イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
さばきと十字架
「それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9:15-28)
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数日前、「二度目の十字架」というタイトルの記事を書いた(こちら)。
上の聖書箇所も、二度目の十字架のありえなさについて書かれている。
そもそもキリストが肉をまとって世に来られたのは、「多くの人の罪を負うため」である。
十字架によって、その背負った罪なる肉の処理が完了させ、復活という形でその処理が認められたことを示された。
処理済みだから、「ご自分を幾度もささげることは」ありえない。意味がないのだ。
(そこが人間の大祭司職とは決定的に異なる点である。)
復活のキリストは、今は天高いところにおられる。
ところで、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」という厳然たる決まりがある。
このさばきは、どちら側に行くか、ということを裁くものである。
何に基づいて裁かれるのだろうか。
義であるか、不義であるか、であろう。
キリストへの信仰は、肉の罪深さに赦しを与え、その人を義と認める(不義であるにもかかわらず、義と認められる。)
義と認められた人は、もはや死後のさばきについて恐れずに済む。これが救いである。
そのキリストへの信仰とは、十字架による罪の処理が完了したことを信じることである。
そうすると、その人は復活のキリストに出会う。
(旧約のヨブ記と同じだ。)
キリストは再びやってこられる。
キリストを信じ待ち望む者を天から迎えに来るのである。
この時がさばきのときである。再び十字架に架かるために来られるのではない。
それがいつなのかは、誰も知らない。
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もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9:15-28)
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数日前、「二度目の十字架」というタイトルの記事を書いた(こちら)。
上の聖書箇所も、二度目の十字架のありえなさについて書かれている。
そもそもキリストが肉をまとって世に来られたのは、「多くの人の罪を負うため」である。
十字架によって、その背負った罪なる肉の処理が完了させ、復活という形でその処理が認められたことを示された。
処理済みだから、「ご自分を幾度もささげることは」ありえない。意味がないのだ。
(そこが人間の大祭司職とは決定的に異なる点である。)
復活のキリストは、今は天高いところにおられる。
ところで、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」という厳然たる決まりがある。
このさばきは、どちら側に行くか、ということを裁くものである。
何に基づいて裁かれるのだろうか。
義であるか、不義であるか、であろう。
キリストへの信仰は、肉の罪深さに赦しを与え、その人を義と認める(不義であるにもかかわらず、義と認められる。)
義と認められた人は、もはや死後のさばきについて恐れずに済む。これが救いである。
そのキリストへの信仰とは、十字架による罪の処理が完了したことを信じることである。
そうすると、その人は復活のキリストに出会う。
(旧約のヨブ記と同じだ。)
キリストは再びやってこられる。
キリストを信じ待ち望む者を天から迎えに来るのである。
この時がさばきのときである。再び十字架に架かるために来られるのではない。
それがいつなのかは、誰も知らない。
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