リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会科学としての民俗学の研究対象

2012-07-21 21:00:29 | その他
 というわけで、本日前回の続き。

 宮田登という民俗学理論家がいまして、改めてウィキペディアを見てこんな若いとは思いませんでしたが、ともかく、もう死んだ人。
 その人の本を読んで、(『ケガレの民俗誌 差別の文化的要因』) ま、中身はばかばかしいんですが、ためになったこと。
 
「民俗学のオリジナルな研究対象は、共同体から醸出される権力関係だ」 という認識を得ました。

 その本の中身は、権力社会で伝えられて生きた差別事象のあれこれを、たとえば「ケガレ」として構成して、あれもケガレ、これもケガレ、このように日本には「ケガレ」観念があった。うんぬんかんぬん、以下、美術評論と同じだけの美辞麗句。
 意味なし。
 民俗学理論家のほとんどが陥る形態で。自分で勝手にカテゴリーを作っておいて、あら大変、日本てこんな国だった、てな話です。
 
 この人、有名な学者ですが普通の人にネームバリューがないんで人のいい民俗学実証家赤坂憲雄氏が解説を引き受けておりましたが、民俗学は赤坂氏のように、いろんな事実を調べて、書くときは事実と感想にとどめて書き散らす手法が、まあ無難ですね。
 赤坂氏の解説では、宮田氏も、社会システムの役割は重々承知しているが、システム外に続いていく事象を分析したかったのだそうです(趣旨)。
 だから、そんなの無理だから。すべての観念は、社会システムに作られていくのだよ、って、宮田氏の本の事実を、宮田氏のカケゴリー化を排除して、別構成すればわかる問題だがね。
 
 ま、それはそれ。しかし、それでも近似的に民俗学も社会科学に貢献するのではないか、と思ったところ。

 それが共同体権力。
 共同体からはおのずと権力が発生してしまう、という問題は、現代の現実には純粋状態で見られない構成概念なので、どうせ似たり寄ったり、ということではあります。
 ありますが、この問題から離れることはできない。なぜなら、人類の食う物は共同的に取得するしかないから。いくら農業漁業が資本主義や社会主義とフィットしなくとも、世界単位に見て、食う物の生産を担う何割もの人類がいなければ、人類は1年で滅亡する。
 ところで、農業漁業(牧畜業)は、どんな体制であろうと「共同体」なしに存立しえない。
 
 共同体権力の形態は、たとえば武装力がなければ (またはほとんど同じですが武装力の介入がなければ)、権力基盤の不安定さから、権力行使より相互扶助のシステムのほうが大きなウェイトを占めます。こういうのは今でも分かる人には分かるわけですが、って分かる人っていうのは私一人でしょうがまあ分かる。
 しかし、民俗学の人は、あれも知りこれも知っているはずだから、どんな共同体がどんな権力を醸出し、世の中の経済体制や武力体系からの影響を曲げていくかということを、なかばは夢想でも、構成していくことができるんじゃないか、と思ったわけです。

( =そうすると、たとえば米作りに必然的に伴ってしまう個人行為への権力的な制約を、どうすれば排除させることができるかが分かっていくということです。)
 
 
   そう、私にはもうそんな時間、ないの。

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