気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

万象一体

2009-10-25 13:26:42 | 宇宙的気付き

●個我の「わたし」という認識

我々はそれぞれの別個の肉体という独立した単位をもっているように見える。肉体の外との境界は我々の皮膚と思っているに違いない。皮膚付近にある視覚、臭覚、味覚、音覚、触覚は外界の情報源の窓という役割をもっていると捉えているだろう。

我々の存在感覚の中心が顔、頭の周囲にあるという漠然とした感覚は、その五感の窓口が頭部に集中しているからに他ならない。特に視覚と音覚は支配的な感覚である。

●五感は意識の体験の窓

その五感の情報は体内の細胞、神経伝達などの情報伝達ルートを通じて、脳に集められそこで情報処理をされたうえで、映像、臭い、味、音、触感という、いわば味のある立体的な存在感覚を生じさせるのだ。家に居ても町を歩いても、様々な映像や音、振動等を常に内面に取り込むことで、その時々の外の世界にいるように知覚している。

多かれ少なかれ、我々が今生きているという「感じ」は、このような体内の五感情報による実感を基にしているのだ。それらの情報が、今我々が認識しているような3次元的な世界を映し出すのであるが、それらの外界からと見える様々な五感の情報は、全て波動・振動なのである。視野を創るのは光・電磁波であり、音や味や臭いは空気と細胞や物質の電気的、物質的振動波の伝達といえるだろう。触感は人体周囲すべてに存在する同じく振動波の窓口といえるものだ。

●物質も波動である

原子核は素粒子という微細なもので出来ており、更に微細なクオークに分割され、その素粒子レベルの物質は粒子という塊の性質よりは波として波動の性質をもっている。波動の塊が粒子と観測されるとも考えられており、基本は全て波動・振動であるということだろう。物質科学の先端といわれる「ヒモ理論」は、物質は全て微細な「ひも状」の何かが振動して出来ていると考える理論である。その「何か」とはエネルギーとも考えられる。それらはまさに弦の振動を彷彿とさせるものだ。

我々が生きていると認識しているこの世界は、結局は波動によって構成されているのだ。我々の認識する限りの種類の波動の間の共鳴、伝播、干渉等で出来上がっていると言っていいだろう。物質が硬いものだと感じるのは、その波動の塊どうしの振動数の違いと考えていい。扇風機のような高速回転(振動)しているものに手を差し出せば、その振動数の違いで弾かれてしまう。弾かれることは、反撥されることであり、そこに硬いものがあると感じることと同じである。みかんを手にしてそれに物質感をもつのは、組成の違いとか、質量があるとかいう説明よりも、その振動数による違いによる周波数ギャップとも言えるだろう。

●世界は波動・ホログラム

突き詰めて考えれば、我々が外界と感じている世界は無限ともいえる種類の波動の様々な周波数の違いで構成されているといえるのだ。外界の中にいると思っている、我々の表現形である肉体も、同じく物質とするならば、それもすべからく「波動」で出来ていることには違いはない。やわらかい、透明、硬質、不透明等というのも全て波動の振動数または粗密の違いにすぎないと考えていいだろう。

●三次元世界

我々の住むと感じている世界は、光・電磁波でその境界を創っているようだ。物質は光速の速度の限界を超えられないと言う相対性理論でその境界が生じるのだ。相対性理論では我々の認識する物質世界は「光」の速さを超えられないとされている。光が四方八方に伝播することで現れる世界は3次元的な立体的な視覚認識をもたらす。

我々の認識する世界を構成する「物質」が、究極は色々な周波数をもつ電磁エネルギーの塊であるとすれば、なるほど光(電磁波)は超えられないのは自明だろう。物質は元は光であり、光の振動数を様々な周波数に分かち、またその速度を落としている、または存在次元を降下させていると言う表現は、あながちいい加減な表現ではないだろう。

宇宙の辺境といわれる何十億光年先の銀河の映像も、五感情報の辺境といわれるものであり、その先には宇宙の存在は規定できないものと理解されている。見えないのだから確かにどうしようもない。これはいわば「肉眼」の限界なのである。光の速度の向こうまでは、我々の肉眼は追いつかないということだ。ハッブル望遠鏡は我々の肉眼の延長なのだ。

●三(四)次元を超えつつある今 

ところが、昨今の素粒子の研究では素粒子の情報自体が、光速度を超えて伝播することがわかったようだ。簡単にいえば、素粒子の磁気スピン(回転)情報が、別の場所にある同じような素粒子の磁気スピン情報(回転)に、ほぼ瞬時に影響を伝達するというものだ。物質を構成する素粒子の磁気的回転(磁気モーメント)は、真空に渦を生起させると考えられ、その渦同士は相互作用を行なうという風にも考えられている。その相互作用の速度は光速の比ではなく、その10億倍という試算もあるようだ。ほぼ瞬時ともいえる相互作用である。

これらを説明する為には、何もないと思われていた「空・間」自体がその波動を生み出すと考えるしかないようだ。空間は空っぽどころか、光を含むあらゆる波動を生じせしめる母体そのものなのである。そう考えれば、遥か彼方の空間も、我々を取り巻く空間も全く同じ母体であることが理解出来るだろう。どこか遠くも、今ここも、空間であっては同質であり、遠い・近いは空間にとっては一所であるということだ。空(間)の変調波動が様々な物質形態を生ぜしめ、またその様々な形態は全てとの相互作用を維持しているといえるだろう。

まさに「色(現象)即是空」 「空即是色」なのである。

●肉体は万物と水面下でつながっている

我々という存在は、肉眼視できる範囲の波動の調和的な塊である「肉体」をもっている、あるいはその中にいる・・という風に理解しているに違いない。誰でも理解出来るところの肉体という個別の表現形態も、個別、別個と考えているが、実のところ、それは氷山の一角を観るごときものである。我々の信奉する物質自体も、我々の固定観念の水面下では瞬時の相互作用を行なっているごとく、全ては全てにつながっているのだ。

全てが個別でありながら、全てとつながっている認識を持つことで、否応となく現れる世界に気づくだろうか。ウソも隠しもだましも、それはつまらない子供だましと認識する世界である。

個別、分裂、二元性の観念世界から、全包容的な世界への認識の変換が意識の統合である。何をどう認識するのかどういう世界に顕現しているのか、全ては個々の気づきと意識の拡大に因っている。

●意識が「空」で紡ぎだす万象世界

万物全ては、どこにもある「空」から波動として紡ぎだされるものであり、その画き手は他ならぬ「意識」である。「意識」は物質を紡ぐ者であり、当然ながら物質形態をその内部に含む存在であり、また物質形態を含むあらゆるものを創造するものである。あなたやわたし達にある「意識」は、すなわち人間で言えば個性ある「こころ」のはたらきは、万象を現すところの根源たる「意識」と同質であり、その一部であり、またその一部であるあなたやわたし達という存在もホログラムのごとく、個別一片でありながら全体をも畳み込んでいる者である。

Flower1002

我々のこころは、全存在としては、全てに筒抜けでありながら「遍満する意識」は非難も中傷もしない。なぜなら、それらは様々な未知なるものから既知なるものへの探求過程から掘り出されるものだからだ。人間社会にあっては善悪、上下という価値観で色づけされる様々な体験も、すべからく「意識」の発見・創造した貴重な経験といえるのだ。

しかしながら何でも有りの混乱した草原から、それらを一大花畑に昇華する方向に進化・拡大してゆくのが人間という意識存在の歩く道であろう。今までの人類の様々な悲哀や喜び、光と影は、決して無駄にはならないのだ。遊びほうけることも、汚すことも、壊すことも、淋しい想いも、そして勇気ある行動も、全ては同質であり、それもこれも様々な知識や体験を生じせしめるところの「未知」のおかげであろうか。なるほどそのとおり、我々は「未知」への探求者なのかも知れない。

●愛とは全てを大切に想うこころ

何世、何生を経ても、いつも今あることに気づくことに、感謝する以外にどのようなことがあるのか?いつも万物の慈愛は注がれ、御膳立てはいつも整っているのだ。幸せも不幸も今、選択するのは自分であることに気づくならば、それに感謝しかないと思えないだろうか。

素粒子の振舞でも解るように、万物は万物と相互に繋がっている。人間的な言葉で言えば相互が相互に「大切に思っている」といえるだろう。

大切に思うこころは「愛」 ともいわれる。

その「愛」が現れたものが今の我々の「宇宙」なのだ。 

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自己の想いを観る

2009-10-20 07:40:52 | 心の科学分野

●人間体験=人の間

大勢の人々の中では、人と人との狭間で様々な想いや感情をいだくものだ。それがゆえに人生を悲観したり、あるいは喜んだりする場合もある。実に人の間での想いこそが我々の四六時中の体験そのものであると言っていいだろう。

