気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か(5)魂・意識の、物質次元への降下

2015-09-26 02:48:43 | 新たなる地平線
時空間というのは、いわゆる我々の存在しているこの世界、宇宙のことであり、それは我々の外側にあると認識している。

学校教育では、そんなことは明確に教えてはいないものの、これは誰もが漠然とそう思っている・・・認識である。

我々の外側・・・に「世界」がある、ということだ。

言わばそれが常識なのだが、人間とは何かということの認識・観点によっては、外側世界はそのまま外側ということにはならない。

どういう意味かと言えば、

人間は単なる肉体である・・という、身体の3次元物理的、あるいは容積を元にした認識であれば、

肉体表皮が外と内部の境界で、外側が世界という風になるが、

人間は単なる物質・肉体ではないとなれば、世界は外側にあるとは言えない。


今までの一般常識では、

人間とは何か?・・それはこの身・この身体である。

3次元物理的自己、身長何cm、体重何kg、・・・。

身体の・・名前、年齢、経歴・・・etc、それが・・わたし。


ところで、

ここでは何度も提示している人間とは何かの説明で言えば、

人間とは、

意識意図・想念エネルギー物質体(現象)

あるいは、

「魂・霊」と、「こころ・マインド」と、「身体」との複合体と言っても良いだろう。

その視点から言えば、

物質体「身体」としての人間は、その一部に過ぎないということになる。

これはある意味で「多次元的」な人間認識ということだ。

補足を言えば、エネルギー⇒物質体(現象)は、アインシュタインの公式、

E=mC^2 で理解可能だろう。

物質:エネルギーは測量可能な部分である。
・・・

人間とは、

意識意図・想念エネルギー物質体(現象)

今気付けばこれは自明の理なのだが、

今までは唯物論真っ盛り、物質体だけが人間・・という話で文明が進んでしまっているわけで、

それもなぜかと言えば、計量、測量、計測できるものだけにリアリティー観じているということに尽きるだろう。

この計量、測量、計測できるものは、つまり3次元的、あるいは物質的な事物のことである。

この認識で言えば、あなたは単なる何kgの、組織立った有機物質体であるということになる。

「いやー、そんな単純なことでない・・」と言うに決まっているかもしれない。

それはなぜかと言えば、そう「思う」・・からである。

そう、「意図・想念」・・があるからだ。


これがロボットならば、それは組織立った有機物質体、あるいは無機物質体と言っておかしくないのだが、

人間の場合は「自意識」と「想い」があるわけで、単なる物質体ではあり得ない。

そうだろう?

人間とは・・・肉体・物質体・・・ではなく、

人間とは・・・『意識』⇒『意図・想念』⇒『エネルギー』⇒『物質体(現象)』

自明ではないか。


自明であるが、意識や想念のレベル、それが計測・計量できる「物」ではないために、ある意味無視されて来たということだ。

想念、思考、思い等、つまり精神・マインドは、全てひっくるめて「主観」とされ、

「客観」的な事物、物質体・肉体維持には、直接関係ない、役立たないものとしておざなりにされてきたわけだ。

「こころで飯は食えないよ」・・という類の話、聞かないだろうか?

「こころがどうしたって? 計算・記憶以外、何の役にたつの?」

「精神がなんぼじゃい?・・役に立つのは、銭・金・物や・・」・・等という雰囲気の世の中ではないだろうか?

世間一般常識的な観点では、そんな風だろう。

そしてその計量できない意識・想念レベルのことは、主観、心理学、様々な宗教のカテゴリーに分類されて、そこに放り込まれてきたということだ。

「主観」なので、お好きにどうぞ・・というわけだ。


科学・医学的に言えば、

わたしは肉体であり、こころは肉体内部、頭脳で作っているものである・・という見解。

つまり「精神」も、組織細胞・頭脳内部の「電気化学反応的なもの」であるというもの。

これも、人体の反応の話だけなのだが、
要は、あくまでも人間は肉体であるという信念の中での科学的な物言いにすぎないわけだ。

このような物質体だけを大切にするような人間認識が、いわゆる3次元的な自己認識である。

最も大きな問題は、
・・「意識」が物質体、つまり「肉体内部」に固定されてきたということにある。

簡単に言えば、あなたは何か?・・と問われて、

「えー?・・この体かな~・・」としか思えない・・こと。

つまり、意識・想いが、個々の体の中に閉じ込められているのである!

