気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

転生の話(2)前世の記憶

2019-07-30 05:37:42 | 語り部の章
あなたは自分の”前世の記憶”が多少とでもあるだろうか?

つまり、今ここに生きて、ある人として生活しているが、
以前にも別の人格としてある時代、ある地域に存在していたという、
記憶があるか?ということだ。

ある人格、ある時代、ある地域、地域もこの地球という地域とは限らないが、
そういう他の生の記憶があるかということだ。

普通は「そんなのあるわけない、何言ってんの?」いうことになるかもしれない。

それが常識というものであるからして、
前世がどうしたこうしたなどと、どこの誰も話していないし、
親から聞いたことも学校の先生も、偉い学者さんたちもそんなことを、
公式に表明しているわけではないからして、
そんなことはあるわけもない・・ということになっている。

例えば自分(私)の場合もそうだった。
誰もそんな話をしてくれたこともなければ、丁寧に教えられたこともない。

しかしながら、日本においては、仏教的な教えの中などに、
生まれ変わりの記憶という概念は昔から存在しており、

そういう話は可能なものの、証拠のない漠然とした言い伝えのようなものとして、
人々の意識の中に散見されるのみであろう。

そういう生まれ変わりに関するものも物理的証拠がないとして、
単なる概念、逸話、訓話のようなものという扱いを受けてきた。

あなたは今・・どう思うだろうか?

生まれ変わり・・って?

そんなの無い、と思うだろうか。
あり得ると思うだろうか?
またある人は、前世の記憶の断片を思い出しているだろうか。

そう思う根拠は何だろうか?

そう思い、色々考えても、何も浮かばない・・・だろうか?

身近な誰に聞いても、小馬鹿にされる程度で、満足する解答は得られないだろう。

だから無いのだろうか?

あり得ると思う人も、その思いはどこから来るのだろうか?
ある人は可能性は排除しないという思考が働いているため、
一概に断定できないとそう考えているだろう。

前世の記憶の断片を覚えている人は、それはどうして得られたのだろうか?
特殊な能力者に依頼して記憶を読み取ってもらい、それを聞いたのだろうか。

何事もピンキリは常であり、いわゆる霊能者、占い、超能力者も
必ずしもあなたの前世の記憶を、すべて正確に言い当てているとは限らない。

しかしながら、可能性から具体的な再現への意識的努力へつながった人は、
その前世の記憶の妥当性や、都合の良し悪し?を問わず、
意識内面の可能性を、勇気をもって掘り起こそうとする意識レベルにあるといえるだろう。

前世の記憶は、ある時ある場所に生きていたという記憶であり、
その時の、
内面意識の状況や、同時に知覚する周囲環境状況の観察記録とでも言えよう。

今、あなたが毎日生活している状況の記憶と変わらないが、
その時の、意識内面と・外部環境の様相が、現在とは異なるものである。

今でも何年か前、何十年か前の記憶を思い出すとしても、
ありきたりの普通の出来事は思い出すことはなく、
あの時の、驚愕すべき特別な状況は容易に思い出すことができるように、

前世の記憶なるものも、
その記憶の内容が強烈なほど再現しやすいものだ。

つまり、
感情の起伏が大きく強い場合には、
記憶の刻印が深く、また再現されやすいという事だ。

そうではないか?


でも、
ちょっと待ってヨ、というかもしれない。

前世の記憶というけれど、それは私が・・生まれる以前の記憶のことならば、

私が生まれる以前にも、私が存在していたということが前提であり、

どうしてそんなことが言えるのだろうか?

と、そう思う人もいるだろう。

つまり、
外の誰かに・・”確信できる”証拠を求めている・・わけだ。

物質的な形、重さ、大きさだけに意識を固定化した現代人にとって、

意識内面の束縛であるこの想念自体が、

なかなか越えられない・・ところかもしれない。


だって、あなた自身のことを誰に保証してもらうのだろうか?












