気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

色即是空のエネルギー(3) デゴイチ出現

2013-04-07 14:48:47 | 新地球文明論

●新しい可能性の認識から現実へ

かつて一大革命を起こすような画期的な技術やノウハウが、陰謀やらによってつぶされてきたという話も多々あるわけだが、そういうことになるのは、要は大衆意識がそこまで認識出来ていないからだとも考えるべきであろう。

 

人々にそれに関する認識が多少ともあれば、逆に人々にとって画期的な発明や発見が、エゴの行為によって見殺しにされることもないということだ。

 

先駆者たちは常に、そういう人々の無知や偏見あるいは無意識的あり方によって往々にして迫害を蒙るものである。なぜかと言えば、いろいろな分野を通じて人々の意識の進化、目覚めを促す行為そのものこそが、この宇宙で最も高邁な奉仕であり、場合によって否応なく犠牲を強いられる場合も多いのである。

 

画期的なアイデアや革命的知見は、それが周知されること、あるいは共通の認識にならないと、当然ながら社会という共通現実世界では表面化しないということだ。

 

個人においてもそうであるように、集団内で共通で認識せざるものは、その集団内に顕在化しないわけである。

 

根本的にはそういう事であり、誰かどこかが、人々がより良き世界に住むための知識や英知を握りつぶしているという解釈は意外と正しくない。真の原因は人類全般の意識の狭さ、見識の低さにあったのである。

  

●二元性の終わり

こういう見方は、社会の出来事、人間関係の個々別々の現象を追い掛け回している限り、決して見えてこない。

 

マクロ的にみるならば、世の中での悪や偏見、傲慢を地で行く者たちとは、人類全体の中にある闇や無知の縮図を代表しそれを敢えて表現する役目をする者たちである。

 

ところがそういう悪を演じる個々の者たち、例えばオオカミ自身にもそれがわからないわけであり、またそれに迷惑を蒙ると称する羊の群れたちもそれがわからない。

 

つまり地球という次元世界での生き残りを掛けた、それぞれの自由意思に基づく健気な演技なのであるが、そういう演技を行なっている者たちが、自分が役者なのだという事自体に気づいていないということだ。

 

自己とは・・地球という劇場に顕れた、普遍的生命・魂であり・・・人生とはその舞台での一過性の演技であるということに、なかなか気づかないという事である。

 

人類という集合体はあなたやわたしという個々人の、フラクタルでマクロ的な展開であり、あなたやわたしたちの内面にある光と闇、英知と無知の玉石混交の有様自体を観ることが出来るならば、善も悪もそれらの段階を示すものでしかないことが確り理解できるだろう。

 

善も悪も、嫌も応もなく、全ては魂レベルの気付きの為であり、またすべては進化の途上にあるという事である。

 

明言するが、善悪観念がどうしようもなく対極を構成するような、そういう時代は終わりを告げたのである。

 

・・・

●認識によって顕在化する法則

 エネルギーは人間の生活に深くかかわるものであり、そのエネルギーがより自由自在に得られるならば、今までの人類の苦悩や無駄な労力も無くなるはずであるが、それが今までどうして我々の前に出てこなかったかと言えば、

要は、我々の多くが新しい事実に気づかなかっただけなのだ。

 

既成の概念、常識観念の範囲では、当然ながら新しい事象に気づくことはないということだ。 

  

新しいものなどない・・というのが集団での認識であれば、共通現実で構成されるこの世界に、そもそも新しいものなど存在しないということになる。

 

・・・

曇り空であれば太陽がその上にあっても光は地上に届かない。

こころが曇っていれば、 

それが今までに、そこに有ったとしても・・・観ることあたわず・・である。

何事であっても、「それ」を存在認識として気付かなければ、「それ」は顕在化しないのである。

  

・・・・・

しかしながら、真の意味での次世代エネルギーも、今ようやく顕在化してきた。

 

様々なフリーエネルギーという過去の技術、二コラ・テスラ、E・グレイ、エマモーター、等の断片的な発明情報や経緯は、謎めいたストーリーと陰謀と、闇と光の闘いのようなおどろおどろしい伝説を通じて、ようやく一般の認識レベルにも静かに浸透してきた。

 

ご存知かとも思うが、

 

その1つは、

日本で特許出願し、昨年公開された、井出治氏の通称デゴイチ・コンバーターと言われているものである。

 

日本で特許出願し、それが公開されたということは、現状の社会制度において、

すでに公知の事実になったということだ。

嘘も隠しも出来ない形になったということである。

 

あまりよそ様の情報を添付しない主義であるが、公開文なのでここでの紹介も問題はないと判断する。下記は参考サイトであり、ここから特許庁の閲覧も可能だ。)

http://puripuripaicha.blog106.fc2.com/blog-entry-6.html

 

日本での特許公開がされたわけなので、これは法的に「公知の事実」になったということだ。

発明者に特許が下りれば、彼に知的所有権が発生するが、他の人もこれを勝手に事業化して金儲けをしない限り、個々での製作は基本的に問題がない。そう、誰でも作ることが出来るのである。

 

 ・・・

英語ではなく日本語なので非常に解りやすく説明されているが、  

そのどこにも、フリーだとか、真空だとか、空間エネルギー等とは書かれていない。  

当然ながら、変な誤解や大衆の有頂天、乱暴狼藉?などを招かないような、ごく普通の電気的な技術文書として書かれている。

   

やや専門的な言い方になるが、

その公開された技術は、単にパルス駆動型のトランスシステムを使った「高効率のコンバータ」としての技術特許とされる。  

決してわけのわからない異次元の物質など使っていない。(笑)

