<わたし>が真に気づかなければならないことは、
宇宙創成には常に「今」しかないということだ。
人間社会であろうと、宇宙創造だあろうと、今しかない。
何年前、何十年前、何千年前、何億年前というけれど、
それは今・・そういっているだけなのである。
また、今の連続が過去という名の「記憶」「記録となって、
・・今・・存在しているのである。
この時間の流れという観念も、
われわれを「時間」というフレーム枠に固定しているマトリクスである。
マトリクスとはいわば檻(おり)、逃れられない網掛けの網ということだ。
人はある時生れ、ある時に死ぬ・・、
時間の流れの中で一定「時間」生きるが、その流れで行き着く先で死ぬ。
それで終わりだ。
そういうふうに考えているだろうか?
違うのだろうか?
時間が与えられている・・等というが、
実際に時間などないから、与えられているわけもない。
それは言葉の便宜上表現でしかないが、
こういう様々な概念によって、時間が実際にあるような錯覚が生じる。
小さいころから、社会的な便宜性ということで、
それを仕込まれてしまうために、
わたし・・というものが、時間によって誰かに管理され、
与えられたり、奪われたりするという話にもなる。
時間給は1000円です・・(笑)
人は皆、
カレンダーを眺めて、ある行事の日を指折り数えて待つような、
そんな経験はあるだろう?
人間社会では良く「時間が流れている」などというが、
それはつまり、漠然とした概念でしかない。
あなたは時間が見えるか?
見えるわけはない。
「時間」は・・どこにもないからだ。
あるのは時間という便宜上の「概念」「観念」である。
我々が言う「時間」とは、物理的な変化の相対的な変化率なのである。
人が、物事の変化の速い・遅いという比較を観測した場合に、
「時間」の進行・・が早い遅いという概念を当てている。
そこには”事象の変化が大きい少ない”・・という観察があるのみで、
「時間」などどこにもないのだ。
時間などどこにもない、あるのは物事の変化率の違いだけだ。
だから、時間というものが存在している・・と前提としている話は、
まったく真実性がないということだ。
便宜上、仮に、とりあえず・・あるように仮定しているのが「時間」である。
この3次元的物質偏重世界は、
「時間」という虚妄の概念の流れのなかで、
様々な枝葉概念が栄え、そして時間の中を気づかぬまま
・・行き過ぎて、果実の収穫時期を悟らぬまま、爛熟し、腐敗してしまった。
これ以上ないほど爛熟しつつ、何事もないような現状維持でこらえているが、
ある時に至って、・・地に落ちるのもこの地上世界の定めである。
今の時期はそういう時期にあるといえようか。
・・・
時間空間という物理上存在しているとされるもの、
ひいては宇宙やら世界やらとされるものの中に、「時間」は存在していない。
その「時間」とは単なる概念、観念でしかなく、
「時間」・・それは存在してなんかいない!・・ということだ。
・・・
我々の世界、つまりあの世もこの世も含め、
時空間での重要要素である「時間」とは、実在しないもの。
言葉を換えれば、あなたも私たちも時間のない世界にいるのである。
世界にあるのは、さまざまな事象の変化、その観察による比較認識でしかない。
観察がなければ事象は存在しない。
またその観察をするのは何かといえば、
それぞれの<わたし>意識でしかない。
あなたもわたしも、便宜上の仮の時間の世界で泳がされてきたのだ(笑)
数千年という輪廻転生というその時間スパンも、実在なんかしていない。
在るのは・・今・・という永遠の瞬間だけ。
あるのは・・常に今・・なのは、心理的な思い付きでも、美し気な夢でもなく、
何時でも、何処でもある「常在の真実」なのである。
例えば、あなたが今、「ああ、歳取ったなあ・・」と鏡を見て、
ため息をつくかもしれないが、
それは肉体の変遷、あるいは老化という変化した様を見ているのだ。
つまり嘆息交じりにではあるが(笑)・・観察しているということだ。
その・・観ている<あなた>は・・常に・・今・・あっただろう?
