気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

夢の記憶170426 (洪水の前兆?)

2017-04-26 06:04:46 | 夢及び半覚醒時の体験記録

今回は、夢や半覚醒時での体験の記事。

わたしの場合、夢は毎日のように憶えている。
誰でも夢見があるのだが、それを非現実的なものとして捨てる人が多いため、
その中で得られる貴重なヒントや象徴を見逃すことにもなる。
だからといって特別視することもないのだが。
・・
夢見もいわゆる毎日の現実も、どちらも「意識」で観ている物語であり、
結局はどちらも同じ・・意識体験・・なのである。

今日の朝の夢見に、自然環境に関連しそうな強い印象があったため、
備忘録として記録しておくことにする。
必ずしも、「こうなってしまうかも・・」という、予知夢とは限らない。

・・・
わたしはどこかの町というか大き目の都会にいる。
新しい都会と古い町並みが混在する、日本によくある歴史のある地域だろうか。
関東のように一面の平野ではなく、山坂が比較的多い中規模の都市の感じだ。

わたしは周囲に水が増水してきていることを感じ取り、
「これは2度目なので?、早く避難しなければ・・」という想いに急き立てられ、
迷路のような街中をあちこち通り抜けている。
妙な建物の内部にある?キャットウオーク(非常階段や網目状の金属の床)や
商売をしているような街並みを、あちこち・・自在に通り抜けてゆく。

そのうち、いつものように、「随伴者」のような人影が後ろ側に並走している、
(自分の夢には良くこの、魂のガイドなのかエコーなのか、別の自己側面なのか、
良くお出ましになる・・笑)
今回は女性のような感じで、姿は見えないが若そうだ・・、
茶色い、先が少し多角形状のスリッパのままの感じ、観えるのはそのスリッパ(笑)。

「おいおい、スリッパで洪水?からの避難なんかい!(爆笑)

わたしは、
「家には帰る時間がないので、とにかく高い地域に行くしかない」という感覚で、
次第に水が浸水、増水していくのを観察する緊張感と共に、
比較的高度のあると思う・・けれども、それほど高くない土地に来たようだ。

ふと見ると、それほど遠くない遠景には、ゴジラではないが(笑)
”濁った水色のまるで人の手のような、怖くはない化け物”のようなイメージが、迫ってきている。
(洪水・・津波・だろうか?わからない)

「ここはどこか?」と思ったが、何か・・「坂本城?、阪本城・・」ということだ。
(坂本、阪本城?・・・なにそれ?、そんな城あったっけ)

夢の鮮明な記憶も、朝の目覚めの後ですっかり詳細を忘れることがあるのを知っているため、
ここで、何度もそれを繰り返し、憶えようとしている。

ここがとりあえず安全なのか・・。
確かに高い建物状?か高地か?森のようなエリアがあり、
そこに上ることにして、上に移動・している・・間に、
誰かに問いかけられた・・
「誰かが・何かをして来たら、どうしたらいいのか・○×△・・?」
みたいなことだった、が、何を返事したか・・憶えていない。


・・・
大体以上であるが、洪水あるいは、イレギュラーな増水の夢なので、
いつか、どこかの時空間で起きる可能性もあり、一応UPしておくことにした。

・・・
さかもとじょう・・、坂本城?・・はネットで調べたところ、
近江、琵琶湖の南部のほとりに実際にあったらしい。

・・えーっ?!?マジにい~?・・だったが、別に驚きはない。
潜在意識ではすでに知っている・・ということだろう。

また、夢見も現実も、質の異なる「意識の体験」ということであり、
夢の中には様々なものが一気に混在しているため、
一見意味不明と感じてしまうのも無理はないだろう。

夢も知覚の1形態であり、これを覚えることも体験なのである。




ウイキペディアにはこう記されている:
1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記している。





浸水に関する夢

2015-01-26 07:29:41 | 夢及び半覚醒時の体験記録
夢は大体毎日のように見ている。

映像やストーリー、会話の断片としてかなり憶えていると言えるかもしれない。

目が覚めてしまえばあの夢は何だったか・・と言う経験は誰にもあるものだが、

馴れてくれば夢の情報を、顕在意識に上らせる、あるいは記憶を上らせたままにしておくことも出来る。

一般に言う夢は、体脱経験や臨死体験と違ったレベルではあっても、それが意識的な経験であることに変わりがない。

取っつきやすい概念で言えば、自己の膨大な潜在意識にアクセスしているとも言える。

ユングの言うように、個々人の潜在意識は更に大きな集合意識を形成しているならば、
自分の潜在意識は、段階的に更に大きな「意識」につながっているとも言えるのである。

・・・
夢とは脳内のランダムな思考や記憶のアクセスだ・・という解釈があるが、そうだと思っている人にとっては終始その通りのままだろうが、

夢の中には何らかの現実的情報、未来予知関連、あるいは<魂レベルでの有意味な情報感受などもある>ことに気付く必要があるだろう。

全ての存在物、現象もそれ即ちエネルギーや波動であり、そうであればこそ様々な情報を有していると言えるのである。

全ては「意識」である言うが、実際のところそうなのである。

・・・・

前置きはこのくらいにして、

2日連続して、「浸水・増水」の夢を観たので備忘録としてブログに記録しておこうと思う。

(夢にはかなりランダム性があり、すぐには意味不明な登場人物やストーリーも含まれるが、下記はその中から主観的に意味を「抽出」したもので、自然現象に関するかも知れない・・・と思える内容である。)
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2015/1/24に見た夢:海岸の液状化?
 瀬戸内海あたりかも知れないが、電車がそんなに通っていない地域で、車の往来は逆に多い地域のイメージだが、海岸線の土地が急に液状化のような感じで崩れ始め、水が侵食してきた。

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2015/1/25に見た夢:あっという間の広大な領域の海面化?
 夢で、自分は何かを掴んだりしながら、楽な感じでひょいひょい斜面を昇っている。
そして、上には御殿のような天守閣のような建物があり、そこから下を望むとかなり高いところに来ていることがわかる。
 そしてはるか向こう、水平線あたりに水(海水?)があり、それがゆっくりと押してくる感じの映像が見えている。
・・と思っていると、あっという間に辺り一面が水で満たされており、かなり高いところに建っていたはずの例の御殿のような建物が、かろうじて水面の上に出ている状況になっていた。
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これらが、いつ起きる可能性があるのか?とか、予知的な情報だ?とか、そういう判断は差し控えるが、

1つ感じているところは、自分の生活環境か、あるいは何らかの世界の、大自然の動きに関する情報の断片であるかも・・あるいは増水・浸水というのが「水増しされた経済」の比喩だとか・・・、そういう事象が急激に起きる前兆という事かも知れないし、自分の経験から言えば、そういう可能性も否定できないということである。



以上




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

夢のある話 (4)夢とは何か

2013-02-02 10:42:09 | 夢及び半覚醒時の体験記録

普段の我々は主に目覚めた状態での五感感覚だけに意識を集中しているわけだし、いわゆる眠っている状態での意識の働きに気付ける人はそう多くはないかもしれない。

  

今までの人類の平均的な信念体系では、眠りは単なる単なる肉体休息であり、肉体だけが<自己>であると漠然と信じ込んでいる限りは、眠りの間にあなたの意識が活動しているとは露にも思っていないかもしれない。

  

人類にとって今最も重要な課題は、この内面と言われる意識の方向に気付くことなのである。

 

中近東、アフリカ世界の騒乱や、何とかミクスという幻想の経済政策や、円安やらドル経済崩壊やら、不可視な矮星の接近やら、太陽のフレアのうわさやら、それこそ様々な想念形の情報、ニュースに気付いているかもしれないが、

 

それら外の世界から湧き出しているかにみえる様々な混乱想念に振り回されてはならない。

 

人の世界の全ての出来事は人々の想念の結果である。

 

世界的な様々な組織が画策する洗脳や事変や諍いも元は歪んだ想念であり、尤もらしい経済政策や、真剣そうに見える政治と云わず、全ては特定の人間達の相対的な価値観念の投影にすぎないのである。

 

どうしてそのような他者たちの想念にことさら意識を集中し、期待や絶望、批判や詮索をしなければならないのだろうか。

 

そんなことは自業であり自得 ・・「なるように・・なる」 ことになっているだけの話である。

 

・・・

そういう枝葉的な話はさておいて、

 

内面にそれぞれの意識を向け、その意識のすそ野を広げて行く方法は瞑想や内観等、古来から色々とあるのだが、夢の分析なども実は手軽な1つの方法である。

 

夢は主として睡眠中の意識的経験の、現実的観念への変換と云って良いかもしれない。

 

夢とは、すなわち内面次元というか、自己意識がつながっている「普遍意識の中での経験」の翻訳・・・のことであり、その経験知を現実に持ち越すことが出来た場合に限り<夢>となって<憶えている>ことが出来るということである。

 

また夢を現実生活に記憶として持ち来たる場合には、当然ながらその人の馴染んだ知識や概念に「翻訳」されることになるために、場合によって夢の内容がアヤフヤ、トンチンカン、漠然としたイメージになる場合も多い。

 

しかしながら、これは夢あるいは内的経験に慣れてくるにしたがって次第に明瞭な意味に変化してくるのである。

 

夢情報が重要なのは、常識という歪曲観念に満ちた顕在意識がどこかに消えている状態(眠っている)でのダイレクトなものであるからなのだ。

 

それはまた大きくいえば、歪んだ先入観念がない意識状態での、多次元的な情報授受とも言えるだろう。

 

逆に先入観念がないがゆえに、自分の常識観念や既存の知識とずれることも多いため、夢が断片的でアヤフヤに感じられるのである。

 

例えば外国に行ったとして言語の意味が不明であれば、何が何だかよくわからないようなものだし、中途半端な言語能力では今一ぴんとこないはずである。

 

夢が断片的で漠然としているならば、それは例えばあなたやわたし達の実際あった過去の記憶と同じ類のものでもあろう。

 

何年か前の記憶を思いだすならば、多分それは断片的でもあり、実際夢の記憶とそう変わらないことに気がつくことだろう。

 

このように記憶においては夢の中での出来事も、実際の生活での出来事も同質であることに気付けるはずである。

・・・ 

我々はこの御膳立てされた物理的世界にどっぷり馴染んでおり、またどこか唯物論的な観念がしみ込んでいるおかげで、この物質的体験世界だけをリアルなものだと思い込んでいるのだが、実はそういうことではないようである。

 

パラレルワールドや多次元世界と言われるものは実際にあるわけで、その多様な諸世界も今の現実世界も、全て普遍的な(神の)意識の波動的投影によって表現されていると考えられる。

 

我々の拡大し続ける魂・意識も、その普遍的な、全包容的な、遍在的な意識の海の中に在るからには、

 

意識においては本来自由自在に諸次元を横断することも可能であろう。

 

またそういう拡大された意識レベルのことを宇宙意識とも言うのだが、この地球上ではその宇宙意識にまで同調出来る存在はそれほど多くはないようである。

 

またそこまで至らぬ者としては、初歩的であろうとなかろうと、瞑想や夢のような拡大された意識レベルでの経験をも重要視しなければならないはずである。

 

顕在意識が外れた状態での意識経験の記憶である夢もまたおろそかにすべきではないし、またそれは誰でも、毎日、タダで身ひとつで可能な意識拡大プロセスなのである。

 

自己観想、内面の探求、

 

まさに灯台もと・・暗し・・・・

 

本質、真理を知る方向に歩くために、お金をかける必要もない。

 

どこかに遠くに行く必要もない。

 

またどこかの誰かに依存するわけにもいくまい。

  

一歩一歩進むのは今の瞬間の・・意識ある・・自己自身なのである。

 

日々の当たり前の生活の中にこそ、

 

かけがえのないそれぞれの魂の成長の機会があるのだ。

 

それとも、どこか山のあなたの空遠くに在ると思っているのだろうか。

 

・・・

 

例えば夢は、自己内面から湧出するところの、拡大された<わたし>からのメッセージとも言えるかもしれない。

 

それは気付けば、手軽でいつでもどこでも可能な魂意識の1つの拡大方法である。

 

夢などとゆめ夢馬鹿にしてはいけない。

 

更に進んで、静かに単座するような瞑想等を生活の中に取り入れることが、これからの人類にとって極めて重要なテーマであると言えるだろう。

 

人間存在にとって、意識的・・意識を獲得することが重要なポイントなのである。

 

次第に混乱の度を増すかのような外の事件や出来事だけにフォーカスし、感情や思考で反応し続けることは、まるで太陽の日差しで作られる自分の影法師を追いかけ回しているようなものだ。

 

・・・

無益の  事を行じて  徒(いたずら)に 時を失うことなか  (正方眼蔵随聞記)

 

 

 

Dogen01

余談ではあるものの、

わたしはある時の退行催眠の体験において、道元とおぼしき人物の明瞭な映像を内観した時があるために、その御縁を感じて時折道元禅師の記事やら写真やらを掲載させていただいている。

  

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


夢のある話 (3)意識による遠隔知

2013-01-20 10:00:46 | 夢及び半覚醒時の体験記録

人間には第六感という感覚機能があり、それを簡単に言えば時空を超えた知覚機能であり、また身近な表現で言えば高次元的な情報送受信機能があるのだが、

 

それは・・・それを認識することで顕れて来る能力であり、また誰にでもある潜在的な本来的な能力なのである。

 

それを気付いて、認めてゆくプロセス、あるいは精神的な修練・修養等を経て顕在化していく性質のものであり、またそれは芸術や創作のように、何も無いところから在るところへ具体化するのと全く同じことなのだ。

 

3次元レベルを超えたような自由度の高い人間としての在り方は、本来特別でも難しいことでもないのだが、いつの頃からそうなったのだろうか。

 

やはり人類意識は直線時間で1万数千年前に次元降下したということも言われているが、多分そうに違いない。

 

宇宙・自然と一体化した中でのそれぞれの個性的意識表現としての<わたし>観から、

 

宇宙・自然と切り離された、個々バラバラの肉体単体存在としての孤独・単独な<わたし>観へと分化する経験だったのかもしれない。

 

そうしてみると、古くから日本という文化を中心として存在する「和」の意識はとてつもなく重要なものであろうか。

 

分化・単体化のサイクルから本来還るべき全体との調和としての『ユニティ』の意識を示していると考えられるからだ。

 

日本での様々な歴史や栄枯盛衰、欧米的な支配や事実の書き換え等があったとしても、

 

そんなことは実際どうでも良いわけで、

 

綿々として残る「和」の中核精神は人々の中に確かに生きている。

 

ここが肝心なところではないだろうか。

 

・・・・

 

意識を広げ、それによって可能となる様々な現象を経験するということは、

 

それは例えば畑に作物を実らせること、水面には見えない海のなかの魚を釣り上げるようなものであり、要は無限の可能性から1つ1つ具体化する創作、創造と同じものなのである。

 

私は実際に念写を試した経験があるため、意識がエネルギーを生じて直に現象化することは断言が出来る。

 

テレパシーや、以心伝心、読心、シンクロ二シティ、正夢・・・等と呼ばれる一種の超常的な現象と言われるものは、すなわち、時空を超えた次元からの意識的なアクセスによるものと考えた方が解り易いだろう。

 

また3次元的な有り方では理解不能な念力や念写、テレポート等も結局は高次元的な意識領域からのアクセス・現象化によって行われると言えるのである。

 

高い次元と言えば、それこそ何が何だか分からない別の世界、あちらの範疇に押しやっているのが常でもあろうが、

 

人は、今ここに・・・いながら、実はより高い意識次元にも確実に接続されているのだが、どうしてかこうしてか普通の我々の「今の意識」がそれに気付いていないということが言えるのだ。

 

それは例えば、

 

インターネットは使っていても、光ネットワークやら通信プロトコルなどの全包容的な背景インフラことは何も知らないのと同じようなものであろう。

 

また海の中にいる魚が水を求めて探し回るようなものだろうか。

 

我々は全てを包含し、全ての事象の元である「意識」の大海にいるようなものなのだが、今までは人間の五感という狭いフィルターを通じてのみ世界を観察していたし、それが全てだと思い込んでいたということなのだ。

  

今はもう、顕れた物質形態、量的表現に先立つところの意識の働き・精神的な領域への飛躍の時代が来ていることは疑う余地がない。

 

それを次元上昇という表現も可能である。

 

相変わらず回りの世界が変わっていないと思う人は、同じく相変わらず現象の方に眼を奪われ、そちらに意識をなびかせているわけで、

 

人々の内面にある・・・微妙で微細な、かつ現象化への影響力の極めて大きな意識的変容・・・を見逃しているのかもしれない。

・・・・

 

どのような体験、経験であっても、

 

意識的に何を正しいと信じているか、何をベースに考えているか、何が常識であると思い込んでいるか、というような信念あるいは固定された常識的観念によって、我々の経験にフィルターが掛かるのである。

 

観念のフィルターに全く透明感がなく、暗くて淀んだものであれば、我々の経験自体が暗くて淀んだ現象を体験することになるし、

 

重い・想いの観念のフィルターに気づかないで、暗い暗い・・・と嘆いていることを例えて、

 

闇の荒野でさ迷っていると言い、また、

 

観念のフィルターを浄化しつつ意識が拡大し、様々ななことが次第に明らかになって来たことを

 

眼が覚めた・・・・と表現しても良いだろう。

 

それはひとえに、それぞれの人の意識が拡大しつつ遂げて行くべきものである。

 

ーーーーーーー

 

前置きは長くなったし、話が全く飛んでしまうのだが、若いころに火星とおぼしき世界にリモートアクセスしたような意識体験を話そうと思う。

 

それはこういうことだった・・・・。

 

学生当時ご多聞にもれず、Jアダムスキーのコンタクト体験記や宇宙哲学なるものも興味を持って読んだ記憶があり、

 

大学で物理学を専攻し、何事も実際に確認し、納得しないでは決して信じないタイプのマインドを持つ私としては、

 

その真実に迫る感のある書物の中身の話と、地球上の天文学的常識見解とのギャップが大きいことに気付き、何とかことの真偽の確認が出来ないかと思っていた。

 

アダムスキーの宇宙人とのコンタクトでは、火星にも金星にも知的生命体がいるということだったが、地球の科学的な常識ではどちらも人など住むことは出来ない環境であるとされていた。

 

この認識?ギャップは何だろうか、と思っていたのだ。

・・・ 

しかしながら、少なくとも昨今の火星観測では、どうもそういう風な生命など存在出来ないというような常識が・・次第に・・薄まって来ている感もあり、例えば火星の空は青く、何かの文明かその痕跡や、動植物の生息もあるような雰囲気があるようだ。

 

・・・・

(火星への意識旅行)?

蔦の・・からまる・・?学生時代(1970年台)なのだが、家の自分の部屋で寝ころんでいた時に、

 

少しウトウトするような、しかし決して眠っていない状態、雑念も少なくなり、体も緊張感が無い状態になってきた。

 

その時に 「そうだ火星に行ってみよう」 という、顕在意識では到底考えつかない・・不埒な?想いを持った瞬間だった。

 ・・・

ふと気付けば大気圏遥か上空、地球全体を見るような視点に自分があり、

 

次に、

 

あっという間にその地球が横に縮んでしまい、縦長の楕円形になったその瞬間・・・

Photo

 

なんと、

 

既に地球ではないどこかの星の大気圏上空にいて、その星の上空から下降をしているようだった。

 

大気圏下を見下ろす丸い輪の中の視野であり、まるで宇宙船の底部の丸い覗き窓、観察窓から覗いているようなものでもある。

 

その底部の丸い大きな観察窓の視野の中に、何か無数のきらきら金色に光るものが浮遊しており、自分の視点が降下するのに合わせて随伴しつつ降下しているようである。

 

・・・

気付いたら、もうどこかの地表面上にいたようである。

 

雰囲気はどうかと言えば、・・・予想外ではあるが、

 

実に緑が豊富であるという実感であった。(え?、ここは本当に火星なのか)

・・・・

そしてその瞬間に頭の中というのか、意識というのか内面に強く何かが響いてきたのだ。

 

それは、深い緑を背景にしてこちらに気付いている・・何かの意識であり、

 

「おまえは何者か!?」

・・と、強く問いかけてきた。

 

それは思念のような明確で直接的なイメージであった。

 

どこからかやってきた者に対して、問い正すような強い感覚であったため、

 

自分ながらびっくりこいて、思わずとっさに、

 

「ち、地球から・・来た」(汗)・・・と答えたのだった。(結構横柄な答え方だが慌てている証拠である)

 

その時、何か阿吽(あうん)の感覚というか、納得というか、そうか・・というようなイメージがほんの一瞬来たようだった。

 

・・・ 

その瞬間、・・部屋に寝ころんでいる自分に意識が戻ったのだった。

 

ーーーーー

 

ほんの一瞬で、たったこれだけのことなのだったが、尋常ならざる内的体験と考えざるを得ないのも事実である。

 

コマ送りの漫画のような動的ビジョンの断片的な連なりであるが、白昼夢、夢想、想像とは違うし、完全に眠っている状態で見ている夢でもない、いわゆる半覚醒、変性意識での経験であることがわかる。

 

解った風に意識的なプロセスを言えば、

 

①変性意識において、 (ある意識状態)

②火星の内実を知ろうとした。 (ある意図をする)

③リモートアクセス、ビジョン的な旅行、転移 (その意図に沿った現象化)

④火星の総合意識との遭遇 (目的・対象とのエンカウンタ―)

⑤帰還 (意識が我に帰る)

・・・

ということも言えるだろうか。

 

これで得られた・・と思われる情報としては、

 

意識レベルでの情報取得や、それを象徴化、ビジュアライズした意識旅行的プロセスは時間と空間に左右されないということ、

 

以前太陽に行った?の記事でも示したが、例えば惑星という巨大形態であっても集合意識というか総合意識、(地球でいえばガイア)と呼ばれるような惑星意識があるということ。

 

赤い惑星と呼ばれる火星には緑、生息植物が存在すること。

 

・・・・等、ということだろうか。情報量としては少ないが意外な内容を含んでいる。

 

火星には濃い緑があるという知覚情報があったのが不思議なところであり、昨今の様々な火星探査機やキュリオシティ等での観察報道では、そんな豊富な植物生息の情報は出ていないようでもある。(表面上そうしているのかも。)

 

ひょっとして、現在でも火星の一部には豊富な植物が生息するのか、

 

あるいは、

 

アクセスした火星での時間軸のずれがあったのか、例えば過去とか未来、またはそれを包含する惑星の時空周波数帯域を構成する別次元層へのアクセスだったのか。

 

つまり火星の次元の異なる領域、時間軸のずれた領域へのアクセスだったのか、

あるいは、はたまた、好奇心が嵩じて夢の物語を潜在意識が造り上げたのか。

 

・・・等など、あれこれと左脳は考えるわけだが。

 

・・・

自分で知ろうと思ったならば、当初はほんの少しの情報であるかもしれないがそれを知ることは出来るものであるし、

 

また少し知れば・・・・またまた謎が深まるのも真実であり、

 

それらの断片を寄せ集めて行く意識的行為、行動、意図によって次第に世界と自己への認識が拡大してゆくものなのだ。

 

リモートビューイングに関しては、Jマクモニーグルやディムス少佐等が有名であるが、ちなみに10数年前に発刊されたアメリカのリモートビューイングに関する書物の中には、火星のことも描かれていて、

 

かつて高度な文明があったのだが、ある時の宇宙的な異変(隕石・遊星の近接近)によって滅亡した経緯だとか、

 

火星の人面顔とピラミッドに関わることや、他の宇宙文明によるの援助活動等の記事も出ていたと記憶している。

 

またリモートビューイング・遠隔透視に関しては、時間と空間を超えた働きがあるため、必ずしも現時点での情報を採取しているとは限らないということらしい。

 

マジに考えれば、頭がくらくらするようなことにもなるのだが、左右脳が連動した「意識」の状態は時間空間を超えることは実際そうなのだろうし、それに左脳が反応するとクラクラとなるか、あるいは完全な無視を決め込むことになるらしい(笑)。

 

普通の夢であっても、実際は、何かの次元か世界か、あるいはフォーカスレベルでの意識的『経験』なのであるが、

往々にして表面意識に解り易い概念や知識・イメージに変換されてしまうか、あるいは記憶から抜け落ちるか、そんなふうなことになっているようである。

 

夢も夢々おろそかにせず、しっかりと認識、評価、分析をする必要があるのだが、それを価値のない、何でもないものと決め込んでいるのが大方のようである。

 

夢で代表されるような様々な意識レベルの中には、例えば未来や過去を見通すことのできる魔法の杖?があるようなものなのであるが、表面意識の無理解と無知、あるいは先入観念によって、

 

文字通り「眠っている」のである。

 

・・・・

まさに、謡曲・・敦盛のごとく、

 

・・・・

  

思えば此の世は常の住み家にあらず、

 

草葉に置く白露、水にうつる月よりなおあやし、

 

金谷に花を詠じ、栄花は先立って無常の風に誘わるる、

 

南楼をもてあそぶ輩も、月に先立って有為の雲に隠れり、

 

人間五十年、化天の内をくらぶれば、

 

夢まぼろしのごとくなり・・・・・。

 

Photo  

  

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夢のある話 (2)変性意識

2013-01-14 11:38:14 | 夢及び半覚醒時の体験記録

人々の普段の意識状態は五感によって体得される日常経験とそれに対する想い、感情で構成されている。

 

これをいわゆる顕在意識とするならば、その顕在意識に対する潜在意識が既に知られているだろう。

 

顕在意識は、知覚の表層に浮き出ている氷山の一角のようなものであり、知覚の表層以下に存在する膨大な意識領域のことを「潜在意識」と言う。

 

ある意味、<忘れ去られた意識領域>とでも言えるだろうか。

 

この「潜在意識」のいわば開発自体が<意識の拡大>といっても良い。

 

顕在意識から潜在意識への拡大は、変性意識という機動的な意識によって行われることになる。

 

変性意識とは、変な性質の意識状態ではなく、意識を自己修正・制御しながら調律し、意識の窓枠を広げる作業とも言えるだろう。

 

確かに日常のβ波的な乱雑な意識状態ではなく、

 

ゆったりとして全方位的に敏感というか、気付きの張ったというか、

 

変な先入観や既成概念の薄まった意識というか、

 

そういう意識的在り方の状態を変性意識と言って良いだろう。

 

解り易く言えば、脳波的にはα(アルファ)波~θ(シータ)ということだ。

 

古代からの瞑想や座禅、様々な修行は、自己意識をこういう拡大された意識レベルに持ってゆくことを目指したものであったのだ。

 

ロバート・モンローの創始したヘミシンクという技術は、左右耳から周波数のずれた音を聞くだけで自然にそういう瞑想状態に誘導することが出来る。

 

わたし自身もすでに経験済みであり、その効果は確認しているつもりである。  

 

 

