イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
血と肉
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:14-18)
---
人間は、「みな血と肉とを持っている」。
そのことははじめの人アダムからそうであったろう。
だが、彼が善悪の知識の実を食したことによって、アダムの血肉は汚れた罪深いものとなってしまった。
そして、人間の中に死が入った。
そのことについて上の聖書箇所では、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」と書かれている。
それは「死のとげは罪」(1コリント15:56)というのと同じことだ。
だが、主イエス・キリストが、人間のこのあわれな状態から解放してくださった。
まず、「主もまた同じように、これらのもの(血と肉)をお持ちになりました」。
だからこのイエスは公生涯の間、神であるにもかかわらず、「すべての点で兄弟たちと同じよう」であった。
そして十字架の苦しみをイエスが受けて、「これらのもの」を極刑を持って処罰なされる。
これは「血肉のある神」にしかできないことだ。
十字架上で、血と肉とに容赦のない刑執行がなされた。
この神御自身の刑執行こそ、「民の罪のために、なだめがなされる」ということである。
この罪のなだめを信じることによって、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださる」という「いのち」と救いとが、主イエス・キリストによって与えられる。
信じる私たちは、大祭司となられた主イエス・キリストを通して、神と共に在る。
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これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:14-18)
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人間は、「みな血と肉とを持っている」。
そのことははじめの人アダムからそうであったろう。
だが、彼が善悪の知識の実を食したことによって、アダムの血肉は汚れた罪深いものとなってしまった。
そして、人間の中に死が入った。
そのことについて上の聖書箇所では、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」と書かれている。
それは「死のとげは罪」(1コリント15:56)というのと同じことだ。
だが、主イエス・キリストが、人間のこのあわれな状態から解放してくださった。
まず、「主もまた同じように、これらのもの(血と肉)をお持ちになりました」。
だからこのイエスは公生涯の間、神であるにもかかわらず、「すべての点で兄弟たちと同じよう」であった。
そして十字架の苦しみをイエスが受けて、「これらのもの」を極刑を持って処罰なされる。
これは「血肉のある神」にしかできないことだ。
十字架上で、血と肉とに容赦のない刑執行がなされた。
この神御自身の刑執行こそ、「民の罪のために、なだめがなされる」ということである。
この罪のなだめを信じることによって、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださる」という「いのち」と救いとが、主イエス・キリストによって与えられる。
信じる私たちは、大祭司となられた主イエス・キリストを通して、神と共に在る。
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