律法の違反者

 「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
 なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」(ヤコブ2:10-11)

---

 行いを強調するヤコブ書より。

 律法というのは、行い集とでもいえばいいのだろうか。
 こういう行いをしなさい、あるいは、このような行いはしてはならない。
 なかでも、引用聖句中にある「殺してはならない」は、十戒の中にある戒めだ。

 イエスが世に来られて、山上の説教をなされた。
 そして次のように教えられた。
 「 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)
 この基準で行おうとすると、ただの一人も「姦淫してはならない」を行い通すことができない。
 また、引用聖句中にも「姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者」になるのだ、とある。
 つまり、律法というのは、満点をけっして取ることができない問題集のようなもので、満点を取って義とされるということがありえない。

 そうすると、すべての人が律法の違反者なのだ。
 ただ、自分は律法の違反者だと腑に落ちる人、落ちない人、そもそも気付かない人の三者が存在する。
 腑に落ちた人は、律法によって死んだ人である。
 満点など到底取れない、自分はこんなにも罪深い……、と。
 この律法による死に気付かせてくれたのがイエスであり、その山上の説教だ。
 このイエスは、全ての人の罪をその肉に負う十字架によって死に、神によってよみがえる。
 それと同じく、律法に死んだ人はイエスのつけてくださった道筋に従って、よみがえる。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )