気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

時空物語(5)真我・・は時空を超えている

2018-02-28 07:09:06 | 真我実現シリーズ
木内鶴彦さんという方を知っている人もいるだろう。

彼は星の観測では世界的に知られており、また「臨死体験」者としても有名である。

臨死体験あるいは超常的経験は、多くの人が経験しているのだが、
それが個人的な特殊な経験でしかないとして、あえて無視していることが多い。

ここでも、外側から繰り返される「社会常識」という、
「3次元的認識の基準系」が観念の壁を作っている。

気づける人は・・・これを越えなければならない時が来ている。

そう、
それぞれの・・「わたし」・・がいなければ・・世界も宇宙もない。

わたしとは肉体そのものではなく、
それを含みそれを超えた無限性であるということに気づき、
自らが本来、それであることを理解する時が来ているのだ。

余計なお世話だが、ーー”時至りた今”ーーこそは、
単に功利的な情報として、流し目でサラサラ見て、
すぐに忘れる類のものではないと心得るべきであろうか。



---木内鶴彦さんの体験より---
(あるサイトのコピーさせていただいたもの)

・・・・・・・・・・・・・


時空を自由自在に動き回れることがわかると、私の好奇心はさらに大きく膨らんでいきました。
宇宙の始まりを確かめたいという衝動に駆られたのです。

 天文学を学んだものなら、誰しもが一度は考えること。
それは、宇宙の始まりは本当にビッグバンなのかということです。



私が見た宇宙の始まり、それはとても神秘的な情景でした。
宇宙の始まりはビッグバンではなく、宇宙は一つの「ひずみ」から始まっていたのです。

そもそもの初めにあったのは「膨大な意識」でした。膨大な意識そのものを形成しているものが何なのか、空間なのか物質なのかということは私にはわかりませんでした。

ただそこが膨大な意識の中だということだけがわかるのです。

膨大な意識の中に一つの「ひずみ」が生まれました。



生まれたひずみは、その瞬間から解消に向かい動きはじめます。
その動きこそが宇宙に満ちているエネルギーの流れにほかならないのです。

ひずみによって生まれたエネルギーの流れは渦をつくり、それによって空間に漂う塵が凝縮し、物質がつくり出されます。物質といっても初めは元素のように、ごく小さな塊です。

渦の中で最初にできた元素は、水素でした。これは物質といっても形をもたないガスのような状態です。そのガス状の元素が自重によって引き合ったり反発したりしながら、さらに大きな塊へと成長していきます。



 そして極限まで成長した塊は、やがて自重に耐えかねて大爆発を起こします。
この大爆発こそが、ビッグバンとされているもののようです。

 大爆発が起きたことによってヘリウムやリチウムといった新たな元素が生まれます。

それらが爆発によってできた新たな渦の影響の中で、星という大きな塊にまで成長していきます。
引き合い、成長してはまた爆発する。そんなことを幾度も幾度も繰り返しながら、物質としての性質や性格をつくり替え、新たな物質を生み出していきます。
こうして最終的には鉱物にまで形を変えていったのです。

 私たちの生きる三次元世界はこうしてたった一つのひずみから生まれました。
正しくはひずみが解消に向かう過程が、三次元という空間と時間に支配されている世界だったのです。



――私が意識だけの存在になってから感じていたものに、「私」という個の意識を取り込む膨大な意識の存在というものがありました。

私がその存在に気づいたのは、時空を移動できるようになって問もなくのことです。

最初に感じた違和感は、急に頭がよくなってきているような感覚でした。

自分が学んだり体験したこと以外の知識が自分の記憶として存在するようになってきたのです。
人類の歴史やさまざまなことを自分の記憶として読みとることができるようになっていました。
わからないことが何もない、とてつもなく天才になったような気分でした。

これまで自分が生まれ育ってきた間に経験した記憶を「個の意識」というならば、
その膨大な意識は、宇宙のすべてが誕生してから今までに経験した記憶といえるのかもしれません。その膨大な意識が、個の意識を包み込み同化していくのです。

