イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
新しい契約
「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。
もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。
しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。
「主が、言われる。
見よ。日が来る。
わたしが、イスラエルの家やユダの家と
新しい契約を結ぶ日が。
それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、
彼らをエジプトの地から導き出した日に
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らがわたしの契約を守り通さないので、
わたしも、彼らを顧みなかったと、
主は言われる。
それらの日の後、わたしが、
イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、
主が言われる。
わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつける。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
また彼らが、おのおのその町の者に、
また、おのおのその兄弟に教えて、
『主を知れ。』と言うことは決してない。
小さい者から大きい者に至るまで、
彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、
もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」(ヘブル8:6-12)
---
上の聖書箇所中、長大な旧約の引用はエレミヤ31:31-34から。
キリストは、「さらにすぐれた契約の仲介者」である。
その人は、神から新しい契約を結んでいただけるのだが、その仲介役、架け橋の役目を果たしてくださる。
なぜキリストがこの仲介をできるのかというと、かつては神の子である自らも、その人と同じ道をたどったからである。いわば経験されているのだ。
シナイで結ばれた旧い契約については、主は「彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかった」と仰る。
人間は律法を守ることができず、そのような人間を、神は顧みなかった。
しかし主は仰る。「見よ。日が来る。」
神が差し伸べてくださる、新しい契約の日だ。
それは「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」、つまり神を知る、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
その人の心に神が刻み込まれている、これが信仰である。
そうすると、神はあまりにも自明で普遍的な存在として認識される。
それで、「『主を知れ。』と言うことは決してない。」のである。
何よりも、キリストが仲介役の神と人とのこの新しい契約は、「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さない」。
これこそ神に赦され和解した救いである。
---
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もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。
しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。
「主が、言われる。
見よ。日が来る。
わたしが、イスラエルの家やユダの家と
新しい契約を結ぶ日が。
それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、
彼らをエジプトの地から導き出した日に
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らがわたしの契約を守り通さないので、
わたしも、彼らを顧みなかったと、
主は言われる。
それらの日の後、わたしが、
イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、
主が言われる。
わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつける。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
また彼らが、おのおのその町の者に、
また、おのおのその兄弟に教えて、
『主を知れ。』と言うことは決してない。
小さい者から大きい者に至るまで、
彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、
もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」(ヘブル8:6-12)
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上の聖書箇所中、長大な旧約の引用はエレミヤ31:31-34から。
キリストは、「さらにすぐれた契約の仲介者」である。
その人は、神から新しい契約を結んでいただけるのだが、その仲介役、架け橋の役目を果たしてくださる。
なぜキリストがこの仲介をできるのかというと、かつては神の子である自らも、その人と同じ道をたどったからである。いわば経験されているのだ。
シナイで結ばれた旧い契約については、主は「彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかった」と仰る。
人間は律法を守ることができず、そのような人間を、神は顧みなかった。
しかし主は仰る。「見よ。日が来る。」
神が差し伸べてくださる、新しい契約の日だ。
それは「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」、つまり神を知る、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
その人の心に神が刻み込まれている、これが信仰である。
そうすると、神はあまりにも自明で普遍的な存在として認識される。
それで、「『主を知れ。』と言うことは決してない。」のである。
何よりも、キリストが仲介役の神と人とのこの新しい契約は、「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さない」。
これこそ神に赦され和解した救いである。
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