リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

オカルト(その16;霊の統一状態)

2022-07-16 16:14:20 | オカルト(途中から)
 こんにちは。じめじめべとべといやですねえ。昨日、一昨日など日本全国大雨のような。ニュースいわく「梅雨の終わりのような」。「ような」なんでごまかさないで「明けたというのは間違いで、まだ梅雨だ」っていえばいいのに。
 3連休の人も多いですか? この梅雨のさなか、「海の日」ってなんのはなしでしょうね。山の日はわかるけど。そういえば昔の歌に「海のはなしや山のはなしを、あなたは聞いてくれるでしょう」というのもありましたよ。ズーニーヴー。最近、「町田義人ー戦士の休息ー野生の証明」で話題になってない?
 まあいいや。それより有給だといいですね。
 
 さて、東京地方はお盆時期なので、オカルト。
 
 わたくしは雨にはとんと縁がないので、昨日茨城経由で富岡(福島)へ。googlemapを見てで復興が進んだかと思いましたが、いやいや。昼食を食べるところもない。もちろん、なんの昔の面影もない。まったいら。災いというのはそういうもの。住んでた人間がみんな消えてしまったら、そこは全く新しい土地。幸い来たのはロシア人の入植者ではなく、みんな人の好い、新しい未来を求める(若い・中年の)人たちで、新しい富岡ができていくんでしょうね。
 
 そういう意味では人が生きている場所など、その場所に生きる人生の数だけ、何十何百何千の次元でできている、といったほうがいい。全員が違った景色を見ているうえに、全員が消え去った登場人物を生きているかの如く見ている。
 この同じ景色の中で、数十年前の人物を思っている人間と、今日で会ういつもの仕事仲間を見ている人間が、何の不思議もなく生きているのだから。
 
 この事態を逆に言うと、今の自分の世界は刹那に飛び去って、次の刹那(瞬間)がやってきてまた飛び去って行く、ともいえる。人には昨日生きた人生はない。それは二度と帰ってこない過去だ。なぜか? もう、共に生きた人間がいないからだ、というわけです。
 どっちの言い方がいいかというと、自分の世界が永続的に続く、といったほうがまとなだな、
 もしかすると、昨日の彼らが明日戻ってくるかもしれない。彼らにとっても、共に生きた人間は私しかいないからだ。という理屈ね。
 
 宇宙の霊は(宇宙生命と同じに)一つだ、という真理も、人間のあさはかな知恵がイメージするような平坦な・単純な1個の世界じゃなくて、今まで生きてきたそれぞれの世界が輻輳(ふくそう)した豊かな「一つ」の世界かもしれないよ。この世でさえ複雑に輻輳してても誰も困らないんだからね。
 もしかすると、ほんとに死んだ将棋の大山名人が升田名人と将棋を指しているかもしれない。
 彼ら二人が生きていた時でさえ、二人の世界は違う二つの世界の輻輳だったんだからね。それらが物質から離れて絡み合って統一されるというのも、逆にありそうじゃないですか。
 
    などなど。ほんと、隈も教祖になればすぐ1億円くらい儲かっただろうに、惜しいことをした。

(p.s. 全く関係ありませんが、今回近辺で3種の卵料理を食べて、どれもあまりにも口に合わないので、地域の特性かと思ってわざわざ検索してしまいました。世の中「粉卵」というものがあって、これをそのまま使うと玉子とは思えないものができるようです。検索例ではここのTホテルでの評価(22年4月)が出ており、仕入れ先が悪いのか地方色なのかは不明ですが、関係者の善意に水が差されますのでご担当者は(味付けとか)ご一考ください。)
    
    
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