それは、すべてが自分であるという何とも不思議な感覚でした。その感覚にどっぷりと浸ってしまうと、自分という個が見えなくなってしまいます。

ですから私は、「意識」としてさまざまな世界を旅している間中、膨大な意識の中から「木内鶴彦」という個の意識をたどり、それをしっかりと保つように努力しなければなりませんでした。



私は、このときの体験を人に話すとき、過去や未来を旅したという言い方をしますが、
正確には旅をしたのではなく、
個という意識をベースにして膨大な意識の記億をなぞったということになるのかもしれません。

私という個の意識は、さまざまな場所や時、そこでの出来事をリアルな体験として認識していますが、実際には自分でもある膨大な意識の記憶をなぞっただけなのです。

――私は臨死体験の中で、宇宙の始まりから生命の発生、そして人類の歴史までをも見てきました。私の心臓が停止してから蘇生するまでの時間は、わずか三十分です。でもそのわずかな間に、私は膨大な時を経験したのです。

-----以上--抜粋----



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時空物語(4) 誰が・・夢を観ているのか

2018-02-25 10:18:18 | 真我実現シリーズ
あなたは世界の中に生きている個人的肉体だと教わってきた。
誰もそうと明確に言わないけれども、
わたしは体であると、漠然と信じ込んでおり、
それは言うわずもがな、当たり前の常識観念、いやそれ以前の事実であると、
そう思っていただろう。

皆が皆、親も兄弟も、教師も誰もみなそう信じ込んでいる。

そうではないか?
・・・
自分がサルの進化した有機的な肉体であると信じ込んでいるのだ。
西洋的な教育で、さも進化した見識だと、それが正しいんだと、
そう信じていたわけだ。

いや、これを見ている人も、
今でもそういう観念で縛られているかもしれない。
「スピリチュアルな知識は好きだが、そこまではねえ・・」とか。
・・・
しかしながら、・・”わたし”・・とはそんなものではない。

自分が物質的肉体である・・というのは事実ではなく”思う”ことだ、
硬い常識で染まっていることは、つまり信念のこと、
つまり人々は”ある信念体系”の中にいるだけであり、
わたしはこの体である・・は、
決して事実でも真実でもない。


わたしは・・わたしに気付いている・・それだ。
これは
I AM THAT I AM  と同じことである。
また、わたしは意識している・・それである・・と同じことなのだ。

わたしは・・意識である・・と同じことである。
意識であるがゆえに、意識すること・・自ら・経験する存在・・。

それを神とか、真我とか創造主とか、宇宙意識とか言っている。

3次元的物量、計測、大きさの尺度を外さなければ理解不能であろう。
意識は時空間、物量、距離重さなどを超えているからである。
それを含みながら、かつそれを超えているということだ。


神も真我も、創造主も宇宙意識も・・あなたの外側にはない。
あなた、わたしの内側が・・反転して世界・宇宙として投影されている。
あなた、わたしと言っても、
相変わらず・・「わたしは肉体、体である」という観念で観ていては、
何のことかわからない。

わたしは何か?ということの、意識的見解が・・
「自分とは、この体である」という
”根強い思考”に引きずられていて、それに気づかない限り、
何のことかわからないだろう。
それ・・とは「意識」あるいは「気づき」である。

意識である”わたし”が・・意識していない・・ということであり、
意識的意識である・・わたしに・・気づかないということだ。

意識があり、思考があり、考えて感じて、体験する存在であるが、
つまり・・人間であるが、
意識している・・こと・・自体に気づかない・・ということだ。

実はここが意識進化の分水嶺とも言えようか。

理解可能だろうか?

そして、
夢を観ているものは・・誰か?

あなたの肉体だろうか?
頭脳だろうか?

