忍耐と自由

 「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(1ペテロ2:20-25)

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 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。」、「そのため」というのは文脈上、「善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」を指す。
 逆説的かも知れないが、召されることによって、かえって忍耐が必要になる。
 だが、その忍耐を見ておられる公平なお方がおり、最後の日にそのことがつまびらかになる。
 ペテロによれば、上に書いた忍耐はキリストの足跡に従っている結果である。

 そのキリストの十字架は、「私たちが罪を離れ、義のために生きるため」に、「私たちの罪をその身に負われました」。
 そのように身代わりになって下さったお陰で、私たちは罪意識からいやされて自由になった。

 かつて私たちは好き勝手自由わがままに自分の力を頼りになんでもやろうとしていたものだが、今はキリストという「たましいの牧者」の下に帰って、より大きな自由を味わっている。

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