イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
義のわざ
「しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、
神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」(テトス3:4-7)
---
神が私たちを救ってくださるのは、「義のわざによってではな」い。
それどころか、人間には「義のわざ」などというものは、そもそもできない。
この「義のわざ」とは、神の律法に照らしてよしとされること、言い換えると、神によしとされることである。
人間がこの義にほど遠い存在であるにもかかわらず、十字架に架かる御子キリストを世にお送り下さったことこそ、神の慈しみであり、また愛である。
私たちがただ神の恵みによって復活のキリストに出会ったときに、その信仰によって神が私たちを義と認めてくださり、ここに救われる。
「義のわざ」など出来ずじまいであっても、義であると認められるのである。
---
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」(テトス3:4-7)
---
神が私たちを救ってくださるのは、「義のわざによってではな」い。
それどころか、人間には「義のわざ」などというものは、そもそもできない。
この「義のわざ」とは、神の律法に照らしてよしとされること、言い換えると、神によしとされることである。
人間がこの義にほど遠い存在であるにもかかわらず、十字架に架かる御子キリストを世にお送り下さったことこそ、神の慈しみであり、また愛である。
私たちがただ神の恵みによって復活のキリストに出会ったときに、その信仰によって神が私たちを義と認めてくださり、ここに救われる。
「義のわざ」など出来ずじまいであっても、義であると認められるのである。
---
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )