●我々は生き通しの者である
我々の生命の本体ともいうべきもの、転生や輪廻というサイクルを通して不変で在り続けるものを、我々の「魂」といっていいだろう。
今のわたし達が、ここにそうして存在し、生活のなかで様々なあり方を演じていることは、この魂という不変の存在の転移・変遷の1部分の発露であると言うことが出来るだろう。
前世や過去生というものを含んだ「生き通しの生命」に関する理解が皆無な社会集団に生まれ出でたことにより、誰でも幼い頃には自然に思い出す時期があったにしても、それを何かの間違い、勘違い、異常なことであるとする無理解な人々の常識という観念に打ち消されてしまう場合が多いものだ。それが故で、気づけば何世もこの世界に戻ってくることになるのだ。
確かに、現生を真っ当に生きるために、魂の記憶にある遺産や知識を使用せず、一切のゼロからはじめることがその人生目的の場合もある。
「自己を忘れる」ということは、まずもって尋常な体験ではないのは誰にも解るだろう。例えば徹夜で勉強したことが、何かの瞬間にすべて忘れてしったとしたら、それこそ、たまったものではないだろう。
魂が自己を忘れてしかやって来れない状態にあるこの地球文明社会は決して高いレベルとは言えないだろう。高いどころか、宇宙のあまたある星間文明のなかのエアーポケットのようなものである。多分このようなこと、一体何を言っているのかわからないこと自体が、まさにそうであることを、どれだけの存在達が気づけるだろうか・・・。
我々の時空間を一体誰が「悲しみの惑星」と呼んだのか・・・。
●「今」とは「刹那」でなく、過去も未来を含む「今」瞬間のこと
生き通しの生命という観念が集合意識に定着すれば、国同士お互いが争い、殺したの、殺されたりのという馬鹿馬鹿しい有様は無くなる。
我々は肉体そのものではなく、肉体を現すところの者である。
お互いがお互いの地に生まれ変わり、またそれぞれが悠久の魂の表現存在であると知っていれば、・・無限の自己の魂に気づいていれば、他の資源を奪うとか、他を支配するとか、権威を示すとかいう馬鹿馬鹿しいことは無くなるのだ。
たった数十年の肉体生命の維持だけのための、いい訳も、世渡り術も、いままでどれ程の効果があったのだろうか。そのようなことを繰り返すうちに、いつの間にか肉体に全てを預け、そこに隠れ、その肉体の本来の役目をも台無しにしてきたのかも知れないのだ。
我々が無限たる因の者であると悟れば、周りの三次元といわれる不自由な牢獄が消えて行くのだ。
目の前にある物質的富というオモチャに垂涎たらすような「高度な猿人」の集団も存在できなくなるのだ。誰の作かは不明ながら、ダーウインの種の起源を使い、人間という存在を、その想いという創造力を逆手にとって、一挙に物質レベルにまで繋ぎ止めようとした意図があったのかもしれないというのは言い過ぎだろうか。
そうだとすれば、あまりにも偏執と自己都合に凝り固まった「宗教」という洗脳への革命であったともいえるだろうか。しかしながら、それはあくまでも人間という存在をさらに卑小化するようなものであったろう。
宗教が「人間は罪の子」であると言い、神と人を分離してきたからこそ、更に追い討ちをかけるような思想、「人間は猿の進化の賜物」というものが出てくるのだ。どちらにしても踏んだりけったりのプロパガンダではある。
自己を卑小化、分裂化、物質化していく方向が次元降下であろう。我々は充分次元降下してきたのだ。魂の記憶を忘れていること自体がその証である。
より大きな自己を想い出すのは、今という瞬間、自己の生という窓を通してなのだ。他者は決してそれが出来ない。もうそれに気づかなくてはならないのではないか。誰を待っていても現れるのは、いつもあなたでしかないことだろう。
●「わたし」は常にわたしにフォーカスしている存在である
我々に備わる無限の意識のフォーカスレベルが、ビデオカメラのごとくズームインを進めに進め、宇宙の局所における、更に一小片の肉体に閉じ込められる仕組みが理解出来るだろうか。ズームインを局限まで進めることで、我々は先の先の1個の人間というものにフォーカスし、絞りをそこに固定しているようなもの。
全てはいわゆる意識のフォーカス機能の賜物なのだ。あなたやわたしが「そうありたい」「ありたい」と想ったことにより、この地で生を受けているのだ。
またさらに、様々な意識の流れが交差しているこの世界にあっては、さらに自己を卑小化したいという者と、本来のあり方を思い出しつつある者との二つの流れが今浮き上がりつつ、渦を巻いているのが、勝手ながら世相を俯瞰した場合の現状であろうか。
●見える物すべては望んだ結果である
我々の肉体の背後にあるものが我々の魂というものであれば、それは現象の眼には見えないものなのだ。げげげの奇太郎の漫画に出てくるようなフワフワした霞のようなイメージは、それが物質的振動レベルではないという部分だけ適当ではあるが、真髄をついたものでは到底あり得ない。
魂というのは常に因としての在り方であり、それがあるがゆえに我々の人間としての生を可能にするものである。
因とは現象を現すところの原因であり、現象そのものではない。それを例えれば、車の設計者と車の関係の様なものだろう。
我々の人間世界のあらゆる物は、かならず設計者がいる。どんなものも偶然に現れるものではなく、車も、航空機も、花瓶も、100円均一のグッズですらも、誰かがイメージ、発案、設計しそして製造したからこそ、この世界に現れているのだ。それに例外は無い。
それと同じく、あらゆる現象化の背後には、いわゆる設計する者、自然界においては設計の仕組み、あるいは大自然がそうとしてあり続けるところの因たる「法則」が存在する。
法則自体は眼にも見えず耳にも聞こえないが、現象化を通じてその存在を顕示しているのだ。
ひとはそれを「理念」として表明する。その理念に力がないとは一体誰の言なのか?
人間の魂といわれるのも、この「法則」のようなものであろう。法則は決して無くなるものではない。魂も不滅といわれる所以である。法則は形を現すところの「因」であれば、五感の眼には映じないが、確実に「あなた」として「今」現れているのだ。
「わたしは在る」
I am that I am
(わたし は 「私である」・・ところのものである)
ここには原理が現されており、I am → that I am とは、「わたしは」いつもそう想うところの「わたし」である・・ということである。
わたしがわたしで在り続けるという存在原理と、
自分で想うところの自分に成り続けるという無限の変化変転・進化の存在原理が示されている。
まさに、変化・進化しながら今あり続けるところのこの宇宙の有り方である。
我々人間が、否応も無く、ある時は苦楽を味わい、右に行き左にぶつかりながら、様々な生を展開している有様の中に、またその背後に、厳としてあるのが我々の「存在原理」であるところの「魂」といえるだろう。魂、それは物でも形そのものでもなく、それを現すところの因たる原理といえるものだ。
言葉を変えていえば、こういうことになるかも知れない。
我々は悠久無限の宇宙の創造の因と同じ存在であり、またその個性化したものであるということだ。
無限の全体であることだけでは面白くない?と想う創造主が、己の前に鏡を置き、己を見ようとした結果現われたのが、我々個性化した人間という存在形態であるとも言えるだろう。
無限の存在が有限の姿をまとい、有限の五感という窓を通じて悠久の創造を眺めている存在であるとも言えよう。
我々は個でありながら、全体と一体であるということだ。また創造主の写しという立場であればこそ、個が全体と一体であると言う自覚も生じるのだ。我々は創造主と同じく全体を自己と観ながら、また「わたしは私である」という自覚が在るのだ。
それを理解するのは「個々の意識の窓」を覗くことであろう。我々の意識は「無限を見るための」こころの窓なのだ。
こころの浄化は、その窓を清め、我々及び我々を取り巻く存在宇宙の有りのままを観ずるためのものなのだ。
法則を意識的に解明し理解出来るのは人間という「意識的存在」の与えられた特権のようなものである。本来は科学も宗教も宇宙を含む大自然を理解し解明して、そのあり方を再生産再創造してゆくものであるが、いつの間にか現世の利益、生きるための糧を稼ぐ為のある意味で奴隷作業に成り下がってしまったのかも知れない。
我々は元々、いや今も根源の一者である。いや、その現われのひとつであるというのが今は無難であろうか。
根源の一者であることは、今のあなたやわたし達の有り方でも充分に理解出来るかもしれない。
いつも不完全で不足であると思っているあなた・・が、それを示している。
●冗談はもうよそうではないか
嗚呼・・、宇宙的な冗談はもう充分ではないか。
勝手な言い様と言われるかもしれないが、
今地球という時空がそれを密かに告げているのがわかる。
その変化の予兆が、あわてた世界の陰謀者の口から出ようと、
人類が自ら行なってしまった、身近な環境異変からのものであろうと、
人類意識は間違いなく卒業する時期が来ていると思う。
今までかつて無い予兆に気付かないだろうか。
我々は、「執着心」よりは「いさぎよさ」を、
「収奪」よりは「与える」ことを、
「逃げる」よりは「立ち向かう」ことを選択する時期にあるのだ。
まさに・・生命を賭けた古くからある戦(いくさ)自体も、いまはもう卑小になり果てたのだ。
もうその使命は終わったと知るべきだろう。
立ち向かい進む先は・・、幾多の過去のような、
外の世界の兵(つわもの)達との戦ではなく、
1人1人の、おのれにある「卑屈」さである。
いまは卑小な自己を演じるに及ばず、
もう潔く、
その卑小な自我をその背にひょいと背負い、
本来の輝ける自己自身に戻るときなのだ。
本当の兵(つわもの)とは、卑小な自己と対峙し、
その今までの役目を認め、
それを取り込んでさらに大きな自己への飛翔を遂げるものである。
全てを見晴るかす、次元の丘に立つ者のことである。
この地にある幼き者達よ・・・。 おろおろするな。泣き叫ぶな。
いまここで、この期に及んで、戦や収奪を行なうものは、
この地と違う別の時空でやり直すことを選択していることを知れ、
今は過ぎたる時であり、すでに及ばざることなのだ。
我々は悠久の魂をその本源とする者である。
戦いはこの宇宙に本来存在せず、あるとすれば、是認するならば、
自己との戦でしかないのだ。
それが済めば戦など、どこにも無いことが真に、真に、解ることになる。
そのために母なる地球は有象無象の我々を育ててきた。
魂の発露の体験をすることが出来るのも、母なる大地のお陰なのだ。
意識的な存在であろうとするのか、無意識の赤子であろうとするのか、
それは、すでに、もう明らかなことだろう。
今回も、誠にもって勝手な記事をご覧頂きまして、有難うございました。