気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

解脱 (4) わたしは肉体・・ではない証拠?

2012-01-28 09:52:23 | 宇宙時代の考え方

  

人が、自らが存在している・・・と感じているそのリアルな感覚は、

 

まず五感によっているはずだ。

 

生きている、生存している、すなわち「私は在る」というリアリティは、

 

まず五感によって生じている。

 

それは肉体に装備されたセンサで取得している情報を「感じて」いるからともいえる。

 

あなたが見ている画面、マウス、文字は「視覚」からの波動情報であり、

 

腕や顔の皮膚感覚、座っているお尻や足の圧迫感は「触覚」情報であり、

 

お茶やコーヒーの香りは「臭覚」情報であり、

 

遠く聞こえる外の喧騒や家の中の会話や物音は「聴覚」情報であり、

 

口に入れたお菓子の味は、「味覚」情報である。

 

それらの情報は実際には、それぞれの形態での『波動』である。

 

つまりは、それらの波動を感じている・・・のが「わたし」であるいうことだ。

 

そういう、「わたしは在る・・・」というような感覚が毎日毎瞬続いている。

 

生きているということは、そのアイデンティティ感覚のようなものによって生じている実感ともいえる。

 

・・・

 

光、電磁波の狭い周波数帯域と同調し、知覚として認識するのが視覚であり、

 

空気の振動の一定の周波数帯域と同調し知覚として認識するのが聴覚である。

 

身体の細胞、分子と、身体以外の細胞、分子等の振動の違いを認識する身体表面上の知覚機能が触覚であり、同じく味覚や臭覚とも言えるだろう。

 

そして、それらの波動情報を伝達している神経系統、情報処理の中枢としての脳がある。

 

また身体機構そのものを維持するところの、骨や五臓六腑、筋肉などが網羅されている。

 

 

大勢の人々が、自分であると想っている?肉体・・それは大ざっぱに言えば上記のようなものだろうか。

 

そういう有機的な組織の集まりを『肉体』と言って良いだろう。

 

1つ1つの肉体、それらが1人1人の人間であり、

 

あなたもその中の1つ、1個人と教えられてきたことだろう。

 

1つ1つの肉体の1つが、「あなた」という個人である・・というふうに。

 

すなわち、実感としては・・肉体=自分であると想っているだろうか。

 

 

そして、あなたもその肉体でしかない・・と漠然と思っている・・のだろうか。

 

それは、<わたし=肉体>  という風に思っているということではないか・・ということだ。

 

あなたはどうだろうか?

 

 

 ・・・・

 

「わたしとは何か?」・・とマジに考えてみよう。

 

わたし=肉体・・・なのだろうか?・・と。

 

・・・

 

実は、非常に簡単な論理では、実はそうではないことがわかるかもしれない。

 

わたしが=肉体である・・というからには、

 

わたしは肉体の全てを知っているはずである。

 

なぜなら=という等式を限定、断定するためには、

 

そのものの本質を全て知っていなければならないだろう。

 

わたしは、肉体の数十兆個と言われる細胞の全てを知っているだろうか?

 

肉体、それそのものを全て「わたし」として、知っているのだろうか?

 

血液、神経の流れをあなたはリアルタイムで知っているだろうか?

 

食物の消化過程や胃腸の動き、働き、栄養素の昇華や物質転換、・・

 

考えてみればミクロと言えども無限ともいえる諸反応を追跡できるだろうか。

 

・・・・

 

いいや、

 

「わたし」とは何か?・・・と問いかける、わたしの「意識」は、

 

肉体のことは、ほとんどといって良いほど「知らない」のである。

 

そう、

 

肉体の事はほとんど何も知らないのにもかかわらず、

 

わたし=肉体・・・といつの間にか漠然と定義しているのだ。

 

<わたし>とはなにか?・・・という<わたし>のことも知らず、

 

「肉体」のこともほとんど知らない・・にもかかわらず、

 

いつの間にか、わたし=肉体・・・という漠然とした定義的観念があるのではないか?

