罪との戦い

 「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。
 「わが子よ。
 主の懲らしめを軽んじてはならない。
 主に責められて弱り果ててはならない。
 主はその愛する者を懲らしめ、
 受け入れるすべての子に、
 むちを加えられるからである。」
 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
……
 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:4-11 途中略)

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 ヘブル書の著者は、「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と、「あなたがた」に対して書いている。
 著者は罪との血みどろの戦いをくぐり抜けてきた、一方で、これを読んでいるあなた方は……、そういうニュアンスだろうか。
 では何故、そもそも罪と戦う必要があるのだろう。

 というより、罪との戦いとは、私たちが真の利益を受けるために神が課す「懲らしめ」なのである。
 だが戦おうと思って戦いに突入する類のものではなく、神がそれを課すので血みどろになって罪と戦わざるをえないと言えばいいのだろうか。
 その神の懲らしめを受け、死んでよみがえり、「平安な義の実」を結ぶ地点へと至る。

 誰もがこの道程を歩むわけでは、多分ない。
 すべては神の恵みによってなのだ。
 そうすると、ある人がただ恵みによって、懲らしめの鞭を受けるということになる。
 ハッピーが恵みでアンハッピーが懲らしめ、という単純な話ではない。
 恵みの故に神の懲らしめを受け、そしてそのことはただ一度きりだ。
 キリストもただ一度、神にあって十字架という懲らしめをお受けになった。
 そして神はキリストを復活させる。
 復活のキリストには、もはや以前の肉はない。
 そういうわけで、この罪との戦いはキリストの道、その恵みなのである。

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