気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

地球生命圏の仕組み(1)

2009-05-31 16:26:12 | 宇宙的気付き

 本記事は、地球を構成する多層、多次元構造についてのものです。それを直感的に、かつ分かりやすく理解する為には、実は我々が「波動」で構成される世界にいるということを認識する必要があるものと考えます。それが理解されれば、三次元、四次元、五次元などという次元概念や、現実世界、霊界、天界などという階層や、意識進化という概念も、多少は分かりやすくなるかもしれません。

< 波動を元にした、ホログラフィックな多層構造 >

●五感による知覚偏重の時代

 わたしたちは今この地球に生きているのを確かに知覚しています。それがそうと分かるのは、我々の肉体に装備されている五感感覚による知覚と、思考と感情による認識作用によるものです。実のところ、気付く気付かないにかかわらず、「今ここに生きている」という「意識」が、それを、そう有らしめています。

 我々の有するトータルな意識の働きのなかでも、多くの人が意識的に気付いているのは、主に肉体に関する五感感覚であるといえるでしょう。実は、このせまい五感の世界の中に知ってか知らずか、浸りきっているというのがその有様です。

肉眼に見えない思考や感情はあまり価値が無いと考えて、そう信じ込んでいるのでしょう。いわゆる三次元世界、硬い感触を与える物質形態が主人公の世界、それが地球上、あるいは宇宙のあり方のすべてである?という信念体系の中にいるのです。そのなかで、我々は考える葦としての存在であり、葦にある知恵を絞って、圧倒的な物質世界への戦いをしていたのだといってもいいでしょうか。

 

●存在顕現の基本プロセス

 直感的に、また比喩的に我々のトータル世界の存在顕現形態を表わすとしたならば、

  物質世界 ← 肉体認識 ←  感情・思考 ← 魂(人間) ←  光源(根源)  

という波動(光)の照射システムといっても良いでしょうか。根源から照射された光は、我々の感情・思考という「心のレンズ」を通して偏光・変調され、個別の肉体という1つのプラットフォームを経由して、外の世界に立体的でリアルな影絵として投影される諸現象を観察しているようなものです。

 これは、素粒子の波動性も考慮した、より包括的なホログラフィックな世界認識です。素粒子で構成される物質は、意識の働きから生まれる「光」によって投影される、三次元または多次元的の最小構成要素といえるでしょう。物質は、いわば創造する因である意識のための素材なのです。

 

●エネルギーは形態変化の動因

 肉体感覚、五感・頭脳だけがすべてならば、いま盛んに研究されているロボットのような、単なる複雑なセンサーシステムにすぎません。しかしながらそのロボットでも、電気エネルギーが供給されなければ、うんともスンとも言わぬ物質の塊なのです。

 エネルギーは眼には見えないけれども、その物質形態を動かす元の動因です。エネルギー・・・それは、なにも直接に物質のみを「動かす」動因というわけではありません。エネルギーは、意識が物質素材を通じて形態化するための多層にわたって貫くところの力・パワーという事もできるでしょう。

 

●意識・エネルギー・物質

 エネルギーとは、言葉を変えれば、影絵芝居に必須な光の綾をつくる「光線」という比喩も妥当なものと思います。光が無ければ影絵芝居もなにもあったものではありません。物質形態があっても、それを動かす元のエネルギーが無ければ意味がないのと同じ事です。そのエネルギーも、物理的な層から精神的な層まで多層に渡って貫いているのです。これらを言えば

 意識(波動) → エネルギー(波動) → 物質(波動)

と言えるでしょうし、森羅万象は、今は未知なる波動も含め、その様々な変化とも言えるかもしれません。

 

●こころの作用にもエネルギーがある

 こころで思うことが現実となるということは、こころ:人間意識もエネルギーを介在してそれを形に表わすということであり、車が動くのも、人が歩くのも、あるいは念動や念写等も、等しく、エネルギーの物質形態への転換ということです。ガソリンも走行距離というものに変換されて、眼には見えなくなるようにです。

 また、人の意識の進化も、より精妙ではあるものの、大きな意味でのエネルギーが介在しているというのは事実であろうと感じます。我々が抱くイメージ・記憶は、こころでもありありと描けることは誰しも知っています。物理的に手と道具を使って絵を描くのと同じように、内面のイメージでも、同じく、いやそれ以上に自由自在に描けることは極めて重要な意味があります。内面のエネルギーというべきものがあり、それがイメージ作るといえるでしょう。

それは、非物質的エネルギーともいえるものです。物質レベルより遥かに微細であり、実に物質レベルの形態顕現の原因となるエネルギーです。

 

●外と内に共通するのは「光」:波動

 内面で描く絵も、外の世界で描く絵も、我々の認識としては同じものですが、その現われている層が、明らかに違う事に気がつくでしょうか。「モナリザの絵」を思い出して頭の中に描く場合と、絵画展で肉眼で見る場合は、我々の内面に写る絵と言うこと自体は変わらないものの、その現われたフィールドが、我々の「外」か「内」かの違いがあります。言い換えれば、物質レベルで一度外部光に変換されたイメージか、直接の内面の光のイメージかの違いです。

 内面での想起やイメージも濃淡や明暗があるでしょう。それは、やはりそこには形態の違う光が射しているということなのです。 

 全ての全てである「根源」から投射されている無限光を、その鋳型を通して、様々な現象を創造しているのが、・・私たちという「個性ある魂」です。また無限の宇宙に偏在し、それぞれの段階で目覚めている、鉱物・植物・動物などのさまざまな「意識」です。人間はその最も「根源」に近い形態を自己認識しつづける、個別化したいわゆる「神」・「創造者」といっていいのです。

 

●人間の多層構造・多次元構造

 我々の身体は、一番外側といわれる「肉体」層の他に、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体・・などの7つ(または8つ)の層があるようです。古代から伝わる内容や、宗教的なフィルター、地上や汎世界的な(宇宙的な)情報ソースの性格などによって多少呼び方が異なるものの、我々は単に肉体ではなく多層構造の存在形態をもっていることはまさに共通しています。今最も馴染んでいるのが、一番外側にあるといわれる物理層、言い換えれば、いまこの3次元世界の窓口になっている「肉体」です。 この存在形態の一番外側、あるいみフロンティアともいえる肉体をここで維持する為に、様々な苦労や心痛、快楽や過ち、楽しさや苦痛などを経験しているのではないでしょうか。金も仕事も地位も名誉も富も、肉体をいかに安全に維持するかという観点からの行為でもあるのでしょう。

 

●地球にもある複数の次元の層

 地球にも同じく多層構造があるようです。この多重多層の構造はどのような世界、組織にもある仕組みであり、この巨大な地球圏の構造に関しても存在しています。宇宙からの見る地球の映像は、その表層・物理次元の美しさを示していますが、それに重畳している多層世界はそのままでは見えません。なぜなら階層、周波数帯が異なるからです。

 多層構造は、波動という仕組みを有効に使う為に、その周波数帯を分けて使うようなものであり、我々の使用している電磁波による情報伝播システムも、まさに同じようなことなのです。CAD等でいえば、多層のレイヤという概念もそれに相当します。平屋だけでなく多層階のビルなどもイメージしやすいでしょうか。それは、地球の多層になったレイヤの内の1つのレイヤ、1つのチャンネルを眺めているようなものです。単に五感の延長の周波数帯による認識のみを見ているともいえるでしょうか。