過去の歴史での多くの霊的教師達、霊的開拓者や真っ当な段階の宗教者達は、何も特別な類の存在というのではなく、顕在意識が潜在意識領域まで相当に拡大した人々であったという言い方も可能だろう。

 

またその潜在意識なるものは、単に個々の人間の頭脳の中の体験記憶の集まりというものではなく、さらに時空を超えた広大なレベルのものであるということが解って来ているのが現状である。

 

実際にその意識は宇宙的なつながりを有している。

 

臨死体験の統計的研究や、前世の記憶を有する人々の調査、退行催眠による生れる前の情報の体系的研究は、既に前世紀から行われているのだが、

 

ことは「意識」に関する事柄であり、どこか心理的、精神的な色合いが濃いこともあって一般大衆への提示が難しいという状況とも言えるだろうか。

 

自分で調べるなり、あるいは断片的であっても意識経験を経ていなければ到底理解が出来ないことかもしれない。

 

あなたはどうだろうか。

 

・・・・

要は意識的な分野の開拓は、外からの情報集積だけでは意味をなさず、おのずと自らの体験・探求によって行われるべきものであるわけで、

 

自己の本質に関する知識がどこかの権威によって与えられるのを待っているような他者依存的なものではないということである。

 

意識的存在である人間は、ある精神レベルに至れば、自然におのれの内面方向にその探求意図を向けなければならないということであり、

 

またその内面といわれる方向は単なる心理的な事象の集合ではなく、実際のところ、我々の五感に映る宇宙、そして普段は気にすることもない多次元世界とも、あたかもメビウスの輪のようにつながっている気付きに至るということである。

 

そして我々の顕在意識、今・・・この瞬間の意識・・・こそが、そういう無限に広がる世界を捉えるところの、

 

まるで遠近両用、フォーカス自在、あるいは3次元的時間空間というカテゴリーをも超えた波動帯域にアクセス可能な、意識的<望遠鏡>のようなものと言えるだろう。

 

世界で肝心なのは、物、量、現象化された事象ではなく、それぞれのあなたの「意識」及び「意図」にあるのだ。

 

これは唯心論でもなく、唯物論でもない。

 

意識の展開せる世界の中に、マインドもあり物質顕現もあるということである。

 

・・・ 

 

もっとも受け入れやすいかもしれない表現をすれば、意識の拡大はすなわち右脳的な働きを増加させるということだろうか。

 

我々は直感イメージや直接知、ダイレクトな情報授受のような右脳的な働きよりも、左脳的な論理や分析、解析や分解等のような、直前の物質形態の知覚のみを重要視してきたわけだ。

 

つまり現代機械文明はいわゆる左脳的なものに偏った、極めて刹那的、場当たり的な、なるほど確かに功利的な文明であったと言えようか。

 

その左脳的な文化・文明を構成してきた人類集合意識が、今大きく変容をしつつあるのが現状であり、右脳的な直接知、直感理解、感性というものの復権と同時にその右と左のバランスをとれるような人々が増えつつあるということも言えるだろう。

 

それは単なるバランス・平衡ではなく、時空を超えた働きをするところの右脳的な直接知や、阿吽で生じる深い理解を含めたところの、1段レベルアップした意識存在への移行である。

  

スピリチュアル系のアセンションとは本来そういう意味であろう。

 

何かが勝手に起きるのではなく、それぞれの<あなた>の意識が拡大するということであり、拡大された意識での体験は、今までのことを含めつつ、必然的に更に自由度が増大した世界が立ちあがってくるということなのだ。

 

世界を見て聴いて、知覚しているのは、常にそれぞれの<わたし>なのである。

 

わたし・・・という知覚主体、あるいは想いの発振ベースが変わるからこそ、その知覚認識ワールドは変わってゆくようになっている。

 

ちっぽけで小さな存在であると教え込まれた感のある世間教育のことは全て忘れる方が良い。

 

誤解無く理解・感じるべきものであるが、

 

お釈迦様も言ったように、「唯我独尊」なのである。

 

あるいは「唯我独存」とも言えようか。

 

 

・・・・

前置きがかなり長くなってしまったが、

 

例えば瞑想やヘミシンク、そしてある種の眠りの状態等を通じて、

 

人が内面に意識的になると、

 

その内面から生じるところの、

 

直接的な知覚、リモートビューイング的な画像情報、いきなり意識に顕れるようなクリアーな想念のようなもの等に気付き始めることになるだろう。

 

なにしろ、自己内部にスマホを持っていることに気付く訳だから、半信半疑ちょっといじってみようということになる。(笑)

 

・・・

自己の意識に敏感になり、内観を重要視するようになると、気付ける範囲だけ色々な内面情報が入ってくることになるのだが、

 