転生の話(1)輪廻の終わり

2019-07-25 09:06:52 | 語り部の章
意識は宇宙全般に行き渡っている空(くう)と言っていいだろう。

我々の周囲、その中も、どこもかしこも空(間)であり、

様々な物質が存在しているわけだが、

それらはすべて空(間)それ・・自体が変調して微細な渦・波動となり、

その波動の無数の集合・重合が様々な粒子、物質、人間、惑星、恒星として存在している。


無限なる空(くう)に微細に沸き起こっては消えるかに見える精妙微細な波動、

”存在のゆらぎ”ともいえる渦・波動が、原初の意識、普遍なるものともいえよう。

何もかも、素粒子も原子も、鉱物も植物も、動物も人間も・・

その真っただ中にいる、というよりも、

われわれも・普遍意識・原初の波動それそのものであり、

無数の形態化したものに他ならない。


そして、人間は、そう、あなたは・・その意識を自覚している者である。


自らに気付いている・・その意識は・・元をただせば、まったくの普遍(宇宙)意識なのだ。


しかしながら、この世界の多くの意識的存在たちは、

それを忘れ、ただただ、意識波動の創り上げる最も粗い波動重合形態、

つまり物質や肉体のレベルにその意識を固定しているため、

それを安住の地と定め、集団相互監視しながら、

自らの無限性・普遍性に・・気づかない状況を創り上げて来た。





余計なお世話的文章だが、これを読んでいるあなたも

実際にこの世界にいるということなのだが、どう思うだろうか。

皆がそう言うように、偶然の死んだら終わりの単なる肉体生命なのであろうか?



この世界では、意識としての自己定立原理、

I AM THAT IAM。

「われはそれなり・・」に、

「わたしは動物・肉体である・・」を当てはめて久しく、

自分は肉体であるからして、私が死んだら全ては終わりだという、

常識的な妄信を激しく信じ込むゆえに、

肉体死の後に、またまた同じ意識レベルの境遇に生まれることになるが、

肉体を超えたレベルの自己存在認識がないまま死ぬゆえに、

その情報はそのまま保存され、再び無数の記憶を忘れ去ったまま、

以前の信念・主たる想念の傾向を元に、

それにふさわしい意識投影の先に再出現するのである。

地球というカテゴリーで培った主たる想念の傾向が大であれば、

当然ながら地球というカテゴリー内のいずれかの時空環境に生誕するわけだ。

それを古くから輪廻・転生と言っている。


普遍なる者、無限なる者は、その普遍性・無限性を自らで示現する意図をもち、

無数の経験をすべく様々な形態へと自己同化もするわけだが、

その中で、意識的存在:人として自らに気付くレベルにありながら、

なるほど、それに長く気づかない状況を創り出すこともまた魂・意識の選択肢の1つであるが、


しかしながら、地球という1つの大きなカテゴリー体系の物理的側面には、

物理的であるがゆえに、相当の疲労とひずみが蓄積されたことも事実であり、

今その・・清算と解消、そして解脱の時期が迫っている・・と言えるだろう。

すくなくとも、地球という意識と、気づける人間の魂・意識は、その流れに気づくはずだ。

それを、魂が肉体の夢から覚めるとでもいおうか・・、

長く眠ってきた魂ならばなおさらに、わけのわからない、魂の自己忘我の状況のままに、

再び、われを忘れた転生に身を任せるのは、今回だけは面白くないのではないだろうか。





続・意識の話(12)全一性

2019-07-15 06:27:51 | 語り部の章
すべては波動として存在している。

 

波動は振動でありまたエネルギーである。

 

その波動の振動媒体は、身の周りに、身の中にも在るところの無限の「空」である。



空、空間はどこまでいっても、ただ・・ひとつしかない。

 

空(くう)自体が、波動のその媒体であり、「空」(くう)であるがゆえにこそ

 

変化する存在形態・振動・波動を生ぜしめることができるのだ。

 

科学的には光は電磁波であり、エーテルという仮想の媒体を必要としないと言われる。

 

光は、『空(くう)』 の 『間(はざま)』 空間を、

 

それ自体を変調しながらその存在域を四方八方に伝播・拡大する。

 

あなたやわたし達の周囲のあらゆるものは、その『光』によってその存在を浮かび上がらせている。


我々の視覚に映るすべて・全ての事象・現象は”光”の反射波であるとされている。


今・・見ているあらゆるものがそうだ。
  

まさに我々の周囲は『光』『波動』に満ちているといえるだろう。


その前に・・全てで満ちている・・のは空(くう)なのである。


体も波動、こころ、想念も波動、あらゆるすべては原初の意識から生じる波動であり、


わたしたちは・・・本来それ・・空(くう)であることは否定しようがない。


空(くう)とは、意識の無限の可能性とその無数の展開の母体なのである。


誰もみな、何もかも、・・いつでも、どこでも、今・・その中に居る・・というよりも、


すべては真我・・それそのもの・・としか言いようがない・・。


例えば、


光とは単に極端な眩しさや煌きなどではなく、様々に変化する宇宙の諸現象の彩りなのだ。

 