 地球という惑星生命圏にも複数の存在層があり、その複数の層で1つの地球を作っているのが真相のようであり、我々はその物理層といわれ、また三次元といわれる1層のみに意識を集中:フォーカスしているだけに過ぎません。古くから伝わる現実世界や霊界や天上界という世界も、その多層構造を表わしているものでしょう。

 

●階層: ここにありて同時に各所にある仕組み

 このような周波数帯・層の仕組みは「ここにありて、全てにある」という宇宙の「1即多」の極めて合理的?な仕組みでもあり、有限でありながら無限に続く有り様は、根源から顕現までに、どんな距離も時間もないということも表わしているのです。

 我々が何気なく意識している周囲の空間と見えるものの中に「無限」が畳み込まれていることを表しています。

 

●今の宇宙探査は同一次元での知覚拡張作業

 ちなみに、昨今の宇宙観測、探査はあくまでもその1つの物理層の中の観測範囲の拡張とも言えるでしょう。どの惑星を探査しても、あくまでも、我々が今フォーカスしている、この三次元認識意識とその観測手段の範囲での探査です。宇宙生命を探査するにしても、我々と同認識レベル、同一周波数帯にある他の生命圏の探査ということになるでしょう。

 この物理的な宇宙の層も、確かに無限なのは間違いないものの、それはあたかも平屋をどこまでも拡張するようなものであり、発見するのは今の次元認識に同調するレベルの様々な現象でしかないでしょう。

 

●共通する世界認識は、集合意識の集団同調による

 我々の身近と感じる周囲の空間の中にも、TV、無線、ラジオ、携帯電話、衛星放送・・などの波動が渾然一体となっているものです。その周波数帯(層)に同調することで、その層(周波数帯)の情報のみをリアルに取り出すことが出来ます。単に電波使用に関してだけ言っても、それは「同調」しなければ、眼にも見えず耳にも聞こえません。映像や音声としてリアルに取り出すには、同じ周波数を作り出してそれに同調しなければならないのです。

 有態に言えば、今我々の居るこの空間は多層の世界が重畳されているということであり、意識の周波数(こころの働きの内容)によって、非同調・同調を選択しているのです。今我々の多くは、肉体の五感が得意とする「3次元フィールド」に同調しているものです。それが今の我々の一般的な知覚レベルということです。

 TVで言えば、皆がみな1つのチャンネルにかじり付いているということです。 我々の多くは、生まれてからこのかた、あなたやわたし達がそうであるように、国・地域の夫々の教育を受け、また周りの大人たちの観念体系・常識などに触れることで、それらの集合意識に同調をしているのであり、今の3次元的な世界認識の集合体、人類意識の集合体を形成しているのです。

 

●生前・死後の世界も、隣接する異なる存在周波数帯域のこと

 我々の生前・死後の世界に関しては、それを解さない社会通念を持ち込むことで、それに気付かないことにしている人々も多いと思います。誰でも一度はその疑問を抱くものですが、世間という外の世界では、明確な情報を得る事が難しいと思える風潮もあり、大体においてそこで忘れる事にするか、あるいは、死後や生前のある部分を説明をしている宗教などに少し触れるなどして、それで良しとすることも多いでしょうか。

 誰にでもある生誕や死は、最も身近なテーマであるにも関わらず、それを意識しないで生活をしている事は、まさに不思議この上も無いものであることに気付くでしょうか。ましてやそれを「恐怖」の権化にしてしまい、それを忌み嫌う行為に仕立てているようです。生を立派に生きるためだと称してそれを遺棄することは、それから都合よく眼を背ける行為に等しいとも感じるのです。

 立派に「生」を生きるということが、実はある意味で集団的自己欺瞞?であり、「刹那」のみを意識していたい・・という「狭い」観念を示しているのではないでしょうか。それは「今という瞬間」を生きることではなく、知らないことの「恐怖」から、とりあえず眼を逸らし、「逸らしたその先の視野のみを見続けたい」・・という、我々大勢のこころを表わしているかも知れません。

 

●今という瞬間にはすべてがある

 今という瞬間には、かつての生誕があり、死もあるものです。全ては認識すべきものであり、決して忘れてしまうべきものでもないのです。我々がいつの間にかの無意識から偶然に生まれたものであり?また、消滅を感じさせる?死は、まさに理解不能であり、忌み嫌うべきものである・・・という通念の世界は、やはり一つの「信念体系」でしかありません。

 まさに、この現実と言っている世界も、多次元世界の1つであり、ある意味では、物質偏重認識を特徴とする霊界の1つと云っても良いものです。

 隣接する他の次元、また別次元の世界へ情報は、古代からも、それらの多次元世界からも、またいつでもどこでも綿々と語り継がれていたのですが、表面上の物質現象のみを是とする観念によって感じる恐怖によって打ち消されてきたのでしょう。我々は、この次元に長いこと閉ざされていたようです。様々な無知や恐怖をそのままにしておくことで、我々の意識をそこに固定させ、その刹那を楽しむ行為であるともいえるでしょうか。

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 (つづく)

   下の写真は、我々の五感の窓からみた地球の一部のイメージです。誰にもわかりやすい共通認識で見ている地球です。我々の意識作用、知覚作用が広がれば、更なる輝きをもった地球圏が観えるものでしょう。

Chikyu009  

本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。 

 

 


次元の壁は意識の壁

2009-05-24 15:54:11 | 宇宙的気付き

●三次元世界とは

 地球は三次元世界であると云われていますがこれには誤解があるようです。より正確に言えば、我々の現代社会を構成する人類の集合意識での世界認識が、縦横高さと重さの感覚を元にしたものであり、それが三次元的であると言うことでしょう。

 思うに、世界は決して三次元ではなく、我々の「認識作用」や「中心となる観念」が三次元的なのだということが的を得た解釈です。三次元とは、物量で計ることをよりどころとした観念が根にある世界、物質のみをよりどころにした世界、まさに経済、物、人、金・・という概念が溢れている今の、この世界のことです。

●自ら囲った三次元世界

 世界・宇宙はだだっ広い空間で構成されているという認識が、人類集合意識内で単に幅を利かせていると思います。なんとなくそう感じていることでしょう。この世界はXYZの3次元と時間で構成されているという常識、すなわち人類集合意識にある暗黙の観念体系を表しています。

 アインシュタインの相対性理論も、次なる世界認識の飛躍的なステップというよりは、ある意味では「壁」として利用されてしまっているようなものでしょう。「この世には光を超える速度はない!」という重い壁を作り出しているのに気付きます。そう、「三次元+時間」の次元の根本には光速度の壁があるのです。これは近づけば近づくほど無限に重くのしかかる壁となっているものです。これが次元の壁だと考えている識者も多いことでしょう。アインシュタインには、その気は無かったはずですが。

●多次元という拡大世界への入り口にある人類意識

 多次元という概念は、今我々が観測できるこの(物理的?)宇宙以外にも、別個の宇宙が存在する可能性のことを示しているのかもしれません。ある意味では、今は観測できないし、見えないけれど確実に存在する別の世界の可能性を意味しているのだと考えられます。

 また意識のレベルに応じた様々な表現を可能とする別の世界も、異次元世界とも言えるでしょうか。今スピリチュアルの世界で言われている「次元上昇」「意識の変容」「シフト」なるものは、まず間違いなく意識レベル、認識レベルの飛躍的拡大の意味があり、物理的な多次元宇宙とは少々意味合いが異なるかもしれません。もっとも、確かに認識レベルが拡大すれば、物理的な多次元宇宙の理解も可能となるでしょう。