 

ではあるものの、磁場という空間の「場」の変調を制御することで、その「場」の揺らぎ、跳ね返りのような効果を通じて、この次元へとエネルギーが滲みだす・・という表現も可能だろうか。

あるいは、2次元平面の土地に3次元的な縦穴を掘ることで泉が湧き出す・・という言い方もできるかもしれない。

 

この超高率コンバータは、スピリチュアルな概念の組み合わせによる先行観念的な論議で終始することなく、そういう可能性を考慮しつつ、氏が独自に、長年コツコツ研究・研鑽。探究してきた、ここでいう「真空エネルギー」の1つのシンプルな実現方法なのである。 

 

20120427221328098


(31は直流電源、34はパルス発生回路、33はスイッチング素子(FET等)
 32は特殊なトランス、35は負荷。)

 

私の所感を示すならば、これはフリーエネルギーというものが<認識>から<現実化>へと転換されたものであるということだ。

 

夢を夢とせず、それをこの世界に持ち来らせたということだ。

 

電気の普通の基礎知識があれば良く、少し時間をかけ、そして我慢して少し食い下がるだけでそれが理解可能だろう。

  

そして、その先に直観がやってくるはずである!

 

 

●電磁波動を使い、空間から余分な電磁共鳴波動としてくみ出す方式

鉱石ラジオが、空間を伝播する電磁波をキャッチして電気エネルギーあるいは音声に変換されるように、あるいは地中の井戸の水をくみ出すように、

一定の磁場変化の波形と周波数を調整することで、その共鳴磁場の発生・消滅サイクルで滲み出すところの真空エネルギーが存在すると考えられる。

 

それは1種の電源コンバータのようであり、電磁コイルを使った磁場の特殊な配置と、それを生じるための電流の波形と周波数の組み合わせで構成されている。

 

言わば特殊な組み合わせで作られた、トランス(変圧器)駆動回路のようなものである。

 

特許公開文書には、実施形態を説明しつつ、得られる事実のみを主に記述するものであり、感想や予想は意味がないため、当然記述などされていないわけだが、

 

それを見るに、変圧器(トランス)の特性としての”磁場の「空間」伝達”に関わる現象の中において、逆起電力の残留波動の有効活用、レンツの法則などの組み合わせの妙によって、実際に空間からエネルギーが取り出せているのだ・・という理解が可能である。

 

ごく普通の電気、磁気の法則にのっとって構成されている代物であり、おどろおどろしいものはどこにも無いわけで、また隠し事やそれに付け入る隙もない。

そして、自分の分析と直観によれば、これは真空エネルギーを利用した超高率のコンバータであるということがわかる。

  

まさに、シンプル イズ ベストだ。

 

・・・    

磁場も重力と同じく、空間の1つの歪のようなものと考えるならば、その磁場によって生成している空間の歪に対して、ある種の波動を与えることによって、波動の共振、共鳴現象が起き、その増幅された波動(磁場エネルギー)を一部取り出すことが出来るものと考えられるのだ。

 

プラス・マイナス=0、  +1-1=ゼロ、 陰・陽=空(くう)、

また、水面に石を落せば、そこを中心として円を描く波が生じるだろう。

・・・波が生じたということは、エネルギー波動として現実世界に顕れたということだ。

語呂合わせではないが、

どうやって空(くう)に、石(意思)を落せばより効率的なのか、それが課題であったともいえるだろうか。

アイン・シュタイン(一石さん)も喜んでいるに違いない。(笑)

  

・・・

そのデゴイチコンバータは、1なる電源入力で、1以上の出力を可能とする電源変換器であり、通常一般の変換器(コンバータ)と違って100%を超える効率を出すとされる。

 

科学技術的な見識がある場合は、こういう話になると、もうここでダメである。(笑)

電源機器の効率は常に100%以下なのだという「常識」があるからだ。

つまり、装置の入力より出力が増えているというと、一見永久機関を連想するトンでも系と言われるのである。

 

しかしながら、自然界には未だ人間が知らないこともあるという謙虚さがあるならば、一概にすべてトンでも・・・として捨て去ってはいけないはずである。

 

効率が100を超えると称する仕組みの信憑性を論ずるならば、1つにはその周囲の空間が冷えるという現象に注目する必要がある。 

 

通常の装置でいつもある損失熱、発生熱が無く、逆に周囲の空間が冷える現象、すなわち吸熱するという現象がある。この周囲の空間からの吸熱という現象があるシステムは、全てとは言わないまでも、間違いなく100%以上の高率が可能な機器と言っていい。

   

普通のコンバータは  入力 ⇒ 出力 内部損失(発熱)  であり、

必ず入力>出力  であるが、

  

デゴイチコンバータは  入力 ⇒ 出力 -内部損失(吸熱)  とされており、

つまりは 入力<出力  となっているのである。

100の入力エネルギーが、「それ」を通過すると、空間のエネルギーが湧き出し加わり、出力されるエネルギーに追加され、100以上のものになるわけである。

つまり、このコンバータによって空間エネルギーが湧き出し、滲みだしているということ。

 

(誤解を避けるためだろうが、公開特許ではそういう100%以上の効率に関する文言は当然ながら記述されてはいない。)

しかし・・もし・・100%を超えるならば、とんでもないことになるわけだ。

 

・・・我々は今までと異なる生活様式の世界に入ることになるのである!

  

これを数段組み合わせれば、何段も増幅できるわけであり、その増幅の一部を入力側にフィードバックすれば、初期駆動、トリガー以外のエネルギーが必要なくなるということだ。

つまりエネルギーが空間から供給されるために、必要なのはそのエネルギー発生器を最初に動かすトリガーだけになるということである。

 

これも発想の転換、既成の概念の跳躍を必要とするものである。

 

①今までの文明世界を根こそぎ変えてしまうか、

あるいは

②まったく違った世界にならなければ、普及しないか。

そのいづれかであろう。

しかしながら、前者と後者では、まったく異なるプロセスが起きるという事だ。

①は最も望ましきソフトランディング的な文明転換であり、②はハードランディングによる破壊を経由した再生と言えるだろう。

・・・

 

エネルギーがどこでも得られるような生活様式、

そんなこと不可能に決まっていると・・・思うのか、

 

可能性ありと・・・思うのか・・・、極めて簡単に言って・・・、その違いだけなのだ。

 

今はもう、それが嘘や売名行為やペテンなどとは思わなくなりつつある時代であることに気付けるだろうか。よく言われるように、信じるも信じないもあなた次第・・・である。

  

既成の概念だけに縛られない、好奇心旺盛な諸氏や、感受性の高い人々が増えているのも事実である。そういう時代なのだ。

 

それはまた、先人の努力と英知のおかげで、人類意識上での<認識>が変わってきたのだと言えるだろうし、そういう認識の向上、意識の進化に伴ってそれに呼応するかのごとく、雄大なサイクルがめぐってきており、宇宙空間からのエネルギーも浸透してくるようになったと考えられる。

 

意識、想念、エネルギー、現象・・・・すべて一連でつながっているのだ。

 

・・・

 

進む道は形ではなく、意識にある。

その正道を歩く力強いガイドは想念であり、

道すがら、周囲の景色や咲く花々は、エネルギーの賜物である。

そしてそのエネルギーはこれから一大変化を起こすことになる。

 

 

現象・形・物質のほうにこだわる者は、未だそれを識(し)っていないことを示し、

ごく当たり前に行われるところの2元性の「卒業」は難しかろうか。

  

我々が存在する世界の基本プロセスは・・・・意識~想念~エネルギー~現象化であり、

意識の働きである想念を変えることで、扱えるエネルギーも変わり、現象化の様相も変わるのである。

他の動物・植物という生体と異なり、人間には想い、想念、思考という、エネルギーを生み出すところのプロセスに先行する、意識を使うことが出来るポジションにいるということなのだ。

言わば我々はそういうところまで進化の道を歩いてきた魂の強者(つわもの)なのである。

 

魂という、肉体個人我よりさらに大きい「わたし」を意識するまでに成長した、我々人間という生命体は、まず想念の第一義的な重要さに気づかなければならないのである。

 

難しげなものは本当に何もない。

想念と行為によって世界が変わってゆくこと、   

あなたは本当にそれを感じることが出来るか? 

 

人の第一義的に大切なことは、姿かたちや見栄え等でなく、その想念にあると理解可能だろうか。

昔からあったことであるが、多分道が2つに・・・1つとはこういうことなのだ。 

 

・・・

金や物より大切なのはこころの有り方と知っているか?

   それとも、銭金が第一に大切なことだと思っているか。

   

こころが本来常に青空のように美しくあるべきだと感じるか?

   それとも、いつも外の何かのおかげで曇っているか。

 

気分は、何があってもどこか晴れやかであれると感じるか?

   それとも、他人のおかげで食虫花のように毒々しいか。

 

心だては太陽のように、無条件に他に優しいことが本来だと感じるか?

   それとも、親切や慈しみは無駄と思っているか。

  

何かの折には、いつも自己を省(かえり)観れるか?

   それとも、・・・ばかな・・、悪いのは自分以外だ・・・と思っているか。

 

嵐の中でも、どこか穏やかであれるか?

   我を忘れ右往左往するのが当然と思っているのか。

  

真実を知っていくことが楽しいか?

   今の知識がすべて正しいと思っているか。

 

自分の中に、汲めども尽きぬエネルギーをどこか感じることができるか? 

  それとも、そんなものはないと思っているか。

 

自己を、肉体を表現している不滅の<魂>・・と識(し)っているか?

  それとも、人は単なる肉体であり、死んだら終わりの有機的物質であると思っているか。

 

あらゆる全ては、調和と変化と進化を楽しむためにあると、感じることが出来るか?

  それとも、生命は競争や弱肉強食で進化するものだと信じ込んでいるか。

 

・・・

自己を観る、想いを観る、行動を省みるという行為の重要性が、古代から受け継がれて来たことには理由がある。

 

魂のレベル、あるいは進化、あるは学習成果、あるいは楽しみ・・・・は、自然に生起する想念という意識の2次的生起波動によって、それを自己確認することが出来るのだ。

 

また、人々が自己のこころを観ることによってのみ、自分が生まれた世界において、自縄自縛に落ちいっている観念による足枷手かせを外すことが出来るのだ。

  

想念が様々なエゴ、我欲の執着に縛られなくなれば、そういう存在達の扱うことが可能なエネルギーもまた、より自由(フリー)となるのが・・・なるほど道理である。

  

真空エネルギー、フリーエネルギー、あるいは宇宙エネルギーなるものは、

  

人のこころがある段階まで自由になった時に、それが使用可能になるなものなのだ。

 

決して般若心経がどうだこうだという事ではなく、それは色即是空、空即是色を理解する者たちの当たり前のように扱うことが可能な無限供給エネルギーといえようか。

 

またそうでなければ、至極当然ながら、エネルギーの誤用招くことで、自滅自壊するのは火を見るより明らかなのである。

 

こころ進化せざれば、進化せる何ものの威力も扱うこと能(あた)わず・・である。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