ある意味で、我々の周囲の諸現象は、


光の踊り・無上の喜びを表すダンスのようなものである。

  

あなたは気付いただろうか。

 

あなたやわたし達自体も、

 

あるいは周囲、時空の遠方、近方、すべて光・波動に満ちているということを・・・。



あなたの体自体が、既に原子・原子核等と呼ばれる、波動の局所的な集中で出来ている。


さらに、



こころの動き、マインド、思考やイメージさえも、情報を乗せた”波動”なのである。



ただ、この世界では、生き抜くための肉体だけを後生大事にしているだけなのである。


そういう肉体すらも、たった数十年で終わりではないか?


一体全体、外の世界に何を探して何時まで・・何を待っているのだろうか?


大勢の他の人が真実を悟るのを待っているのだろうか?


われわれが、我々の意識で無意識に創り上げていたこの集合世界の、


その中に投影されている物質や組み合わせ、それらを扱う権威の中に幸せがあると、


いったい誰が先導したのだろうか?


あなたは、あなたの不幸を何かのせいには決して出来ない存在である。



意識はその知覚対象をおのずから生じる、原因・・それであり、


知覚対象たる物質や仕組みの中に”意識”が生じるのではない。



また、肉体の中、頭脳の中に・・意識が生じるのではない。


いま、わたしは・・在るという、今のそのままの”意識”が、


頭脳の中に・・めっけられるとでも言うのだろうか?


体細胞、頭脳、神経組織・・・その中のどれがそうなのだ?



あるいは、わたしとは・・頭脳が創り上げる全体的”ホログラム”という人もいるだろうが、


あくまでも、頭脳、組織細胞、原子核・素粒子・・・それ自体が主人公としているが、


意識とは・・知覚対象(物)から生じるものではないということ、


意識とは・・知覚対象(物)つまり波動を自らの属性として付帯創造している。


意識・・即ち・・・諸現象・諸世界・宇宙である。


なにか遠いことではなく、今そこに、ここに存在する・・


あなた、わたし達の・・・ことなのである!





意識は・・起きた動意・・・即ち光・波動・・そして空間・・空(くう)・・無限である。


その光・波動とは、あらゆるものを包含し、あらゆる可能性を見据え、


あらゆる喜びを、自己の本質として自らを意識している、


大いなる一なる根源の命の響きなのだ。

 

大いなる一なる根源は、全てのすべてであるからには、


その1小部分とも感じているところの、


あなたの存在自体もまさに全体が投影されている。

 


一部にはその全体が畳み込まれているがゆえに、


全体の部分なのであり、数量的なちっぽけな観念は、


決して当てはまらないことに気付くべきだろう。




すべての波動は、宇宙すべてを貫いてあるところの、全包容的意識の中の自己認識作用であり、

 

その諸現象を生み出す意識の作用は、いわば神なる根源の発する『想い』と言えるだろうか。

 

その想いは・・・、

 


全てを自己と観ずるところの、いわば宇宙・森羅万象における全一的な想いのことである。

 

これに対して、人間における想念は、

 

個人のエゴや、各個別の利害や、自己だけに都合の良いレベルに留まりやすく、

 

したがってその包含するエリアあるいは次元が、

 

その想念の質によって限られているために、

 

全宇宙を貫く根本的な周波数までは届いていないかもしれない。

 

多くの我々が、本来の『わたし』という真我の自覚に至っていないとはそういうことであろうか。

 

 


全一性、宇宙意識からの想いとは、

  

人が、わが子や、愛すべき人々や、動物、植物をいたわる想いと同質であり、

  

自己とまったく同じように、あるいはそれは度外視して、

 

他への幸せを願う想いと同じなのだ。

  

『自』 はすなわち、反転した 『他』 でもあり、

 

また、

 

『一』 はすなわち、展開した 『多』 『  』 なのだと完全に意識している、

 