古い世界という3次元的な夢から覚めたいという段階にあるならば、

そう、いまはもう真剣に
あなたは問いかけるべきであろう。

「ほんとうの・・わたしとは何なのか?」・・・と。




・・


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時空物語(3)地球という夢

2018-02-24 06:39:11 | 真我実現シリーズ
この世は全く夢のようなものだと心得るべきである。
実にリアルな物質的要素で満ち溢れた・・夢である。

夢というと、寝ているときに見るあれか・・と思うはずだが、
かなりあやふやで、相当いい加減で、現実性のない幻想のようなものと、
そう考えるだろう。

それに引きかえ、この現実はどうだ!
毎日同じ時空間での生活が繰り返され、
次第に年を取ってゆき、少しづつ変化はしてゆくものの、
実にリアルな、どうしようもない現実ではないかと、そう思うだろう。
肉体生活を維持するために、決して楽ではない毎日、

どうしてこれが「夢」なんかであろうか?
・・と、そう思っているかもしれないし、
また、そんなことすらも感じず、
生まれてから培ってきた・・現実生活への対応のためと称する、
様々な知識、観念、社会、国家、世界的な常識観念のなかで、
ただ漠然と、それでも一所懸命、
他の大勢の人々に合わせながら、
毎日を送り、いつかこの世から消え去る人々を送りながら、
そんなものだとして生きているのかもしれない。

あなたはどうだろうか?
毎日の生活は大変だろう?
お金を稼ぐように「社会」から常時督促されているだろう?
精神的苦痛をさけたいと、もっと安楽な肉体環境でありたいと、
そう、希い願いながら・・
人それぞれのやり方で、頑張っているのではないだろうか。
人によっては社会から逃げ隠れしながら、
あるいは逆に人を攻めながら、

この現実を何とかしようと・・へこたれず頑張る・・毎日であろう。
・・・

しかしながら・・それは「夢」なのだ。
さめればどうということもない一種の夢である。

「夢」とは想念の作り上げる物語のことだ。
意識の広がった者であれば、夢が内面意識の泡立ちのような、
想念の作り上げた夢だということに気づけるだろう。

想念といっても、潜在意識ともいわれる、
実に膨大な意識の記憶であって、
「ねえ、わたしちょっと思ったんが・・」のようなちっぽけなものではない。
それらの膨大な集積、様々な人生での体験や感情の記憶を含めた、
実に膨大な情報量があるのだ。

魂ともいわれる、様々な経験、人生、人格の記憶の集合体なのである。

そう、魂の見る「夢」が・・「現実」という物語であるとも言えよう。

毎日のように見る夢は、そのヒントを提示している。

夢をどうしようもない現実であると認識していることから
これは夢であると認識するレベルに到達すること
・・それを夢だと・・観ることができる意識レベルになることが
悟り、覚り・・である。

夢から覚める・・ことだ。
それを覚醒、目覚めと言っている。

地球という時空間世界、
壮大ではあるが、有限な閉じられた時空間で起きる物事は、
そのすべてが・・実は・・魂の見ている「夢」である。

それはかなり悪夢に近いもの、修羅場近くの夢物語だ。
平気で殺傷する者も多く、
強者だからと、他者の生活の糧を奪う者も多く、
バレなければ問題ないと、大勢に嘘を吹聴し続ける者、
つまり、
この時空が、楽しくあるべき「夢」であると気づかぬ者たちが
支配してしまうような、修羅場に近い「夢物語」であったわけだ。

しかしながら、気づけばだれでも「悪夢」は観たくない。(笑)
そうであれば、まずこれが「夢」だと悟り、
悪夢から覚める必要があるだろう?

みんな一緒に目覚めることはできはしない
他者の動向を伺ってもむだだ。
流行を調査しても意味がない。
政府の発表を待つとか、皆がそうなったら私も・・覚る
・・・わけはない。

”わたし”が見ている夢からは・・”わたし”が目覚めるしかない。


目覚めぬ人は、地球におぶさり、あやされている幼子かもしれない。


肉体を掛けても勝負するとかしないとか、
歯を食いしばるとか、しないとか、
莫大な富を蓄積して成功したとかしないとか、
栄誉だとかみじめだとか・・、
何が何でも栄達を達成するとかしないとか、
どうかわが子だけは、何とか安穏に・・とか、
いざとなったら自分の肉体安堵だけは・・とか、