 

あなたが仮に、所詮 「自分は肉体でしかない」 と自分をみていたということは、

 

何も知らないものに対して、不可思議にも勝手に定義をしていたということなのだ。

 

A=B である。  (ただしA=不明、B=不明)

 

そんな等式を、いままで漠然と信じていたのだといっても嘘にはならない。

 

大勢の人がそう想っていようと、そうでなかろうと、

 

ほとんど何も知らないものを定義など出来るわけもない。

 

これは論理的な方面から、明確に言える結論である。

 

「わたし=肉体である・・・」 とは決して言えないのだ。

 

なんだが騙されているようで、またシンプル過ぎて、あいかわらず通り越してしまいそうであるが、

 

ごく普通の考え方、科学的、論理的に今言えることは、

 

あなた=肉体である・・・とは決して言えないということだ。

 

したがって、

 

わたしは何か?

 

あなたは何か?

 

という解として、それは=肉体である・・・<=>は明らかに間違っている。

  

肉体は主に不随意に機能し、働いているものであり、わたしという意識によらず信じられないほど高度に有機化された知性を有するものであるということは出来るが、

 

それは=あなた、=わたし・・であるということは出来ない。

 

肉体というものを有する人間としてはここにあると感じているとしても、

 

肝心な「わたし」・・は、肉体ではないというのが妥当な見解なのである。

 

そう、

 

問いかけている当の<わたし>は肉体ではないといえるのだ。

 

臨死体験や体脱体験等をした人々は、直接的にそれを知っているけれども、今までの時代、それを単なる夢として片づける場合が多いのは、

 

実際の自分のことを何も知らされないで、

 

あるいは知ろうとしないでいる人々の中で生きている必要性を感じてきたからだ。

 

しかしながら、

 

問題なのは、知っているほうではなく、

 

知らない人々の方である。

 

お金で情報を買えば真実が得られるのでは・・という虚妄の観念

 

権威が全て知っているはずだし教えてくれるはずだという・・他者依存の観念、

 

大勢の人が言うことは正しいはず・・という思いこみ、

 

様々な思いこみ、刷り込み観念、常識観念、

 

そして、「わたしは肉体でしかない」という、

 

実のところは誰も保証も証明もできない観念を、

 

どこかで信じていた・・・<わたし>に気づく時である。

 

不特定他者のことをどうのこうのと言ったりする前に

 

それぞれの<わたし>について調べることこそが喫緊の課題なのだ。

 

それぞれの・・・わたし・・とは一体何であるのか。

 

 

(つづく) 

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解脱(3) 観念は観念でしかない

2012-01-22 19:30:36 | 宇宙時代の考え方

解脱(げだつ)とは、文字通り 「解(ほど)けて 脱している」ということであり、これは本来人間としての「当り前」の有りかたを言っているのである。

 

・・・

 

それは、

 

偉い禅宗の坊さんだとかの専売特許でもなく、何か難しげな精神修行を通り、盤石不動の静謐の境地に「至る」ということでもない。

 

聖人のように必死で他者への奉仕「活動」をしなければ得られない精神状態ということでもなく、

 

その能力の無限性を垣間見せるような、霊能力者、超能力者に修練して「なる」ことでもない。

 

そのように何か達成しなければならないという考えすらも、いわゆる刷り込みであるが、それに気づくのはなかなか難しいかもしれない。

 

人はある意味で既に解脱をしている存在なのである。

 

そう・・・、そんなことを言えば反発を招くにきまっているだろう。

 

あなたはどうだろうか?

 

例えば、これをご覧のあなたは、

 

 「大それたこと、絵空事もほどほどにしたほうがいい。私はそんな悟ったような者ではなく、解脱など考えたことも無い」

  

・・・それが当り前のように、そう言うに決まっているかもしれない。

 

最初から決めつける・・そういう『観念』自体が、自らが何であるかを観る目を曇らせているのだ。

 

 

解脱(げだつ)とは、文字通り 「解(ほど)けて 脱している」ということであり、これは本来人間としての「当り前」の有りかたを言っているのである。

 

言葉を変えれば、今の「あなた」そのものでありながら、常識とされる数々の妄の観念に束縛されていない・・・、素の在り方というほうがわかり易いだろうか。

 

あるいは人として本来自然の在り方、と言えばもっとシンプルだろうか。

 

本来自然のあり方とは、実のところあなたやわたし達、そのものなのだが、

 

そう想っていないところが唯一の障害物である。

 

なるほど、

 

人にとっては、それがどういうことなのか不明であり、また自分がそういう自由な存在であることに違和感を持って、それを拒否しているのかもしれない。

 

ある意味で、本当の自分を観ようとしない在り方によってこそ、人はいつも不安や不満や怖れを感じているにもかかわらず、なぜかそれを後生大事に保持しているようである。

 

なぜなら、皆もそうではないか・・・という想いがあるからだろう。

 

大勢の人々を集め、おバカなこと、そしてそれが面白いことだと、・・・それが当り前だというような誘導は毎日のようにメディアでも、ある意味で必死になされているようでもある。

 

・・・

 

本来自然のあり方? 

 

それが人の本来の素の有り方?・・だとしても、それではこの世界で生きていけないのではないか・・。・・とか、

 

それは世捨て人なのか・・とか。

 

解脱、あるいは・・悟り、そんな大それたこと・・・出来るはずがない・・とか。

 

なになに・・これ以上何かをしなければならないのか・・とか。

 

すぐに心が拒絶反応を起こすことに気づいているだろうか?

 

言葉の表現は別にして、「わたし」がすでに「解脱」・・・している?って。

 

あり得ない・・・。  とも感じるかもしれない。

 

しかし、

 

その常識的な主張は本当に正しいかどうか、出来得るだけの努力を尽くして確かめるべきではないだろうか。

 

結構、このことはそれぞれにとって最も重大なテーマではないのか。

 

解脱、あるいは自由な、あるいは本来の患いや捉われのない在り方とは、

 

それこそ、達成するとか、出来るとか、成るとか・・・ではなく、

 

曇りなき  「事実」 なのだ。

 

それを称して、古臭い言葉ではあるが、すでに解脱している存在と言っている。

 

・・・・

 

我々は、様々な人間の作り上げる観念をいつの間にか信念として採用しており、

 

その繰り返された思考すなわち観念、あるいは大勢が認める価値観等を正しいものとしているだろう。

 

大勢が言うこと、考えることは、民主主義上?正しいものとする漠然とした観念に騙されているかもしれないのだ。

 

それが刷り込みとも洗脳とも言うものだろう。

 

それを行う誰か悪者を担ぎ出すとすれば、・・洗脳されている・・という受け身表現になる。

 

しかしながら、原因となっている悪い誰かを探す必要はなく、

 

様々な観念、思考を、<鵜呑み>にして、そのことで<鵜に>なっている 自らの有様を観ること、そしてそれに気づくことが その必要な全てなのだ。

 

・・・・

それに、多分、大勢の人の全ての元に在るものは、

 

自分が「肉体」であるという漠然とした観念であろう。

 

また、肉体を維持することは、俗に「飯を食う」といって表現してもいいだろうか。

 

生きていくことは肉体を維持し、生活を物質的に向上させることであり、当面はそれ以上でもそれ以下でもないという考え方でもある。

 

自分は「食う」ためにこそ、一所懸命に生きているという考え方である。

 

それ自体当り前であるし、一所懸命は美徳でもある。

 

しかし、必死になって生きるという刷り込みに気づけるだろうか。

 

頑張って人の上を行かなければどうしようもないという競争心ともいえる。

 

闘争、競争・・・生き残り。

 

それはまさに、ダーウインの種の起源から持ってきて吹聴されている「生存競争」「自然淘汰」なのだろう。

 

自然界は生存競争で進化している・・という尤もらしい主張である。

 

しかしながら、どこの自然界に普遍的なバトル・闘争・競争があるのだろうか。

 

あるいは少なくとも、

 

同一種のなかにおいて同一種どうしが争い、合い食まなければならない仕組がどこにあるのだろうか。

 

少なくとも、同一種は助け合っているではないか。

・・・

 

人間の発明した競争は楽しいゲームであるが、それによってどういう進化が可能なのか?