物心ついてから、幼稚園で、小学校で・・・常に在った私・・と記憶している、
そのあなたは、いまも・・そこに在る・・のだ。
常に、今・・在った・・それを気づいている者、意識している者
それが真我の反映である・・・今のわたし・・である。
宇宙創成には常に「今」しかないということだ。
人間社会であろうと、宇宙創造だあろうと、今しかない。
何年前、何十年前、何千年前、何億年前というけれど、
それは今・・そういっているだけなのである。
また、今の連続が過去という名の「記憶」「記録となって、
・・今・・存在しているのである。
この時間の流れという観念も、
われわれを「時間」というフレーム枠に固定しているマトリクスである。
マトリクスとはいわば檻(おり)、逃れられない網掛けの網ということだ。
人はある時生れ、ある時に死ぬ・・、
時間の流れの中で一定「時間」生きるが、その流れで行き着く先で死ぬ。
それで終わりだ。
そういうふうに考えているだろうか?
違うのだろうか?
時間が与えられている・・等というが、
実際に時間などないから、与えられているわけもない。
それは言葉の便宜上表現でしかないが、
こういう様々な概念によって、時間が実際にあるような錯覚が生じる。
小さいころから、社会的な便宜性ということで、
それを仕込まれてしまうために、
わたし・・というものが、時間によって誰かに管理され、
与えられたり、奪われたりするという話にもなる。
時間給は1000円です・・(笑)
人は皆、
カレンダーを眺めて、ある行事の日を指折り数えて待つような、
そんな経験はあるだろう?
人間社会では良く「時間が流れている」などというが、
それはつまり、漠然とした概念でしかない。
あなたは時間が見えるか?
見えるわけはない。
「時間」は・・どこにもないからだ。
あるのは時間という便宜上の「概念」「観念」である。
我々が言う「時間」とは、物理的な変化の相対的な変化率なのである。
人が、物事の変化の速い・遅いという比較を観測した場合に、
「時間」の進行・・が早い遅いという概念を当てている。
そこには”事象の変化が大きい少ない”・・という観察があるのみで、
「時間」などどこにもないのだ。
時間などどこにもない、あるのは物事の変化率の違いだけだ。
だから、時間というものが存在している・・と前提としている話は、
まったく真実性がないということだ。
便宜上、仮に、とりあえず・・あるように仮定しているのが「時間」である。
この3次元的物質偏重世界は、
「時間」という虚妄の概念の流れのなかで、
様々な枝葉概念が栄え、そして時間の中を気づかぬまま
・・行き過ぎて、果実の収穫時期を悟らぬまま、爛熟し、腐敗してしまった。
これ以上ないほど爛熟しつつ、何事もないような現状維持でこらえているが、
ある時に至って、・・地に落ちるのもこの地上世界の定めである。
今の時期はそういう時期にあるといえようか。
・・・
時間空間という物理上存在しているとされるもの、
ひいては宇宙やら世界やらとされるものの中に、「時間」は存在していない。
その「時間」とは単なる概念、観念でしかなく、
「時間」・・それは存在してなんかいない!・・ということだ。
・・・
我々の世界、つまりあの世もこの世も含め、
時空間での重要要素である「時間」とは、実在しないもの。
言葉を換えれば、あなたも私たちも時間のない世界にいるのである。
世界にあるのは、さまざまな事象の変化、その観察による比較認識でしかない。
観察がなければ事象は存在しない。
またその観察をするのは何かといえば、
それぞれの<わたし>意識でしかない。
あなたもわたしも、便宜上の仮の時間の世界で泳がされてきたのだ(笑)
数千年という輪廻転生というその時間スパンも、実在なんかしていない。
在るのは・・今・・という永遠の瞬間だけ。
あるのは・・常に今・・なのは、心理的な思い付きでも、美し気な夢でもなく、
何時でも、何処でもある「常在の真実」なのである。
例えば、あなたが今、「ああ、歳取ったなあ・・」と鏡を見て、
ため息をつくかもしれないが、
それは肉体の変遷、あるいは老化という変化した様を見ているのだ。
つまり嘆息交じりにではあるが(笑)・・観察しているということだ。
その・・観ている<あなた>は・・常に・・今・・あっただろう?
物心ついてから、幼稚園で、小学校で・・・常に在った私・・と記憶している、
そのあなたは、いまも・・そこに在る・・のだ。
常に、今・・在った・・それを気づいている者、意識している者
それが真我の反映である・・・今のわたし・・である。