そんな常識観念の中で右往左往しながら、
いつか全然気づくことなく死ぬ瞬間を迎え、
大きな眠りに入って、また我を忘れて
時空を変えて生まれてくる、

そうやって、これが夢だと明確に気づくまで、
今の、毎日毎日のサイクルと同じように、
もう1つ大きい夢見のサイクルの輪の中で、
それ自体を・・気づかず知らず・・
同じような想念の投影としての
人生流転、転生を繰り返すことが、輪廻転生である。

そう、想念が夢のストーリーを作っているのだ。
その鑑賞者、観照者が・・魂:わたしである。

魂の観る夢・・地球という夢物語のことである。


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時空物語(2)神々の創造世界

2018-02-13 07:35:30 | 真我実現シリーズ
意識が展開し、時空という世界を顕現している。
世界があって、その中で意識が生じる・・のではない。
それは毎日の我々の生きざまでしっかりと示されている。
それに気づいていなかっただけである。
まったく、身近すぎてはなかなか見えない・・ということだ。
・・・
夜眠る、これは何の苦も無く、何の恐れもなく毎日起きている。
まさかもう目が覚めることはないと、「恐れる」こともないのは、
次の朝また目が覚めることを知っているからだ。

この”眠り”、熟睡中のことは誰も・・それを知ることはない。
無意識であるからだ。
意識がなければ、どんな知覚もなく、それに伴うどんな記憶もない。
その時あなたは”存在している”・・ことすら知らないのである。

自らの意識を意識的に自覚していなければ、
つまり”目覚めて”いなければ、
その状態では、どんな世界も存在していないのである。

そのときわたしにとって・・・世界は存在していない。
つまり、

世界は、わたしがあるから存在しているものである。

それぞれの”わたし”たちが・・あるから、世界・宇宙がある。
それを共同創造世界という。

またそれを称して「神々の世界」と言ってきた。
ありもしない、架空の神話の世界として。
しかしながら、架空の世界は、実は、この世界だったのだ。(笑)

神とは・・存在そのもので、まんま、
世界を生み出していること、
どかーん、バコン・・で造るわけではない。
存在そのものが・・それ、世界を生じせしめていることだ。
無理などあるわけもなく、あるがままに。

それは宇宙の創生のミニチュア版といえよう。
それを毎日、毎瞬間繰り返しているのである。

いわゆる神とは、・・・あなたのことだ。

内面を観て、それぞれのわたし・・を観て・・気づいたか?

存在の無とも思われる無意識的眠りから、
時空間も何も認識もない眠りから、
意識・気づきが立ち現れつつ、
それに従って時空間・世界が立ち現れる!

わたし・・意識が目覚め、世界を認識し始める、

ところが、あなたが眠っている間も、
あなたに無関係に、世界はあるものだと思っているのだ。
どうだろう?

でもあなたが熟睡中、なにかが存在していたと誰が知る?
そのとき・・いったい誰が知る?

この現実は、当たり前のように、まったく逆に理解されている。

世界は相変わらずそこにあって、
その中で私という個人が一時、眠っているだけだ・・と。
世界のなかで、肉体個人が一時的に寝ているだけだと、

そうではないか?

あなたが眠っているそのときに目が覚めている人が、
「あなたは眠っていたし、世界はそのままあった」・・と、
そう言うからでもある。

あるいは、
目が覚めるとまた同じ現実生活があるため、そう思うのだ。
実は同じ想念形によって同じように、しっかり投影されているだけなのだが。

あなたが眠っていた時に、世界はあった?と、
「あなた」自身がそう断言することは出来ない!
なぜならば、あなたの意識が目覚めていないからである。

最も身近すぎて、実にシンプル極まりないことだが、

「わたし」という意識がなければ、私の世界は現れない・・

という真実に気づけるだろうか?

ちょっと修飾した表現をするならば、
我々は眠れる神々であったと、気づけるだろうか?

これを深く認識するためには、
生まれてから、そして何世代も続いてきた幻想の記憶
古く執拗な肉体の”単発個人我”としての自己認識を解除せずばなるまい。

あれがだめだ、これが悪い、もっと大量に、さらに大きく、
もっと獲得せよ・・・、
消えては現れるエネルギー映像、3次元的物量こだわるのは、
神我の描くところに過ぎない小さな”肉体自我”への固執によるものである。

単に、次元への投影像である物量、サイズに面食らってごまかされてはならない。


宇宙といえども、我々の観ているものである。
そうではないか?