 

一等、二等を決めてどういう種の進化があるのか?

 

そんなことは嘘に決まっているだろう。

 

大勢が競争し、あるいは闘争し、それによって生き残った者は決して進化した者ではなく、進化の袋小路で行き詰まり、取りあえずの財を集めて悦に入っているだけの者たちではないのか。

 

そういうゲームで得られる物質的繁栄を、もっともっとと貯めこむのが、それが経済の粋とでも言うのだろうか。

 

・・・

 

今、確実に自己崩壊を遂げつつある、主義の最終系である「資本主義」は、競争による付加価値をもとにした利潤追求をその信条にしており、

 

我々の生活は、否応なく、大なり小なり、気づく気付かないにかかわらず、その世界的観念の流れの中にいたのだ。

 

それが嵩じて、それを維持するための生存競争になり、少なくとも自分にとってより良き生存状態を獲得するための富や地位、名誉を求める者も出てくる。

 

食うための仕事でライバルが蹴落とされれば、どこかほくそ笑むこころが出るし、

 

食うためには、多少の悪でも見逃したほうが保身にとって良いし、

 

食うためには、自然が破壊されていても当面は仕方が無いし、

 

食うためには、権威という長いものにまかれるのも処世の方便だと思うし、

 

食うためには、末代まで禍根と害毒を残し続ける原発もしかたがないと考えるものもいるし、

 

食うためには、合法的に、誰にも解らぬ形で庶民のなけなしの蓄財を簒奪してもしかたがないと、嘘八百を堂々と話す者もでる。

 

さらには、食うために、武器を造り、武器を使い、武器で罪もない大勢の人間を殺して、シャーシャーとしているどこかのお偉い国の病人たちも出る。

 

権威や富や知名度を求めて這い上がる者たちは、その這い上がる過程で人々の無知を利用することを知ってしまい、それを扇動利用することに気づいた者たちでもある。

 

しかしながら、

 

それらが今は大なり小なりバレバレの時代になった。

 

つまりはそのような仕組みは卒業ということである。

 

古い観念を固辞し、大いなる変化に耐得られない人々にとって、

 

それは、恐れ、慌てることになるかもしれない。

 

恐慌というのはなるほどよくできた言葉ではないか。

 

要は、今までの物質偏重時代、

 

その様な世界を成してきた人々の元には、・・自らの肉体を維持したい、生存環境を豊かにしたい、財で盤石不動にしたいという『強迫観念』があるということだ。

 

物質繁栄、物質的力の誇示、契約に基づく財の簒奪、富を造るための大勢の人間を使役することで得られる個人的利益の獲得・・・、

 

そのずーっと下った根元にあるのは、

 

私たちは肉体でしかない・・という観念であり、

 

物質的肉体を維持し、出来るだけ安寧に保ち、可能な限り快適に保ちたい・・、

 

その為には潤沢物質に囲まれていなければならないという「脅迫観念」である。

 

余計なのは・・その想いの集合、すなわち集合意識的な「強迫観念」である。

 

違うだろうか?

 

我々はそういう、

 

人と人がバラバラで競争し、あまつさえ闘争し、その延長である戦争や簒奪を仕方が無い行為と思わされ、その為の嘘の流布、宣伝洗脳の嘘八百、八千?が横行しているような、

 

そんな驚くべき虚飾の世界の坩堝(るつぼ)の中に甘んじていたのではないだろうか?