最初は慣れ親しんでいる現実との脈絡のないようなびっくりものもあるわけで、そうであってもそこで決してひるんでいてはいけない。(笑)

 

あーこれは盲想だとか偶然のイメージだとかと決めつけてはいけないし、またその情報そのものを正しいものだと決めつけてもいけないのだ。

 

決めつけは・・・個人都合の解釈にも絡み、せっかくの有意味情報に歪みを生じることにもなる。

 

「あー、なにこれ・・・ふーん・・」程度がちょうどいい。

 

また、

 

新しいもの、よくわからないものに対しては「恐怖」がついて来るのが常であり、その恐怖にひるんで、その方向から逃げてしまう場合が多いはずだ。

 

そう、「恐怖」こそ先ず克服すべき意識の歪みであり、それらは往々にして、

 

子供のころからいつの間にかとりこんでしまった歪んだ世界観、

 

競争や闘争、弱肉強食イメージの世界、ちょっと間違えば不利益をこうむってしまうような油断のならないオドロオドロしい世界観から来ているようである。

 

ロクでもない学校や組織でのいじめや競争、バトルを礼讃するような風潮は、その根底にある怖れから自由になろうとする、方向違いの無知の頑張りのようなものなのだがそれすらも気付いていないかもしれない。

 

そういう世の中の波風に当たってこころを歪ませた場合もあるはずだ。

 

怖れとは、自己保存本能とも言えるのだが、これが現代文明によって度が過ぎてしまい、身近で既知の安全の範囲に閉じこもろうとする傾向があるということだ。

 

これは怖れによる、意識的自己幽閉と言うべき状態である。

 

意識的自由度を拡大する行程の第1関門は、この「恐怖」である。

・・・

 

ということで、びっくりするような意識的な経験、まーESP的ともいえる情報取得かもしれないところを紹介しようと思う。

 

1つは、以前の記事に出したように、太陽に行ったというものだ。

 

行ったといっても肉体を伴って宇宙船か何かで<行った>わけではなく、ある意味でそれは夢だといわない限り、結構理解不能であることは自分自身がよくわかっている。

 

ただ非常に重要だと思われることは、その意識的経験の中で得られた”ものすごい”ほどの「愛」「慈悲」のような感覚だった。

 

太陽の内部エリアを飛翔する<わたし>の視点の範囲に存在した人のような者達、地表とおぼしき当たりにいる大勢の人型が一斉に手を振る情景は、例えばあの「幸せの黄色いハンカチ」という映画であった場面の何十倍もの感動があったのだ。

 

人には毎日誰でも無意識のような就寝状態から、次第に目覚めて来る段階があるのだが、特にその半覚醒意識の時には・・このようなこと・・文字通り・・眼が覚めるかのような意識的な経験が起きる場合がある。

 

ほんのちょっとの時間であるこの半覚醒時には、まるで時間が無いかのような感じで、様々なビジョンや直覚知がやってくる場合が多いのである。

 

特に夢と同じようで、実は夢とは異なるフェーズのビジョンのようなものは、昨今知られるようになった「リモートビューイング」のようなものだとも思われる。

 

またそれは時間と空間を超えたレベルからのアクセスのようだ。

 

いわゆる意識的体験なるものは、言わば高次レベルからの観察とも言えるものであり、

 

過去から未来に流れていると感じている3次元的な直線経過や歴史や、何km何光年などといった空間の距離といったものを超えたところからのものであるといえるのである。

 

ちょっと記事が長くなってしまったし、ここまでまともに読んで下さった方は、

 

少し頭がふらふらしてきたかもしれないが(笑)、面白い夢の話であると捉えるのも自由であるし、何事も無理がない程度に接するのが良いと思う次第である。

 

これは夢のある話なのだ。

 

また本来世界は夢で満ちているのである。

 

 

 

内面からのダイレクトな知覚情報は、まるでハメ絵パズルのようなものでもあるし、

 

技術者である私の本来の目的であった、現世で役立つ功利的で画期的なアイデアなどは、実際とるに足らないものであったのだ。

 

太陽の他にも、学生時代の頃に意識で「火星」に行ったことや、数年前に「地球に似たような惑星」に寸前まで行った?リモートビューイングのような体験等も次回以降記事にしようかとも思う。

 

またその他にもいわゆるハイアーセルフ、高次の自己ともいわれるものとの邂逅も順次出して行こうかなとも考えている。

 

結論めいてちょっと大きいことをいうならば、それらの内面情報をパズルのように集めると・・・、

 

全ての人々、存在達、すなわち生命達が

 

霊的な進化をするように助け合っている宇宙の有様が浮かんでくるのである。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。