本来の「あなた」という真我の発する想いのことである。


ただ・・いまは、この世的な、そうではない無数の想念に取り巻かれており、


そちらの想念の集団の真っただ中にいるため、


これらこのことに十分には気付けないかもしれない。


  

森羅万象の根源にあるのは、

 

あからさまに、そして明らかに、

  

すべてがすべて喜ばしく、調和に満ちて、可能性に溢れた、

  

驚くような・・・・「愛」であると言えよう。

 


   

人間本来、幸福である以外にはない

   

人、皆誰でも自己の幸福を願うように、

  


宇宙である一なるものも、その内にあるすべてが幸福であることを

  

自明の理としている。

  

いわば、あなたも、本来幸せでしか有り様がないのだ。

  


それを「そう」と感じていない場合は、個々人の『幸せ』の観点そのものが、見当外れであり的外れであると言えはしないだろうか。

 

何かの条件をつけて、『それ』がなければ幸せではない・・・という、条件付けをしているのかもしれない。

 

あるいは、『幸せ』とは、うっとりするような感情的な『状態』である・・・との勘違いがあるのかも知れない。

 

仮の条件の充足や、感情の高揚状態がなければ幸せではないと、勝手に思い込んではいないだろうか。

 


そうであれば、確かに、いつも今は幸せではないことになるだろう。

  

そのこと自体、「仮の不幸せ」を見事に創造しているかもしれない。

  

なるほど、それこそ逆に神なる者のなせる業といえようか・・・。

  

しかし、これこそ笑える話ではないか。

 

求めるがゆえにそれに至らない・・という逆説に笑わずにおれようか。

 

あるいは、これがいわゆる二元性の醍醐味なのだろう。

    

しかしながら、なるほど確かに、一時の仮の不幸があるからこそ、真なる幸福が実感できるのかもしれない。

  


  


・・・・まさに、究極は全てが よし! なのだ。

  

  


 

全てが実は大いなる喜びの只中にあることは、

 

自らの生み出す観念の織り成す綾(あや)によって、自らが不幸で遊んでいることを悟れば気付けるだろう。

 

いつまでも他者のせいにしていては到底振り返ることはかなわない。

 

全てが、何だかんだと言いつつも、実は大いなる喜びや楽しさの只中にあることは、

  

我々全てが、『今この瞬間に在る』と知ることで理解できるだろう。


 

例えば、あなたが自らを、わたしは「わたし」であると気付いているように、

 

同じく、神なる根源も自らを「わたし」と気付いている。

 

そこに質的な違いがあるだろうか。

 

いいや、ありはしないのだ。

 

 

小石も「わたし」、木々も「わたし」、川も「わたし」、山も海も「わたし」、地球も「わたし」、銀河も、銀河団も「わたし」である。

 


それは意識の大海の中の、存在諸形態の振動率、周波数の違いのようなものでしかない。

 

意識の波動に本質的な違いはあり得ず、あるとすればその波動としての情報量あるいは振動率、周波数の違いだけなのだ。

  

あなたも、私達も・・・・つまるところは、大いなる「わたし」なのだ。


全ての根源の「わたし」である、それ、・・・

  

それは、いつでも、どこにでも、誰にでも、どんな物にも内在しているのだ。

 

そして、あなたにも、『今のこの瞬間』として在るではないか。

 




  

まさに、今の瞬間こそは永遠なり。

 


無条件に、なにものにもよらず、

 

『あなた』がいつも幸せであるということは、

   


それがそれが、その証(あかし)である。

 

今の瞬間には、どんな条件もありはしないのだ。

  

あなたは絶対に幸せであるのだ・・という、大いなる『あなた』からの想いは、

 

すなわち 『無条件の愛』 である。



(続・意識の話 了)






続・意識の話(11)自ら・・既に実証済

2019-07-05 05:11:19 | 語り部の章
意識には大きさも量もない・・、つまり無限である。
宇宙意識も・・わたし意識も、本質では区別も何もない。
つまり、わたし・・意識は、本来・・宇宙意識・・であるということだ。

これは、既に・・”あなたは宇宙意識である”という事を言っているのだが、
ピン!・・と来る人はどれだけいるだろう。

何処が宇宙意識なんだ?、宇宙意識ってなんだ?
そもそも、わたしのどこが・・”それ”なんだ?・・と、
こういう文章を見慣れた人たちも、潜在化で思うだろうか。

あなたはどうだろう?
「わたしは特別な臨死体験もないし、感動で張り裂けそうな超常体験もない」
「永遠の幸福感を味わったこともない・・」

わたしの・・どこが宇宙的意識なんだろうか?・・・そう思っているだろうか。

どこがすべてひとつの・・無限なる意識なんだろうか・と思っているだろうか?