 

これはある意味ではすごいことではあるが、何度も繰り返すものでもない。

 

 

本当に、<わたし=肉体>なのだろうか。

 

もしそうでなければ、<わたし>である「か弱い肉体」を維持するためと称して行われる競争、闘争、そして戦争、あるいは私腹を肥やすために強いる他者の搾取・・、

 

それら全ては本当に色あせることだろう。

 

なぜなら、<わたし>ではないものを、<わたし>は必死に、その人生での全精力を上げて確保しようとしていたという愚かさが、否応なくわかってしまうからだ。

 

体はこの世界での借り物・・・という言葉は、決してセンチメンタルな例えでは無く、

 

まごうことなく事実であることを知った場合には、

 

自然の中の生成物、組織である肉体は、そのままで生かされているのが一番良いということに気づくはずだ。

 

そのまま、あるがままを、そうでない特殊な状態にもってゆかねばならないという「強迫観念」は、謂わば後付けの余計なプログラムのようなものであることがわかるだろう。

 

そのような余計な観念をばっさり捨てることが、

 

解脱という、あるがままへの帰還作業である。

 

マインド、こころで作り上げた虚飾の楼閣は、やはりマインド・こころで壊さなければならないだろう。

 

しかしながら、

 

実はそれが怖い感じている者がいる。

 

怖いと想っている者、それを肉体自我、個我、エゴ・・・と言っている。

 

後付けで造られた観念でがんじがらめになった<わたし>の影法師、

 

それを個我、肉体自我、あるいはエゴ体ともいう。

 

それはまさに、わたしは肉体である・・という

 

いわゆる3次元的な世界ならではの刷り込み観念という、こころの歪んだパターンのことなのだ。

 

それは、それぞれの<わたし>が、今までの世界で観念とその記憶作り上げて来た「私」という、

 

刹那の影法師のことである。

 

映し出される肉体自我・・個々の「私」という観念の投影物、影法師・・

 

 

それを観ている<わたし>は一体何なんだろうか?

 

同じく、それを観ている<あなた>は一体何なんだろうか?

 

(つづく)

 

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解脱(2) 在るがままへの帰還 

2012-01-20 08:03:56 | 宇宙時代の考え方

解脱(げだつ)とは、文字通り 「解(ほど)けて 脱する」ということであり、これは本来人間としての「当り前」の有りかたを言っているのである。

 

何物にもとらわれない在り方・・・あるいは素直な生き方、

 

歪んだ様々な観念から自由・自在な存在、

 

あるがままで、感受性豊かに、好奇心いっぱいで生きている在り方・・と言ってもいいだろう。

 

自由自在で明朗闊達で、こころの澄んだ在り方・・とも言えるだろうか。

 

それはまるで誰にも例外なくあった、無邪気で天真爛漫な幼い時の在り方のようである。 

 

・・・・

あるいは、体や心・マインドを、単にその一部として含む永遠不滅の魂としての自分を知っている在り方・・とも言えるだろうか。

 

永遠不滅の魂とは、まさに無限であり、また空(くう)そのものである「それ」の、1つの表現である「わたし」を識(し)っている在り方・・である。

 

幼子は大人の世界のマガごとは知らずとも、

 

そのことを識(し)っていたのだ。

 

 

極みなきものは、自らの側面を様々な方面から観ていることで、宇宙、森羅万象を顕し続けている事実に気づいている・・在り方である。

 

人間とは、意識的存在とは、その無数に現われた「側面」のことであり、

 

それは今この地球という生命圏にもいるところの、あなたやわたし達なのでもある。

 

今ここで、生きてあること・・・それが『事実』であり、本来それ自体に患(わずら)いなど無いということである。

 

患いをもたらすのは、全て事実に対する個々の判断「観念」でしかない。

 

普通に生活し、働き、遊び、悩み、喜ぶ・・・そのプロセス自体には、何も問題などあり得ない。

 

問題は・・・、それをどうとらえるのか、どう感じるのか、どう考えるのかという意識的な姿勢であり、「観念」自体なのだ。

 

世界の様々な現象も、人々の態度も、それはそのまま、その段階でのあるがままであり、 

 

それをどうとらえるか?・・・どう感じるか、どう考えるか、にかかっているということだ。

 

ただ、それだけのことなのだ。

 

様々な観念に捉われない、それを超えた在り方を、あるがままと言い、解脱と言ってもいいだろう。

 

好き勝手に様々な歪んだ観念を作り上げ、それを現わしては、不幸や悲惨を作り上げ、反省しながらも繰り返す・・・我々という今の人類、

 

そうした者達のセルフ学習ともいえるものが古くから「カルマ」と言われている。

 

しかしながら、

 

次から次へと、この世界に登場する魂たちの学びともいえる試行錯誤は、常にあるレベルで飽和しつつ、次なる新たな試行錯誤に上昇拡大してゆくプロセスにある。

 

あなたは今その稀有なステージにいることに気づくだろうか。

 

すべては観念、想念という道具の扱い方の問題であり、

 

一人一人の意識的在り方の問題なのである。

 

あなたはもう、人の迷える観念、想いという要らないハンマーで、

 

あろうことか自らのハートを叩いて泣き騒ぐような幼き在り方から卒業しているはずである。

 

今はまだわけがわからぬ段階の人達の想いや感情を、あろうことか自らにコピーして、その嘆きや不幸を繰り返すだけの在り方から、もう卒業していることだろう。

 

汚濁も無知も、そして慈愛も、何でもありのこの人間世界ならではこそ、それに十分に気づけるのだ。

 

だからこそ、この汚濁とも汚泥とも感じるこの世界に感謝しよう。

 

そして、

  

それを今、やっと学びつつある、次から次へとやってくる、いわば霊的幼子たちをも理解してあげようか。

 

 

それぞれのあなたが選ぶのは、自らの幸せである。

 

幸せを誰かに『求める』のでなく、自らで『表現』することこそが、

 

大勢の<わたし>達であるところの、それぞれの段階を学んでいるところの、

 

この地上の愛すべき人々の「支え」となり、「幸せ」となるのだ。

・・・

 

我々は皆、もともとこの世界にかつて生れていなかった。

 

そして、いつか去ることになる。

  

そう、

 

じつのところ、誰もこの世界には属していないのだ。

 

どこにいようと、何をしていようと、年寄りだろうと若人だろうと、

 

普通に生きていながら、

 

この世界にいても、この世界に組み敷かれないこと、

 

無限の1側面である<わたし>・・・本質的な、神の個性とも言える「魂」である自分を自己認識し、

 

汚濁に満ちているようにみえるこの世界への無意識的自己同化を解除し、

  

それ自体で、何が何かわからない様々な『観念』から自由になること。

 

 

我々はもともと、肉体でもこころでもない、空(くう)にして、全てに偏在する大いなる意識であることを認識すること。

 

 

あるがまま、・・とは、大宇宙の奏でる歓喜雀躍たるダイナミックな表現に調和してあるということであり、

 

その参画者は、どんなことにも、どんな役割にも意味があることを知っている。

 

個々別々、バラバラで孤独な人間たち・・などとんでもない嘘であることに気づくべきである。

 

その為には、かつて入り込んでしまった、この世界の特徴であった、歪んだエゴという、閉じられた観念の呪縛から『自ら』を解き放つ意識的<作業>も必要だということだ。

 

それが『解脱』である。

 

ただ当り前の毎日とは、その為の意識的開花のプロセスのことをいうはずなのだ。

 

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今、目覚めのベルは鳴っている

2012-01-15 14:01:40 | 偉大なる先達の言葉

当然、もうご存知かもしれないけれど、

 

京大の小出さんの1月8日の公演中継のYou Tube録画である。

 

これは原発事故に関する真実の1つのディスクロジャーといえるものだが、

 