 次元は認識次第で現われるものであり、その根本には「意識」があり、特に人間の意識作用である「想念」が大きく関与しているのです。

●空(間)はからっぽではない

 空間は「空」(くう)です。空(くう)には様々な可能性、充満されたエネルギーが潜在しているという、古代から伝わる直感認識に、ようやく現代科学が気付き始めている段階と云えるでしょう。

 D・ボームの電子充満説、アービン・ラズロの宇宙全一性の主張、また、リサ・ランドールの異次元への科学的・数学的模索等も、単に、古代から既に理解されている世界認識に追いつこうとしているだけのことです。EUのCERN施設などは、密かに異次元を模索していることを伺わせています。知らぬは一般大衆ばかりなり、というのはいつもある話です。いつもいつも結果の後にぞろぞろとついてゆく「子羊集団」が、実は我々だったのかも知れないということに気付けるでしょうか。

 

●意識で充満する空間

 「観察する意識」が密接に絡んだ素粒子の世界と同じく、次元認識も「意識」というものを度外視してはなかなか進展できないと思われます。なぜなら、そのことを気付く気付かないに関わらず、我々は既に次元を超えている存在であるからです。超能力、予知、テレパシーなど、我々の周囲で起きる不可思議な現象は、まさに時空、あるいは次元を超えているとしか思えないわけです。

 また、そのような超常現象をあげつらうまでも無く、我々は毎日毎日眠りの中で多次元世界を見聞きしているのですが、いつもながら『忘れる遊び』が出来るのが、今までのこの地球という時空の特色と言ってもいいのででしょう。夢なども単なる脳の発火によるものでは到底あり得ず、まさにここに有りて、かつあらゆるところに偏在可能な、普遍的な意識の遊びとも云えるものです。どっこい、これは言いすぎではないのです。

 

●空(間)は無限に変化するキャンバス

空(くう)は「こころ」のキャンバスという表現が相応しいでしょうか。『無いと言えば無いし、有るといえば有る』・・・ 融通無碍 まさに、これが空(くう)の存在意義と言えるでしょう。いつもどこかで禅問答のようになるのは仕方がないものです。『無いと言えば、無いし、有るといえば、有る』 ・・・? このような表現をせざるを得ない「空(くう)」の有様は、まさに論理を超えており、なるほど、「空」(くう)であるが故かもしれません。宇宙は我々が主張してきた「論理」では動いていないのです。ましてや、汗まみれの善と悪の綱引きで運営されているわけでもないのです。

『愛と調和に満ちた「創造主の思い」が顕現している』  というのが真実です。簡単すぎるでしょうか?もっと苦労が必要でしょうか?

 

●空間は、「有るといえば有り、無いといえば無い」

想念は空間を越えているのは当然のことです。想念は空間を越えており、いわば絵描きがカンバスに様々な絵を描いているようなものです。空(くう)であるからこそ思いを自在に描けるものであり、空間自体が思いを既定することなどあるはずもないのです。今までの社会は、まさにそのあり得ない・驚天動地の本末転倒の世界を体験をしていたのです。地球が特殊と言われる所以はそこにもあるのが分かるでしょうか。

 

●多次元世界の有り様

時間は想念・意識の「写し絵」である、様々な物質素材の表現・変化のテンポでしかないのです。宇宙に無限にこだましている、意識の紡ぎだす想念という創造波動の集合と同調、干渉などにより、空(くう)に様々な意識の周波数帯ともいえる世界を創り上げます。多次元世界と言ってもいいでしょう。

そこにあるのは類は友を呼ぶという黄金律?であり、それは同調、親和の法則を表し、ある意味では異なる想念周波数帯同志は共存できないことも示しています。想念は必ず表現形を付随させるのです。表現形とは様々な物質形の素材を意味します。それが様々な惑星生命圏や次元宇宙を構成していると考えられます。

その各々の世界の振動率・周波数帯の波動の変化のテンポは、それぞれの世界の時間として現われていると考えられます。当然ながら世界・世界で時間は異なっているわけです。

 

●生まれ変わり:周波数帯間の移行

生まれ変わりというのは、単に、表現系の移行、周波数帯間のシフトを意味しています。その周波数帯間の移行が可能であるということは、我々が、様々な存在世界の周波数帯自体を俯瞰する位置にあることを示しており、すなわち魂のレベルの我々自身は、言い換えれば、根源存在の個別化された意識・魂である「わたし」たちは、空間のみならず時間をも越えているのです。

この地球の時空周囲を取り巻く世界、すなわち現在界、霊界、天界という世界の階層構造も、壮大なる存在世界のごく1部の周波数帯の住み分けでしかありません。存在表現形の異なる世界、周波数帯の異なる世界は、限られた五感では見ようもないのです。ただ、チャンネルが違うだけの事です。

生死、転生を繰り返しながら今生きて在ることは、我々の不滅の意識・魂は、その時々の意識レベルに応じて、どのような世界にも同調できることを示しており、まさにあらゆる波動を内包した存在、宇宙根源の個別化された存在であるわけです。

我々が「光の存在」であるというのは、まさにそれを象徴した表現でしょう。

 

●光速はいつも既に超えている

 地球を含む宇宙に広がる存在界は多次元的であるのが真相でしょう。我々の今の時空、生命に関する認識レベルが限られていると感じるのは、物質偏重の観念体系にフォーカスしているというだけのことです。テレパシー、念動、以心伝心、リモートビューイング、転生の記憶再現、未来予知、さらにUFO現象なども、この物理的・三次元的な世界認識では到底説明できないものです。

このような一般常識を越える、超常現象、超能力なども、世間では未だにもって、不可思議な現象があるとか・無いとか・言っていますが、この期に及んで、その好奇心の無さにあきれる人々も多いに違いありません。我々のこころの働き、意識作用が、光を超えているはずは無いと言う先入観の壁の、こちら側にいたいと思っているだけのことでしょう。

 

●光の壁のこちらの今

我々の意識作用の情報伝達の速度は瞬時であり、また過去や未来にもアクセスすることを意味しています。このような考え方を是とするのは、確かに「なかなか」であるのは理解出来ます。しかしながら、単に光速は物質の速度の限度を意味するだけであり、我々が物質であると認識している限り、決してこの次元を超える事はできません。  

我々の意識が、物質に自己同化することのみを「是」としている限り、どのような科学的数学的証拠を待ち続けても無駄な事のようです。光の壁は、実は自己認識の壁であり、意識の拡大しかそれを超える道はないのも道理でしょう。

 昨今言われているフォトンベルト(光子の帯)や銀河中心からの周期的な変容エネルギーもやはり光・放射に関しているようです。

 

●光の壁の向こうの今

4次元や5次元、第3密度、第4密度・・・といわれるものは、我々の意識の拡大度と相関しているものであり、小学生から中学生へという単純な比喩もそんなに的外れな言い方ではないと感じます。次第に自己責任とその知識、行動表現が変っていく自然なプロセスであるという事は全く同じようなことではないでしょうか。

暗がりはよく見えないのと同じく、その光に満ちた世界というのは、更に多くのことが理解・表現できる世界であることは間違いのないところです。

意識の変容、シフトの壁は、まさに光の壁であり、その壁の向こうには光が満ちているという象徴的表現も良いかもしれません。それがいわゆる高次元、五次元・・などと言われているものでしょう。それは間違いなく、物質偏重ではなく、こころ、意識が主体となった波動性に満ちた世界、より表現度の緻密な世界であり、それがまさに光に満ちた世界というのも、あながち言いすぎではないかも知れません。

我々が、光と善と楽しさの塊であったと心底知ることが、全ての扉を開く鍵となります。光の存在とは、きれいごとを夢見る存在などではなく、あらゆる可能性、あらゆる波動を永遠に内在させた、あなた自身のことでもあるのです。

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 今回も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 

 

  


宇宙と人間

2009-05-17 11:40:16 | 今大切な禅の言葉

竜安寺の石庭は有名ですが、それは単なる庭師の作ではなく、確かに何事かを発見した存在からのメッセージだと感じます。

Ryoanjidry_garden 一見すると大海原の中の島々のように感じるでしょうか。島の周りには同心円を模した「波」が描かれており、その波が遠くの別の島々にも伝播し、相互につながっているようです。

 同じく宇宙の有り様も示しているのでしょうか。大宇宙の中に浮かぶ様々な天体と大気圏、または時空存在フィールドのようです。さらに観点を拡大すれば、無限に広がる、それぞれの島宇宙をも表しているかのようです。

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 また世界の中に在る個人個人をも示しているのでしょうか。様々な個々の存在を取り巻く、白い砂で形づくられる「波」、個人個人の思い思いが、寄せては引く、波を通して広がっているようです。箱庭の世界。

 

 また「色即是空」を表現しているのでしょうか。空(くう)の中に現われる様々な物質、組織、現象物、それらを総合した「顕現模様」、その変化し続ける諸現象・多彩極まりない顕現模様が可能なのは、すなわち、白い砂で象徴される、空(くう)の中にあるがゆえです。空(くう)の中に湧き出でる世界、様々な顕現模様が可能になるのは、空に生じる波模様、白い無限に小さい砂で描かれている「波動」ゆえのものです。我々の物質世界を構成する、素粒子をも彷彿とさせます。

 我々が、観客として、何の気なしにその石庭を訪れること・・、その庭を、個人の思い思いのうちに眺めること・・・、そのこと自体も大きなメッセージがありそうです。石庭と人間の関係でしょうか。いや、宇宙と人間の関係でしょうか。

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 我々は、その「有限の庭」というゲシュタルト(形態)を通じた「無限」を表すメッセージを眺め、それを観照し、そこから我々の存在の意義をも感じ取ることが出来るのです。すなわち、我々は石庭を眺めている立場の者、本来、色即是空、空即是色で象徴される存在表現を、「超えたもの」と云えるのです。

 我々はいつも、世界に在りながら、その世界の片隅に属しているような、ちっぽけな存在ではないということです。悟りや解脱は、ある意味で、より大きな自己への帰還です。常に自己自身であり続けながらも、小さなこまごました周りの物が次第に脱落してゆくのは、まさに枯葉が落ちるように、自然なプロセスなのです。

まさに、あるがまま、自然のまま。そこには、本来執着や恐怖など、どこにも無いことが分かるかもしれません。

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本日も拙い記事をご覧頂き、まことに有難うございました。

 


幸せと人間

2009-05-10 17:00:46 | 心の力学

●幸せとは何か

 我々皆誰でも、また多分、意識ある存在すべてに共通する願いは「幸せでありたい」ということでしょう。色々意見が異なるといわれる、様々な個人であっても、これだけは共通したものです。人間は須らく、意識する・しないに関わらず、いわゆる「幸福」「幸せ」を求めていると言ってもてもいいのです。

 はたして、社会、国家、世界のなかで、「幸せ」でありたいと思わない人がいるものでしょうか。地球上あるいはその他の諸世界であっても、程度の違いはあったとしても、幸せでありたくないという存在はいるはずもないでしょう。

●誰でも幸せを求めている

 不幸の代表のような極悪と呼ばれる人々、自己欺瞞そのもののような性格や生活を経験している猜疑に満ちた人々、いびつ極まりない自己中心な行為をしているエゴイスティックと云われる人間達も、「幸せ」を求めているからこその、極端なその激しい思いと行動をしているものでしょうか。悪(ワル)といわれる人々も、善良といわれる人々も、その時々の自己を演じている、あるいは演じざるを得ない有様も、いずれにしても、「幸せ」を求めているからに他なりません。人としての表現の大きさ・小ささ、深さ・浅さに関わらず、それぞれが精一杯の自己表現をしながらも、どこかで「幸せ」を求めていることには変わりがないのです。

●条件付きの幸せが欲しい?

 現代社会の趨勢にあっては、いわゆる物質的な豊かさが幸せになる秘訣であると考えているかのようです。たしかに我々は、大なり小なり、当たるも当たらぬも、意識的・無意識的にも、そのような世の中に生きてきたのは否定など出来ないものです。

 人類の創造の結晶たる学問も芸術も、今では現世の利得・ゲインを得ることに特化されてきているようです。数学も物理も工学も、文学さえも、それを使っての現世利益(りやく)に結びつけることが、いわゆる経済的な「善」とも捉えられています。生活への努力には、必ず現世の利益がピッタリと付いてくるはずであり、それが本来当たり前であるということのようです。

 人生の努力が経済の利益になり、富として還元され、それぞれの個人の「幸せ」の手段となる「富や名誉」につながると考えているからです。

 「自分のやりたい事をやり、それでお金が儲かり、また有名になれば、それも「幸せ」だ」・・という考えです。これには多くの人々の賛同があるものでしょう。我々は、大なり小なりそのような、「成功」=「幸せ」の観念の中に浸かっていることに気付くのです。

 しかしながら、多くの人々の羨望の的である?権力者、富豪、セレブ、有名人、成功者といわれる人が、本当に幸せかどうかは、もう十分にわかりそうなものです。全てではないにしろ、そのような世間での成功を獲得したと言われる人達は、幸せどころか、表面のパフォーマンスを維持する為の、ある意味艱難辛苦の連続を経験していることに気がつくでしょうか。

 一見して正当?であると感じる、幸せ=物質的成功?の観念では、「・・・・ならば・」という条件を設定している事に気がつくでしょうか。成功、金銭、名誉を得たあかつきの「幸せ」なのです。いわゆる、「・・たら、・・れば」の幸せです。条件付きの「幸せ」とも云えるでしょう。

●「幸せ」に条件が必要か

 成功や地位や富や、それから得られる快感や安堵が、幸せである・・という観念が支配的であるため、その幸せを求めて様々な社会・経済活動が行なわれます。至極当たり前であるとも誰しも感じるのですが、そこに、なぜか、「幸せ」を当てはめる誤謬に気がつかざるを得ないものです。条件を付けられた「幸せ」を獲得すべく様々な社会的労力を注いでいるのが、我々であったも言えるでしょうか。「幸せ」を、物質、環境、人間関係の良否などの条件の向こう、ベールの向こう側に敢えて置き去りにしているようなものです。本来の幸せとは、似て非なるあり方です。

 多くの人々がそういう風に思っているような感じがしている、・・という架空の想定を、これまた大勢の人間が信じているからこその事であるでしょうか。

●幸せは「そのうち得られる」・という誤謬

 個人の幸せは、全てが御膳立てされた理想社会、均一的な画一的な幸福社会等で、はじめて得られるものであるという考えもどこかで出てくるでしょう。だからこそ革命や変革、社会改革が必要だと言う考えです。それは、外の条件が変れば、自分も幸せになるだろうという観念です。過去の唯物史観にも密接な観念体系でもありました。自分の幸せは、外から「来る」ものという依存心です。

 外側の環境の変化で得られる良きものが、万一あったとしても、それは肉体的な生存の安心感や安堵感などかもしれず、しかしながら、確かに、個人個人、それが「幸せ」と考えている場合は、それはそうかも知れません。

 各自の幸せは各自の幸せであるにもかかわらず、それを他人や外の世界に求めることの異常さに気付くべきではないでしょうか。自分の内面に求めるものが、自分の外にあると漠然と信じている意識状態、幸せは獲得するものであるという「信念」でもあります。それはいわゆる「支配」に甘んずる人々の依存心を示すものです。支配者に誉めてもらいたいという幼子のような心理が、獲物をどれほど獲得したのか?という競争ルールの中での歪な生き甲斐となってしまうわけです。表面だけの小奇麗な虚飾に彩られた社会という、現代のコロッセウムの格闘士?は、もう、安楽と幸せの違いに気付くべき時なのです。

 個人個人の、その時々の「幸せ」が、個人以外のところ、社会のなか、多様な物質の中から獲得して得られる・・等ということは、実際ながら有り得ようもないのです。獲得して得られるのが「幸せ」なのでしょうか。また待ちわびて何者かに与えられるものが「幸せ」なのでしょうか。それは「幸せ」ではなく、いつも現われかけては消えて行く蜃気楼、あるいは刹那の快楽や安楽さ、安心感でしかないのでしょう。

●幸せは単に肉体の安楽ではない

 幸せは実は「こころの状態」であると言う話は良くあるものです。まさにそのとおりであるとも思われるでしょう。しかしながら、その「こころの状態」になるためには、またぞろ、外部条件が必要だということにしがみ付くこともあるでしょう。肉体維持の為には環境が必要であるということもまさに事実ですが、それは、「幸せ」とは違うことに気付く必要もあるでしょう。

幸せは、心の状態であると気付きながらも、それでも「物」が先で「こころ」が後という捉えかたです。こころ自体が意識的、無意識的であっても、その環境を作り上げていることが理解されていないために、「物」がやはり先に来てしまうものでしょうか。

●幸せは瞬間瞬間の創造に気付いていること

 どうという事もない出来事、当たり前の家族の会話、懐かしい記憶、子供達の屈託の無い姿、チョッとした他人の親切、何かをやり遂げた後の満足、夕日の残照、移り変わる木々の葉に見入る時・・・例えば、そのような状況に何かしら感動したことはあるでしょうか。どこにでもある、誰にでもあることです。

何時もそこにあった、「当たり前」にただ単にフト気付いただけのことなのですが、誰しも、このような当たり前のことに感謝し、幸せを実感することがあるのではないでしょうか。

 ひょっとして、今の瞬間瞬間の自分を取り巻く「幸せ」に気付けない我々は、あたかも盲目の先物取引業者のようでもあり、実にこころ楽しくないものではないでしょうか。常に未来に求め続けることばかりで、逆に、溢れるばかりの、今のこの世界の贈り物にさえ気付く能力がなくて、一体どんな幸せを得られる力があるのだろうかとも考えられるのです。

●有難う・・幸せに感謝するこころ

 あり得ない、あり難い、このありのままの宇宙、自然の世界を、そのまま見る事ができなくて、いきなり世界を切り刻み、加工しながら、「幸せ」なるものを追い続けてきたのが我々の文明であったと言えば、それは言い過ぎでしょうか?

 眼を見張り、こころを駆使して、今在ること、もう既に与えられていることに、ただ「感謝」出来る事が、それこそが「幸せ」とも言えるのではないでしょうか。それこそ多くの人々の、ある意味で「共通」する幸せであるかもしれません。当たり前のすぐ周りの幸せを見ず、遥か遠くを見るこころあり方には、そのとおりに、常に身の周りや世界に、不満や不足が現象化しているのは火を見るより明らかでしょう。

●幸せはいつも、「今ここに」在る

 人間は、自分のこころを如何様にもできるように生まれています。様々な感動も、感謝も実は、まさに「幸せ」の表明である事に気付けるでしょうか。今この瞬間にある状況を不足や不満と考えるか?本来有った当たり前の「幸せ」に感謝出来るかどうかが、まさに天と地を分ける「こころ」のあり方なのです。

不足を感じ続け、追いすがり求め続けることが「幸せ」である?と一体誰が言っているのでしょうか?人は不完全であると?一体誰が言っているのでしょうか?それは?・・たしかに自分自身が言っていたということが分かるときに、初めて「幸せ」を感じることになるのではないでしょうか。

 難しい理屈や複雑な観念体系、遠くにある理想、手に届かない貴重なもの等が、何か立派で、高尚なことであるという誤解に依拠した架空の信念から、自らを解き放つべき時でしょう。

 「幸せ」、それはいつも「今」を置いて、他にあるわけもないのです。また自分の中をおいて他人の中にあるわけもないのです。

●皆すべて、既に「幸せ」である

 「幸せ」とは今の当たり前の中に、それこそ宝石のごとき輝きをもって、あなたや私たちが気付く事を待っているのです。何年、年十年、何千年も待ち続けることもあるでしょう。「今」という瞬間は、「ゼロ」であり、その奇跡が「経過時間」という「軌跡」です。 今の瞬間に出てくる現象の連続、記憶が時間であれば、悠久のかなたの古代の時代も、未来の時代も、「今」から湧き出すものであることが理解出来るでしょう。「今しかない」というのは、瞬間、瞬間に全てが有ると言う意味であり、「幸せ」も今しかないのです。

 「幸せ」は「今ここにある」ことに気付くだけがまさに「幸せ」であり、もし不足があればその不足分だけ、待ってくれるのが「時間」という、辛抱強い友達なのかもしれません。

●眼を開けよ、幸せばかりの創造世界を「発見」せよ

 既に与えられている当たり前のものに感謝すべきです。感謝の念の中心にあるのが「今」という瞬間であり、それに気付いていることが「幸せ」といっても良いのです。感謝の念から生ずる現象は、感謝を映し出す時空になってわれわれの世界を形づくります。個人の世界の中心はそれぞれ皆、まさに宇宙の中心であり、個人の信ずるままに現われてきます。

「今」ここに「幸せ」を感じている人々の多い世界、これが、これから経験すべき世界であると断言しても良いと思うのです。まさに時間の有って無きがごとくの世界とも言えるのです。

●影を創っているのは、影絵師である私たち

 一見様々な苦悩に見えるこの世界は、どうしようもない現実ではなく、あなたや私たちの心のフィルターの汚れを示しているのでしょう。幻影たる結果をどうこうすることは、まさに筋違いであり、1人1人のこころのフィルターを取るだけのことなのです。そうすればそこには苦しく怖い幻影が現われようがありません。影絵の「影」を追い回すより、光の当たる自分達1人1人の「こころ」の姿を変えるべきなのです。