多次元的な自己・・

『意識』⇒『意図・想念』⇒『エネルギー』⇒『物質体(現象)』

「意識」それが・・・、最右端の「物質体」だけに・・入り込んでいるとも言えようか。

あるいは高次元的存在が、物質的3次元に落ち込んでいるとも言えよう。

ここに肉体を通じて生れ出るということは、物質3次元レベルへ次元降下すると言ってもよい。

なぜならば、ごく一部を除いて、地上の大勢の人間達のその意識が、

物質的3次元のみを観てそれを信じ込む、それもある意味ではゲームをしていたからだ。

魂・意識の3次元物質レベルへの降下、次元降下であるが、

今回、多分それは直線時間にして1万数千年のことだったろうか。

そして・・今の時代、

その次元降下が終わり、上昇サイクルへと急変していることに、

あなたは気付いているだろうか。


(つづく)



本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


わたしとは何か(4)今・・永遠に・・在る者

2015-09-19 13:47:55 | 新たなる地平線
人間とは何かと言えば、

魂・意識、②こころ・精神、③身体で構成されている、意識生命体であるといえよう。

わたしたちは、決して単なる「肉体」ではない。

大なり小なり、自己観察が進んだ人には、うなずけるだろう。

体脱体験や臨死体験を経験している人々、

あるいはそれを知り、理解している人々、

前世や過去生というものを意識できる人々、

想念や行為の昇華の必要性を認識している人々には、

当然ながら、うなずけるはずである。

・・・

何度も掲示するが、

意識 ⇒ 意図・想念 ⇒ エネルギー ⇒物質・肉体


人には誰にも、こころ、精神:「マインド」の働きがあり、

それに気づいている「意識」があるのが・・わかるはずだ。


「意識」は、自らへの気付き、他者への気付きであり、

「こころや精神」は、そのベースバンドから生じる高次元レベルでの波紋、波動。

あなたの頭を去来するイメージや想念は、空虚なものでは毛頭あるはずもなく、

引き寄せの法則とか、想いが顕現すると言われるように、

その波紋・波動が、その周波数を減じて、物質次元レベルに顕現している。

短絡した表現だが「想念は物だ」と・・聞いたことがないだろうか?

・・・

物質は粒子性と同時に波動性を持つとされ、

さらに細かい素粒子レベルでの説明の1つにはひも理論等があるように、

物質は究極で、まさに弦(ひも)の振動のようなものとされている。


振動、波動で造られる様々な世界、

達観した人は、それをバーチャル世界とも幻想世界とも言っているが、

それは多次元宇宙の中の様々な生命表現世界という意味でもあり、

何もいい加減で、ぼんやり霞んだおぼろの世界というわけでもない。

どういう世界であっても、バーチャルなリアリティ体験世界であり、

それぞれの神なる者たちの信念が映し出される、意識映像世界とも言えるだろう。

この世界もそういう世界なのだ。

生まれて死ぬるという事は、そういう意識映像世界への「参入」と「離脱」を意味する。

同じような舞台での生まれ変わりが、縁にも関連する輪廻転生であり、

誰でも少なからずの回数、この世界の異なった「時間・空間」を設定して、

地球においても、あるいは時代、地域とでも言おうか、そういう転生体験があるわけだ。


ここをご覧の方は、ご覧頂いているという事実そのものから言って、

こう言う方はほとんどいないであろうが、

「証拠はあるのか」

「一体何の証拠があって、そういうの?」という物的証拠探しも

実は3次元的思考の癖、実際にもう誰でもアクセス可能であって、

すでに多くの生まれ変わりの調査や転生記録の証拠などが、

全世界あちらこちらで報告され、書物や情報となって出てきているわけで、時代検証や物的証拠もたくさんあるのだ。

メジャーなメディアで与えられる情報、TVや新聞などばかり見ていては、

残念ながら、ほとんど触れる機会もない。

ちょっとした報道も、興味本位か、どこか恐怖を与えるようなものが多く、

気付けば何十年も、何も・・わかっていない状況を繰り返している。

公的と言われるものそれ自体が、古い支配の枠組み・・・、意識進化をはばむ仕組みとも言えよう。

・・・

逆に、ネットでも書籍でも、公的以外の情報、有志たちの情報等、自分で探せばいくらでもある時代になっている。


そう、肝心なのは、自己で探究するという意識的姿勢である。

この自らの意識的姿勢こそが、あらゆる事の中で、

そして今のこの時代のこの時において、

最も緊急かつ重要な事なのだ。

目覚めるためには・・・。


さらに、

・・・

在るのは全て・・・・・・、それを本質的に悟った人々感じるはずだ、

在るのは、常に「今」・・・。

変化し続ける「今」、

歴史の記録や教科書記述、その物的記録の中ではなく、

あるいは、若かった過去の自分の記憶、回想の中ではなく、

あるのは、常に「今」だった・・・ということに気付けるだろうか。

意識する・・われ・・に気付いている者からみれば、


在るのは、そして在ったのは、常に「今」だということだ。

在るのは永遠に・・今・・である。


」、わたし・・・という意識、気づきがある・・ことが、

過去も、未来も・・わたし・・という意識が在ることの霊的証拠である!

肝心なのは、「今」・・・そのまんま・・を、意識体でまるごと、まじ感じることだ。

<あなた>が失われるとか、死んだら終わりだとか、そんな話は全くの嘘、デマゴーグでしかなく、

それに気づかないのは、自分が肉体でしかないという観念に、気付かず知らず幽閉されていたからなのである。

嗚呼、人によってはそれも既に終わったことである。





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わたしとは何か?(3)わたし≠肉体

2015-09-14 05:29:10 | 新たなる地平線
●人間=肉体という観念世界
いまだ多くの人が、「私は肉体だ」という漠然とした信念体系にいるだろうか。

いやそんな事すらも意識に遡上せず、毎日を送っているかも知れない。

自分とは何か?

そんなことよりも、生活、仕事、勉強、銭・金・物を獲得せねばならないという、

そういう社会プログラムの中で、身体を出来るだけ苦痛なく、更に安楽に維持しようと、

アクセク、孤軍奮闘して、逆にストレスや苦痛や孤独を生み出している・・という事だ。
・・・
●生と死はセットである
生きることも大切なことながら、

人は自分が死んだらどうなるか?ということも真摯に考慮探究しておいた方が良い。

「死んだら終わりだ」という今までの社会的風潮は、全くのマヤカシ、人類最大の嘘の観念であることに気付いた方が良い。

親身な学校の先生も、愛を与えてくれたあなたの両親も、

自分の全てを知っているどころか、古いマトリクスの中で長く眠っていたという事にも気づかなければならない。

生ばかりにすがりつき、死を怖れることが主流では、

逆にまともな生は送れないというパラドクスに気付くべきである。

死がなくて・・どうして生があるものか。

生と死はセットなのである。

●わたし=創造認識主体

「肉体が・・即ち・・わたしである」という観念であれば、

当然私は死んだら終わりだという事になるが、

それは「わたし」の終わりではなく、

それは単に「肉体の終わり」だという事に気付かなければならない。

それは<わたし>の「観念」「思い込み」なのである。

それは、決して<わたし>ではない。

わたしの思い込み、自分をそうだと認識しているだけのことなのだ。
・・・

ここのところは、よくよく感じるべきところだろうか。

●自己認識で自己創造
わたし・・とは、言わば認識主体、気付きあるいは意識であるからこそ、

そういう風な「信念」や「観念」を持つことが出来るわけである。

つまり、

わたしは単なる肉体ではなく、有機的ロボットでもなく、

わたしは「自分が肉体だと・・信じている」・・というのが事実である。

そういう「認識の働き」がある・・ということだ。

それは「意識」のなせる業である。

そうだろう?