これらを含めて、

 

いかに我々が眠りこけているか、あるいは刷り込み観念で生きているか、

 

よくわかるかも知れない。

 

大衆として無意識の中で眠っている間に、ある面でも『地球』はここまで来てしまったということである。

 

真実は自らで気づくものであり、他者から教えられるものではない。

 

それだけで輝く素の意識としての自らに戻らなければ、嘘の時間と、影でしかない物質の流れに流されてゆくかも知れない。

 

本来の自分に戻らないお芝居は、面白くないことだろう。

 

・・・

 

長いけれども、・・ゆっくり・・と聞いて頂ければ有難い。

 

もう時間は、有るようで、また、すでに無いようでもある。

 

 http://www.youtube.com/watch?v=7MbcteuNf6c&feature=player_embedded

 

自分自身の意識の眼をさまし、

 

与えられた虚妄の 『観念』 を潔く捨て去り、

 

ある意味で、肉主霊従とも言われる、

 

極めて愚かな有り方に、自分で終止符をうたねばならない時に至ったのだ。

 

気づくのは、わたし・・自身、

 

そして  あなた自身・・なのだ。

 

原点は、いつでも、どこでも それぞれの<わたし>であり、

 

その<わたし>とは、個々の肉体人間の<私>ではない。

 

・・・・

少なくとも、

 

扱うことのできない原発は 100パーセント NO!であり、

 

人の命を取り戻すことのできない戦争は 100% NO!である。

 

巧妙に騙して大勢を搾取する、宣伝・洗脳は 100% NO!であり、

 

・・・

他者に依存し、無意識に眠れる有り方も、100% NO!である。

 

魂たちよ・・・今、の今・・目覚めのベルが鳴っているのだ! 

 

 

 

・・・

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解脱(1)  わたし・・に気づく  

2012-01-14 10:35:59 | 宇宙時代の考え方

我々がこの世界に生れて、そして一生懸命に生きている有様は、

 

例えば土の中に、あるいは、泥の中にまかれた種の状態のようなものであろうか。

 

一時は種にとって、社会という土の中は重たく、なかなか身動きが取れないし、光も少ない世界と感じるだろう。

 

周りの重たい土や小石の押し合いへしあいしている中にいるのは、窮屈でまた苦痛に満ちたものかもしれない。

 

漠然と感じている、更なる光と自由度に満ちた世界にその身を伸ばすまでは、種は我慢を強いられることになるのかもしれない。

 

我々の世界は・・そんな世界であると言えようか。

 

多分あなたもそうやって生きていることだろう。

 

苦と楽の間を振り回されながら、善と悪の間で怯えながらも、

 

もちろん、そんなことはおくびにも出さず、

 

今という「時」になんとか根を張りながら、

 

光に満ちた大気の世界を目指し、

 

明日という「時」を目指して今も成長しているはずである。

 

どうして「楽」が少ないのかといぶかりながらも、

 

どうして「苦」が多いのかと悩みながらも、

 

どうしていつも何かにせき立てられるのかと、不満を抱きながらも、

 

「今」という、繰り返し訪れる当り前の可能性のおかげで、

 

いつの間にかしっかりとその根を広げていることだろう。

・・・・

 

大地にまかれた種は、

 

土や泥の中の様々な分子、細胞、微生物の働き、水や養分の流れによってこそ、

 

自らを維持することが出来るし、

 

また、様々な軋轢や刺激によってこそ自らを磨くことが出来る。

 

まさに何でも有りの、泥のような世界であるからこそ、

 

汚濁に満ちたものを成長の養分に変換することが出来、

 

その自己内でのいわば、濁⇒清の変換作用によってこそ、

 

自らの中に内包する無限者の描いた、成長・進化の青写真を具現することが出来るのだ。

 

厚ぼったく、重い世界であるからこそ、

 

時間という援けを借りながら、それを撥ねのけるバネが生成され、

 