しかしながら、そのような有態の中で、我々を時において不幸の底に突き落とす想いが生じるのは、決して他者の発言や行動そのものではなく、それに対する自己の想いなのである。また逆に我々を幸せと安寧の里に導くのも自己の想いである

●意識的・意識=目覚め

何をどう感じるかは我々の想い次第であることも事実なのだ。問題は実のところ、自己の想いの有り方にあることはもう既に理解出来ることだろう。

そのような現状の社会のなかで悠々とすごすには、先ず自らの想いを観ることができなければならないことは自明だろう。その想いや感情の中味を自ら自己吟味することが出来るようになれば、それは精神的な自由を獲得したということであり、意識的に自立出来たと言えるだろう。そうなれば、他者の言動に戦々恐々となったり、一喜一憂するようなことは少なくなるのだ。

●先ず観察すべきは自己の想いである

他者を観察してもその何たるかを変えるのは他者自身でしかありえない。自己の想いを差し置いて、他者の良い悪い思いを必要以上に追求・批判してもどうしようもないことではないか。批判や議論が何がしかのヒントを自己に与えるとしても、それは究極のあり方とは程遠い。自己を観ることが出来ない人間に他者をどうこうすることは出来ないことは火を見るより明らかなのだ。自己の面倒を見れない人間達が如何様にして他者への奉仕が可能であろうか。

全ての行動の因であるところの自己の想いに気づき、それをしっかり観ることが人にとって最重要なプロセスなのではないのか。イメージや発想をいかように多様に表現しえたとしても、その表現の在りかたを決めるところの自分の想いや感情を制御できない間は、現代文明のような、刺激に満ちてはいるがいつどうなるかも知れない無軌道な軌跡をえがく浮遊世界を創り続けるのだ。

●内観とは

ここでいう内観とは内なるこころの動きを観る行為である。内とは内面・こころの動きのことであり、自己自身の想いや感情のことである。肉体を構成する数十兆以上の細胞を見ることでもない。あなたの創り上げる心模様をあなたが自身が観ることなのだ。プラス思考でネガティブ思考を克服するという思考の技術は昨今浸透してきており、それは大変に素晴らしい意識進化のあり方であるが、その思考・想いの発する因たるこころのあり方をしっかりと把握する必要があるのだ。

往々にしてネガティブともいわれるこころの動きを観ることで光が当たる。光が当たればそれが露(あら)わになり、それはこころの影ではなくなるものだ。恐怖も不安もその出所に、意識の光が当たれば不明・不安の影が知識に変わり、もうそれには力などはないのが理解されてくるだろう。抱や我慢は、日常という与えられた生活体験のなかで、自己の内面を観ることの努力の途上で味わうものであり、外の世界から押し付けられるものではないのだ。

わたしは今怒りまくっている・・・のを観るわたしに気づいていること。

わたしは今嘆き悲しんでいる・・・のを観るわたしに気づいていること。

わたしは今ずるく立ち回っている・・・のを観るわたしに気づいていること。

わたしは今ブルーなこころでいる・・・のを観るわたしに気づいていること。

どのような場面でも、それに対峙し感情に呑み込まれずに、出来るだけその想いや感情を観ることが出来るならば、それはその感情を知るという高度な意識的行為を行なっていることになる。感情を理解するどころか、その奔流に流される火遊びで怪我をすることには、もうすでに十分気づいているはずなのだ。

想念・感情は御しがたい暴れ馬のごときものであるが、自己の想いや感情を自己自身で識(し)るならば、その暴れ馬のごときエネルギーは、天上、地上を自在に賭けるペガサスのごとき優美で自由なあり方を示してくれることに驚くに違いない。

自己の想いを無意識に垂れ流しせず、それが創造の奔流と悟り、少しづつ制御するのが我々のここでの人生の目的の1つであろう。そのためにこその、いまの世界、何でも有りの世界構造と思えないだろうか。まさに進化・発展途上の世界である。この地球も人存在もいつも可能性に満ちているのだ。

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●他ではなく「我」のこころに対峙せよ

生起する想いや感情にすぐさま蓋をしないことが大切である。世間的な我慢や世慣れたごまかしをしないで、まずその有りのままを生起せしめ、それを観ることが実に重要なことなのだ。逆に、それらの想いや感情がわめき散らすのをしっかりと味わい、しっかりと受け止めることが出来れば、無軌道な言葉や行動に及ぶことがなくなるのだ。自己の感情のざわめきにパニックになるのはいつも一体誰なのか。

注目すべきは、彼らなりの発展途上を表現しているその他者の言動、社会の有り方のほうでなく、それらに対峙している自己の発する想いなのである。自分に意識を集めることが出来ないからこそ、自己以外の他者に意識がゆき、その言動に一喜一憂するような自縄自縛、外からの支配の罠に陥るのである。

自己の想いや感情、行動という自己にとっての全存在に対峙できず、自己以外の世界に批判と攻撃を与えることは日常茶飯事ではないだろうか。自己の肉体を維持しているのは命といわれる眼に見えないエネルギーであり、そのエネルギーの顕在化する鋳型が「想い」なのだ。その現実化の因たる「想い」を観ることで、顕在化され続けている外の世界の仕組みが理解出来るだろう。

●世界はあなたのこころの窓から観える景色

我々の体験とあわせて生じるところの想いや感情は、すぐさま再び拡大再生産のための鋳型になる。意識という宇宙に遍満する波動をこころで変調することで自己や周囲の世界が現れることに気づくことが、言葉を変えて言うところの意識次元の拡大となる。

外が変われば自己が変わるのではない。自己の想念は環境から生じるものではなく、環境にどういう風に対応するかという「想い」によって生じるものである。自然に満ちた世界を野卑で怖い世界と見るか、その美しい有り方に感動するかはそれぞれの想いによるのだ。

社会を汚濁に満ちたものと見るか、切磋琢磨の修行の場と見るか、全く異なった観点の位置に立つことになるだろう。ゴミと汚泥にまみれた世界と感じるか、更なる光を求めるた為のあり得ないほどに御膳立てされた世界と感じるか、その感じ方捉え方がそのまま世界という顕現へと変化してゆくことに気づくだろうか。

世界が汚濁で満ちているのは、どこかしらある我々の汚濁の想いの集積、観念という鋳型の歪を通して見ているいるからなのだ。

●自己を観る、思い切った勇気

自己のこころの歪を勇気をもって自由にさせ、開放させることが浄化へと繋がる。こころとは、想いや感情の集大成であり、その見えない鋳型のパターンから歪を取去ることが今求められているものだ。

そのためには、瞬間に発し続けるところの自己の想いを観る必要がある。それを観る、認めることでその歪は開放されてゆき、本然たるこころのあり方が現れてくるだろう。

ハイアーセルフは大きなあなた自身である

考えてみれば、この地上の一般の社会において、我々という個を身体的なレベルで面倒見てくれた者は、両親以外にないだろう。親身に無条件に思いやりを与えてくれるのは、我々がこの世界を体験すべく、無意識のプロセスではありながらその門戸を開いてくれた両親以外にはないのだ。この地での体験の為の身体を構築するきっかけを与えてくれたのは両親であり、また、この地にその体験の花を咲かせようとしたのは、あなたの今の個我を含むところの魂なのだ。

我々の想いや感情を知ることで生じる意識の拡大に伴い、更に大きな自己が階層的な気づきをもって現れてくるようになるだろう。それを高次の自己、ハイアーセルフと呼んでいるのではないだろうか。小さな個我の自己をありのままに見ることが出来る視座にあるのが高次の自己というあなたである。

高次の自己、ハイアーセルフとは、子供のような今の個我を、大きな観点から観ている自己なのだ。それは夢幻の向こうにいる、よそよそしいわたしではなく、今ここに潜在するさらに大きなわたしのことなのだ。それはあらゆる可能性の波動に満ちた者、いわば確かに光の存在というべきものであろう。

●時空の本質は「今」ここにある

神なる根源は、物理宇宙または多次元ともいえる諸世界のどこかの「場所」に居るわけではなく、あなたやわたしの「内面」にいる本然のわたしのことである。

Dogen01

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今ある幸せ

2009-10-12 11:11:43 | 心の科学分野

●不幸は不足と感じるこころの状態

世の中には自分が幸せでないと誇っている人々がなんと多いだろうか。「自分は今幸せではない、これだけは確実だ」・・ と漠然とながら、なぜか密かな自信をもっているのではないだろうか。

自分は幸せだ・・などと言うことは、なにか極楽トンボのような軽薄な印象を与えるような社会にいるのかも知れない。

好きなことをする金が無い、愛してくれる人もいない、時間が無い、・・あれも足りない、これもない、このように、無い無いづくしでは幸せなど「無い」と思い込むのも確かに無理がない。

しかしながら、つまる所、自分で「無い」を作り出してしまい、その不足に不快感を感じているのではないだろうか。 多分、有るべきものが無いと感じているがゆえに、幸せではないと思っているのだ。したがって、その不足感を補おうと必死になることになる。幸せは様々な物や事の獲得のあかつきに得られるものだと思ってしまうからだ。

●内面の不足感を外部から補おうとする無理

不足に対する不安を補おうとするような、この潜在的なこころのパターンは、現代社会、物質文明の典型的なものである。

物を持てば賢くなれる、お金が有れば羨望と安心が買える、煌びやかな装いは自分の存在価値を高めてくれるかもしれないと考えるだろう。

逆にそのような濁流社会の渦の外にいる人々も、このような世界はそのうち終わり、いつの日にか周りの世界が夢のような幸福に満ちた世界に変わり、やっと自分も幸せになるのだろうとも考えているのだろうか。そこにも不足感が隠れている。

●外の仕組みが個々を幸せにするという勘違い

まさに、そのような大勢の人々の不足感を露骨に秘めた眼差しから創出された世界が、今の物質文明社会と言えるだろう。なるほど、その社会を維持する為には、次から次へと安楽さと便利さと刺激を創り出してゆく必要があるのだ。

その1つのマクロなバロメーターが必死になって操作しようとする経済成長等ともといえるだろうか。ホンの数%の経済成長率を信奉している物質繁栄至上主義のある意味で宗教組織のようでもある。

政治・経済・社会というものも、その仮想の幸せを社会の「仕組み」としてもたらそうとする試みだろう。しかしながら、その仮想の「仕組み」の模索は、内面に感じる本然の幸せが、外から得られるという幻想に気づくまでのものなのだ。

●外部条件という鎖を解放せ

から得られる幸せというものは、条件づきの幸せであり、その幸せなる条件を操ることで人を駆り出す仕組みに陥ることにもなるだろう。期待を持ちつづけ、あるいは持たせ続けて、いつ終るとも知れない無限ループにもなってしまうだろう。

そのような仕組みの世界の中で得られる経験も貴重とは言え、そのループの中で、人生の全てを賭けて取り組み、闘い、矢折れ刀尽きることが全てなのだろうか。

いいやそうではあるまい。

●与えられるのを待つ必要はない

無限ループの中の体験、経験は、自分の幸せが外の誰かから与えられるものだという、ある意味で幼児的な無知と無邪気さ故のものなのだ。とはいえ、幼児期にある我々が、その囲いの集合観念の中でもがくのは、幸せが内面から創出されるものだということに気づくまでの間のことなのだ。

自らを自らで縛ってきたカルマも、あっという間に解き放つことが出来るのは我々の意識の方向づけによるのだ。

誰かがあなたやわたし達を幸せにするのではない。幸せが創出する根源は、恋人でも、お金でも、社会的地位でも、理想社会の仕組みでも、法律でも、大統領でも、陰謀めぐらすフィクサーでも、未来の宇宙コロニーでもなく、ましてや危急を救う宇宙船でもない。

●創造は内面から湧出するもの

人間に備わる「思い」と「感情」が、我々の否応と無く創り続ける世界の原因であることに気づけるだろうか。確かに、単なる思い、単なる感情として2の次3の次にしてきた「想念」によって外の世界が集合的に創られていることに気づくのは、実のところ難しいかもしれない。

目に見えるもの、触れる物から得られるわかりやすい五感感覚だけが全てだと思い込んでいる社会にあっては、無理からぬものかも知れない。まさに外の世界を追い求め、追いすがる無限ループの流れは、刹那の五感感覚を追い求めるこころによって創出されている。

自己を創り続けるところの自己に意識的に気づくことを目覚めと呼んでいいかも知れない。目覚めは永遠の内から起きるのだ。

●自己のこころの鋳型を整えるべし

我々の世界の時空スクリーンに創出する立体映像は、その元の映写機たる個々のこころによって送出されているのだ。

我々がスクリーンに釘付けになっている場合には、そのような世界の創出の仕組みすら気づかないようなものだ。刻々と切り替わり流れて行く我々の世界という物語は、我々の眼すなわちこころの鋳型を通して創出されている。