我々は生じては消えゆく”肉体自我”そのものであると、
集団でそう信じ込んでいる世界が、今までのこの世界であった。

肉体の生存バトルで互いに殺し合い、気づかず知らずまた生まれ、
想念パターンを修正するためカルマの法を駆使しつつ、
まったくそれに気づかない無知の集団も、とうとうここまで来た。

今増大している世界、地球、宇宙のざわめきに気付いているだろう?
勘違いしてはなるまい、
あるいは、変化することへの恐れによって、
大勢のうごめく無知のなかに、へたり込んではなるまい。
終わるのは投影された古き世界である。

普遍的気付きの充満する虚空、
それは無限の現実可能性、完全なる充足、すなわち至福、真我。

そこに無数の意識が波立ち、無際限の意識的波紋を生じ、
想念、エネルギー、物質表現となり、
諸次元空間の現実なるものを投影し・・
様々な時空物語を描き出す、・・これが宇宙、諸世界だ。

それぞれ・・わたし・・があるからこそ、世界がそこにある。


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時空物語(1) 時間は仮想概念

2018-02-10 09:35:19 | 真我実現シリーズ

我々の現実といわれるこの時空世界は4次元時空とされ、
その世界では、様々な物質形態が空間内で運動し、変化していると観察している。

空間内の物質の変化の連鎖を「時間」として認識しているわけだが、
すなわち「時間」とは物質の形態の”変化の”記録・記憶なのである。
時刻、履歴、歴史・・すべて記録のことだ。

実質的な時間とカレンダーは全く異なる。
時間とは一律、過去から未来に流れているもの・・という常識的な話は、
カレンダーの話であり、実質の「時間」の話ではない。

結局・・「時間」とは実体のない、単なる”概念”なのだ。

つまり、一般常識でいう「時間」は存在していないのである。
悪く言えば、大勢の人を縛るための「概念」であったと言えようか。
あの時間、この時間、人の時間、私個人の時間、
共同社会の維持のため、便宜上ありもしない時間で縛られていたわけだ。

つまり、「ヒーコラ、バタバタ・・」の苦労も何も、時間のせいにして、
その時間など、実際のところは存在しない、仮想概念・・であったわけだ。

X(距離)=V(速度)×t(時間)などという数式も、
仮想時間(t)を当て込んでいる。
現象説明のための仮想のパラメータに過ぎない。

(余談だが、右辺の時間(t)が仮想ならば、左辺の距離(X)も実体だろうか? 笑)

----------

覚者や聖者がよく言う「時間は存在しない、今があるのみ」・・は、
例えや比喩ではなく、事実なのである。

未来は常に未来、過去は常に過去。
未来も過去も、それらは単なる「概念」だ。

未来は・・常に予想であり、過去は記憶である。

どちらも、”想念”の範疇に属するのだ。

未来は・・多分こうだろう・・という予想イメージであり、
過去は・・多分こうだった・・という記憶・記録である。

ちなみに、”記録・記憶”も人間の思考で記録、想起されるものであり、
つまり想念の範疇であって、純粋に過去の記憶などというものはない。

あるのは・・常に・・今・・、

これは何か重要な難題ではなく、
気づけば・・当たり前の”事実”なのだ。

ただ、注意すべきは、頭でわかった風に”思う”ことではなく、
自らを観察して・・それが実際の事実であると認識すること。

”あるのは・・今”・・、ここに実に重大な真実がある。

本当は時間などは存在しないという事実、これさえ気づかず、
我々は仮想の時間の中で苦しみもがいていたのではないか。

時間が足りない、もっと時間を!、時間給はおいくら?
35年ローンで元金2倍近くは当たり前??・・
まさに、時は金なり・・である(笑)


