるほど「豊かさを得る」という『希望』のみが唯一の幸せのようなものになっている場合が多く、富があること自体では決して精神的な満足が得られないのだ。

 

幸せとは何かを成し遂げるものだ、獲得するものだ・・という信念で固まっている為に、常に強迫観念と抱き合わせなのだと気付けるだろうか。

世間で吹聴する「セレブ」や「リッチ」へのいざないは、ある意味では不幸への誘引でしかない。

 

●目を見張り「今ある幸」を発見せよ

今が幸せではないと感じている人々の問題は、常に先に先にと追う姿勢自体にあるということに気付くだろうか。 今に満足がゆかないために、せめて将来に・・という、いわば投げやり的な観念の轍(わだち)にはまり込むのだ。

 

将来に託す希望のかわりに、今ある「幸せ」を取り逃がしている。

それは『常在の今』という輝きに気付かないということだ。

目を見張り、耳を澄ませ、今ある幸せの輝きを発見すべきなのだ。

・・・発見するもの・・それはあなた自身である。

 

今のこの瞬間にどこか満足出来ないのは、外の世界の価値感と自己との間のギャップを常に無意識に感じているからかもしれない。常に外や他人が良くて、自己が悪い・・?というような二元性の価値観に嵌っているのだろうし、あるいはまた身体的な生存本能や欲望ゆえの渇望からくる場合もあるかも知れない。

要は社会全般ではそれが当たり前のようにされている観念、何かを満たさなければ幸せも安心も得られない?という動機付けに流されているのだ。

頑張って何かを成し遂げよ! リッチになるのだ! 美しく着飾れ! はやくしろ、急げ! ・・・そのような、誰も責任を取ることもないお祭りばやしが氾濫しているではないか。

・・

Piero

●様々な不浄な価値観念を捨てるべし

しかしながら、

外の世界の大勢の騒ぐ人々の言葉や態度に一喜一憂をし、嫌になるほどへとへとに疲れた後に、ようやく自分自身に戻ることが出来る人こそ逆にまさに『幸せ』な人なのである。

選択肢もなくなり、嫌々ながらもどうしようもなく、やっと、自分に、そして『今』に戻ることが出来る瞬間、そこにこそ「幸せ」が発見されるようになっているのかもしれない。

それは、そう・・・、生れた時のような、何も余計な物がない、あなたの素の在り方に戻れる時である。

 

パワーと可能性に満ちた、それでいて静かで、穏やかな「あなた」に戻るときである。

 

人生の何処かで、そのありのまま、あるがままに戻ることが出来る人は本当に『幸せ』だろうと思う。

あらゆる観念のゴッタ煮のような世界の中で、それが不味いものだと解るまでのことであり、それまでは自分が幸せを創るとは思わないものだろう。なぜなら、幸せが世界から与えられるものだと思っているからだ。それがゆえに世界の価値観念の中を探し回るのだ。

 

そうして疲れ果て、様々な価値観念に踊らされていた自分を発見する。

これこそまさに放蕩息子の逸話の意味するところであろう。

 

●カルマは常に未来に投影するこころの癖

魂のレベルでも、堂々巡りの繰り返しに飽きてしまい、否応なく自己に戻る時期がある。カルマの解消という意味もある。 ある人生においてそれに気付くことが出来ない場合は、それは、またいつか来た道を別の人生で歩くことを決めたようなものかもしれない。

『今という瞬間の輝き』を逃すこころのパターンは、普遍的意識に記憶され、人間の「自我の終焉後もまた繰り返されることになるだろう。やはり宿題はやるしかないものだ。

やるべき課題、それをいわゆるカルマというならば、カルマは、今の瞬間の幸せに気付かない、無意識的なこころの癖がなせる業であり、それは、ついつい陥るパターン自体を未だ自分で見抜けない状況のことであろうか。

ある意味で、カルマとは未来に投影された意識内面の「影」であり、今この瞬間の輝く「わたし」に気付かないということであろう。常に未来に課題をもってゆくために、いつも解決しない繰り返しの有様のことである。

 

●内面を観ること:外から「わたし」に戻ること

自己に戻るとは、それぞれの「わたし」という存在自体を真正面から観る・感じる状態になるということである。

 

皆それぞれにある「わたし」の存在自体とは、肉体にはあらず、立ち騒ぐ「こころ」自体にもあらず、その「こころ」の働きを見つめるところの「静かな不動の自己」本当の「わたし」のことである。

 

海の波・風のような「こころ」を見つめることが出来る、静かな不動の自己に戻れば、普通の世間の生活をしながらも、価値感に流されず、情動に突き動かされず、悲しみに沈むことも、喜びに麻痺することもなくなるだろう。

 

なぜならば、自己を観るというような、観察・観照の立ち位置では、何かに自己投入したあげく、にっちもさっちも行かない状態、すなわち『不幸』といわれる状態に嵌ることは出来ないからだ

 

観察などというと、情感の無さそうなつまらなさを感じるかも知れないけれど、この『自己のこころを見つめ続けるあり方』は、すなわち『こころの平安』を維持するあり方なのだ。

多くの人々の求め続ける 『こころの平安』は、逆に、こころから離れた『立ち位置』をつくり、こころをわが子のごとく観察するような、静かで不動の、慈しみのこもった意識的な眼差しから得られるものなのだ。

こころも体も「わたし」の表現体であり、「わたし」自体ではない。本然の「わたし」とはそれらではなく、それらを生み出している基点である。

例えれば、我々は、波間を浮き沈みする個々の浮遊物ではなく、「海」そのものである。

例えれば、我々は、個々の湧き水ではなく、それを湧出する「泉」そのものである。

 

体を洗うように、こころも洗うべきであろう。

こころは様々な観念という汚れを帯びているからだ。

確かに、洗うのは自分しかいないというのも道理である。

 

Nature1014

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。