●原因たる「自分のこころ模様」を観るべし

 幸せは、まさに今の瞬間、既にそうである!ことを実感することです。外の形(影)でなく、影絵師である人間の「こころの鋳型」を変えるべきなのは明らかではないでしょうか。幸せだらけの悩み?も経験しても良いかもしれません。それでも、世界は汚れに汚れている!と宣言するのでしょうか。それとも、当たり前に、今「幸せ」であるという事実に眼を開け、まさにそうであった・・という宣言が、今この時に出来るでしょうか。いや出来るに相違ないのです。

●有り難いこと限りなし

 なぜなら、苦しみや悩み、幸福など、どのような実感も選択できる、それぞれの「わたし」が「今ここに在る」からです。有り難いこと限りなし。まさにこれからの世界はそうのように、映り変わらざるを得ないのでしょう。

 自己をどこかで忘れた意識の有り方、外の世界の人間関係や、物質レベルの因果関係のみを追っている意識のあり方では、決して理解出来ないことかもしれません。それが出来れば苦労などあるものか・・という考えもまた、あくまでも自分から眼を背けているこころのあり方を示してはいないでしょうか。幸せは、難しい・・・という信念。本当にそうでしょうか。

 単純に言えば、自分に感謝できれば、それが外への感謝となって広がるのが道理です。自分が、今「幸せ」であると心底気付ければ、他者もまた「幸せ」であることに気付くようになるのも道理です。 幸せは、それぞれの中に斉しく在るところの、「こころのあり方」が創造してゆくものだからです。

 

 Flower1008

 本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

  

 

 


生と死と人間

2009-05-04 19:29:49 | 見えないものから見えるものへ

 よくよく考えると、我々多くの人間は、「死」というものをどこかで無意識に、避けよう避けようと足掻いていたようです。あるいは真剣に捉えるにはあまりにも嫌であったのかもしれません。社会の多くのしきたりは、それを簡単にやり過ごしてしまうことでもあったのでしょうか。若い時代に誰しも感じる生としに関する何か不可思議な疑問や切なる衝動は、大概は忘れることにその解決を見出し、刹那の架空の世界に躍り出てゆくようなことだったかも知れません。

 誰にも確実にあるものを、心底嫌っているような、ある意味不可思議な仕儀であるともいえるでしょう。なるほど、我々の世界、社会の中には、善悪、生死等という、いつも本質的に感じながらも、それから眼をそらす微妙な「2元性の囲い」があったとも言えるようです。

●葛藤・恐怖は変容の時のブレーキとなる

 「葛藤」こそが変容の時、意識拡大の時にあって、唯一の問題であると云うゲリー・ボーネルの言葉にもまさに頷けるものがあります。「恐怖」はその「葛藤」の最たるものでしょうか。 

 それはまた、ある意味、「知らない」と言うことを、そのまま「おざなり」にしている事でもありそうです。解答を社会に求めるように自他ともに仕向けるあり方、言い換えれば、不特定他者達の言を待ちわびる、依存的なこころの状態、ある意味での顕在意識の「幼さ」を示しているかも知れません。これは、自己意識が外の世界の投影ばかりに向けられている状態であり、原因を外に求めている状態でもあるようです。自己の意識が自己の因たる内面に向いていないということでしょうか。

 なぜなら、自分で発する思考や感情、それを内面で観ようとしていないとすれば、それは自分のものではない・と漠然と考えているからでしょう。外の「結果」の世界に「原因」を探すようなものでしょうか。 我々は、思考も感情も体験、創造も探求も、それがまさに自分独自のものであるとは感じていない意識状態にいると言えるかも知れません。

 自分自身で選択しないことを「選択」しているようなものです。・・なるほど、意識的存在として、選択だけはいつもしていることに気付きます。

●死の「恐怖」は本来からの乖離への「違和感」からくる?

 九死に一生を得た人々や、臨死体験などを経験した人々は、その究極ともいえる体験を事前に行なうことにもなり、大なり小なり、その後の人生や生死の観点は全く異なってくるものでしょう。自分だけにあると感じる、ありえないほどの苦労や辛苦は、知ることに対する別の意味での「恩寵」とも言えるものです。

 しかしながら、そのようなリアルな体験を現実にしていない人々や、生死に関する知識の無い人々にとっては、「苦労」も含めて究極とも感じる「死」は怖いものに違いありません。

 一般通念の如く?、死というものが、世界からの「己」の消滅などと感じている場合は、確かに死は怖ろしいものです。この社会の中にあっては、いつかそれは、無視し続けたい「恐怖」に祭り上げられ、その恐怖自体が、良くも悪くも人々を駆り立て、今のこの現代社会を造りあげる一種のエネルギーにもなったかのようです。

 実のところ、自己が無くなるという恐怖等は、反面では消滅するなど本来あり得ない事をどこかで「知って」いるからこその「違和感」からきているとしても不思議ではありません。

 人間が産まれ、この世界に関わる段階において、どこか自分の感じる理想とは異なる有り方に、誰でもどこかで気付くものです。いやいや!これが現実だ・・と称される価値観の歪みの中に右往左往しながら、それでもいつもどこかで「違和感」を感じているものです。実際のところ、何が?何だか良くわかっていない社会という無責任を隠し通すことを大人と言う、実のところ他者への依存をそのよりどころとする集団的な意識を通して、死というものが、触ることもはばかられる「恐怖」に成り変って来たとも云えるでしょうか。

●知らないこと・怖いこと

 「知らない」ことは「怖れ」となるものです。お化けも妖怪も、それが何なのか、得たいが知れないものであるからこそ、「恐怖」に感じるものです。

 知らさない、知りたくない、そのような社会の中では、やはり生や死という本質的なことを知っていない、知らされていない事への『怖れ』が育まれるのは当然のようです。

●社会の底流にある死への怖れ

 現代社会の本質的な特色の1つは、死への怖れと、それを無意識に遠ざけ、それを紛らわす為の、様々な物質形態の繁栄にあったということでしょうか。経済社会の一見活発に見える様々な動きがあっても、実はどこかで自縄自縛の状態ゆえの、激しい活動のようであり、まさに2元性のエネルギーゆえと云えるかもしれません。死の概念、その中心を占めるものは「恐れ」です。社会の中の本質的な「囲い」のキーとなるものが、この「怖れ」にあるのが分かるでしょうか。「恐怖」は、閉じ込める、あるいは閉じこもる為に用意したキー(鍵)でもありそうです。

 例えば、人間関係の悩みは、自分がいかに人間集団の中で安楽なポジションを得るかという切なる悩みからきています。集団の中で孤立や逸脱をすると、そこには様々な不都合と不便、不快さが生じ、結局は「肉体の死」へとつながると無意識に考えられるからです。人間関係の悩みの底にも、自己存続の利益に対する「恐れ」があるのです。

●本来の経済は肉体存続のための便利な仕組み

 また、経済関係の悩みは、金銭や社会的立場によって維持されていると思っている、肉体の存続と安楽さが、失われることに対する恐れにもとづいています。衣食住が肉体の必須の維持形態であれば、その衣食住を保つ為の経済活動は、単に安楽さの追求というよりは、結局「死」というイメージを払拭したいがための活動ともいえます。我々もまさにこの努力をしているようなものでしょうか。必要以上の経済的富や権威の追求は、やはりよほど死ぬのが怖いからではないでしょうか。よくわかる気がしないでしょうか。

 肉体の死に対する怖れは、必然的にその「死」からの逃避を促します。嫌なものは嫌なのです。様々な社会的努力、栄誉・栄達も、刻苦奮闘も、とりあえず死というものから逃れる行為と言え無くもないのです。社会の中での「安楽」の追求は、不快からの脱出行為であり、その不快な状況といわれる究極のあり方が、結局は「死が怖いから」であるとことにあるのかも知れません。

