●新しい可能性の認識から現実へ
かつて一大革命を起こすような画期的な技術やノウハウが、陰謀やらによってつぶされてきたという話も多々あるわけだが、そういうことになるのは、要は大衆意識がそこまで認識出来ていないからだとも考えるべきであろう。
人々にそれに関する認識が多少ともあれば、逆に人々にとって画期的な発明や発見が、エゴの行為によって見殺しにされることもないということだ。
先駆者たちは常に、そういう人々の無知や偏見あるいは無意識的あり方によって往々にして迫害を蒙るものである。なぜかと言えば、いろいろな分野を通じて人々の意識の進化、目覚めを促す行為そのものこそが、この宇宙で最も高邁な奉仕であり、場合によって否応なく犠牲を強いられる場合も多いのである。
画期的なアイデアや革命的知見は、それが周知されること、あるいは共通の認識にならないと、当然ながら社会という共通現実世界では表面化しないということだ。
個人においてもそうであるように、集団内で共通で認識せざるものは、その集団内に顕在化しないわけである。
根本的にはそういう事であり、誰かどこかが、人々がより良き世界に住むための知識や英知を握りつぶしているという解釈は意外と正しくない。真の原因は人類全般の意識の狭さ、見識の低さにあったのである。
●二元性の終わり
こういう見方は、社会の出来事、人間関係の個々別々の現象を追い掛け回している限り、決して見えてこない。
マクロ的にみるならば、世の中での悪や偏見、傲慢を地で行く者たちとは、人類全体の中にある闇や無知の縮図を代表しそれを敢えて表現する役目をする者たちである。
ところがそういう悪を演じる個々の者たち、例えばオオカミ自身にもそれがわからないわけであり、またそれに迷惑を蒙ると称する羊の群れたちもそれがわからない。
つまり地球という次元世界での生き残りを掛けた、それぞれの自由意思に基づく健気な演技なのであるが、そういう演技を行なっている者たちが、自分が役者なのだという事自体に気づいていないということだ。
自己とは・・地球という劇場に顕れた、普遍的生命・魂であり・・・人生とはその舞台での一過性の演技であるということに、なかなか気づかないという事である。
人類という集合体はあなたやわたしという個々人の、フラクタルでマクロ的な展開であり、あなたやわたしたちの内面にある光と闇、英知と無知の玉石混交の有様自体を観ることが出来るならば、善も悪もそれらの段階を示すものでしかないことが確り理解できるだろう。
善も悪も、嫌も応もなく、全ては魂レベルの気付きの為であり、またすべては進化の途上にあるという事である。
明言するが、善悪観念がどうしようもなく対極を構成するような、そういう時代は終わりを告げたのである。
・・・
●認識によって顕在化する法則
エネルギーは人間の生活に深くかかわるものであり、そのエネルギーがより自由自在に得られるならば、今までの人類の苦悩や無駄な労力も無くなるはずであるが、それが今までどうして我々の前に出てこなかったかと言えば、
要は、我々の多くが新しい事実に気づかなかっただけなのだ。
既成の概念、常識観念の範囲では、当然ながら新しい事象に気づくことはないということだ。
新しいものなどない・・というのが集団での認識であれば、共通現実で構成されるこの世界に、そもそも新しいものなど存在しないということになる。
・・・
曇り空であれば太陽がその上にあっても光は地上に届かない。
こころが曇っていれば、
それが今までに、そこに有ったとしても・・・観ることあたわず・・である。
何事であっても、「それ」を存在認識として気付かなければ、「それ」は顕在化しないのである。
・・・・・
しかしながら、真の意味での次世代エネルギーも、今ようやく顕在化してきた。
様々なフリーエネルギーという過去の技術、二コラ・テスラ、E・グレイ、エマモーター、等の断片的な発明情報や経緯は、謎めいたストーリーと陰謀と、闇と光の闘いのようなおどろおどろしい伝説を通じて、ようやく一般の認識レベルにも静かに浸透してきた。
ご存知かとも思うが、
その1つは、
日本で特許出願し、昨年公開された、井出治氏の通称デゴイチ・コンバーターと言われているものである。
日本で特許出願し、それが公開されたということは、現状の社会制度において、
すでに公知の事実になったということだ。
嘘も隠しも出来ない形になったということである。
(あまりよそ様の情報を添付しない主義であるが、公開文なのでここでの紹介も問題はないと判断する。下記は参考サイトであり、ここから特許庁の閲覧も可能だ。)
http://puripuripaicha.blog106.fc2.com/blog-entry-6.html
日本での特許公開がされたわけなので、これは法的に「公知の事実」になったということだ。
発明者に特許が下りれば、彼に知的所有権が発生するが、他の人もこれを勝手に事業化して金儲けをしない限り、個々での製作は基本的に問題がない。そう、誰でも作ることが出来るのである。
・・・
英語ではなく日本語なので非常に解りやすく説明されているが、
そのどこにも、フリーだとか、真空だとか、空間エネルギー等とは書かれていない。
当然ながら、変な誤解や大衆の有頂天、乱暴狼藉?などを招かないような、ごく普通の電気的な技術文書として書かれている。
やや専門的な言い方になるが、
その公開された技術は、単にパルス駆動型のトランスシステムを使った「高効率のコンバータ」としての技術特許とされる。
決してわけのわからない異次元の物質など使っていない。(笑)
ではあるものの、磁場という空間の「場」の変調を制御することで、その「場」の揺らぎ、跳ね返りのような効果を通じて、この次元へとエネルギーが滲みだす・・という表現も可能だろうか。
あるいは、2次元平面の土地に3次元的な縦穴を掘ることで泉が湧き出す・・という言い方もできるかもしれない。
この超高率コンバータは、スピリチュアルな概念の組み合わせによる先行観念的な論議で終始することなく、そういう可能性を考慮しつつ、氏が独自に、長年コツコツ研究・研鑽。探究してきた、ここでいう「真空エネルギー」の1つのシンプルな実現方法なのである。
(31は直流電源、34はパルス発生回路、33はスイッチング素子(FET等) 32は特殊なトランス、35は負荷。)
私の所感を示すならば、これはフリーエネルギーというものが<認識>から<現実化>へと転換されたものであるということだ。
夢を夢とせず、それをこの世界に持ち来らせたということだ。
電気の普通の基礎知識があれば良く、少し時間をかけ、そして我慢して少し食い下がるだけでそれが理解可能だろう。
そして、その先に直観がやってくるはずである!
●電磁波動を使い、空間から余分な電磁共鳴波動としてくみ出す方式
鉱石ラジオが、空間を伝播する電磁波をキャッチして電気エネルギーあるいは音声に変換されるように、あるいは地中の井戸の水をくみ出すように、
一定の磁場変化の波形と周波数を調整することで、その共鳴磁場の発生・消滅サイクルで滲み出すところの真空エネルギーが存在すると考えられる。
それは1種の電源コンバータのようであり、電磁コイルを使った磁場の特殊な配置と、それを生じるための電流の波形と周波数の組み合わせで構成されている。
言わば特殊な組み合わせで作られた、トランス(変圧器)駆動回路のようなものである。
特許公開文書には、実施形態を説明しつつ、得られる事実のみを主に記述するものであり、感想や予想は意味がないため、当然記述などされていないわけだが、
それを見るに、変圧器(トランス)の特性としての”磁場の「空間」伝達”に関わる現象の中において、逆起電力の残留波動の有効活用、レンツの法則などの組み合わせの妙によって、実際に空間からエネルギーが取り出せているのだ・・という理解が可能である。
ごく普通の電気、磁気の法則にのっとって構成されている代物であり、おどろおどろしいものはどこにも無いわけで、また隠し事やそれに付け入る隙もない。
そして、自分の分析と直観によれば、これは真空エネルギーを利用した超高率のコンバータであるということがわかる。
まさに、シンプル イズ ベストだ。
・・・
磁場も重力と同じく、空間の1つの歪のようなものと考えるならば、その磁場によって生成している空間の歪に対して、ある種の波動を与えることによって、波動の共振、共鳴現象が起き、その増幅された波動(磁場エネルギー)を一部取り出すことが出来るものと考えられるのだ。
プラス・マイナス=0、 +1-1=ゼロ、 陰・陽=空(くう)、
また、水面に石を落せば、そこを中心として円を描く波が生じるだろう。
・・・波が生じたということは、エネルギー波動として現実世界に顕れたということだ。
語呂合わせではないが、
どうやって空(くう)に、石(意思)を落せばより効率的なのか、それが課題であったともいえるだろうか。
アイン・シュタイン(一石さん)も喜んでいるに違いない。(笑)
・・・
そのデゴイチコンバータは、1なる電源入力で、1以上の出力を可能とする電源変換器であり、通常一般の変換器(コンバータ)と違って100%を超える効率を出すとされる。
科学技術的な見識がある場合は、こういう話になると、もうここでダメである。(笑)
電源機器の効率は常に100%以下なのだという「常識」があるからだ。
つまり、装置の入力より出力が増えているというと、一見永久機関を連想するトンでも系と言われるのである。
しかしながら、自然界には未だ人間が知らないこともあるという謙虚さがあるならば、一概にすべてトンでも・・・として捨て去ってはいけないはずである。
効率が100を超えると称する仕組みの信憑性を論ずるならば、1つにはその周囲の空間が冷えるという現象に注目する必要がある。
通常の装置でいつもある損失熱、発生熱が無く、逆に周囲の空間が冷える現象、すなわち吸熱するという現象がある。この周囲の空間からの吸熱という現象があるシステムは、全てとは言わないまでも、間違いなく100%以上の高率が可能な機器と言っていい。
普通のコンバータは 入力 ⇒ 出力 +内部損失(発熱) であり、
必ず入力>出力 であるが、
デゴイチコンバータは 入力 ⇒ 出力 -内部損失(吸熱) とされており、
つまりは 入力<出力 となっているのである。
100の入力エネルギーが、「それ」を通過すると、空間のエネルギーが湧き出し加わり、出力されるエネルギーに追加され、100以上のものになるわけである。
つまり、このコンバータによって空間エネルギーが湧き出し、滲みだしているということ。
(誤解を避けるためだろうが、公開特許ではそういう100%以上の効率に関する文言は当然ながら記述されてはいない。)
しかし・・もし・・100%を超えるならば、とんでもないことになるわけだ。
・・・我々は今までと異なる生活様式の世界に入ることになるのである!
これを数段組み合わせれば、何段も増幅できるわけであり、その増幅の一部を入力側にフィードバックすれば、初期駆動、トリガー以外のエネルギーが必要なくなるということだ。
つまりエネルギーが空間から供給されるために、必要なのはそのエネルギー発生器を最初に動かすトリガーだけになるということである。
これも発想の転換、既成の概念の跳躍を必要とするものである。
①今までの文明世界を根こそぎ変えてしまうか、
あるいは
②まったく違った世界にならなければ、普及しないか。
そのいづれかであろう。
しかしながら、前者と後者では、まったく異なるプロセスが起きるという事だ。
①は最も望ましきソフトランディング的な文明転換であり、②はハードランディングによる破壊を経由した再生と言えるだろう。
・・・
エネルギーがどこでも得られるような生活様式、
そんなこと不可能に決まっていると・・・思うのか、
可能性ありと・・・思うのか・・・、極めて簡単に言って・・・、その違いだけなのだ。
今はもう、それが嘘や売名行為やペテンなどとは思わなくなりつつある時代であることに気付けるだろうか。よく言われるように、信じるも信じないもあなた次第・・・である。
既成の概念だけに縛られない、好奇心旺盛な諸氏や、感受性の高い人々が増えているのも事実である。そういう時代なのだ。
それはまた、先人の努力と英知のおかげで、人類意識上での<認識>が変わってきたのだと言えるだろうし、そういう認識の向上、意識の進化に伴ってそれに呼応するかのごとく、雄大なサイクルがめぐってきており、宇宙空間からのエネルギーも浸透してくるようになったと考えられる。
意識、想念、エネルギー、現象・・・・すべて一連でつながっているのだ。