人間は肉体ではなく言わば「意識体」である
意識がなければ、思考は生まれず、思考がなければ観念も生じない、

間違った思考、事実に反する思考であっても、それを誇示すれば真実になるわけで、

よく言われる支配側の大衆操作、

「ウソも繰り返せば真実になる」というあれだ。

意識ある人間は、気づくか気づかないかは別として、

自己創造を行なっている存在であるわけで、

何せ、信じ込めば、そういう世界にいることになるからである。

意識意図・想いエネルギー肉体表現(現象)

これは生命顕現、意識創造のプロセスを簡単に表わしたものであるが、

自らを真剣に観るならば、

それがそのまま「あなた」という存在であることが解るはずである。

わたし・・はこれらすべてを含んでいるところの「意識体」であって、

その外側の肉体だけを自分と思っていただけのことである。

それも集団で・・・。

それが今までの地球という古い次元世界。

●意識的、意図的自己創造へのシフト
生も死も、意識生命のサイクルのプロセス内にあり、

多くの人が世間に騙され、怖れさせられている死は、

つまり、簡素に言えば、

意識意図・想いエネルギー・・肉体表現(現象)

という生命のコアに戻るだけのことであり、

当然ながら、新たなサイクルへのシフトに過ぎず、

再び、また

意識意図・想いエネルギー新たな肉体表現(現象)

となるわけだ。

これをある時空内で、無意識的に繰り返すことを輪廻転生と言っている。


例えば人間は死んだら全てが終りであって、

嘘を言おうが、騙そうが、人を傷つけようが、殺そうが、

そんなの関係ない・・わけではなく、
・・・
意図や想いによって、あなたのエネルギー体や肉体表現が決まるということだ。


だから、自分でいつも選択していることに、想いや行為に、

それに気付づいていなければならないということだ。

肝心なのは、自分のことがわけがわからない意識レベルから、

カルマを大量生産する古いサイクルから、

自らで脱する意識的行為が必要なのである。

なぜならば、この世界では、既に新しいサイクルが始まっているからである。

気付かず知らずの先延ばしが出来る時間は、もう・・それほど残っていない。




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。




わたしとは何か? (2)夢から覚める時が来た・・今・・

2015-09-06 07:21:46 | 新たなる地平線
 ●一点はすなわち無限

それぞれの、わたしは、意識する点のようなものだ。

一点は無限であり、無限は一点の裏返しであり、

不動の一点としてのわたしは、時空を超えたそれであり、

意識する点・・わたしは、あらゆる全てのもの・・でもある。


あらゆる宇宙は、何でもないものが、

あらゆる全てのものとして現れていることを意味するのだ。

空(くう)とも言える、なんでもないものが、

わたし・・の根源であり、

あなたの根源であり、

その投影である世界、現象を見て楽しんでいる、それが諸世界という夢の物語である。

●あなたは誰?って聞いてみて
「わたしとは何か?」という自己への問いかけほど不可思議なものはないだろう。

自分とは何か?

それは哲学的、形而上的とも言われる問いかけであるが、

現代社会では全く意味がなさそうに、あるいは誰も全て解っているようにして、

毎瞬素通りされている「問いかけ」である。

それは、

職業でも、性別でも、年齢でもなく、経験知でも、見識でもない、

肉体でも、精神でもない・・・「わたし」から発している「問い」のことだが、

その、わたしとは何だろうか?

そういう問いかけなのである。
・・・

●自らにある盲点

わたしとはなにか?って、

確かに、常に質問を発する側の者が、

それ自身に質問しているという、パラドックスがある。

そうだろう?

なんの役にもたちそうにもない意識的問いかけであるが、

これがなければ、夢の世界から覚めるが出来ない「キー」である。

この世界で何の役にもたたないからこそ、・・それなのである。

問題、問い、模索、

算数、国語、理科、社会、人間関係、経済状況、身体の具合・・

それらすべて、何か問題や問いが有れば、それに対して何かの対策をする、

行動する、考える、調べる・・という事で、解決してゆくというのが、

良くも悪くも、この世界で習ったことであるが、

自分のことを自分で問う、ということは全くの「盲点」のようなものである。

自分の世界の全ての起点・・であるわたし・・への気付きに至ることだ。

これ以上も、以下もない、身もふたもない・・最後の砦のようなものだ。

・・・
●答えのない「問い」があることに気付く

一般的には、何かの問題、テーマが目の前にあれば、

それに回答する、あるいは解決するという行為が行われるわけだが、

それはあなたの外側のことであるからして、あれはこうだ、彼はどうだ、

あの人がこうした、あの国はそれだ、世界はこうあるべきだ・・という、

観察、批判が容易であり、

また何かのレベルでは、その解決策も常にあろうというものだが、

『わたしは何か?』という問いかけは、

世界での全ての知覚と想いと感情の出どころである「わたし」への問いかけであって、

そもそも、そんな問題解決策では対応不可能でもある。

観察し、思考し、行為している・・・当の存在自体の、「自分への問いかけ」に・・・

どう答えていいかわからない?

だから、無意識で無視して来たわけであり、またこの世界で眠り続けることが出来た。



「わたしは何か?」って、無理に言うならば、

「えー、何それ?何の役に立つの?」

せいぜいが皆で顔を見合わせて、お互いの身体を見て、「わたしは肉体である」と答えるだろうし、

また突き詰めて問いかけなくても、自己とは肉体であると漠然と「考えて」いるものである。

意識的に進んだ人々は、そこに精神の働きを含めて、それらが自分だと答えるに違いない。

違うだろうか?

