怒りの神

 「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(1テサロニケ5:1-10)

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 ヒルティは、次のように言っている。
 「「神の怒り」は、ただキリストの受難と死によって、いわばその血によってのみ鎮められたという教会の教理は、私には十分納得できないものであった。神がそのような怒りをわれわれに対して抱いたとすれば、この救い主を決して送ってよこされなかったであろう。神がこれを送られたということに、すでにゆるしがふくまれている。」(眠られぬ夜のために1の2月2日の項)
 私は、「教会の教理」にもヒルティの見解にもくみしない。
 神は怒りを抱きつつも和解の手としてキリストを世に送られたのであって(そのこと自体には、確かにゆるしが含まれている)、神の怒りは常に存在する、私はそう考えている。
 十字架の血によって神の怒りがなだめられた、というのは、私には理解できない。

 上の聖書箇所には、終末のことが書かれている。
 この終末が盗人のように来たとき、神の聖なる怒りとさばきが全地を覆う。
 「暗やみの者」の上には容赦ない怒りが下り、神と和解できた「昼の者」が第2のエルサレムを受け継ぐ。
 そうでなくては終末の意味はなく、神は十字架以降、人間に対しニコニコし続けているはずだ。
 また、もともと人間にニコニコしていた神が救世主イエスを送られる意味というのもまた、なんら見出せない。
 神は今も怒っており、その怒りが終わりの日に向けて蓄えられている。
 この怒りとさばきこそ、神の御力の源泉である。

 この神との和解ということについて、上の聖書箇所には「主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになった」と書かれている。
 救いは、定められているのである。その基準は、人間には全く分からない。
 救いの道のりというのは、イエスの十字架の道のりと全く同じだ。
 アダムの肉を処理できればよい。すなわち十字架と復活だ。
 ただ、それは神にはできても人にはできない。
 それで救いは、「昼の者」に定められているのだろう。
 彼らはこの世では、「暗やみの者」に虐げられているはずだ。

 救われると、「目ざめていても、眠っていても、主とともに生きる」ようになる。自分だけのためではなくなる。
 それは、主によって生かされている、というようなことかも知れない。

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