あるいは、そう言われて、そうなんだと思い込めばいいのか?と、
そうすれば、何か得も言われぬ超越的快感が得られるのか・・と、
そういう風に思っているだろうか・・・・。


そう、それは全て・・・今の”思い”から来ている。
今の想い・・・つまりそういう想念ということだ。
長く蓄積された様々な想念の束のようなものだ。

人々は生きる為の”札束”には敏感になっているが、
こころの中の”想念の束”に全くと言っていいほど敏感ではない状況に気付けるだろうか。

敏感になる、注意して常に意識すべきは・・想念なのである。
今のマインド・・自分で気付かぬこころの様相、想念形・・である。

想念・・それは今のこころの様相・・あるいは魂の振動パターンとも言えよう。

外の出来事、他人事には気付けても、

全ての根源から生じている・・わたし意識、それになかなか気づかないのは、

あまりにも多くの”本質的ではない想念形”でいっぱいになっているからとも言えよう。

わたしたちは・・
外の世界に起きている事、人々の言葉、メディアの報道、誰かの言動・・、
生きる為にそういうものばかりに注意して生きて来たのかもしれない。

肝心な・・わたし・・とは何か?の着眼点から逸らされ、
目先の生存だけ、肉体維持や快楽の追求だけに特化した人生だったかもしれないと、
気付くことが出来るだろうか?

今までのこの世界・・地球という惑星生命圏、あるいはこの世とは、
外の何かではなく・・それを観ている・・わたし・・に気付いていない意識の体験場であったともいえよう。


わたし達が毎日毎日経験している事の本質には、
「意識」があるということに気付けるだろうか。

当たり前すぎて、身近すぎて・・気付かない、
あなたは”意識それ自身であるがゆえに”、それに気づきにくい・・とも言えよう。

毎朝、意識が目覚めるからこそ、その日の経験が生じる事実、
意識が在って初めて、知覚経験が生まれること。
気付くことがあって初めて、その対象たる現象が認識されること。

この”驚愕の現実”そのものを・・ずっと素通りしてきたということだ。

真のわたし・・に気付かないで回りや環境、物質的状況のみに意識を振り向けてきた先は、
空間の中に様々な物質が動いているだけの認識世界を創り上げる。
その中にある生命というものは認識できるが、またその生命さえも、
ただただ、物質の無数の偶然の組み合わせで創られているという、
そういう、言わば3次元的世界を創り上げて来たということだ。

大勢の人は、自分は死んだら終わりの偶然の命であると、
そう思い込んでいるということが、その証拠である。
その人は自分を高度に知的な・・肉体であると、そう思い込んでいるだろう。

あなたはどうだろう?

様々な物事や、個人の群れの動きや現象の中に、生きる為の真実があるかのごとく、
その現象面の・・中にいかに入り込むか、いかにうまい立場を獲得するか、
いかに肉体的安楽さや心地よさを得ることが出来るか、
大勢で競い合いながら邁進するための人生であったのかもしれない。


わたし・・という”意識が目覚めて初めてわたしの世界が展開する。
それが毎朝起きていることである。

さらに大きくは、この世に生まれたという事も、

わたし・・という”意識が目覚めて、

わたしの人生が始まったということだ。


あなたは意識である・・がゆえに、今・・生きている。

さらに、意識であるがゆえに、その今が・・無数に再生されるのだ。

消滅・再生・・それを「生まれ変わり」などとも呼ぶが、

・・・常に在るのは・・今・わたしである。


今のこの瞬間・・から常に・・全てが展開・投影されている・・

展開・投影には、生成・消滅という変化も伴うが、

生成・消滅を現象化するのは”意識”そのものであり、

時空間・世界は・・意識の投影する・・展開舞台に過ぎない。

それぞれの時代、それぞれの”私個人”とは、
その無数の舞台の1つ1つの主人公ののようなもの。

普遍的意識は生成・消滅という現象面を超えているのである。

そう、

既に・・無限の意識であることは・・・実証済みなのである。

いま、わたしは・・在る・・・!