二度目の十字架

 「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」(ヘブル6:4-6)

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 かなり前のことだが、NHKラジオ「地球ラジオ」という番組を聴いていると、アメリカにいる日本人の話が紹介されていた。
 アメリカ人からキリストは復活したんだと言われたその日本人は、日本には二度復活した神がいる、と返して驚かれたそうである。
 この驚きが、遠くからはるばるやってきた異国人へのサービス精神なのであればいいのだが…。

 さて、もし「一度光を受け」たのであれば、その先彼が堕落してしまうということは考えづらい。
 何故なら、もし光を受けた彼が堕落したとすると、その堕落した彼のため、神の子は再度十字架に架かって二度目の復活しなければならないことになる。
 だが、これは有り得ないことだ。
 二度目(また、三度目、……)の十字架と復活があるとすれば、一度目の十字架と復活はまったく無意味になってしまう。
 また、一回きりの十字架の死と復活によって、すでに光を受ける道は開かれたという意味でも、二回目以降の復活には意味がない。

 彼はただ神の恵みによって光を受け、「いのち」を授かったのだ。
 その彼は堕落しないのである。
 もしあるとすれば、周囲の人が堕落したと決めつけた場合だけだろう。
 だが、この場合における堕落とは、神との関係においてであり、周囲の人は無関係である。

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