だが、ここまで問いかけが進んだあなたは、既に目覚めてきていると言えるはずだ。

余計なお世話だが、そういうことである。


・・・
「自分の本質はなんだろうか」的な自らへの問いかけ、

普通、そんな話など眼中どころか、心中にもありはしないものであり、

外の世界の派手な出来事、ニュースやお仕着せの情報、毎日の感情逆巻く慌しさに意味を観ている場合、目が釘づけになっている間は、

それを見ている、観ているところ・・・の、

世界の中心たる自己、体験映像の根源である「光」の方など、

また、そういう仕組みなど、露にも気づかないものである。

・・・・
●人生とは立体五感映画にハマりこんで楽しむ遊び

映画を観ている人が、そこに感情移入しきって、映像の中に入り込んでしまっている、その意識創造の仕組みに気付かないというわけだ。

社会・世界で生きている人が、その社会・世界にはまり込んで、はめ絵ピースにされていて、そのピースになった自分にまったく気付かないということでもある。

また、地球という生命場での人間生活にハマりこんでしまって、生と死の狭間で無意識的な往復をしていることに気付かないということでもある。

どんどん時代が下り、意識が次第に物質にハマりこんで、物欲OK、何でも豪勢がOK、大自然など知ったことか、という時代にあって、

銭・金・物、成功、富、安楽さ、を獲得せよ・・という、誰も責任を取らないスローガンで動かされて人生を送っている間は、

ふと、立ち止まって自らを振り返るような行為は、恐ろしくて出来るわけもない社会のただ中にいたということだ。

ある意味で、「頑張って生きるのだ・」と言われて、生きることの意味を知らされない仕組みだったわけだ。

小さな話だが、日本の戦後の70年は特にそうである。

笑えるではないか。


●回転のなかで静止する勇気も必要なこと

ただ忙しく動き回るだけの経済・社会生活のなかで、

皆と同じようにすべく、あめとむちで仕込まれている社会、

つまり「観念の鎖」でつながれている世界の中では、

「わたしとは何か?」そんな「問い」自体に、気づくことは至難の業とも言えるだろう。

鎖が外れる、それが起きるのは、この世界に飽きた魂たち、見破った魂たちと相場が決まっていた。

彼らは、世捨て人、悟った者たち、覚者たち、あるいは聖者などと呼ばれていた。

彼らは、改革者でも為政者でもなく、権力者であるはずもなく、偽善者でもなく大学者でもない、

ただ自己とはなにか・・と問いかけ続けて、

場合によっては何世にも渡る問いかけを通じ、

その真摯な意識的行為の結果である回答を、

自らの中に発見したと言ってもいいだろう。


●自己への問いかけは、どこでもない、高次の自己との接続である

なぜならば、自己への問いかけは、

世界という「夢」から覚める、意識的・具体的「行為」だからである。

夢を見ていながら、それが夢であることを知っているからには、

そんな夢の中の何事も、追いかける意味がなく、

実体のないものごとに執着など、逆にトンデモというわけである。

夢を夢と知っていない場合だけ、何かの恐怖で必死に逃げ回ることになるわけで、

これは誰でも、既に経験済みではないか!

そう、あなたは既に、知っているのだ。

・・・・
●夢は覚めることに意義がある

大勢がいる外の世界では、人々があれやこれやと動き、働き、笑い、泣き、反省し、企画し、年齢を重ね、生まれて死んでゆくというサイクルが行われている。

「え、わたしって、実際は何なのよ・・・」という、

世間的には全く人気のない問題解き・・は

そういう、この世界、リアリティー豊かな「夢の世界」の生活が、それが「単なる夢」であるという実感と理解をもたらす「鍵」となる・・行為である。

固い物質に取り囲まれている世界、常に何かに必死で忙しい人々、

生きるの死ぬのと頑張っている人々を見るにつけ、

当初は、この世界にきっと何か重要なものがあるかの如く感じるわけだから、

「えーなによ、これは夢なの」という気付きに至ることは至難の業という事だ。

あなたも既に経験しているのだが、身近な例を挙げると、

なんだか怖い夢でうなされて、朝ハッと起きた時に・・「あー夢だったのか!」

とわかるのは、文字通りあなたがハッキリ「覚めた」時だけだ。

また、夢を見ている時に、「あれ、これは夢だよね」と、どこか知っている場合があるが、
それは夢から覚める前兆なのである。


●わたしは・・何でもないもの・・である。

気付ける人は既に気づいているように、

今この世界では、あらゆる問題が現象化、噴出してきており、

さらに外の世界が大きく変わっていくように感じるはずだが、

それを観ていること中には、本質では、どんな変化もないことに気付いていよう。

まるで台風のように、

不動の本質であればこそ、周囲に様々な変化や現象化が起きるものであり、

言い換えれば、空(くう)であるからこそ、色・・現象が生じることが出来、

また現象が生じることがなければ、空(くう)そのものも在ることが出来ない。

だから、あなたやわたし達がここにいるのだ。

何でもないからこそ、何にでも顕現できるのであり、

あなたやわたし達として、今ここに在る・・・。


そのようにして、大勢の生命、魂・意識が宇宙に溢れている。

それら生命・魂は、多次元構造宇宙のなかで、上下左右につながって遊んでいる。

だから生命、意識生命全ては、兄弟姉妹と言われる所以なのだ。

そして、様々な魂の故郷は宇宙にそれこそ無数にあるわけだが、


しかしながら、

本質の「わたし」の根源は空(くう)・・・、

空(くう)は分割できず、どこでも、いつでも在るもの、

色(いろ)つまり現象の為の、無限の懐(ふところ)であり、

どんなものも受け入れる母体であり、

それ自らは、どこでもなく、何でもないもの、

どこでもあり、全てがそれであるもの、

不可思議で、未知で、懐かしく、とらえどころのない無限性、

根源のわたしは、それである。

あなたもそれである。

今のあなたやわたしたちの、大元とも言えるバックグラウンド。

身近どころではない、ここ、そこ、すべてを満たしているもの。

それは空(くう)である。

空(くう)であるがゆえに、様々に在ることができる。


どこでも、いつでも在るもの、

諸現象顕現の為の、無限の懐(ふところ)であり、

どんなものも受け入れる母体であり、

それ自らは、どこでもなく、何でもないもの、

どこでもあり、全てがそれであるもの、

不可思議で、未知で、懐かしく、とらえどころのない無限性、

わたしとは、それ。