光へと、上へと延びる不可思議な意欲を持続醸成され、

 

土をかきわけ、石をはねのけ、コンクリートをも突き抜け、

 

陽光輝く大気の世界に躍り出ることが出来るのだ。

 

世に言う次元上昇とは、

 

自らでこの世界を意識において突き抜けることを示す。

 

いつまでも土の中で、自らをとるに足らないものと思いこみ、

 

あたかもごマメ同士が、お互いの顔を眺めあっていても、何も変わるのではない。

 

誰かが土を掘り返して、種である「あなた」を救い出すことでもない。

 

実のところ、

 

多くの「あなた」である種は、既に、

 

不自由を感じる重い土の中から、

 

より自由度の高い光と大気の世界へと、

 

自らを上昇させるパワーを身につけているのだ。

・・・

 

パワーとは重いヘビーな物質的エネルギーではなく、

 

いわば身軽な 空(くう) から生ずるものである。

 

あなたは今・・そこはかとなくであっても、それに気づいているはずである。

 

あなたとは、本来は無限の可能性がその属性であるところの、

 

一見何もない・・空(くう)から生じている、久遠の意識であることを。

 

・・・

 

『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ・・・』ということわざがあるように、

 

何事においても、自分が大事、我が先、おのれが最優先では、救われないということであろう。

 

ここで言う『救われる』・・とは、

 

魂としても自らの本来、本意でない在りかたからの「解脱」である。

・・

 

身を捨てる・・ということは、

 

何も体を捨てるということでは毛頭なく、

 

自らが物質であるという極めて重い刷り込み観念を捨てるということだ。

 

肉体偏重、物質偏重、そしてそこから歪んだ形で定在しているところの、

 

<我良し>の「重い」観念を捨てるということである。

 

我良しの「重い」観念とは、わが身の安穏、わが身の快楽のみを追求するという固まった「考え」を意味する。

 

それは一般に言う「自己中」であり、さらに深い意味での<身体=自己>の虚妄の観念で固まった有様を言う。

 

あるいはそれは、今の世相の下に流れている生き方、

 

人生において、意識的・無意識的に、自己の身体、肉体維持の為にのみに特化することを意味している。

 

それは簡単に言えば、巧妙な利己主義であり、

 

それはまた、

 

とりあえずの刹那の肉体保身への観念に根ざしている。

 

世界は今、

 

このような刹那的な自己中心観念の飽和とそして崩壊の淵にある。

 

原発の汚職や汚染の伝搬、政治の愚かさ幼さの露呈、

 

ましてや国家の破産が囁かれる時代は誰も予想していなかっただろう。

 

しかしどうしてそうなってしまったのかは既に理解しているかもしれない。

 

人類の世界のあらゆる現象の背後にあるのは「想念」であり、

 

そこから発する行動であり、

  

繰り返しに終始する不幸の拡大再生産は、

 

その想念の歪みの、当然の現象化でしかないのだ。

 

世界のことを改革だとか、革命だとか、これを何とかしようという高邁な想念自体も、

 

ことここに及んで、自らのことを忘れている誤りに気づいていない。

 

自らの想念自体に「気づいて」いなければ、

 

他者の想念、思い、そして行動を予測することなど出来はしないし、

 

社会や世界の改革など出来るわけもないのだ。

 

外の何か、外の誰かを観ている限り、

 

土の中の種のままで不満をかこつしかないだろう。

 

逆に、

 

自らを開墾し、自らの中の無限性を再発見することでしか、

 

土の中からより、大いなる大気の世界へ突き抜けることは出来ないだろう。

 

いまそれぞれの、その意識的方向性が明確に分かれるところまで、

 

我々の外の世界は飽和してきたということである。

 

そして内なる世界もまさにそうである。

 

あなた・・・は何なのか?

 

わたしは・・何なのか?

 

世界というスクリーンを観ている<当のわたし>に、自らが気づく時である。

 

 

(つづく)

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。