罪赦されるとき

 「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1:8-10)

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 「罪はない」という人は、人間である以上ひとりもいない。
 なぜなら人間は、善悪の知識の実を食した違反者アダムを先祖とするからである。
 アダム以来、この罪深い肉は脈々と続いている。

 では、その罪は何によって罪と分かるのだろうか。
 それは、「神のみことば」、律法によってである。
 その律法をさらに厳格に解釈したのが、キリストの山上の説教だ。
 たとえば、次にあるとおり。

「 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43-44)

 「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」という律法に照らすとき罪とされなくとも、キリストの「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」に照らすと、間違いなく誰もが罪とされる。

 そういうわけで、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いて」いる。
 罪を自ら認めることによってのみ、神はその罪を赦して下さる。
 罪を認めるということは、アダムの肉の全体を見てしまうということであり、すなわち死ぬことだ。
 罪に死ぬことによって初めて、罪赦される。
 これがキリストの切り開いた道なのである(参/ローマ6:7)。
 そうすると、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」を行い通すことができないと分かったがゆえに、そのことが赦される。

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