イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
罪人のかしら
「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1テモテ1:13-15)
---
伝道者パウロ(サウロ)はかつてパリサイ人として、キリストの教会を迫害して回っていた過去がある。
そのことについてパウロは、「信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けた」と書いている。
何を信ぜず、また何を知らなかったのだろう。
当時のサウロは、神を知らなかった。
そして、律法が救うのではなくて十字架のキリストが自分を救うのだということも、知らなかった。
そのことが分かったのは、サウロに復活のイエスが現れたからである。
それまでは、罪を罪とも、思っていなかった。
罪を罪と自覚した人が、「罪人」である。
罪を罪と自覚させてその人を追い込むのは、律法の役割による。
この「罪人」というのは、自己卑下とは全く異なる。
また「罪人のかしら」と自らを思うのは、自虐や自責によってでなければ、神の恵みによってである。なぜなら、そこまでに追いつめられてはじめて救われるからである。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」とあるのは、だから、罪を罪と自覚する「罪人」をキリストがお救いくださるということだ。
というより、キリストが開いた道は既に存在し、キリストはその人にその道を指し示される。
そこに十字架の死があり復活があるからである。
「罪人のかしら」はイエス同様極刑に死に、よみがえって罪の肉が神に赦される。
神は彼と和解し、もはや彼は神の怒りの下にはいない。
キリストの教会を迫害した過去ですら神に赦されるのだ、であればその人のあらゆる後ろめたい罪すべてが赦していただけるだろう。
これが神のあわれみである。
---
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1テモテ1:13-15)
---
伝道者パウロ(サウロ)はかつてパリサイ人として、キリストの教会を迫害して回っていた過去がある。
そのことについてパウロは、「信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けた」と書いている。
何を信ぜず、また何を知らなかったのだろう。
当時のサウロは、神を知らなかった。
そして、律法が救うのではなくて十字架のキリストが自分を救うのだということも、知らなかった。
そのことが分かったのは、サウロに復活のイエスが現れたからである。
それまでは、罪を罪とも、思っていなかった。
罪を罪と自覚した人が、「罪人」である。
罪を罪と自覚させてその人を追い込むのは、律法の役割による。
この「罪人」というのは、自己卑下とは全く異なる。
また「罪人のかしら」と自らを思うのは、自虐や自責によってでなければ、神の恵みによってである。なぜなら、そこまでに追いつめられてはじめて救われるからである。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」とあるのは、だから、罪を罪と自覚する「罪人」をキリストがお救いくださるということだ。
というより、キリストが開いた道は既に存在し、キリストはその人にその道を指し示される。
そこに十字架の死があり復活があるからである。
「罪人のかしら」はイエス同様極刑に死に、よみがえって罪の肉が神に赦される。
神は彼と和解し、もはや彼は神の怒りの下にはいない。
キリストの教会を迫害した過去ですら神に赦されるのだ、であればその人のあらゆる後ろめたい罪すべてが赦していただけるだろう。
これが神のあわれみである。
---
よろしければクリック下さい。
![にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ](http://philosophy.blogmura.com/christian/img/christian80_15.gif)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )