イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
ただ恵みによるのです
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:1-6)
---
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者」だったのだ。
その頃は神に対し全くもって不従順であったので、神の御怒りを受けて当然の身であった。
それはなぜかというと、端的にアダムの子孫だから。
そのアダムの肉ゆえに、神の望むことを行うことができず、律法違反を積み重ね、罪に罪が増し加わっていった。
しかし、ただ恵みによって、罪にがんじがらめになっていた死の状態からよみがえらせてくださった。
そのよみがえりは、キリストがよみがえらせてくださったものだ。
神はこのキリスト、つまり十字架に死に肉の罪を処断して復活されたキリストを、この世に送って下さった。
ここに、神の私たちへの最大の愛がある。
繰り返すと、救いはただ恵みによる。行いではない。
そして、救いが恵みによるというのは、救いの基準がどこまでも神に主権があるということであり、「こうすれば救われる」という人の側から考えた方程式があるわけでもない。
(だから行いによって救われるわけではない。)
恵みというのは、この神の主権による選びを、ひたすら受動的に待ち続けることである。
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そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:1-6)
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「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者」だったのだ。
その頃は神に対し全くもって不従順であったので、神の御怒りを受けて当然の身であった。
それはなぜかというと、端的にアダムの子孫だから。
そのアダムの肉ゆえに、神の望むことを行うことができず、律法違反を積み重ね、罪に罪が増し加わっていった。
しかし、ただ恵みによって、罪にがんじがらめになっていた死の状態からよみがえらせてくださった。
そのよみがえりは、キリストがよみがえらせてくださったものだ。
神はこのキリスト、つまり十字架に死に肉の罪を処断して復活されたキリストを、この世に送って下さった。
ここに、神の私たちへの最大の愛がある。
繰り返すと、救いはただ恵みによる。行いではない。
そして、救いが恵みによるというのは、救いの基準がどこまでも神に主権があるということであり、「こうすれば救われる」という人の側から考えた方程式があるわけでもない。
(だから行いによって救われるわけではない。)
恵みというのは、この神の主権による選びを、ひたすら受動的に待ち続けることである。
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