気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

自らが一者である

2010-01-24 18:27:15 | 心の科学分野

●我々は生き通しの者である

我々の生命の本体ともいうべきもの、転生や輪廻というサイクルを通して不変で在り続けるものを、我々の「魂」といっていいだろう。

今のわたし達が、ここにそうして存在し、生活のなかで様々なあり方を演じていることは、この魂という不変の存在の転移・変遷の1部分の発露であると言うことが出来るだろう。

前世や過去生というものを含んだ「生き通しの生命」に関する理解が皆無な社会集団に生まれ出でたことにより、誰でも幼い頃には自然に思い出す時期があったにしても、それを何かの間違い、勘違い、異常なことであるとする無理解な人々の常識という観念に打ち消されてしまう場合が多いものだ。それが故で、気づけば何世もこの世界に戻ってくることになるのだ。

確かに、現生を真っ当に生きるために、魂の記憶にある遺産や知識を使用せず、一切のゼロからはじめることがその人生目的の場合もある。

「自己を忘れる」ということは、まずもって尋常な体験ではないのは誰にも解るだろう。例えば徹夜で勉強したことが、何かの瞬間にすべて忘れてしったとしたら、それこそ、たまったものではないだろう。

魂が自己を忘れてしかやって来れない状態にあるこの地球文明社会は決して高いレベルとは言えないだろう。高いどころか、宇宙のあまたある星間文明のなかのエアーポケットのようなものである。多分このようなこと、一体何を言っているのかわからないこと自体が、まさにそうであることを、どれだけの存在達が気づけるだろうか・・・。

我々の時空間を一体誰が「悲しみの惑星」と呼んだのか・・・。

 

●「今」とは「刹那」でなく、過去も未来を含む「今」瞬間のこと

生き通しの生命という観念が集合意識に定着すれば、国同士お互いが争い、殺したの、殺されたりのという馬鹿馬鹿しい有様は無くなる。

我々は肉体そのものではなく、肉体を現すところの者である。

お互いがお互いの地に生まれ変わり、またそれぞれが悠久の魂の表現存在であると知っていれば、・・無限の自己の魂に気づいていれば、他の資源を奪うとか、他を支配するとか、権威を示すとかいう馬鹿馬鹿しいことは無くなるのだ。

 

たった数十年の肉体生命の維持だけのための、いい訳も、世渡り術も、いままでどれ程の効果があったのだろうか。そのようなことを繰り返すうちに、いつの間にか肉体に全てを預け、そこに隠れ、その肉体の本来の役目をも台無しにしてきたのかも知れないのだ。

我々が無限たる因の者であると悟れば、周りの三次元といわれる不自由な牢獄が消えて行くのだ。

目の前にある物質的富というオモチャに垂涎たらすような「高度な猿人」の集団も存在できなくなるのだ。誰の作かは不明ながら、ダーウインの種の起源を使い、人間という存在を、その想いという創造力を逆手にとって、一挙に物質レベルにまで繋ぎ止めようとした意図があったのかもしれないというのは言い過ぎだろうか。

そうだとすれば、あまりにも偏執と自己都合に凝り固まった「宗教」という洗脳への革命であったともいえるだろうか。しかしながら、それはあくまでも人間という存在をさらに卑小化するようなものであったろう。

宗教が「人間は罪の子」であると言い、神と人を分離してきたからこそ、更に追い討ちをかけるような思想、「人間は猿の進化の賜物」というものが出てくるのだ。どちらにしても踏んだりけったりのプロパガンダではある。

自己を卑小化、分裂化、物質化していく方向が次元降下であろう。我々は充分次元降下してきたのだ。魂の記憶を忘れていること自体がその証である。

より大きな自己を想い出すのは、今という瞬間、自己の生という窓を通してなのだ。他者は決してそれが出来ない。もうそれに気づかなくてはならないのではないか。誰を待っていても現れるのは、いつもあなたでしかないことだろう。

 

●「わたし」は常にわたしにフォーカスしている存在である

我々に備わる無限の意識のフォーカスレベルが、ビデオカメラのごとくズームインを進めに進め、宇宙の局所における、更に一小片の肉体に閉じ込められる仕組みが理解出来るだろうか。ズームインを局限まで進めることで、我々は先の先の1個の人間というものにフォーカスし、絞りをそこに固定しているようなもの。

全てはいわゆる意識のフォーカス機能の賜物なのだ。あなたやわたしが「そうありたい」「ありたい」と想ったことにより、この地で生を受けているのだ。

またさらに、様々な意識の流れが交差しているこの世界にあっては、さらに自己を卑小化したいという者と、本来のあり方を思い出しつつある者との二つの流れが今浮き上がりつつ、渦を巻いているのが、勝手ながら世相を俯瞰した場合の現状であろうか。

 

●見える物すべては望んだ結果である

我々の肉体の背後にあるものが我々の魂というものであれば、それは現象の眼には見えないものなのだ。げげげの奇太郎の漫画に出てくるようなフワフワした霞のようなイメージは、それが物質的振動レベルではないという部分だけ適当ではあるが、真髄をついたものでは到底あり得ない。

魂というのは常に因としての在り方であり、それがあるがゆえに我々の人間としての生を可能にするものである。

因とは現象を現すところの原因であり、現象そのものではない。それを例えれば、車の設計者と車の関係の様なものだろう。

我々の人間世界のあらゆる物は、かならず設計者がいる。どんなものも偶然に現れるものではなく、車も、航空機も、花瓶も、100円均一のグッズですらも、誰かがイメージ、発案、設計しそして製造したからこそ、この世界に現れているのだ。それに例外は無い。

それと同じく、あらゆる現象化の背後には、いわゆる設計する者、自然界においては設計の仕組み、あるいは大自然がそうとしてあり続けるところの因たる「法則」が存在する。

法則自体は眼にも見えず耳にも聞こえないが、現象化を通じてその存在を顕示しているのだ。

ひとはそれを「理念」として表明する。その理念に力がないとは一体誰の言なのか?

人間の魂といわれるのも、この「法則」のようなものであろう。法則は決して無くなるものではない。魂も不滅といわれる所以である。法則は形を現すところの「因」であれば、五感の眼には映じないが、確実に「あなた」として「今」現れているのだ。

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「わたしは在る」

I am that I am

(わたし は 「私である」・・ところのものである)

ここには原理が現されており、I am → that I am  とは、「わたしは」いつもそう想うところのわたし」である・・ということである。

わたしがわたしで在り続けるという存在原理と、

自分で想うところの自分に成り続けるという無限の変化変転・進化の存在原理が示されている。

まさに、変化・進化しながら今あり続けるところのこの宇宙の有り方である。

我々人間が、否応も無く、ある時は苦楽を味わい、右に行き左にぶつかりながら、様々な生を展開している有様の中に、またその背後に、厳としてあるのが我々の「存在原理」であるところの「魂」といえるだろう。魂、それは物でも形そのものでもなく、それを現すところの因たる原理といえるものだ。

言葉を変えていえば、こういうことになるかも知れない。

我々は悠久無限の宇宙の創造の因と同じ存在であり、またその個性化したものであるということだ。

無限の全体であることだけでは面白くない?と想う創造主が、己の前に鏡を置き、己を見ようとした結果現われたのが、我々個性化した人間という存在形態であるとも言えるだろう。

無限の存在が有限の姿をまとい、有限の五感という窓を通じて悠久の創造を眺めている存在であるとも言えよう。

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我々は個でありながら、全体と一体であるということだ。また創造主の写しという立場であればこそ、個が全体と一体であると言う自覚も生じるのだ。我々は創造主と同じく全体を自己と観ながら、また「わたしは私である」という自覚が在るのだ。

それを理解するのは「個々の意識の窓」を覗くことであろう。我々の意識は「無限を見るための」こころの窓なのだ。

こころの浄化は、その窓を清め、我々及び我々を取り巻く存在宇宙の有りのままを観ずるためのものなのだ。

法則を意識的に解明し理解出来るのは人間という「意識的存在」の与えられた特権のようなものである。本来は科学も宗教も宇宙を含む大自然を理解し解明して、そのあり方を再生産再創造してゆくものであるが、いつの間にか現世の利益、生きるための糧を稼ぐ為のある意味で奴隷作業に成り下がってしまったのかも知れない。

我々は元々、いや今も根源の一者である。いや、その現われのひとつであるというのが今は無難であろうか。

根源の一者であることは、今のあなたやわたし達の有り方でも充分に理解出来るかもしれない。

いつも不完全で不足であると思っているあなた・・が、それを示している。

 

●冗談はもうよそうではないか

嗚呼・・、宇宙的な冗談はもう充分ではないか。

  

勝手な言い様と言われるかもしれないが、

今地球という時空がそれを密かに告げているのがわかる。

その変化の予兆が、あわてた世界の陰謀者の口から出ようと、

人類が自ら行なってしまった、身近な環境異変からのものであろうと、

 

人類意識は間違いなく卒業する時期が来ていると思う。

今までかつて無い予兆に気付かないだろうか。

 

我々は、「執着心」よりは「いさぎよさ」を、

収奪」よりは「与える」ことを、

逃げる」よりは「立ち向かう」ことを選択する時期にあるのだ。

まさに・・生命を賭けた古くからある戦(いくさ)自体も、いまはもう卑小になり果てたのだ。

もうその使命は終わったと知るべきだろう。

立ち向かい進む先は・・、幾多の過去のような、

外の世界の兵(つわもの)達との戦ではなく、

1人1人の、おのれにある「卑屈」さである。

 

いまは卑小な自己を演じるに及ばず、

もう潔く、

その卑小な自我をその背にひょいと背負い、

本来の輝ける自己自身に戻るときなのだ。

本当の兵(つわもの)とは、卑小な自己と対峙し、

その今までの役目を認め、

それを取り込んでさらに大きな自己への飛翔を遂げるものである。

全てを見晴るかす、次元の丘に立つ者のことである。

 

この地にある幼き者達よ・・・。 おろおろするな。泣き叫ぶな。

 

いまここで、この期に及んで、戦や収奪を行なうものは、

この地と違う別の時空でやり直すことを選択していることを知れ、

今は過ぎたる時であり、すでに及ばざることなのだ。

 

我々は悠久の魂をその本源とする者である。

戦いはこの宇宙に本来存在せず、あるとすれば、是認するならば、

自己との戦でしかないのだ。

それが済めば戦など、どこにも無いことが真に、真に、解ることになる。

そのために母なる地球は有象無象の我々を育ててきた。

魂の発露の体験をすることが出来るのも、母なる大地のお陰なのだ。

 

意識的な存在であろうとするのか、無意識の赤子であろうとするのか、

それは、すでに、もう明らかなことだろう。

 

  

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今回も、誠にもって勝手な記事をご覧頂きまして、有難うございました。


あるがまま

2010-01-17 10:11:32 | 宇宙的気付き

●我々は井の中の蛙(かわず)

我々はひょっとして自己を相当に卑小に評価しているのではないか、と思うことはあるだろうか。ひょっとして自分は井の中の蛙(かわず)ではないかと思う時はないだろうか。

 

例えば、自分とは肉体であるなどと思っているのかもしれない。

「体がなければおしまいである」・・と、誰とも同じような安易な観念に安住しているのかもしれない。

 

身の周りのことしか判らず、とりあえず周りの顔色を伺いながら生きている人、例え世界のあらゆる情報を集めたとしても、やはりそれは少し井戸の中のスペースが広がったような気がしているだけのことかも知れない。

 

我々が毎日意識を集中している肉体や、肉体・五感レベルに反応するところの周囲環境が、唯一の存在形態であると思っている人々が多いことだろう。

 

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●世界は1つの次元ポケットのようなもの

我々の世界、それは、生まれた時から見ているこの地球というフィールドに生じた次元空間、例えればある意味での立体映画館が、我々の存在する唯一の世界であると感じているようなものだろうか。

 

もちろん、あなたも流行の映画を見るために、最寄の映画館に入り、一時我を忘れてその映画を楽しんだ経験も多いことだろう。

 

普通はワクワクした気持ちで足を運び、我々が映画館に入ったのだ・・ということを記憶していることで、目の前の銀幕にどのような驚天動地の映像が展開しても、それが単なる映画であると気付いており、どこか平静なこころを持っているわけであるが・・、仮に映画館に入った瞬間に記憶喪失になってしまったとしたらどうだろうか。

 

その場合、映画に見入っている人は自己のアイデンティティーを見失い、とりあえず目の前に展開する映像に釘付けになるしか方法が無いだろう。

 

前後の記憶が無くて、そこにいつの間にか座っているとしたら、「わたしは一体誰なのか?」を問い続けながらも、その映画館の中では目の前の映画の展開におのれの意識を集中せざるを得ないということだ。

 

記憶がないために、映画を観ているわたし、すなわち、現実と称されるフィールドで体験するわたししか判らないことになる。

 

●地球は今まで閉じた学び舎であった

まったく同じことが、我々がこの世界に生まれ、そして去ってゆくプロセス、すなわち人生として行なわれているといえるだろう。

 

「我々は一体何者なのか、どこから来てどこにゆくのか」等の、今ある自己の、前後左右に対する漠然とした疑問を、大なり小なり抱きながら、とりあえず人生をそれぞれなりに精一杯生きているわたし達の有様とまさに同じといえるだろう。

誰しも皆、赤子として無垢からはじめるということは、大きな本来の自己・魂のアイデンティティを一たん忘れるということなのだ。

 

前世を覚えている、あるいはおぼろに思い出しつつある人々意外は、まさにこの表面的な記憶喪失の真っ只中にいて、かつそれに気付いてもいない状況なのだ。

 

我々は今、地球という、言われるところの三次元レベルを「自己上演する映画館」にいるようなものなのだ。なるほどそれは映画館と言えども、それなりに細密にかつ無限大の時空を映し出す生命圏でもある。地球から見える、観測される宇宙も、まさに果てが想像もつかないような悠久の姿を現しているように。

 

このように、人々が記憶を忘れることでこの世界は閉じていたのだ。

これはいわゆる次元降下の有様の一端であろうか。

あなたはどう思うだろうか。

 

●我々はいわばあらゆる映画を観ることができる観客である

比喩的に言えば、我々は悠久にわたる魂の記憶を潜在意識下に忘れ去って、今、この地球という生命圏(映画館)にいるようなものなのだ。

この映画館のテーマは、例えば、「次元降下において本然の自己を思い出すこと・・」 とでもいえるだろう。

 

このような刹那の自己を超えるところの、本来の大きく拡大した自己への気付きは、この世界と自己の有様を充分体験・観察した人々、あるいは、人生の意義を大なり小なり感得された人々には多分理解出来るだろうと思う。

 

●今の中に過去も未来もある

現状の刹那の自己の有り方のみに意識を集中している段階を通り越して、刹那の自己を含んだ、更に大きな自己のあり方に気付いた人々、ある意味、来し方、行く末のことまでも意識されるような段階の人々には何か合点がいくだろう。

その意識の範囲が拡大しつつある人々が今増大している。

 

今というものを無意識にやり過ごさず、否応となくしっかりと観ることが出来れば、その「今」の中に過去も未来もあることが少しずつ見えて来るものだ。

 

ここにスポット的にいる観客として以外の有り方、本来の大いなるわたしたちの有り方に気づいてくるものだ。

 

しかしながら、外の結果の世界、世間の常識やありきたりの流れに身を任せている限りでは、自己の内面から来るものになかなか気付かないだろう。

 

我々は、雄大無限の宇宙という創造の中に遊びながらも、様々な経験と学びをその個性という魂に刻みながらも、次第に無限なる自己自身になってゆくという経験プロセスを選んだところの根源意識からの出向者のごとき者である。

 

我々は本来無限であるからこそ「有限なる自己」をも無限に展開することも出来るのだ。

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●生命は無限なる自己への気付きの旅にある

人間とは、本来無限の者が選んだ個性的な在りかたを体現する者、有限から無限への意識拡大の途上にある者なのだ。

 

池の水面に石を投ずるごとく、潜在という空に「意志」を投じ、それにより現れた波紋が池全体に拡大するようなものである。その意識で構成された池全体、宇宙全体に木魂す波動を「想念」ともいう事が出来るだろうか。

 

あらゆる生命はその途上の段階は違っても、全て意識的存在であると言えるだろう。

 

意識的存在というのは、個性ある意識ということであり、全宇宙、森羅万象、あらゆる存在形態を生ぜしめるところの、全包容なる一つ意識の個性化を示すものだ。

 

●物質も「意識」と「意志」の表現要素

「波動の法則」(足立育郎著)によれば、物質元素の元である陽子と中性子に関して、ズバリと著わされている。すなわち、

陽子は「意志」であり、中性子は「意識」である・・。

 

現代文明に染まった考えかたでは、なかなかピンと来ないかもしれないが、我々が現状で発見したところの、この世界の構成要素が、全て「意識」と「意志」または愛という全包容的な精神で構成されているということが言えるのだ。

 

石も岩も、山という形態も・・・、水も苔も、川という形態も・・・、土も草も、木という形態も、全てそれぞれに意識を有しているからこそそこに現前しているのだ。

 

●全ては大いなるこころ(意識と意志)の表現である

 

山川草木国土悉皆成仏。

 

まさにその通りであり、あるがままの自己自身を表現している。

意識という全存在世界を貫いているところの根源の波動を、様々な個別化の意図的変調を行なうことが出来るのは、人間の想念である。

 

そうだ、想いや感情があるということは、あなたや私たちが気付くか気づかないかにかかわらず、宇宙創造に参加しているということなのだ。

 

自己がそうと想う分だけの、それだけのことが実現している世界に住むことになる。どんな宇宙であろうがそれが意識的存在たるものの原則である。それはまさに神の自己創造と同質のありかたなのだ。

 

ところが、人間における自己認識のある一定レベルでは、それになかなか気付かないものだ。

そう、多分、大方の人々はこんな風に反論するかもしれない。

「え?、自分が自分の世界を創っているって?・・どうしてそんなことがあるものか。そうであれば、どうしてわたしは幸せではないのか?幸せは願っていても、そんなことあったためしはないよ。笑わせないで欲しいね。」

 

例えば、よくありそうなまさにこのような反駁や批判の内容の中にこそ、そう思う分だけの自己の世界を現していることがわかるではないか。

あなたやわたしたし達は確実に創造に参加しているいわば「創造者」であることにもう気づく必要があるのだ。

 Nature2003

●誕生の経験は宇宙開闢の雛形でもある

赤子が生まれるときの有様は、人によっては様々な思いがあるものだが、親達がまさに驚きと歓迎と好奇心をもって接するのが、子供の誕生の瞬間であろう。

 

社会の歪に、いかようにはまり込んでいるか、あるいは外の世界の価値観にどれだけ意識が囚われているかは別として、赤子の誕生、そこには不思議さと未知なる状態への緊張と、何かが生まれることに対する敬虔なこころがあるはずなのだ。

 

ここにも宇宙の創造の雛形が現れていると思えないだろうか。

今まで存在していなかったものが、いままさに存在として現れようとする瞬間に遭遇しているのだ。

 

あなたや私たちが毎朝目覚めるその目覚めのプロセスにも、宇宙開闢の雛形が示されているとも思われる。

 

●外は常に自己の反映である

我々の日常の生活の中に満ち溢れる奇跡の数々、それが当たり前の観念の中に流され続けることこそ悲しいことであると言えるかも知れないのだ。世界の中のどのような人々を哀れみ同情したところで、本当のものではないだろう。

 

かわいそうな人々を何とかしなければならない。世界を何とかしなければならない。そのような意識は真っ当な方向にあるものの、その善意の意志を発する多くの人々が、更に気付くべきものがあるだろう。

 

実際のところは、我々の世界がかような有様を呈しているのは、かような有様であると観ずるこころにあるということなのだ。

 

我々のこころの根っこに付着しているところの「不完全な世界」という「観念」を今この瞬間に洗い流す務めがあることに気付けるだろうか。

 

この地球自体が今高次元に移行しつつある低次元の生命体というのではない。地球、それは数十億年といわれるわれわれの時間観念のなかにおいても、当初からどんな素晴らしい世界にもなりうる生命フィールドであったということを忘れないことだろう。

 

そこに何代、何世代にもわたって編入、卒業を繰り返してきた、幾多の種族、人間存在達の表わしてきた歴史に色づけされているだけのことである。地球といういわば教室模様は生徒たちが創り上げてきたものでしかないということを忘れないことが肝要である。

 

地球はいつもどんな生命にも、その生命が自由に花咲けるようなフィールドを提供してきたのだ。まさに親たる者の、あるいは無限にサポートする存在の真骨頂とも言うべきものである。

 

我々は今、この地球にいて、意識と意図の要素である元素で構成された身体をまとい、五感とそれ以上の知覚手段を通じて、自己の想いを現しつづける学びをさせてもらっている生徒を選択しているのだ。

 

●本然、実相、あるがままを観る

周りに堀を廻らすよりも、今、この世界の本然のあり方しっかりと観じることが最も大切なことではないのか。

本来のあるがままのこの世界を、あなたやわたし達のこころで汚さないようにしよう。

 

出来るだけ謙虚になろう。

 

本然の世界を語るとすれば、まさに、 山川草木国土悉皆成仏  なのだ。

 

もう、いかなる批判も疑いも、今はもうそれが不適当なものであるとキッパリと観じよう。

この世界、学び舎は、次から次へと魂の学びを得るためにやってくるところであるが、もうその繰り返し学習も充分に過ぎたのだ。

 

地球という巨大生命の現すところの大自然から学びとったものが、まさか弱肉強食、自由競争ではないことは、もうどんな人々にも充分解る段階であろう。まさに笑止千万。

そのために人生をすり減らす経験は1度でも充分すぎるほどだ。

 

我々の数十年の人生という参加枠の中で、この世界の本然、あるがままの有様であることを、本来輝く世界であることを、今持てるこころの底のそこから観ずることこそ、この世界に現れた我々の意図ではなかったか。

 

まさに大勢の人々よ・・・、ありがとう。

 同じ学び舎の愛する仲間たちよ、本当に有難う。

 

山川草木よ・・・、ありがとう。

 一緒に遊ぶ仲間達よ、本当に有難う。

 

厚い大気よ・・・、ありがとう。

  循環する息吹よ、本当に有難う。

 

清らかな水よ・・・、ありがとう。

  すべてを清浄にたもつ流れよ、本当に有難う。

 

雄々しい火よ・・・、ありがとう。

  暖かいエネルギーよ、本当に有難う。

 

頑健な土よ・・・、ありがとう。

  命の錬金術士よ、本当に有難う。

 

神々しい光よ・・・、ありがとう。

  世界を映し出す光よ、本当に有難う。

 

地球を含む大いなる宇宙の仲間達よ、ありがとう。

  多大なるサポートは、我々のような幼い者にはいつもあまり眼に見えないものだ。

 

我々の存在時空を照らし続ける太陽よ・・・、ありがとう。

  ものは言わずとも、その無限なる愛と輝きに、こころから感謝します。

 

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遅れましたが、皆様明けましておめでとうございます。

記事更新が遅れても、変わらずアクセスして頂く方々に、こころから感謝します。

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。