とりあえず死なない為に、経済も社会もその形態を維持している・・・そのような言い方が極端であるかどうか、さて、どうなのでしょうか。

●死への怖れは、刹那の頑張りを生み出す

 今までは、ある部分では、「恐れ」を無意識または意識的に利用しての社会構成、発展であったとも云えるでしょうか。安楽さへ希求の裏にある衝動は、やはり「肉体」維持の為の極端な追求でもあるわけです。

 肉体がなくなることは、即、死と言うことであり、自己自身の消滅と考えるからです。なるほど、人間死んだら終りだ・・という観念をどれだけ聞いてきたことでしょう。もっともらしい社会の講釈の中で、「死んだら終わりだから、頑張るんじゃないか」・「頑張れ」「負けるな」・というプロパガンダを何度も聞いてきたようです。ある意味ではまさにそのとおりではあるものの、反面ではしっかり「恐怖」を残しているものです。

 我々、社会、国家なども「自己が生きるために・・」ということで、恐怖に打ち勝つべく、ギリギリまで頑張っているわけです。それが嵩じれば、場合によっては誰がどうなろうと、それはしょうがないのだ・・結局自分だけは・・・ということにもなってきます。

●恐怖からの防護=自己保身

 場合によっては、自己保身が極端になり、自己存続のためには、他が消滅しても致し方ない・・という風に短絡してしまうのが、闘争、争いであり戦争とも言えるでしょう。自分だけは・・・ということは、「とりあえず自分だけは、まだ死にたくない」ということです。突き詰めた頑張りは、大なり小なりその底流に「死」への恐怖があるものでしょう。

 自分が「肉体である」と意識的、あるいは無意識的に「漠然と」信じ込んでいるからこそ、その「肉体の消滅」を連想する全てのことが恐怖につながっています。本来、肉体も物質形態も借り物であることに気付くことが大切であり、確かに、怖れるべきは「恐怖する」ことのみでしょう。

●怖れが潜む、常識という、他者依存「社会」

 人間が「死」への恐怖から開放されれば、どんなに快適になるでしょうか。誰しも、直感的には分かるのですが、各自各自がその恐れに対する解答を、その怖れの集合プールである「不安な社会」自体に求めている故に、結局は、いつまでたっても解決できないことに気付くべきでしょう。ある意味で、どこかで死を怖れる人間達が大勢集まり、富や名誉や地位を獲得しようとしてきました。そこには、何かあるかもしれない・・と信じつつ。

 理想や好奇心に満ちた若い頃のエネルギーのバックアップは、社会という制度、死を恐れる大勢の人たちの組織、ヒエラルキーの中で次第に消えて行き、自己保身という観念体系に埋没してゆくことが多いものです。組織や集まりを維持することは当然に自己保身であり、それ自体は悪いものではありませんが、自己保身のみに汲々するという状態に陥ることは往々にしてあることです。

 富や名誉、それらは、ひょっとして肉体維持に役立ち、長生きに役立つと考えてのことかもしれません。科学が進歩して延命が図れるものと考え、待ちわびているようなことかも知れません。余談ですが、お金があればひょっとして延命を図る医術やDNA治療も、そのうち出来るかもしれないと思っている富豪達もいるかもしれません。

●死への恐怖が他者への依存を生みだす

 死から逃れようと大勢の群衆の中に身を投じ、その中で最も安楽な位置を占めるべく頑張ってきたのが我々ということなのでしょう。死を怖れ続け、どこかに永久の安住の地があるかのごとく、集団でさまよい続けてきたのが、今までの我々であったと云えるでしょうか。

 そうでありながらも、必ずやってくる「死」に、いつも世話になっているのが笑えない事実なのです。確かに我々は、往々にして、無意識に逝ってしまい、あちらで「反省」を繰り返しつつ、こちらにやってきては、様々な体験と思考や感情を磨き上げ、すこしづつ「今の意識」が成長進化してきたのが事実です。逆に言えば、「死」は怖れる対象どころか、逆に、悪者、嫌われ者となって、我々の「怖れ」を単なる怖れとして捉えるように促しているのです。

まさに、それを恐怖として怖れてきたこと自体に気付くこと、そこに謎解きがあるようです。

●今確かに符合する、怖れを消し去る社会の激しい動き・慟哭・・

 今の経済社会の激動の渦中にも、そのような恐怖の流れが出てきていることに気付けるでしょうか。ウソがバレばれとなり、色々な物が無くなってゆくと噂される昨今ですが、それは幻想に満ちた今までの大きな芝居自体の幕引きのプロセスであり、それを通じて、その恐怖を手放すための「促し」があると考えても決しておかしくないのです。

恐怖やおどろおどろしさで遊ぶ時は、もう過ぎ去ってゆくようです。

 「恐怖」に、ある意味でしがみついて、執着しつづけるか、それら「恐怖」を手放せるのか、あるいは芝居の幕引きもある事をどこかで知ることで、それをもしっかり鑑賞、観照、体験・観察できるのかというような、どこか更に、大きな意志からの「問いかけ」かも知れません。

 肉体への過度なまでの執着を手放す事が出来るでしょうか。借り物は大切に扱うべきでありますが、借り物に執着してはならないのです粗末に扱うことも、執着することもまた同じことなのです。レンタルはレンタルであり、己のものは己のものであることが当然ながら分かるようになっているのが、「今」という変容の「時」とも言えるでしょう。

●生命には学習という繰り返しサイクルがある

 転生やカルマというものは、我々夫々に元々あり続けるところの、大きな生命(いのち)に自ら気付くためにある壮大な仕組みです。無意識で考えたり行なってきた行為の結果の数々も、それに執着すべきではありません。カルマと言われる?重い・思いの鎖も、その全てが魂の学びの為であり、どれが立派だとか、みすぼらしいとかいうものがありえるはずもないのです。美味しいのもばかりでは不味い物は分かり様がないように、良い事ばかりでは、真に良い事などわかるはずもないように、怖いことや嫌なこと、まずくてどうしようもない経験もあるのではないでしょうか。

 誇らしく、苦くて、甘くて、恥ずかしい、怒り心頭に達するような数々の体験も、その体験の全貌を見渡す視座に登れば、何とバラエティーに富んだ命の仕組みなのかということが一望になるでしょう。良い・悪い等の2元性を超えた意識、統合意識とはそう言う視座にあるということでしょう。自分で、こころの山を登る・克服する・ということでしょう。

●世界に在っても、世界に埋没してはいけない

 世界の中に在っても、世界に属してはいけない・・という言葉があります。善悪、生死などの2元性とも思われる経験は、根源である「自己」が様々な体験や知見を味わうためのものであり、恐れおののく事でも忌み嫌うことでもありません。ましてやそれから逃げるべく、他者の群れの中に埋没してしまうことでもありません。

●無限の「今」の瞬間

 いつもあるのは「今という瞬間」と、その「今在るわたし」なのです。最も無限に身近なものは、「今の瞬間」と「わたし」であると言う事は、誰がどう考えても分かるというものです。また最も身近なものは、「今」湧き出し続ける「わたし」の体験・思い・感情であり、大勢の他者のものではありません。全ての存在に独自にある、この「今」の瞬間の連続に、出来るだけ気付いている事が大切なのではないでしょうか。

