イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
律法という剣
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:12-13)
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「神のことばは生きてい」る。
ここでいう「神のことば」とは、安息について語られている文脈上、神の完璧な世界・律法のことばであろう。
律法は、キリストが来られた今もなお、生きている。
それは力あるもので、両刃の剣よりも鋭い。
その力、鋭さは、肉の罪を糾弾するために容赦なく行使される。
この律法越しに見ると、考えの醜悪さや謀り事の有無まで、神にもその人にも一目瞭然となる。
この律法を前に私たちは丸裸であり、何一つ防護に役立たない。
そしてついには神に対して、律法全体に照らして義か義でないかの釈明をしなくてはならなくなる。
律法という力のあり両刃の剣よりも鋭いものにより、神は私たちの罪深い肉を死にまで追いつめる。そのことのために、律法は今も機能し続けている。
そのことは、ロマ書にも次のようにある。
「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。
罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」(ローマ7:12-13)
神は一方で、キリストの十字架の死からの復活という道をすでに開いてくださっている。
だから、律法に死んだ者は、キリストによって復活して罪の赦しを得ることが叶うのである。
そして赦された者は、その日、神に言い開きせずに済む。
ダビデは、次のように詠んでいる。
「幸いなことよ。
そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。
主が、咎をお認めにならない人、
心に欺きのないその人は。」(詩32:1-2)
その幸いのためには、一度律法の剣に倒れる必要がある。
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造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:12-13)
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「神のことばは生きてい」る。
ここでいう「神のことば」とは、安息について語られている文脈上、神の完璧な世界・律法のことばであろう。
律法は、キリストが来られた今もなお、生きている。
それは力あるもので、両刃の剣よりも鋭い。
その力、鋭さは、肉の罪を糾弾するために容赦なく行使される。
この律法越しに見ると、考えの醜悪さや謀り事の有無まで、神にもその人にも一目瞭然となる。
この律法を前に私たちは丸裸であり、何一つ防護に役立たない。
そしてついには神に対して、律法全体に照らして義か義でないかの釈明をしなくてはならなくなる。
律法という力のあり両刃の剣よりも鋭いものにより、神は私たちの罪深い肉を死にまで追いつめる。そのことのために、律法は今も機能し続けている。
そのことは、ロマ書にも次のようにある。
「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。
罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」(ローマ7:12-13)
神は一方で、キリストの十字架の死からの復活という道をすでに開いてくださっている。
だから、律法に死んだ者は、キリストによって復活して罪の赦しを得ることが叶うのである。
そして赦された者は、その日、神に言い開きせずに済む。
ダビデは、次のように詠んでいる。
「幸いなことよ。
そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。
主が、咎をお認めにならない人、
心に欺きのないその人は。」(詩32:1-2)
その幸いのためには、一度律法の剣に倒れる必要がある。
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