いのちの力

 「私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。
 もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。
 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。」(ヘブル7:14-16)

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 ユダ族から出た私たちの主とは、主イエス・キリストのこと。

 モーセはユダ族について、祭司職のことを何も言っていない。
 「モーセ」というのはすなわち律法のことであるから言い換えると、律法の規定によれば祭司職には(ユダ族ではなく)レビ族が就く。
 だが、肉の上ではユダ族出身のキリストが大祭司になったとしたら、それは律法とは別の原理が働いたからである。

 この律法とは、端的に「肉についての戒め」なのである。
 肉とは、この罪深いアダムの肉の事を指す。
 その肉から解放されると、別の原理すなわち「いのち」の力が働く。
 肉からの解放をもたらすのが、キリストの十字架また復活である。それ以外には、ない。
 復活のキリストにはもはやアダムの肉がないので律法の下にはおらず、もっぱら「いのちの力によって祭司となった」。

 それと全く同じ道筋で、私たちも十字架の恵みを通して罪深い肉が赦され、「肉についての戒め」から解き放たれて「いのちの力」が働くのである。

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