 「わたしは今在る」という感覚、実感、本質的な気付き以外、五感も想念さえも、常に変遷する仮の投影であります。わたしは○○である、・・・であったいう過去、あるいは予想する未来、過去生といわれる記憶の中の、その時々の夫々の「わたし」も、同じく「わたしは、わたしである」という原理を示しています。それを思い出すのも忘れているのも「今」というこの時をおいては無いものです。

 過去は、過去の記憶で有り続け、未来は、いつも先に走り続けるものでしょう。過去を手でつかみ、あるいは未来を捕獲することは、文字通り出来るわけもないことです。過去や未来というものを生み出す、もとの元は「今」という瞬間であり続けるのです。

●我を忘れて思い出す、神の自己想起体験

 この次元世界を、まこと経験する為にこそ、転生転生の記憶を、表面で忘れる暗黙のルールは、この地球フィールド独自の学びの一環でもあるようです。肉体死を迎えても、すぐ隣の次元世界において、自己が消滅していない事を目の当たりにする驚きの体験の繰り返しは、いつも楽しい経験とは限らないでしょう。なぜならそれらはいやというほど繰り返されてきたからです。確かに、生まれるたびに、一端は魂たる自己の内に、前世の記憶しまうこと・忘れる事で、初めて自己想起という体験もできるのでしょう。

●カルマは「繰り返し癖」のこと?

 しかしながら、忘れることがクセにもなるわけであり?あるいは、忘れ続けること、それがいわゆる「カルマ」といわれる事かも知れません。 また、その輪廻と称される、繰り返しが出来ること自体も、いわば奇跡的な仕組みともいえるでしょうか。転生のその都度、その都度の人格での顕在意識では知られがたい輪廻転生というプロセスでもあります。そのプロセスの中では、眼には見えない世界での、様々な指導、ケアや介護のようなものがあるようです。この地球での魂の学びには、そんな一面があるのです。昨今はそのようなベールも次第に剥がされてきています。人類集合意識が目覚めてきている証左とも考えられます。もうそのプロセスは十分になされ、ある意味、意識的な飽和が出てきているのかも知れません。

言葉を変えれば、卒業時期であるといえるでしょうか。

●死も仮のもの

 古文書、ヨガやヒンズー、チベットの書、また世界中の聖典にある記述の中には、死を通過するときに現われる「魂」意識のプロセスを示したものがあります。臨死体験や幽体離脱のような、仮死的体験に対する科学的な統計も、現在はその膨大なデータが出て来ています。生命が連続すると言う事実も、いつのまにか隠蔽されてきた経緯もあるものでしょうが、逆に世の権威、他者の言いなりの中で眠ってきた事実にも眼を向ける必要があるものです。

●今、意識的な自立が要求される時期

 世の中が云えばそれを信じるのであれば、まさに依存であり、再びまたどこかで繰り返す事を自ら選んでいるということでしょう。自分で感じ、疑問に思い、探求して理解する事が本来のあり方なのですが、いつの間にか大勢の話す言葉だけを聞いて、自分で考えることを忘れてしまっていた事に気付くべき時なのではないかと思います。大宣伝の聞こえる方向に、自分のこころを右往左往するような行動は、もう幾度となく日常生活でも十分行なっていますが・・当然ながらいつのときも「幸せ」には至りません。

今は、もうそんなことを繰り返す時ではないような気がします。選択はあくまでも自分で行なうこと、すなわち「意識的な自立」とも言うべき段階がもうそこに来ているのです。

●生きて有る間に執着を手放すこと:悟り

 いわゆる「悟り」といわれるものは、その善・悪、高・低、生・死という2元性の囲いの中から離脱することでもあります。自らの体験という真剣な遊びの為の囲いともいえるのですが、その・2元性の檻を自ら「解」き、「脱」するという時期に来ているのです。まさに「解脱」とはよく言ったものです。それは自らの意識・観点をより広い「位置」にもってゆく自助行為であり、これは精神世界で言われる「次元上昇」という、一見目もくらむような言葉の表すところの、実際の素のプロセスでもあります。

 古くから悟りや解脱といわれるものが、1つ1つ手放す行為である事も理解出来るのです。我々は、嫌い続けてきた「死」を通して、執着をいやいや手放すことが当たり前と思い込んではいないでしょうか。解脱は、生きている間に執着を手放す「意識的」な行為であり、いやいやしながら「死」を通して手放す行為との、その違いをだけを示すものでしょう。

 生きているときに手放すという行為は、それが「死」であると勘違いしているようです。まことに生きると言うことは、逆に、執着を手放すことで得られるのです。そうであるにも関わらず、あくまでも執着にこだわり、それを廃せば自分が死んでしまうという恐怖があるのかも知れません。何れにしろ、借り物は返すことを事前に納得、確認しておくという行為だけの事なのでしょう。

 これを悟りと見るならば、なるほど、当然といえば当然であり、まさにそのまま、ありのままと言えるでしょう。当たり前の事実を認識すること、これを小難しくしているのは、思考や感情をどこかで他者に依存しているからではないかと思います。他者と一緒に生まれ、去ってゆくものでもありません。全ての生命が唯一独自の存在であるからです。

●手放すべきは、執着・葛藤・恐怖という『観念』である

 手放すべきは「葛藤」や「執着」や「恐怖」です。物等元々もっていない仮のものであるがゆえに手放す事など本来できるわけもないでしょう。手放すべきは、自分で作り出した観念しかありません。思念、観念、思考などは各自の責任の創造物であり、それこそ理解の一環として手放すプロセスを踏む事になるのでしょう。

●全てよし!

すべてよし!。すべてよし! 善・悪、高・低、愛・憎、そして生・死

 「善」に偏らず、「高み」のみを良しとせず、「情愛「のみを追い求めず、また「生」のみに執着せず・・という視座に立つことをある意味で強制的に?促されるのが「死」という瞬間です。 また、生と死は全く同じあり方の両側面。生と死、これもまた相互補完的な言葉であることが分かるでしょう。「死」は「生」のためにこそ有るものであり、怖れる為に有るものではないのです。我々はそれを超えて有ることを忘れないこと、あるいは思い出すことが大切でしょう。

 生と死は、我々の持っているものではないのです。それは単に、命の続いて行く変化に富んだ我々の通過するプロセスまたはゲートです。生と死の観念、それもまた一時の「借り物」です。我々は永遠に「今」有りながら、様々なゲート(門)を通過する者でもあります。

 今在ることは、そのものが悠久の道を歩いてきていることを示しているのです。しっかり歩いてきた道が今、ここにあるのです。あなたや私たちがその証拠ではありませんか。

まさにあなたやわたし達の足跡が、「今」を創っていることに気付けるでしょうか?

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下記の写真はアポロン神殿にあったといわれる「ゼウス像」の足?とのことです。神々の足跡の断片、人間の魂の軌跡・足跡・・・、そのような不思議な感覚は「今」を生かし続ける根源から来るメッセージでもあるでしょうか。・・・確かに、最も大切な己というものを、忘れること自体も、それなりの貴重な「体験」の一つです。それを彩る様々な転生の大いなる歴史、それはそれぞれの魂に記憶されています。

まさに、母なる地球と、いつもその眼に定かには見えない父の賜物と言えるでしょうか。

ありがたいこと限りなし、楽しいこと限りなし、嬉しいこと限りなし、それが本来のあり方です。

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。