こんばんは。う~ん、じめっとして、体調よくないですね。それでも仕事してると忘れるのは、梅雨のせい以外に、アタマが悪くなってきたせいに思われます。
まあ、アタマなんて動きゃいいんだけど、ここんとこ、職場の若い人に無謀な動きをする人がいて。
ったく。ちょっとは考えて行動してくれよ、、、、てえ感慨は、おじさんかね。
なんてとこで思い出すのは「大きなそーらに梯子をかけて、真っ赤な太陽両手でつかも」。『これが青春だ』主題歌。岩谷時子作詞。
『誇り一つを 胸にかかげて夢に飛び込む これが若さだ そうとも これが青春だ』
無茶でもなんでも、若いって、そういうもんだったかと思えば、やはり、私の場合に限ってはそういうもんだったですね。ってゆうか、『あの頃』ってそんな時代。
顧みるには、おめえおじさん化しすぎてないか、といえば、そんな気もします。
人のケナシ言葉に乗るのは楽でもあるよね。
「どうせ、中高年だし」「どうせ小市民だし」
そういうのを認めちゃうことは、方や、自分の足場を固めることではあるんだけどね、一方、、、偉ぶれないところもあるさ。 とはいえあたしゃ偉ぶってないしね。
ま、そんな反省、とその結果、はさておき、本題。
ヒッグス粒子「発見」の科学的意義は何か。
(ちょっと、理系のブルーバックス的素養が必要か?)
「粒子崩壊 (英: Particle decay) は、一つの素粒子が他の素粒子に変換する自発的過程 である。この過程の間、素粒子はより質量の小さい粒子とミュー粒子崩壊におけるWボソンのような媒介粒子へ変化する。」
おなじみウィキペディア。ウィキペディアも人文科学系ではいいかげんだけど、これもいいかげんぽくはあります。でも、他のサイトをみても大なり小なり。要するに「素粒子はより小さい素粒子へ崩壊する」。
だけどさ、そんな「素」粒子なんて日本語じゃないだろ。英語なら許されんのかね。「素」粒子じゃなくてただの「粒子」だあね。
まあいいよ、物質の構成素粒子なら。「言い方が悪かった」、で許してあげよう。ほんとは、いろんな素粒子が変質して別の素粒子になる、といいたいんだよね。なんになるのかとても不明だけれど (たとえばミューニュートリノは、変質後、なんになるんだね?)。
ところで、今回のノーベル賞級といわれるニュース(7月4日)は、重力素(質量素)であるヒッグス粒子だよ。
「発生したヒッグス粒子が崩壊する様子を観測することでその存在を確認した」
(Jcastニュース)
へっ。重力、崩壊してどこいっちゃうんだね。
というわけで、「そういや変だね」と思われた方への「ためになるブログ」。
ここんとこ、酔っ払い記事(『断片』カテゴリー)ばかりだったし。
さてそれは、粒子現象とは、すべてがエネルギー「状態」を表現しただけだからです。
素粒子なんてものはない。
「ない」ったって、実験で確かめてるじゃないか、って?
加速器が作り出すものは、単にエネルギーの「不均衡状態」に過ぎない。
不均衡が均衡化されれば、海の波に消える泡のように元通りとなる。
いいんですよ、私が間違っていても。
私は、物理の通信簿は10点中、3か4。(ある学期だけ7があった気がするが、夢か。点は悪くても高校3年間やった気がする)
ただし、科学理論・論というのは人文科学だからね。数式でとけるもんじゃないのよ。
その証拠に、数学の得意な物理学者さんは、ヒッグス素粒子がなにに「崩壊」してしまったのか、説明してくださいな。できゃしないから。
素粒子のふるまいの原則が分かっているこの時代、素粒子論の中での「素粒子の発見」の位置なんて、既に何の意味もない。それは数式の検算にすぎないんだよ。わかってんだろうけどね、実験物理学者。そんなもん、なにも人間知に貢献しない。
(宇宙の、だから、同じく私のこの指の下のキーボード的プラスチックの奥底の) エネルギーの動きを、どう過不足なく表現するか、が、とりあえず人間にできる手近な物理学的「自然科学」であるにすぎない。
もっとも、人間、見せるとわかった気になる、という、普遍的な興業精神があるから、いくらでも資金を使ってもいいんだあよね。
それだけのこと。これから100年経っても物理学は進歩しないと思う私。
自然科学的「隈」はでるかしらね。