集合意識上に刷り込まれた物理的生存ルールの便宜上の観念とはいえ、
実に重たい形となって、今はもう多くの人に加重を掛けている。

時間など存在しないにもかかわらず、
過去の苦悩や過ちの想念を・・、もっともらしく、分別臭い顔をしながら
わざわざ・・”今に”持ち込んでくる人たち。

未来に対する”恐怖”や”不安”という強迫観念が、
今この時の、地球上に様々な歪を現出させている。
そしてその歪は、当然ながら開放されなければならないのだ。


なるほど、大勢の人々がそういう流れに固執しているあいだは、
何を言っても駄目だろうし、目覚める人、気づける人も、
相変わらずの大勢のその姿を見て、
その観念の重さに引きづられることもあるものだ。

そう、それもまた・・仮想現実に相違ない。

とはいえ、時間は概念であり、便宜上の仮想現実であって、
実質上存在しないこと、
この事実に気づくことは「悟り」の1つであるといえよう。

・・・


時間は変化を意味するため、あらゆる現象の変化が速いと観察されるときには、
つまり時間の流れが早いという表現にもなるだろう。
今、地球の時間が加速されている・・と言う表現は、変化が大きいという事だ。

温暖化やら寒冷化、火山噴火の頻発、あるいは人類社会の出来事、ニュース、
情報や感情や動きの増大は、時間の加速という意味でもあるし、
またエネルギー変化の増大という意味でもある。

ちなみに、
昨今、地球の自転速度が遅くなったというような、ニュースもあった。
世の中、有ること無いこと、何でも出ているわけだが、
これはと思うものを、ちょっと検討してみるのも良いかもしれない

地球自転速度の減少?

地球の自転が数年前から数千分の1秒遅れを観測したということで、それゆえ2018年以降は地震が増えるのではないかと、そういう話である。

ちょっと計算すると、多分こんな感じか・・
地球を丸い剛体球として、それが1日:24時間に1回転しているとする。

その時の運動エネルギーは、E=M(Rω)^2/5
E=1.14×10^29 J(単位:ジュール という)
 (面倒なので、ザックリ言って、10の29乗ジュール)

また、数千分の1秒遅れとのことなので、1万分の1秒とすると、
遅れた分のエネルギー損失⊿Eは、
⊿E=2.6×10^21 J(ジュール)(ザックリ 10の21乗ジュール
という計算になる。

ここでの損失⊿Eのエネルギーは消えるのでなく、通常何かに”変換”されているわけだ。

このニュースの元になった科学者は、そのエネルギーが地殻変動・地震のエネルギーになる可能性があると言っているわけで、それで大地震が増えるのではないか?としているようである。

問題は、自転時間の減少分のエネルギーが、何に変換されるているのか?ということだろう。
なんだ、たった数千分の1秒、地球の自転が遅くなっただけじゃんか~(笑)
で、事はすまないのである。
ちなみに、⊿E(ザックリ 10の21乗:ジュール)はどの程度かと言う話になるが、

地震のマグニチュードとの比較でいえば、
マグニチュードとエネルギー
M9の地震エネルギーのザックリ1000倍の計算である。(思わずギャッ!笑)
10の21乗と10の18乗、つまり、M9の地震の1000回分のエネルギーということである。

理科でおなじみのエネルギー保存側でいえば、自転運動エネルギーで失われた分は何かに変換されるわけで、それが地球上の地殻、気象、その他の現象となることは充分考えられることなのである。従って、エネルギーが地震になるとは限らない。

あるいはもっと背後にあるエネルギー的な原因が、地球の自転やあるいは太陽の様々な変化をも起こしていると考えられるだろう。

時間が一定の流れでいつも変わらずある・・のは全くの世間常識のウソである。
いつまでも嘘の中で眠っていてはなるまい。

そんな事も含め、
この地球という時空の、・・その物語の大いなる変化が実際に起き始めている、
あるいは、
人類の知覚範囲の物理次元まで及んできた・・・
という事実に気付く時が来ているのかもしれない。

ひょっとしてだが、
幻想映画の大いなる終幕を前にして、嫌々を決め込み、
頭かくして尻隠さずは出来そうもないかもしれない。
みんなが言うから、民主主義だとか、ローンがどうしたとか、まったく意味を成さない、

今はもう、腹をくくるとか、覚悟することが必要ではなかろうか。

覚悟という言葉は、どちらとも覚る、悟る・・ことだ。




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