無意識に世界に居る状態から目覚め始め、その世界の光と影を察知し、次第にその陰影の出所を探るようにもなるだろう。なぜこのような世界映像なのか?どこの誰がこうしているのか?という疑問が湧き出してくるのだ。そうしてその世界スクリーンの隅々まで思い巡らしながら善と悪を見つけようとするかもしれない。 映像で映し出された世界の中に、我々の幸せを邪魔してきた悪が見つかるだろうか。

いいや、本質から言えば、それは多分見つかることはないだろう。見つかるのは、自己の内面にある影の部分の投影としての他者の悪なのだ。

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●各自のこころが映し出す世界

生きてあるこの世界は、我々のこころの鋳型を通じて現れているのであれば、その世界の中にある光と影も、善も悪も、我々のこころの歪、染みのようなものでしかないからだ。

例えれば、創出光の通るレンズの染みや影が、我々個々が見ている世界というものに投射されているのならば、その体験スクリーンのほうを磨いて変えようとしても無理なのだ。また、世界はあなたやわたし達の必死の念によって加工されるというものでもない。

言葉をかえて言えば、我々を取り巻いている世界の変化は、我々の個々の表面意識の働きを支える、存在世界全体に広がっている膨大な意識の仕組みによっているのだ。我々のホンの表面の思いが、勝手にずらずら出て来るというものではなく、内面の深くにある潜在的な鋳型を通して、そのパターンにしたがって自分の世界というスクリーンに出てくるということだ。

あなたも知らぬ間にあなやは創造を行なっているのだ。

●責任は我にあり

行なうべきは自分のこころというレンズを磨くことなのだ。自分の汚れをそのままにしながら他者の演技の出来が良いとか悪いとか、善だとか悪だとか言うのは多分余計なお世話だろう。

自己と他者という鏡の反射を学びながら、他者は他者でおのれのこころというレンズに磨きをかける為に、この共同世界で演技をしている存在なのだ。

我々を取り巻く世界の責任は我々にあり、何処かの他者にあるのではない。

●なぜ全き自由を怖れるか

これは逆に言えば「全き自由」に他ならないと言える。驚きをもってでもその全き自由を自己で認識するべき時なのだ。そうすれば、今は不明確で不確かながらも、意識存在という我々に対してこころから感謝をすることになるのではないだろうか。 不足や不完全であるという思いから来る不満や批判ではなく、こころ次第で現れる世界にあるという思いからくる「感謝」と「共感」である。太陽も、風も、大地も、水の流れも、そのあるがままを表現している。そこに不足があるとどうして考えたのだろうか。

●幸せはいつも「今ここにある」

幸せは今ここにある。生きてあること、笑えること、怒れること、悲しむこと、慈しむこと、それは思いと感情という創造の泉から湧き出すものだ。

それを汲み出すのはいつもあなたやわたし達以外にあり得ようもない。

今、意識を自分に戻すときではないのか。そして外ではなく、自分の内面のこころという鋳型レンズを、出来るだけクリアーにしてから表を眺めてみるべきなのではないか。そうすれば、いつも有った「今の幸せ」を発見するに違いない。

太陽も、月も、星も、風も、水も、大地もいつも黙ってそこにいてくれていたことがわかるだろう。そうして奇しくも我々の世界に同時に参加している、全ての存在に感謝せざるを得ないのではないだろうか。

  ごめんなさい

   許してください

    愛しています

     ありがとう

Flower1007

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時(とき)の戯れ

2009-10-03 15:18:26 | 宇宙的気付き

●空(くう)は無限そのもの

我々は無限の可能性を包含する「空」(くう)の中から、無限にある「未知」(みち)に対して自らを投影する存在である。

「空」(くう)は何もないのではなく、すべての可能性があるがゆえに「空」(くう)である。

「空」(くう)はすべてを満たすがゆえに、まさに「空」(くう)であり続ける。

なぜなら、現れたものはすでに「既知」であるからだ。

空(くう)にこそ未知が溢れているのだ。

それをワクワク、ドキドキしながら知り続けることが体験の喜びなのだ。

 

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●創造の瞬間

その「空」に、いつか、「わたし」という意識が「揺らぎ」となって生じ、それが分極しつつ中心から外へと多次元的に回転渦を巻きながら、その存在の証である、光といわれる波動を発散した。