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色即是空のエネルギー (2)

2013-04-06 11:13:22 | 新地球文明論

●今までのエネルギー概念 

現状でのエネルギー使用の1つの容易な形態は電気エネルギーであり、従ってある部分で自由エネルギーは分散型発電機とも言えるだろう。

 

すでに実用化され使用されている燃料電池の燃料は、水、水素、酸素であり、燃料自体はどこにでもある水と空気なのである。またそれはどこにでも設置できる小型分散型が可能な発電装置であるし、燃料自体はどこでも得られるようなものであるわけで一種の自然エネルギー利用とも考えられる。

 

また自然エネルギーシステムとされる太陽光発電、風力発電も、天気や風の条件にもよるが燃料自体は太陽光そして風という一種フリーなエネルギーである。

 

地熱も波力もやはり自然の中にある温泉の蒸気流、海水の運動エネルギーを利用している。

 

これら自然エネルギー発電は、発電装置の製造、設備投資とその維持管理をする必要があるが、燃料そのものは自然の中にあるものであり、ほぼどこにでも存在するエネルギーを利用しているのである。

  

火力、風力、水力、そして危険な原子力の発電も、実のところは空気や水の「運動エネルギー」を利用していることに変わりがない。

 

火力は燃焼による空気分子の運動エネルギー、水力は水分子の自由落下で得られる運動エネルギー、風力は大気中の空気分子の流れを利用するものである。これらは分子運動エネルギーと言えようか。

 

原子力も要するに原子核の崩壊を加速させて、放出される中性子粒子の運動エネルギーを利用し、それを水に当てることで水を沸騰させて蒸気化し、発電タービンを回しているのである。これは原子運動エネルギーと言えるかもしれない。

・・・

一概に言うならば、今までのエネルギーは、火と水の使用法から逸脱しておらず、最終的には空気、水等の粒子の運動エネルギー、つまり粒子の流れを作り出し、それをモーターに導き、交流、直流電気に変換しているということである。

 

●原子力は物質偏重文明の最終エネルギー

原子力にしても、結局は水なくして発電できない代物であり、根本的な問題は、自然にそのままあるはずの放射性原子を集めて濃縮し、より濃密な原子核崩壊エネルギーの塊を作り、その原子崩壊時の電磁波エネルギーを利用することにある。

 

それは他のエネルギーと違い、周囲環境のエントロピーの急増大、あるいは生命の崩壊を導きかねない類のものなのだということは誰でも知っているはずだ。原子崩壊時に生じる放射線が分子レベルの波長を持つために、生命種の形態設計図であるDNAを破壊するのである。それを分解、解消できないために、長期隔離、完全密閉が要求されるが、そんな完全な技術が世界にあるはずもない。

  

放射線によって設計図たるDNAが歪になってしまえが、出来上がる形態は確実にそのように歪になるのは当たり前なのだ。そして自然界に本来存在しない生命形態は当然ながら生存することは出来ないのである。

 

現実に人類は未だ原子核崩壊そのものを十分には制御できず、その核燃料から放射されるエネルギーも中和することが出来ないでいるわけで、問題は、そういう制御不能な根本問題を総合的に解決せず、一部の制御が可能な部分の利便性だけで見切り発車しているということである。

 

素知らぬふりをし、また何が何だかわからぬ者たちが、他の犠牲を承知の介で研究・蓄積すればいいなどと考えているならば、それは生命種として・・もってのほかの悪逆行為なのである。

 

故意か、結果的は知らないが、愚かこの上なくも、今それが平然と行われているのである!

 

いわば経済功利性の共通利益を理由だてにしているわけだろうが、何万年も汚染が続く状態の使用済み核燃料を放置しつつ、その処理を先送りでごまかしている、つまり子孫に巨大な負債と危険性を残しているトンでもない行為なのである。

 

お金の為か?身の安全の為か?目先の便利さか?

 

そんな刹那的な理由で、多くの生命を途方もないリスクに巻き込もうとしているのだろうか。

 

 

記者会見席で、知らなかったといって頭を下げればいいものと次元が異なるのだ。

 

最近次第に福島周辺域でも、遺伝子破壊の影響が顕在化してきつつあり、あちらこちらに植物、動物の異変が増えていることが真面目な研究者、学者たちによって観察され報告されている。

 

●土壇場まできた魂レベルの選択ステージ

 

このまま進んでいく世界ならば、人々の肉体に異変が生じ、子孫にも伝わり、それを解消するために、どれほどの時間を費やすことになるだろうか。

 

分けを知らずとも自滅を率先した者たちは、場所から逃れても、カルマからは逃れられない。

 

肉体は一時逃れても、・・・魂としては決して逃れられない。

 

それは・・・調和していないこと・・・そう、それは違うのだと!・・心底わかるまでは、

 

魂は・・・決して学習は終えないからだ。

 

それが言われるところのカルマだと言えようか。

 

・・・

●大自然に対して傲慢か、あるいは謙虚かの問いかけ

放射能汚染は、・・・生活を維持するために、無理して頑張って食べれば・・・それが無くなると思うほど、そんなに自然界は甘いものではない。

 

大自然はある面で厳然とした嘘を決して言わない教師のようなものである。

 

我々は、いつから、・・いつから・・・母であり、父であり、その物理的身体を提供し、魂の学びを支えている大自然という教師より偉くなってしまったのだろうか?

 

・・・

福島のひいては日本の未だ癒されざる現実は、現状で放射性物質の処理が不能であることの証左である。

 

そのような完全な制御もままならないものを、さもわかったふりをして行使すべきではないのである。

  

まさに子供の火遊びのごとくであるが、ちょっとバランスを崩し、さらに予想外の外乱が加われば、全世界を汚染し様々な生物種のDNAを破壊し、地上を不毛の大地にしてしまいかねない、・・・まさに寸前のところに来ているのだ。

 

まったくもって、ローン返済や経済功利性や、利権やエネルギー消費の貢献などのようなレベルの話ではない。

 

過去の教訓を生かさず、それを無理やり忘れ去り、あるいは誤魔化して、右ならえの目先の功利性や利便性だけで終始する事は、ほんの少しの切っ掛けで、もう完全な形で奈落の崖に転落してしまうための小さな重り(おもり)に等しいのだ。

   

2年前と今の現状を見れば、そのうち何とかなるというような、そんな状況ではなくなった。

 

・・・・

 

気付かない間に・・・、ここで・・人間の本質の進化レベルが試されているのではないか。

 

まるで道が解りやすく、2つに1つまでに集約されたようなものである。

  

1つは古き観念、例えば金銭や核等への執着による自壊であり、もう1つは不要と悟った執着観念を捨てた、その潔(いさぎよ)さの後に出てくる光明である。

   

昨今の増大する核や金にまつわる事ばかりの世界の騒ぎの本質を観る限り、

    

意識、選択する時間というものも、もうそれほど残っていないようである。

 

土壇場とは、昇るか落ちるか、止まるか進むか、そういう一大転換ステージのことである。

 

それは間違えようもなく、それぞれの魂レベルで決めることなのだ。

  

(つづく)

 

 Road_1009


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色即是空のエネルギー (1)

2013-04-03 17:01:50 | 新地球文明論

●真空エネルギー

真空エネルギーとかフリーエネルギーとか、そういう新しいタイプのエネルギーが前世紀の中頃から人類の一部で話題になってきた。

 

知っている人は知っているが、知らない人は全然皆目知らないかもしれない。それは一般的には荒唐無稽な話なので、、まー、当たり前なのだが・・・。(笑)

 

それは、当然今までの既存の火力、水力、原子力、風力、太陽光・・以外のエネルギーを利用したシステムであり、何時でもどこでも得ることが出来るといわれるものである。

 

その1つに、空間エネルギーとか真空エネルギーとか言われているものがある。

 

それは何もない・・はずの空間に生ずるエネルギーであり、通常観念では明らかに眉唾とせざるを得ないものであるが、空間とは何か、あるいは空(くう)とは何かという探究の先に、当たり前のように出てくるものと考えても良いかもしれない。

 

ある意味では、「空即是色」そのものに沿ったエネルギーと言えるだろう。

  

空(くう)はゼロと思いきや、+1-1=0 でもあり、また+100-100=ゼロでもあるように、

 

空(くう)は、実のところある種の<充満>であり、空(くう)がなければ有も生じず、また有は空(くう)に帰すということである。

 

昔かの有名なディラックという物理学者は、真空は電子と陽電子で満たされているのではないかと言った。

 

その根拠は、運動エネルギーと電荷をもっている陽電子(+電荷)と電子(ー電荷)が相互に衝突すると、跡形もなく空間に消えてしまう対消滅という現象があるからだと考えられる。

  

・・・ありゃりゃ・・一体どこに消えたのか? と言ったかどうか。

 

それでディラックは空間は何もないのではなく、電子と陽電子で満ちているが、エネルギー的にプラス・マイナス・ゼロというバランスを持って潜在していると考えたようである。

 

有るには有るが、それを取り出す何かがなければ現れない・・というわけである。

 

何か実にややこしい、禅問答のようなものだ。

 

それはまるで、存在物とは、空(くう)という水面に一時生じる「波紋」のようなものとする認識と同じようでもある。

 

さらに、空(間)は電子、陽電子のみならず、様々な波動、またその局在的な集合ともいえる粒子の生じる根源であるとも言えようか。

 

そういう、空間から取り出すエネルギーを称して、真空エネルギー等と言っている。

 

かつてはSFで済んでいたわけだが、何事においてもよくあるように、それが現実的になって来たわけである。

・・・

 

えー?マジ? そんな馬鹿な・・ というような眉唾ものと感じるかもしれないが、実は今まで気付かなかっただけの、本来あって当然ともいえるものなかもしれない。

 

そういうものがフリーエネルギーと言われるものであり、またそんな夢のような話には、決まっていつもおどろおどろしい結末や陰謀などが付きまとってきたのも事実であるようだ。

 

それは多分、結果的にそういうものが流布するための期が熟していなかったからだともいえるだろうし、

 

また、そういう空間からエネルギーがタダで得られるという、まるで夢のような可能性すら、そうその可能性すら、到底受け入れがたいものとする観念が人類の根底にあったからだとも言えるだろう。

 

しかしながら、ひょっとして今はもうその時期が熟したと言えるだろうし、逆に

 

それは、これからの大転換に時を同じくして、どうしても出てこざるを得ないと考えられるのだ。

 

確かに本格的な、言わばちょっと高い次元に属する 「次世代エネルギー」 なのである。

 

その先達とも称されるかの有名な 「二コラ・テスラ」は、実に・・1世代早かったのである。

 

・・・が、しかしちょうど、そういう熟成の時間が必要だったという事かも知れないわけで、

  

まさに、ちょうど・・・、なるように・・なっているとも言えるだろう。

 

・・・

 

●フリーエネルギーはゲームオーバー時期に出る?

  

 真空エネルギーとは、何もない空間から取り出すエネルギーという意味であり、フリーエネルギーとも言われるように、ほとんどタダ (フリーとは英語でタダという意味がある) 同然で得られるものという意味だ。また身近なところ、どこでも得られるという意味でもある。

 

その技術的な方法論はすでに世の中に数多く出ているのであるが、企業的、事業的な欲望やそれに付着する権謀が常に渦を巻く傾向があり、かつまた、大方はそれに気づかず「とんでも・・」等と言って敬遠、無視するのが常なのである。

 

多少とも理解できる場合でも、既成の概念から見てその異質な有様に戸惑いつつ、面妖なこととして切り捨てることがさも科学的だとしている識者もいるだろう。

 

そういうものが全て眉唾だとする根拠としては、多分エネルギー保存則の固定した解釈からの反応であったり、既成の概念で理論づけできない、実例がないという事であったり、また逆に、そんなに良いものであれば、とうの昔に世間に広まっていてしかるべきだという感覚があるかもしれない。

 

それが事実ならすでに世界の表面に出ていてしかるべきではないか・・というのは、実はちょっと本末転倒の考え方なのである。

 

どこでもドアではないが、どこでも取り出し可能な発電機があるとするならば、それは極めて汎用的であり、またそうであればこそ今までのエネルギー体系を覆すことにつながるここと、

  

また実は簡単すぎて、複雑な体系化がそれほど期待できず、それによって産業化と利潤追究のメリットが無くなる類のものでもあるわけで、

 

実現したら最後、あらゆる旧態依然たるエネルギーシステムが不要になるのは目に見えているのである。

 

だから今まで普及してこなかったともいえるだろう。

  

なぜなら、あまりにシンプル過ぎて、あらゆる仕組みの根本が恐ろしく変わってしまう可能性があるからだ。

 

経済発展信仰で必死で邁進しているような時には、まさに迷惑で時期早生なエネルギーなのであろう。

 

それは既存のやり方にとってはまさに「ゲームオーバー」を意味しているからだ。

  

また、さらに本質的には、人類の一定以上の精神、霊的進歩がなければ、そういう膨大に増幅可能な、また極めて汎用的なエネルギーの使用は禁止・・・というような宇宙的な法則があるのかもしれない。

 

そう、何事も、なるように、なっているのだ。

  

そして、その時もまた・・今なのである。

  

まさに・・・・人類にとって、今という時は、非常に、非常に微妙なバランスで成り立っている時期にあるということを、

 

こころすべきであろう。

    

(つづく)

 

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現文明のターニングポイントは過ぎた

2011-04-25 08:11:40 | 新地球文明論

今回の東日本を襲った大震災は、単なる未曾有の震災ではないと思われる。

自分自身も東京の職場において、遠く近く、揺らめくビルを眺めながら、もうこれが最後の見納めかという想いが一瞬脳裏をよぎったものだ。

最後の見納めにはならなかったのは、幸いといえば幸いであろうか。

 

かねてからすでに何が起こってもおかしくない状態にある、地球の静かで確実な大変動には注意をしているが、どれだけの人々がそれに気づいていることだろう。

地球にとって、たった数メートルの地殻の振動が、人類にとってはそれこそ驚天動地の災いとなることにすら気づいていなかったのではないだろうか。

あるいは今でさえ気づいておらず、突然起きた目の前の惨状だけに目が奪われることになっているのかもしれない。

 

びっくり仰天した集合意識のなかから、それでも皆頑張って生きるのだ、というポジティブな人類共通の仲間意識に通じるような、感情的プロパガンダもようやく出てきているが、それもどこか人間の命だけを考慮したものにすぎはしないだろうか。

 

個人個人の命も大切だが、それだけにとどまらず、我々の多くの生命の仲間たち、鳥、魚、動物、植物も生きているのだということを、今更理解できない人々がいるなどとは考えたくもないことである。

 

今回の大震災による福島の原発のダメージは、放射能汚染といういわゆる死の灰の拡散につながり、どんな科学技術を使おうと、おいそれと抑えることもできないということを示している。

 

これらはすぐに終わるような悪い夢のようなものではなく、今実際に起きていることなのだ。

現状のどんな科学技術を使おうと、物質崩壊にともなう強力なエネルギー放散の領域にはおいそれとアクセスできるものではないことは、いつも一部分のみをみせる断片的な現場中継録画というTV映像でも理解ができるだろう。

 

ドイツの機関が出している時間ごとの放射能汚染状況マップでは、日本の一部から血が流れ出している様子を見ることができる。

 

あれは単なる他人ごとの、あるいは何かの花粉のような、はた迷惑な汚染マップということではなく、日本の一部から物質崩壊エネルギーを付加された様々な原子、分子が飛び出して、世界中に拡散していることを示している。

 

物質崩壊エネルギーは目には見えないけれども、崩壊にともなう強力な電磁波を周囲に放っているわけであり、そのエネルギーのあるいは電磁波の塊が、様々な分子、組織に付着重合しながら地球の大気、地殻に拡散することで、様々な生命の設計図たるDNAや組織細胞を傷つけることになる。

 

世界の人々の騒ぎはその恐怖を如実にしめしているわけであり、その恐怖をあたかも無いかのようにふるまう日本の人達の姿を垣間見て、そこに謙虚さとたくましさを感動とともに感じていることだろう。

 

しかしながら、ことはそんな感動的な物語では締めくくられないだろう。

それは逆に、一般大衆にとっては、恐怖を中途半端に知らないほうが、はるかにまともにふるまえるという、笑えないような事情をも含んでいるかもしれない。

寄らしむべし、知らしむべからず、という為政者論理がまだどこかで生きているのかもしれない。

とにかく頑張るだけのいつもながらの感情論でのモチベーション上昇では、人類が起こした、あるいは、今後も起こしかねない大惨事をどうすることも出来はしないだろう。

 

今、地球は地殻変動期にあることはわかる人にはわかるようになっている。

太陽の挙動も以前のパターンから明らかに違うパターンになっていることも、わかる人にはわかるかもしれない。

 

公からの情報は、後でしか出てこないことは、もうすでにわかることなのだ。

それらを待っていたとしたら、何か起きるその瞬間と、あるいは遭遇するエネルギーのギャップが大きすぎて、結果生命死に至るようなその瞬間、生命が時空を離れるその瞬間すらも、味わうことができないだろう。

何かに頼り、何かを期待して待っている過ごし方は、今のこの時期にはそぐわないのだ。

目を覚まし、自らで周りの状況を観察する必要があるのだ。

 

大勢の人たちが言うからといって、世論がどうだからといって、それに迎合してはならない時期なのだ。

 

世論が今の原子力発電の惨状と拡散する放射能汚染を救うことができるのか?

 

偉い人たち?の集合と思われている政府が、物質崩壊エネルギーを中和することができるのか?

 

それができない相談であるということは、実際の核の専門家であれば皆知っている。

皮肉ではあるが、現実を知っている専門家は、そのうち今回の危機も消えてゆき、またなんとかなるという幻想を信じるわけにはいかないだろう。

 

 

それならばなぜ極めて制御の難しい、危険極まりない原発をだましだましでも使おうとするのだろうか。

あまつさえ、大量の人殺しを目的とした核兵器を蓄積しているのだろうか。

 

それらの根っこにあるのは、競争に後れをとってはならないという生存競争の観念であり、それに輪をかけた競争に打ち勝つための、圧倒的な力の保持欲求なのだ。

 

それで、実際だれが幸せになれるというのか?

 

不幸を創り続けるのは、人間のこころにある不信であり、またその不信は他者が原因ではなく、それぞれの内面にこそある歪みに起因する。

 

他者が悪く、したがって信じられず、犠牲者にならないために他者を威圧する力を保持しようとしている・・・ただそんな理由なのではないか。

根本的に言えば、全て人間の意識発露の歪みからきているといえよう。

 

難しい理論も、何もどんな関係もありはしないのだ。

どんなに入り組んで複雑なことも、根っこは人類の内面、観念、想念、想いの蓄積パターンからきているのだ。

 

それらは、多かれ少なかれ、我々一人ひとりのこころにあるのだ。

  

出来得れば、

それぞれの私たちが、起きる騒ぎにこころ奪われず、

自らの心を静め、大切なものは何なのか自らが見極めようか。

地球上の友人知人、同胞、兄妹姉妹である多くの同時期の仲間たちの、

愚かと思われる行為にも理解の眼を向けようか。

 

そうして、それを目撃するあなたの中にも、それがあることを知るべきなのだ。

 

正も悪も、善も邪も、

どこか誰か、何か別のものにあるわけではなく、

あなたやわたしの中にもあるものだということを自らの内面に探り出すのだ。

  

自由、とは本来「自らに由る」ということ。

  

根本的には、観察者たる意識によって現象の挙動が決まってくるというのは、

量子物理だけの法則ではない。

 

原子核に辿り着き、この世界の仕組みを理解したはずの人類は、

それを壊して一時得られるエネルギーに固執してはならない。

 

何万年の未来に渡って消えることのない、危険極まりない分解不能な粗大ゴミを、

子孫に大量に残そうという腹なのか?

 

原子核は我々の今いる世界という舞台を構成する素材である。

核のおっかなびっくりの操作は、それを燃やして温まろうとする行為であり、つまるところは、この世界という「舞台」を壊すことに繋がるということを、

こころの底から気づくべきなのだ。

 

 

過去といわれる時間軸上でも、地球上に栄えた文明の多くが、3次元のこの舞台を壊してしまったようだ。

それも数百万年に渡って何十回となくとも言われている。

古に聞くアトランティスの逸話、インダスの古文明、モヘンジョダロ、ハラッパーの溶けたガラス、サハラ砂漠の核の遺構も、ほんの昔の出来事である。

 

一人ひとりのこころの中にも、多かれ少なかれその記憶が埋もれているはずである。

今は、何をおいても、一人ひとりが、こころ静かになるべき時ではないのか。

そうして潔く、大きく舵をきる時なのだ。

 

 

Desert

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。 

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我良し(エゴ)の迷宮を脱せよ

2011-04-03 15:14:33 | 新地球文明論

人は生まれて成長する過程で、この世界の登場人物としての教育と感化を通じて、

己のアイデンティティーなるものを知らず知らず育ててゆくわけであるが、

それは一時の仮の自己像である。

 

その時々の世間という、あるいは世界の価値観という観念群をさまざまに植えつけられ、

また知らず知らず自分で育て上げた、今回限りの仮の自己イメージにすぎない。

ある意味で、人はこの世界において、自己というリアルな夢を見ているようなものだ。

 

夢の中の自分自身に同化し、出来あがった「私」というアイデンティティーを

必死で守ろうとしているようなものだろうか。

夢という言葉が妥当かどうか別にして、非常によくできていると思えないだろうか。

だからこそ真剣でもあり、だからこそまた可笑しくもある。

  

あなたも私たちも、今ここで個々人の「私」という映像に、自己同化をしているのだが、

それに気づけるだろうか。

転生や生まれ変わりという概念を理解しているならば、それもわかることだろうと思う。

  

永遠ということは決して許されるはずもないこの世界において、

 

何が何でも、是が非でも、嘘も誠もかなぐり捨てて、

物質的といわれ、相対的といわれるこの世界の物や事に自己同化し、

どこまでも、いつまでも執着することが、真面目に「生きる」ことだということだろうか。

 

いいや、違う。

 

物や事に自己同化し、それらが自分の物だと錯覚し、

それにこだわること自体が、

様々な悲劇や不幸を招いていることに気づくことが、

今は最も大切なのだ。

  

また、

  

大自然においては、ただ起きるべきことは起きるだけのことである。

人為といえども大自然の中の所作にすぎない。

 

人間も大自然の中で生かされていることを、心の底から気づくべき時なのだ。

それがまずもって大切なことなのではないか。

 

個々人の単に肉体維持のために大自然があるわけでもない。

どこかの誰かがあなたをこの世界に生じさせてくれたわけでもない。

両親すらも単なる魂の出現ゲートにすぎないのだ。

  

我々は、ここで、この世界で、一体何を得るのだろうか。

 

そう、すでに何も得るものはないことに気づのがその目的ではないのか。

 

全てはすでに有り、我々は全てに対してすでに全託なのだ。

 

個我こそが自己極限の城のようなものだろう。

 

一見重要そうに見える個人個人というパーソナリティは、

 

我良しのエゴへと知らず知らず化けていることを知らねばならない。

  

矛盾は決して矛盾ではない。

   

我々はこの世界に何も持たずに生まれてきた。

そして時がくれば、同じく何も持たずに去る運命にある。

それがこの世界の定めなのだ。

  

だからこその、かけがえのない美しさや有難さを一時でも観じるべきなのだ。

 

人は確かに自己創造する存在である。

 

人生においては、この世界で大切といわれる個性や人格を創ってゆく。

 

人格それは「魂」という、何かになることができる「種」の創りあげた、

 

一時の花のようなものであろう。

 

花は時期が来れば咲き、そして時期が来れば散ってゆく。

 

たとえば、桜は満開となれば、いさぎよく、はらはらと美しく地に落ちる。

 

我々がそのあり方に感動するのは、どういうことなのか感じるべきであろうか。

 

人間は、その刹那であるが故の美しさと、いさぎよさ、

 

雄々しさを感じることができる「意識」を有する存在なのだ。

 

あるいは物質的な表現の中にある、無際限ともいえる大いなる創造の意図を、

 

しっかり感じ取る役割があるともいえるだろうか。

  

くるくる変わる様々な現象の中に、

 

無限に変化する自然界の美しさの中に、

 

愚かな人為によって自らが味わう苦痛の中においても、

 

無限の成長を楽しむことができるところの存在なのだ。

 

 

昇る朝日の神々しさや、

 

夕暮れどきの穏やかな黄金色の風景、

 

人々の屈託のない笑顔や、

 

子供たちのはしゃぎまわる姿、

 

時たま髪をなでつける風の息や、

 

小川のせせらぎに機敏に泳ぐ魚達、

・・・・・

 

それらを人為で創れるとでも言うのだろうか。

言葉は無くても、説明がなくても、何が無くても

  

あるがままの自然、そこに無限の愛を感じないだろうか。

  

それを通じて、見て、感じて、悟ってもらいたいという大いなる意図、

 

どうかあなたに気づいてほしい・・。

 

そんな、

 

大自然を通じた大いなる意識の眼差しを感じることができるだろうか。

  

 

嗚呼・・、

  

我々は潔く、大自然との完全調和へと引き返さなければならない・・。

 

古我への執着という、人類全ての元にある影を断ち切る時なのだ。

  

影とは、外の誰か、何かではなく、あなたや私たち自身のこころの中にあったのだ。

 

光あれば、影は消える定めだ。

 

光とは大いなる意識からの視点、眼差しである。

 

あなたも私たちも、個我のバラバラの人間達そのものではなく、

 

大いなる意識の顕現なのだ。

 

普通の生活において、今のあるがままの中において、

 

人はより大きな視点へと上がらなければならない。

 

今の「あるがまま」の中には何もない・・

せき立てられながら何か成し遂げなければならない・・

何かが不足している・・・、何かが満たされていない・・・という、

虚妄の観念を捨て去ることができるだろうか。

  

身にこびり付いたさまざまないわれなき執着を1つ1つ外せるだろうか。

 

人的な欲得の観念のフィルター、歪んだこころを浄化せずには、

 

ありのまま、あるがままの世界が見えるはずもないのだ。

  

現れ出でる大自然、諸世界の創造の美しさやその醍醐味を観じることなく、

 

安易な人為創造は、百害あって一利もないかもしれない。

  

人生という、命という、今生きてあるという、

 

「単純で明快な」不思議さと有難さを観じることこそ、そのままで嬉しく楽しいことなのではないか。

  

さまざまな外の世界のざわめきにこころを奪われ、この先も恐怖という影を引きずり回すのだろうか。

   

ここが肝心なところである。

 

古我の存続の為だけの心配や恐れの念を投げ捨てよ。

   

物でも環境でもなく、こころが肝心である。

 

自分のこころが今、何を奏でるのか?

 

それこそ常に気づいているべきことなのだ。

・・・ 

  

全てに感謝とは安易だ等と言われる場合もあるかもしれないが、

 

そこには深い深い意味があるだろう。

  

もしもあらゆるものに感謝が自然と出るようになるならば、

 

あなたはもう、

 

迷いの観念で出来た自我というまぼろしの館、

 

自分で造り上げた古い古い迷宮をすでに出ているのである。

Hydrangeas

今の驚くような世相を見るならば、本当のこと、嘘のことが実によくわかるようになっているのではないでしょうか。

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

 

コメント (2)
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