・・・
進む道は形ではなく、意識にある。
その正道を歩く力強いガイドは想念であり、
道すがら、周囲の景色や咲く花々は、エネルギーの賜物である。
そしてそのエネルギーはこれから一大変化を起こすことになる。
現象・形・物質のほうにこだわる者は、未だそれを識(し)っていないことを示し、
ごく当たり前に行われるところの2元性の「卒業」は難しかろうか。
我々が存在する世界の基本プロセスは・・・・意識~想念~エネルギー~現象化であり、
意識の働きである想念を変えることで、扱えるエネルギーも変わり、現象化の様相も変わるのである。
他の動物・植物という生体と異なり、人間には想い、想念、思考という、エネルギーを生み出すところのプロセスに先行する、意識を使うことが出来るポジションにいるということなのだ。
言わば我々はそういうところまで進化の道を歩いてきた魂の強者(つわもの)なのである。
魂という、肉体個人我よりさらに大きい「わたし」を意識するまでに成長した、我々人間という生命体は、まず想念の第一義的な重要さに気づかなければならないのである。
難しげなものは本当に何もない。
想念と行為によって世界が変わってゆくこと、
あなたは本当にそれを感じることが出来るか?
人の第一義的に大切なことは、姿かたちや見栄え等でなく、その想念にあると理解可能だろうか。
昔からあったことであるが、多分道が2つに・・・1つとはこういうことなのだ。
・・・
金や物より大切なのはこころの有り方と知っているか?
それとも、銭金が第一に大切なことだと思っているか。
こころが本来常に青空のように美しくあるべきだと感じるか?
それとも、いつも外の何かのおかげで曇っているか。
気分は、何があってもどこか晴れやかであれると感じるか?
それとも、他人のおかげで食虫花のように毒々しいか。
心だては太陽のように、無条件に他に優しいことが本来だと感じるか?
それとも、親切や慈しみは無駄と思っているか。
何かの折には、いつも自己を省(かえり)観れるか?
それとも、・・・ばかな・・、悪いのは自分以外だ・・・と思っているか。
嵐の中でも、どこか穏やかであれるか?
我を忘れ右往左往するのが当然と思っているのか。
真実を知っていくことが楽しいか?
今の知識がすべて正しいと思っているか。
自分の中に、汲めども尽きぬエネルギーをどこか感じることができるか?
それとも、そんなものはないと思っているか。
自己を、肉体を表現している不滅の<魂>・・と識(し)っているか?
それとも、人は単なる肉体であり、死んだら終わりの有機的物質であると思っているか。
あらゆる全ては、調和と変化と進化を楽しむためにあると、感じることが出来るか?
それとも、生命は競争や弱肉強食で進化するものだと信じ込んでいるか。
・・・
自己を観る、想いを観る、行動を省みるという行為の重要性が、古代から受け継がれて来たことには理由がある。
魂のレベル、あるいは進化、あるは学習成果、あるいは楽しみ・・・・は、自然に生起する想念という意識の2次的生起波動によって、それを自己確認することが出来るのだ。
また、人々が自己のこころを観ることによってのみ、自分が生まれた世界において、自縄自縛に落ちいっている観念による足枷手かせを外すことが出来るのだ。
想念が様々なエゴ、我欲の執着に縛られなくなれば、そういう存在達の扱うことが可能なエネルギーもまた、より自由(フリー)となるのが・・・なるほど道理である。
真空エネルギー、フリーエネルギー、あるいは宇宙エネルギーなるものは、
人のこころがある段階まで自由になった時に、それが使用可能になるなものなのだ。
決して般若心経がどうだこうだという事ではなく、それは色即是空、空即是色を理解する者たちの当たり前のように扱うことが可能な無限供給エネルギーといえようか。
またそうでなければ、至極当然ながら、エネルギーの誤用招くことで、自滅自壊するのは火を見るより明らかなのである。
こころ進化せざれば、進化せる何ものの威力も扱うこと能(あた)わず・・である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。