リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

一部の人への読書案内

2012-05-21 21:04:11 | 断片
 こんばんは。
 かなりの例によって、「断片」の次は少しリカバリーを。
 私の人より優れている点は(自慢)、このリカバリーの有無なんですよね。
 しくじりが問題ではなく、それをどう尻拭いするかで、凡人的大衆の仕事って決まると思うんですが。

 てなわけで、昨日の翌日。
 
 その1、昨日の補足、nevermore。 エドガー・アラン・ポー作詞の「大鴉」にでてくるrefrainです。
 作詞、って詩ね。
 でも歌なのね。よい歌。
 死んだ(かのごとき)幼な妻を悼む、というより傷む作者が、大鴉に無駄な独白を続ける歌。
 独白に鴉が繰り返す答えは、nevermore。
 そしてその「ネバーモー」を、作者は自分の意志の如何を問わず、そのまま抱え込んでいかなければならない、という、すでに悲痛ではなく、運命というでもなく、それを迎え入れざるを得ないという、恐怖というでもない不条理を歌うわけですな。
 
 それが情けなければ闘うしかない、しかし一方、てやんでえ、俺は闘えないし闘いたくもねえや、という人間の位置を美しく現している詩であります。
 
 で、も、いっかな。私は評論家じゃないんで、無用な過剰な解説はしたくないし。
 ま、それがわかんないやつはほっときますし。
 わたしへの陰口は、「傲慢」。いや、おっしゃるとおりの確信犯。

(注)上記「死んだかのごとき」っていうのは中也の詩みたいにね、「かのごとき」現実っていうのがあるんですよ。


 その2 ついでこっちが本体で、やはり、ブログの性格上、その1とはぜんぜん関係ないけど、「その方面で」新しいためになること、読書案内。
 68年闘争の読書案内です。
 
 若人が、中高年が話す68年について何か知りたいと思ったとき、読む本は、
 うそで固めた小熊英二「1968」ではなく、思い込みばかりの、すが秀実「1968年」でもなく、荒岱介「新左翼とは何だったのか」にしてくださいませね。
 なによりこれから50年も経ったら小熊の本が「厚み勝ち」して「社会学的記録」に残ってしまうだろうのが口惜しい。厚きゃいいのかって、慶應の教授がうそつきだなんて、社会学者しか知らないしね。そう思うと犯罪的な本だぜ。
 とはいえ、じゃあ、どんな本がいい、って、それぞれの党派では出しているけどそれも出自からして疑われるところ、「改心」したセクト指導者が大衆本出版局から出している(この)本となれば、量で勝つかもしれない、てなわけで。
 わたしゃ荒なんざ嫌いだけれど、事実だけはよく書かれてますので、こちらを見るくらいで我慢されてくださいませ。他は若人にはなにも奨められません。
 
   という、大した「ため」ではありませんが、少し昨日のブログの「厚み」を増しておきませんと、来週(の内容)がプレッシャーなもので。
 
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