その揺らぎは「空」におけるイレギュラーポイントであり、また宇宙自らの目覚めである。

一点から生じた「光」とも形容されるべき、「わたし」という意識の存在波動は、その渦とも形容される回転により、空間とエネルギーを創り出す。 

この次元宇宙にも、自らを観る為の、原初の光がすべてに行き渡っているのは当然のことである。

発散する光の届く、無限の彼方を想像しているものがすなわち宇宙である。それに終わりの概念はない。まさにハッブルの言うとおりだ。

自らの無限のあり方を、部分から全体に成長しながら観続けている存在、それを生命(いのち)という。

まさにこの宇宙にも、この地上にも生命(いのち)が満ちている。

  

●わたしたちは無限にいる

「空」より、光・波動として現われ続けるエネルギーは、幾何学的なパターンをも包含しつつ、その宇宙全体意識の「気づき」により、存在時空という諸世界及び、様々な階層レベルを構成している。

「わたし」というものに気づいた根源なる一点、一なるものは、その自らの様々なありさまを観るべく、ここ、かしこ、すべての一点において出現している。

それを魂という。思い描く限りに無限な数の個別の、根源からの湧き出し点である。

  

その無数の魂たちの光の投影が、存在諸世界に展開する、我々という個別の人格なのだ。

  

魂は光の束の中心とも言えるし、分光する光のスペクトルの扇の要とも言えるかも知れない。今の我々個人個人という狭い顕在意識の有り方は、その光のスペクトルの一端を現しているのだ。

我々は皆、分け御霊ということである。

ある意味で人間は神であると言うことであり、無限の可能性を持つ存在であるということである。

  

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●目覚めはいつも今の瞬間だ

諸現象の変化のテンポ、それらの相対的な違いの尺度がまさに「時間」であろう。

神なる根源の目覚めの瞬間は、100億年の「過去」でも、そのうちいつかの「未来」でもない。

  

それはたった「今」なのだ。

  

今のこの瞬間が、目覚めの奇跡であるためにこそ、永遠なる変化がある。

宇宙開闢は、いつも「今という瞬間」の出来事であり、その「今」が無限に変化しているのを「時」とともに観ているのが我々なのだ。

捕らえようとして決して出来ない、その「今」という時、この瞬間。

その今という奇跡の瞬間をどう捉えることができるのか、その気づきの足りなさを補うためにこそ、進化の道、「時」という友がいてくれるのだ。時間を使って待っていてくれるのだ。

 

●地球という、かけがえのない時空

我々は須らく、無限という「空」の中からこの地球という存在フィールドに己を投影している存在である。

その投影先のここでの約束事は、有限の直線的な「時間」という自ら設定したパッケージを持っていることである。

また自らの真正なる存在、空(くう)なる無限の存在であることを思い出すまで、有限な「時間」というパッケージを使うことが許されている。

地球という愛すべき時空舞台の、上演時間も終了時間も、不思議なことに自らが決めることが出来るわけだ。

 

しかしながら、我々の投影先である地球という時空舞台も、我々と同じく命(いのち)であり、その自らの一段の開花を、今待望していることに気づくべきなのではないか。

根源からの光である我々という魂の、様々な演技や遊びをを受け入れてくれた、この母なる地球を援けてあげる時なのだ

それには、何をどうこうする必要もない。本来、お金も組織も運動も必要はないのだ。難しげな枝葉理論や複雑な人為システムというおもちゃの類はもう手放す時だろう。

出来得れば、今ここにいる全ての人々が、この大地に向かって、各自各自、こころからの感謝をするだけでも良い。

それが出来れば、あっという間に人類の総合的なベクトルの向きが上昇・拡大に変わるのだ。

因は意識にある。

たとえ、今という瞬間にそれが出来なくても、時間という友を道連れにしながら間違いなく変わってゆくのだ。時間の唯一の楽しみとは、待つことだから。

 

母なる大地よ・・ありがとう

無数の、この地のいのちよ、ともにいてくれて・・ありがとう

多くの人が、いてくれて、・・ありがとう

人生という、甘さや苦さを体験させてくれて、・・ありがとう

・・

わたし自身に・・こころからありがとう

子供達よ・・ありがとう

 そして、お父さん、お母さん・・・

   本当に・・ありがとう

  

Flower1001

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